美咲は紬の手を軽く叩き、バッグを肩に掛け直した。「行きましょう。今日の商談なんて二の次よ。私たちにはまだ大事な用件が残っているのだから」「え?」紬は小首を傾げた。「他にもアポイントが?」「ふふっ……紬、私がそんな仕事の鬼に見える?一日に二件も接待を入れるなんて」紬は俯いて忍び笑いを漏らし、慌てて首を横に振った。「そんなことないよ……じゃあ、用件って?」「決まっているでしょう。あなたの退院祝いと、『Smile』の正式な復帰祝いよ」美咲には予見できていた。孝仁のような偏屈者がいるのだから、この会食でまともに食事ができるはずがない、と。もっとも、これほど早くお開きになるとまでは思わなかったが。だが、むしろ好都合だった。早く切り上げられたおかげで、予約していた店を無駄にせずに済むのだから。紬は頬を染め、ようやく美咲の真意を悟った。「先輩、本当に……」感謝の言葉を続けようとしたが、美咲に笑顔で制された。「ほら、その言葉は今はなし」二人は場所を移し、美咲が予約していた『宵庭』へと向かった。そこは海原でも指折りと名高い、老舗の創作料理店である。献立はその日のシェフの気まぐれで決まる。一見すると危ういそのやり方で、しかし圧倒的な腕をもって、長年食通たちを唸らせてきた店だ。コネでもなければ、一週間前に予約しようとしてもまず席は取れない、そんな名店である。店の前に立ち、紬は去年の記憶を呼び覚ましていた。心を込めて成哉の誕生日を祝い、ディナーを予約したのが、この『宵庭』だったのだ。結局、あの男は最後まで姿を見せなかった。それどころか、当の夫が望美と船上で睦み合っている様を、スマホのニュース速報で知ることになったのだ。あの日の料理は、とても喉を通らなかった。あまりに食が進まない様子を見かねたのか、シェフがわざわざ席まで足を運び、「お料理、お口に合いませんでしたでしょうか」と尋ねてきたほどだ。深い悲しみと、強面のシェフからの問いかけに気圧され、紬は堪えきれずにその場で泣き崩れてしまった。シェフも客に泣かれたのは初めてだったのだろう。「お嬢さん、私が悪かったです!私が悪かったから泣かないでください!次に来るときはサービスしますから。その時は好きなもの、何でも作ってあげますから、ね?」戸惑いながらもテーブ
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