All Chapters of 貴方は海で笑う夜、私は愛を葬った: Chapter 91 - Chapter 100

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第91話

洵は笑った。「何、あいつに少し苦労を味合わせてやりたいだけだ」そうすれば、専業主婦の幸福さを思い知るだろう。後半の言葉は口にしなかったが、千雪は察していた。「そうね、澪さんも新しい部署に来たばかりで慣れないだけかも。数日もすれば大丈夫になるわ」「ああ」洵が同意したのを見て、千雪は密かに安堵した。自分は何としても、澪を洵の秘書に戻すわけにはいかなかった。洵がどうしても澪を解雇するつもりがないのなら、他の部署に行かせるよりも、自分の手元に置いて監視する方が都合がいい。それから一週間、澪は毎日残業だった。不可解なことに、洵も毎日残業していた。洵が残業すれば、千雪もそれに付き合う。おかげで澪の精神的な不公平感は和らいだ。少なくとも苦労しているのは自分一人ではない。ある夕方、オフィスには澪と千雪以外誰もいなくなっていた。澪がいつものようにデザイン案の修正をしていると、千雪が薬の入った椀を持ってミニキッチンから出てきた。洵の胃薬だ。篠原グループの福利厚生は手厚く、社内にはミニキッチンがいくつか設置されている。千雪は毎日そこで、会社のIHヒーターを使って洵のために漢方薬を煎じていた。「煮出す時間が足りてないし、火加減もダメ……」それでは薬効が出ない。澪はずっとそう言いたかったが、口出し無用だと飲み込んできた。だが、そのことは喉に刺さった小骨のように気になっていた。今夜、彼女はようやく口に出した。しかし、言ったそばから後悔した。千雪は椀を持って澪のデスクに近づいてきた。澪の予想とは異なり、その顔には笑みが浮かんでいた。「薬を煎じるのは、確かに私より澪さんの方が上手ね。じゃあこうしましょう。これからは洵の薬は澪さんが煎じて」「えっ……」「拒否権はないわよ。私があなたの上司だってこと、忘れないでね」こうして、澪のただでさえ忙しい日常業務に、洵の薬煎じという仕事が加わった。IHヒーターの前で漢方薬の匂いを嗅ぎながら、澪は心の中で自分を罵った。余計なこと言うから!お節介焼くから!千雪と違い、澪は薬作りを適当に済ませたりはしなかった。医師の指示通り、少なくとも二時間は煮出さなければならない。時間が短かったり火力が足りなかったりすれば、治療効果に影響が出る。澪はふと思
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第92話

「いや、何でもない」洵は薬を飲み干すと、胃の不快感がすっと引いていくのを感じた。洵の表情が和らいだのを見て、千雪は微笑んだ。「胃は本当に大事にしないとダメよ。また入院なんてことになったら、おば様だけじゃなく、私まで心臓が止まっちゃう」「心配かけたな」洵は千雪をいつもの優しい眼差しで見つめた。千雪は自信を深めた。洵はまだ澪と離婚していない。だが、離婚は時間の問題だと確信していた。午後、千雪はずっと自分の部署には戻らなかった。社長室に入り浸っていたのだ。全社員の中で、彼女だけが持つ特権だった。終業後、千雪は友人とショッピングの約束があり、洵が車でモールまで送った。その帰り道、篠原グループの本社ビルの前を通りかかった。漆黒のガラスのカーテンウォールの中で、一箇所だけ明かりが灯っていた。その光は際立って見えた。洵はスピードを上げていたため、一瞬でビルを通り過ぎた。しかし、黒の高級車は次の信号で猛然とUターンし、引き返してきた。デザイン部。夜の十時に明かりがついている唯一の部署だ。洵は音もなく中に入り、デスクに突っ伏して眠っている澪を見つけた。澪の周りにはファイルの山が築かれていた。他の社員のデスクには、日用品とパソコンしかない。洵は熟睡している澪を抱き上げた。目を覚ますかと思ったが、澪は眠り続け、いびきさえかいていた。彼は眉をひそめた。澪がずいぶんと軽くなった気がした。地下駐車場。澪は洵に車へ押し込まれてようやく目を覚ました。見慣れない環境と、目の前にある洵の完璧だが危険な顔に、全身が震えた。「ここどこ?どうして私がここに?」澪の明らかな動揺を見て、洵は口角を上げたが、その目は冷え切っていた。「書類を取りに会社に戻ったら、お前が寝ていたんだ。ここは地下駐車場だ」洵の答えと同時に、澪も状況を理解した。「ごめん、疲れすぎてて」澪はズキズキと痛むこめかみを揉んだ。「専業主婦の良さが分かったか?」突然の問いかけに、澪は一瞬ぼかんとした。次の瞬間、洵が言いたいのは、自分がこんなに苦労している原因は「デザイナーの才能がない」ということであり、千雪による嫌がらせではないと悟った。弁解する間もなく、洵の体が迫ってきた。澪の鼻腔を、洵が愛用し
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第93話

洵は引き止めなかった。出口に差し掛かった時、黒い高級車が澪の横を通り過ぎた。洵は窓を開け、澪に軽く一言だけ告げた。「薬、ご苦労だった」澪の肩が震えた。視界の中で、洵の車は遠ざかり、やがて見えなくなった。彼女は足を止めた。足取りが重いのか、心が重いのか、自分でも分からなかった。夜は更け、すでに十一時近くになっており、地下鉄は終わっていた。澪は一人でタクシーを拾い、ナンバープレートを記憶した。しばらく走ると、運転手が突然尋ねた。「お客さん、後ろの車、ずっとついてきているようですが、知り合いえですか?」澪は振り返った。暗闇の中に黒い車影が見えた。だが、洵の高級車ではないことは確かだ。「知りません……」「変ですね、どうも私たちをつけている気がします」運転手の言葉に澪は警戒心を強めた。彼女は蘭に電話し、着く頃に下まで迎えに来てくれるよう頼んだ。そして運転手に行き先を変更し、蘭の家へ向かってもらった。四十分後、アパートの下に立つ蘭の姿が見えた。蘭は澪の手を引き、首を伸ばして周囲を見回したが、怪しい黒い車は見当たらなかった。「何ともないみたいね」「うん、ごめんね蘭」「水臭いこと言うと怒るわよ」「ありがとう。ねえ、何か食べるものない?お腹ペコペコなの」「カップ麺しかないわよ」「出前取ってくれない?洋食がほしい」「やっぱり水臭くなくていいわ!」二人は笑い合いながら階段を上がっていった。薄暗い街灯の下、一台の黒い車が物陰からゆっくりと姿を現した。普通のセダンだった。クラウド・ジェイド。洵はドアを開け、千雪を先に通した。続いて、彼はスーツケースを持って中に入った。上品なピンク色をしている。「ありがとう、洵」千雪は洵からピンクのスーツケースを受け取り、自分の服を取り出し始めた。「ああ」洵は適当に答え、スマホを取り出してラインを開いた。佐々木からのメッセージだ。【夏目さんは友人の近藤蘭さんの家に行きました。二人が部屋に入るのを確認しました】洵は返事した。【分かった】予想通りの報告を受け取り、佐々木は黒のセダンを走らせて蘭のアパートを離れた。千雪がクラウド・ジェイドに泊まりたがった理由は「翌日遅刻したくないから」だった。だが、彼女は
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第94話

海上を、豪華客船「キューピッド号」が進んでいく。今日は篠原グループの社員旅行で、四泊五日のクルーズだ。本来、こうした社員旅行に洵は参加しない。だが今年は例外だ。全社員が知っていた。洵は千雪のために参加したのだと。「澪さん、水着に着替えないの?」客室で、ピンクのドット柄ビキニに着替えた千雪が尋ねた。今回、澪と千雪は同室だった。千雪は部屋の変更を申し出なかった。澪も自分から言い出すつもりはなかった。怖いものなどないからだ。「今は行きたくないの」澪は答えた。「残念ね。デッキのウォーターパーク、すごく楽しいのに」千雪はそう言い残し、上機嫌で出て行った。デッキにある巨大ウォーターパークがこのクルーズの目玉であることは澪も知っていた。だが、行けば間違いなく千雪と洵がいちゃつく場面を見せつけられる。見たくなかった。洵はウォーターパークで遊ぶようなタイプではない。少なくとも澪の記憶ではそうだ。大学時代、洵にアプローチされていた頃、一緒にプールに行こうと誘ったことがあった。洵は断った。それでも、当時はまだ洵に愛されていると無邪気に信じていた。午後の日差しが降り注ぐ中、部屋に閉じこもっているのはもったいなかった。澪は迷った末、デッキへ出て日光浴をすることにした。ウォーターパークは人声で沸き返っていた。乗客は篠原グループの社員だけだが、プールは芋洗い状態だった。そんな人混みの中でも、澪は一目で洵を見つけた。結婚してこれほど経つが、洵が水着を着ているのを見るのは初めてだった。社長としての威厳を保ちたいのか、あまり肌を晒したくないようだった。洵が着ていたのはセットアップで、真っ黒なラッシュガードに海水パンツだった。露出はゼロだが、そのスタイルの良さは隠しようもなかった。その隣で、千雪が笑いながら彼に水をかけていた。洵も負けじと水鉄砲で反撃している。戯れ合う二人は、誰が見ても熱愛中のカップルだった。洵のあんな子供っぽい一面を、澪は見たことがなかった。結婚して三年、洵との接点はベッドの上だけだった気がする。自分がつまらない女だからか?それとも単純に、愛されていないからか。澪は軽くため息をつき、背を向けた。クルーズ初日の夜、メインイベントはダン
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第95話

妙な対抗心が芽生え、澪はスピードを上げた。相手も澪の意図を察したようで、加速した。二人は競い合うように泳いだが、最終的に澪が僅差で負けた。水面から顔を出し、ゴーグルを外して隣のレーンを見た。相手もゴーグルを外し、顔を露わにした。「どうしてここに?」澪は洵を見て目を丸くした。「パーティーに行かなかったの?」「とっくに終わった」洵に言われ、澪は自分がずいぶん長い間泳いでいたことに気づいた。水の中の洵は、昼間のウォーターパークとは違い、上着を着ていなかった。上半身裸で、筋肉質で引き締まったその体は、青いプールの中で滑らかな大理石の彫刻のように見えた。まさか洵と競争していたとは。負けたのも納得だ。澪はプールサイドに上がった。洵は水の中にいたが、視線は上がる澪を追っていた。澪の水着は競泳用のワンピースタイプだった。セクシーさは皆無で、露出も極限まで抑えられている。だが、純黒のワンピースは流線型で美しい。澪の出るところは出て締まるところは締まった抜群のプロポーションを包み込み、高級感のある素材とカッティングが相まって、独特の魅力を放っていた。洵の瞳が明滅した。「もう泳がないのか?」「ええ」「俺がいるからか?」歩き出そうとした澪の足が止まった。答える間もなく、洵はさらに尋ねた。「今夜のパーティー、なぜ来なかった?」今度は澪が振り返り、プールの中の洵に向き直った。「持ってきたドレスを誰かに壊されたからよ」洵のまぶたがわずかに上がった。「千雪さんと同じ部屋なの。彼女が一番怪しいわね」そう言い終えた瞬間、澪は洵の目にあった疑念が嘲笑に変わるのを見て取った。やはり、洵は信じない。澪がプールサイドを離れようとした時、洵が再び呼び止めた。今夜の彼はどうしてこんなに多弁なのか。「澪、黒が好きなのか?」澪は答えなかった。結婚して三年、彼は自分のことを何も知らない。プールのドアを閉めた瞬間、千雪と鉢合わせした。千雪は水着に着替えていた。やはりピンク色だが、デザインは昼間のものより遥かにセクシーで、特にパンティは紐一本で結ばれているような危ういものだった。澪を見て、千雪は得意げに笑った。「中に洵がいるでしょ?一緒に泳ぐ約束をしてるの。澪さ
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第96話

深夜0時を過ぎ、バーにはまだ人がいるかもしれないが、デッキには誰もいなかった。澪を除いては。澪は約束通りそこに現れ、小林弘人(こばやし ひろと)を見つけた。弘人とは、その営業部からの友達追加してきた人物である。友達追加の後、昼間岸辺の観光地で澪の写真を何枚か撮ったので、送ってあげたいたいと言ってきた。澪は、それが単なる口実だと感じていた。二人は他愛のないチャットをしていたが、弘人がデッキで夜景を見ようと誘ってきた。澪は三度断ったが、ビデオ通話までかけてこられ、仕方なく了承した。「どうしても私に会いたいって、何か用ですか?」澪は単刀直入に尋ねた。弘人は実直そうな顔立ちで、笑顔も人が良さそうに見える。「夏目さん、実は……会社で、前からずっと君を見ていたんだ」その切り出し方に、澪は彼が告白しようとしているのだと思った。「俺が社長と比べものにならないのは分かってるけど……」突然洵のことが出てきて、澪の顔色が変わった。「でも来月には部長に昇進できるんだ。ボーナス込みで月収八百万はある。君を養うには十分だと思う」澪はわけがわからなくなった。船内への入り口付近で、千雪は澪が部屋にいないのを不審に思って探しに出てきていた。そして、デッキにいる澪と弘人の姿を目撃した。「社長が千堂部長と結婚するのは時間の問題だよ。君も自分の身の振り方を考えた方がいい。俺は温厚だし、女に手は上げないし、悪い癖もない。君が俺のものになってくれるなら、毎月最低二百万は小遣いをあげるから……」澪は聞けば聞くほどおかしいと感じた。これは告白というより、まるで……「つまり、小林さんは既婚者なんですね?」「あの鬼嫁とはとっくに家庭内別居だよ」弘人の言葉に、澪は怒りを通り越して笑ってしまった。要するに、弘人は自分が好きで口説こうとしているのではない。社内にはまだ自分が洵の愛人だという誤解があり、弘人もそのおこぼれに与れると思ったのだ。澪がきびすを返すと、弘人は焦って彼女を引き止め、条件を吊り上げた。「じゃあ四百万!四百万ならどうだ?」澪は力任せに弘人の手を振り払った。「夏目!自分がいい女だと勘違いするなよ!お前みたいな不潔もの、俺以外誰が相手にするか!」背後で弘人の逆ギレした怒鳴り声が響いた
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第97話

「千雪!」青子が興奮して叫んだが、千雪はすぐに彼女を制した。「声が大きいわよ」「これであの女、間違いなくクビね。ざまあみろだわ!」青子の言葉に、千雪は否定も肯定もしなかった。昨夜、彼女はこっそり撮った弘人と澪が揉めている写真を青子に送っていた。表向きは「小林さんって奥さんいたわよね?澪さんとどういう関係?」と尋ねるふりをして。案の定、翌日には弘人の妻が会社に乗り込んできた。澪の社内での評判は地に落ちた。この件で洵に解雇され、篠原グループから完全に去ることになれば万々歳だ。しかし……千雪は、洵が澪を連れて行った方向が会議室ではなく、エレベーターホールであることに気づいた。エレベーターの中で、澪も自分がクビになるのだと思っていた。だが洵は彼女を地下二階の駐車場へ連れて行った。「どこへ行くの?」澪は黒の高級車の横に立ち、乗り込もうとはしなかった。洵の視線が彼女の顔に落ちた。あまりに静かで落ち着いた眼差しで、同情されていると勘違いする余地すら与えなかった。澪は顔を背けた。今の惨めな姿を洵に見られたくなかった。洵は自ら助手席のドアを開けた。彼がドアを開けてくれるのが初めてかどうか、澪はもう思い出せなかった。「同情?」澪は尋ねた。「俺がそんなに暇に見えるか?」洵が運転席に回ったので、澪は仕方なく車に乗り込んだ。車が走り出してしばらくすると、不意に洵が口を開いた。「痛むか?」澪は洵を見た。彼は前を見て真剣に運転している。運転中に彼から話しかけてくるのは初めてだった。顔が痛いのは当然だ。相手の手加減はなかった。だが痛み以上に、澪は悔しさを感じていた。自分は愛人でも何でもないのに、いつも愛人の汚名を着せられる。洵を見つめる目に怨恨が混じった。もし洵が、自分こそが法的妻だと公表してくれれば、社内で誰も陰口など叩けなくなるはずだ。だが、洵はしない。澪の胸が微かに痛んだ。今さら洵に名分を期待するなんて、自分も相当な馬鹿だ。「社長、これって労災になる?」澪がわざと素っ気なく尋ねると、洵は笑った。「なる」黒の高級車は市立中央病院の駐車場に停まった。洵と澪は車を降りた。途中、病院に連れて行かれるのかもしれないとは思ったが、まさかこ
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第98話

結局、澪は小さなクリニックで腫れ止めの薬をもらっただけだったが、洵は珍しく五日間の有給病欠をくれた。給料から引かれることはない。これを洵の優しさだとうぬぼれるつもりはなかった。顔の腫れが引くのに五日もかからないが、長めに休ませた方が社内の噂を鎮めるのに好都合だからだ。再び出勤した時、澪への陰口は確かに減っていた。最初は不思議だったが、後に弘人が解雇されたことを知った。学歴や社歴からすれば、解雇されるべきは彼女の方だったはずだ。だが弘人の解雇通知書は洵が直接記入したもので、社内の誰も異議を唱える勇気はなかった。彼らは洵と澪の関係について裏で好奇心を抱いていたが、巻き添えを食うのを恐れ、表立った行動は控えるようになった。今日、千雪は珍しく自分のオフィスから出てこなかった。普段の八時間勤務のうち、少なくとも七時間は社長室に入り浸っているのに。千雪はドアをロックし、ラインに没頭していた。ジョーカーのアイコンが常に画面の一番上に表示されていた。周囲の雑音が減り、澪はようやく静かな環境を取り戻し、仕事の効率も上がった。退社間際、突然洵がデザイン部に現れた。彼がデザイン部に来ること自体は珍しくない。以前もよく来ていたし、皆彼が千雪に会いに来たのだと決め込んでいた。「これに着替えろ。今夜連れて行きたいところがある」洵は澪のデスクの横に立ち、そう言った。澪はわけも分からず、洵から渡されたものを持って更衣室に入った。それはワンピースだった。純黒のサテン生地で、襟元に真珠があしらわれている。デザインは保守的だが、カッティングは流麗で、シルエットも美しく、澪が着ると優雅で洗練された高級感が漂った。澪は鏡の中の自分を見て、首を傾げた。記憶が確かなら、洵が黒い服を贈ってくれたのは初めてだ。澪は色に絶対的な好みはないが、寒色系やダークトーンを好む傾向がある。唯一、ピンクだけは嫌いだ。結婚してからの三年間、洵が贈り続けたウォークインクローゼットいっぱいのピンクの服を思い出し、澪は失笑した。それが今……洵が黒いドレスを贈ってきた。これは洵の変化なのだろうか?しかもデザイン部の同僚たちの前でプレゼントするなんて、噂になるのを恐れていないのか。千雪に誤解されたらどうするつもりなのだろう
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第99話

佐々木は車を停めると、公文バッグを持って二人の後についてきた。澪は何かに気づき、振り返って洵に尋ねた。「商談に連れてきたの?」「他に何がある?」洵も振り返り、澪と視線を合わせた。「まさかデートだと思ったか?」洵の目に浮かぶ揶揄を見て、澪は慌てて顔を逸らした。洵の魅力的な唇の端が持ち上がった。三人はホテルに入り、指定された個室へ向かった。このホテルは多くの高級ホテルとは異なり、内装に濃厚な異国情緒の趣がある。澪は洵に従って個室に入った。スイートルームのような作りだ。外側は異国レストランの個室のように大きな回転テーブルがあり、奥はホテルの客室のようにベッドやクローゼットが備え付けられている。「篠原社長、お早い到着で!」澪の心臓が早鐘を打った。振り返ると、正面から歩いてくる大翔の姿に鳥肌が立った。大翔は満面の笑みを浮かべており、怪我は完治したようだが、頭には傷跡が残っていた。澪は帰りたくなった。「権田社長は我が社の重要なパートナーだ。以前失礼を働いた分、今回はしっかりとお詫びするように」洵の言葉は、個人的な恨みでビジネスを邪魔するなという警告のようだった。澪は硬い表情でテーブルについた。最初は大翔と洵の間でビジネスの話が進んだ。澪は黙々と食事をしていたが、食べているようで何も喉を通らなかった。大翔の視線が時折、あまりに卑猥な色を帯びて彼女に向けられるため、吐き気がして食欲が失せたのだ。やがて商談が一段落すると、大翔は矛先を澪に向けた。「さすが篠原社長の部下だ。人を殴って入院させておきながら、見舞いはおろか謝罪の一言もないとは。これほどプライドが高いとは……まさかそれが篠原グループの企業カルチャーか?あっ?ガハハハ!」大翔は冗談めかして言ったが、本気で言っているのは明らかだった。洵は表情を変えずに澪を一瞥した。その一瞥に、澪の心は凍りついた。今夜の接待は名目上は商談だが、実際は大翔が自分に謝罪を強要するためのものだ。洵もそれを承知で、わざと連れてきたのだ。チンピラのような男と、自分の夫が結託して自分を陥れようとしている。澪はグラスを強く握りしめ、自ら立ち上がった。「権田社長の仰る通りです。前回手を出したのは私が悪かったです。お詫び申し上げます。
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第100話

飲む前に、グラスを洵に奪われた。「ただの一社員だ。権田社長が相手をするには格が低すぎる」洵はその酒を一気に飲み干した。「ああ、そうだね、篠原社長の言う通りだ。俺が一杯飲もう」大翔も一杯飲んだ。二人が杯を交わすのを、澪は退屈そうに見ていた。大翔が澪に酒を飲ませようとするたび、洵がそれを阻止した。まさか洵が自分の代わりに酒を飲んでくれる日が来るとは思わなかった。もっとも、酔った自分を介抱するのが面倒だからかもしれないが。その時、ウェイターがノックをして新しい料理を運んできた。「これは夏目さんのために特別に注文したんだよ。蛤のパパイヤ煮込みだ。美容にいいから、さあ食べてみて」大翔は澪が箸をつけないのを見て、すぐに促した。「夏目さん、俺が頼んだ料理がお気に召さないかな?安すぎたか?」「そんなことはありません」澪はスプーンを手に取り、一口食べた。蛤のパパイヤ煮込みは美味しいが、大翔と結びつくだけで食欲が失せる。その時、洵のスマホが鳴った。隣にいた澪にも、航の大声がはっきりと聞こえた。「洵、大変だ!千雪さんが交通事故に遭った!」洵の顔色が変わった。その驚きと心配の表情は演技ではない。澪は黙ってそれを見ていたが、口の中の蛤から甘みが消えた。洵は大翔に、急用ができたのでここで失礼すると告げた。だが大翔は満足しなかった。「篠原社長は多忙だ、行っていい!ここには夏目さんと佐々木さんが残って俺に付き合ってくれればいい」大翔の言葉に、洵は少し躊躇したが、結局同意した。「ですが社長、お酒を飲まれていますし、運転はできません。私が送ります」「いらん」洵は佐々木の申し出を一蹴した。「お前の仕事はここに残って権田社長の相手をすることだ……」彼の深い視線が一瞬だけ澪に落ち、すぐに逸らされた。「それから彼女を送れ」佐々木はすぐに洵の意図を理解した。澪は、洵が千雪のために飲酒運転までするとは夢にも思わなかった。もし捕まれば、洵の力で揉み消せたとしても、人の口に戸は立てられない。競合他社がこれを利用して騒ぎ立てる可能性は極めて高い。今の時代、世論戦は重要だ。影響を受けるのは洵だけでなく、篠原グループ全体だ。洵がそんな理屈も分からないはずがない。ただ、愛する女の前で
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