All Chapters of 輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした: Chapter 41 - Chapter 50

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第41話

美咲は紬の手を軽く叩き、バッグを肩に掛け直した。「行きましょう。今日の商談なんて二の次よ。私たちにはまだ大事な用件が残っているのだから」「え?」紬は小首を傾げた。「他にもアポイントが?」「ふふっ……紬、私がそんな仕事の鬼に見える?一日に二件も接待を入れるなんて」紬は俯いて忍び笑いを漏らし、慌てて首を横に振った。「そんなことないよ……じゃあ、用件って?」「決まっているでしょう。あなたの退院祝いと、『Smile』の正式な復帰祝いよ」美咲には予見できていた。孝仁のような偏屈者がいるのだから、この会食でまともに食事ができるはずがない、と。もっとも、これほど早くお開きになるとまでは思わなかったが。だが、むしろ好都合だった。早く切り上げられたおかげで、予約していた店を無駄にせずに済むのだから。紬は頬を染め、ようやく美咲の真意を悟った。「先輩、本当に……」感謝の言葉を続けようとしたが、美咲に笑顔で制された。「ほら、その言葉は今はなし」二人は場所を移し、美咲が予約していた『宵庭』へと向かった。そこは海原でも指折りと名高い、老舗の創作料理店である。献立はその日のシェフの気まぐれで決まる。一見すると危ういそのやり方で、しかし圧倒的な腕をもって、長年食通たちを唸らせてきた店だ。コネでもなければ、一週間前に予約しようとしてもまず席は取れない、そんな名店である。店の前に立ち、紬は去年の記憶を呼び覚ましていた。心を込めて成哉の誕生日を祝い、ディナーを予約したのが、この『宵庭』だったのだ。結局、あの男は最後まで姿を見せなかった。それどころか、当の夫が望美と船上で睦み合っている様を、スマホのニュース速報で知ることになったのだ。あの日の料理は、とても喉を通らなかった。あまりに食が進まない様子を見かねたのか、シェフがわざわざ席まで足を運び、「お料理、お口に合いませんでしたでしょうか」と尋ねてきたほどだ。深い悲しみと、強面のシェフからの問いかけに気圧され、紬は堪えきれずにその場で泣き崩れてしまった。シェフも客に泣かれたのは初めてだったのだろう。「お嬢さん、私が悪かったです!私が悪かったから泣かないでください!次に来るときはサービスしますから。その時は好きなもの、何でも作ってあげますから、ね?」戸惑いながらもテーブ
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第42話

紬の表情は穏やかだったが、その瞳の奥には冷ややかな嘲笑が宿っていた。実に、かわいらしく睦まじい光景だ。レストランが言っていた「情熱的な彼氏」と「幸せな彼女」が、この二人だったとは。驚くにも値しない。紬は静かに視線を移し、二人の傍らで誰よりもはしゃいでいる剛を見つめた。ここへ来る途中、レイがパパラッチに撮られた「病院搬送」の写真は、すでにトップニュースとして世間を騒がせている。交際期間中、売れっ子女優であるレイの存在が、どれほど西園寺に利益をもたらしてきたことか。それなのに、その当事者であり恋人であるはずの剛は、別の女の誕生日を祝う余裕があるというのか。類は友を呼ぶ。まさにこのことね。隣で成り行きを見守っていた美咲も事情を察し、表情に怒りを滲ませた。彼女の記憶が確かなら、成哉と紬はまだ離婚していない。それを承知の上で、人前でこれほど堂々と遊び歩くとは、どういうつもりなのか。二人の不穏な気配を察した支配人は、胸中で「まずいことになった」と悲鳴を上げた。個室の中で、剛も外に立つ不機嫌そうな二人の女に気づいた。彼は鼻でせせら笑う。――案の定だ。俺が仕掛けなきゃ、この世間知らずどもは、自分から頭を下げに来やしない。さて、どうやって許しを請わせてやろうか。そうして彼女たちの目の前で、あのスポーツウェアの契約を望美のスタッフにくれてやる。剛はポケットに手を突っ込み、挑発的な笑みを浮かべながらドアへと歩み寄った。「おや、お二人も望美の誕生日会に参加しに来たのかい?あいにくだけど、今は満席だ。お引き取り願おうか」個室はさほど広くない。剛の声は、室内の全員に外の異変を知らせるには十分だった。成哉は、ドアの外に立つ紬の姿を認めた。目の包帯はすでに外れていたが、そこには爪先ほどの大きさの、三日月形の赤い痕が残っている。それが、もともと美しかった彼女の瞳に、えも言われぬ色香を添えていた。成哉が目を奪われていることに気づいた望美は、爪が掌に食い込むほど拳を握りしめた。だが、すぐに笑顔を作り、二人を迎え入れる。「あら、紬さんに美咲先輩。ごめんなさい、招待状を送り忘れていたみたい。さあ、中に入って座って」望美は、すっかり「天野夫人」であるかのように振る舞った。成哉が何も言わないのは、黙認している証拠だっ
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第43話

成哉は内心で舌打ちした。――こいつ、俺の目の届かないところで、また何をしでかしたんだ?「あら、今日は私の誕生日だし、来てくださった方は皆さんお客様よ」形勢が不利だと察した望美は、すかさず二人の間に割って入った。「剛、私を驚かせようとして、わざと子供みたいに意地を張るのはやめて。さあ、紬に美咲先輩、どうぞ中に入って座って」だが二人は、入り口に立ったまま一歩も動こうとしない。剛は冷たい声で警告した。「望美が呼んでるのが聞こえないのか?顔を立ててやってるうちに入れ」美咲は彼を無視し、付き添っていた支配人に笑顔で問いかけた。「支配人、見ての通りよ。こんな人たちに個室を譲りたくないと思うのは、人情として当然のことでしょう?」支配人は困惑した表情のまま、個室内の面々に告げた。「……こちらの個室は、島崎様が一週間前からご予約されていたものです。現在、島崎様は席の変更を拒否されております」室内の面々の顔色が、一瞬にして悪くなった。最近、崇が激怒していることもあり、望美の誕生日会は大々的には行われていなかった。今日招かれたのは、トップ層のセレブとまではいかないものの、海原では名の知れた顔ぶればかりだ。招かれたパーティーの席で、レストランから追い出されるなど前代未聞である。こんなことが広まれば、一生の語り草にされ、嘲笑の的になるのは目に見えていた。剛は即座に色をなした。「美咲!俺がお前を愛してないからって、いつまでも根に持つなよ!たかが個室一つで、そこまで器の小さい真似ができるか?!」その見当違いも甚だしい、自意識過剰な言い分に、美咲は怒りを通り越して呆れ果てた。紬は彼女の腕を取り、しなやかに、そして優しく言い返した。「西園寺さん。そんなにご自分の物差しで人を測るのがお得意なら、どうして私があなたに食らわせた一蹴りを、いまだに許してくださらないのかしら?」剛は目を剥いた。「二号の分際で、何を……!あの蹴りのせいじゃない!それはレイが……」「剛!」望美が慌てて前に出て彼を制し、優しく、だが強く咎めた。「そんなに大声を出さないで。他のお客様のご迷惑になるわ」――この役立たず……なんて場所をわきまえないバカなの。彼がレイを陥れたことは、望美も承知していた。おそらく今頃、あの女のわい
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第44話

支配人は、何とも言えない苦労人めいた表情を浮かべた。――あなたの店ですよ、オーナー。出資の話を、あなたに繋がず私にしろとでも言うつもりですか。もちろんそんな本音を口に出せるはずもなく、ただ平身低頭しながら清彦を個室へと案内した。怒りを孕んだままフロアに姿を現した清彦は、遠くに見覚えのある後ろ姿を見つけ、ふと眉を上げた。あれは……去年、うちの店のナプキンを使い切る勢いで泣きじゃくっていた女じゃないか?急に興味が湧く。彼は大股で歩み寄りながら、心の中で勝手に予想を立てた。今日は、何時まで泣くつもりだ?「おや、珍しい客がいたもんです」清彦はエプロンを脱ぎ捨て、静まり返った人混みの後ろから姿を現した。聞き覚えのある声に紬が振り返ると、清彦がこちらを見てニヤついている。紬は少しだけ、居心地の悪そうな顔になった。一年前の……あのシェフ?なんでここにいるの?背筋をすっと伸ばし、白いエプロンを外した清彦の姿は、なかなかに見栄えがする。「なに?俺の顔、そんなに怖いんですか?」紬は、さらに気まずそうに笑った。……そんなの、なんて返せばいいのよ。無理やり声を絞り出す。「……怖く、ないです」「ふーん」ひとまず満足したのか、清彦は彼女の目の前で足を止め、腰を折って覗き込んだ。そして周囲の視線などお構いなしに、野次馬根性丸出しで尋ねる。「で、どうなんです?去年の誕生日に一晩中あなたを放置したあの旦那とは、もう離婚したんですか?今日はうまいもん作ってやるから、また泣いたりしないでくださいよ」しらを切りたかったが、どう返していいか分からず、結局「記憶喪失」の設定を続けるしかなかった。周囲の人間も、露骨に耳をそばだてている。この業界で、紬の夫が成哉だってことを知らない人間なんていないのに。成哉の冷徹な瞳に、驚きと疑念が走った。紬に誕生日を祝う習慣などなかったはずだ。だが去年、確かに彼女から「この店でディナーを予約した」と言われた記憶がある。形式的な儀式を嫌う彼は、その日、望美や剛と一緒に海釣りに出かけていた。俺が行かなかったせいで、紬はここで泣いていたのか?成哉の視線が再び紬に釘付けになっているのを見て、望美は唇を血が滲むほど噛み締めた。その変化を敏感に察している剛は、またしても胸を苛立たせる。
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第45話

紬は、成哉と望美が重ねている手を、静かに見つめていた。双子を産んだばかりの頃、産後ケアセンターで静養していた日のことが脳裏に蘇る。あるセレブ風の女が突然現れ、何の証拠もないまま「この部屋は私が先に予約していた」と言い張った。十二月の極寒の中、紬は赤ん坊を抱いたまま、スタッフに部屋から追い出された。その女は権力を盾に、紬を廊下に閉じ込め、立ち去ることすら許さなかった。成哉がようやく現れたのは、五時間も経ってからだ。その時、彼は二人の我が子を淡々と一瞥しただけで、紬にこう告げた。「騒ぎを起こすな」結局、別の高級センターに移された、それだけだった。彼女はずっと、成哉という男は性格が淡泊で、面倒な揉め事に巻き込まれるのを嫌うだけなのだと思っていた。だが望美が現れて初めて、自分がどれほど大きな誤解をしていたのかを思い知らされたのだ。過去の記憶が次々と蘇る。胸の奥に、水を含んだ綿を詰め込まれたような重苦しさが広がり、息が詰まりそうになる。この店のオーナーは商売が繁盛しているとはいえ、私のためにわざわざ天野家を敵に回すはずがない。紬は、ほとんど希望を捨てかけていた。成哉が前に出たことで、周囲の人間も「勝負はついた」と言わんばかりの顔つきになる。「は、あいにくですな」羽多野清彦は大仰に肩をすくめ、冷笑した。「俺が一番持て余してるのは、敵なんですよ。さあ、こちらの客たちを追い出せ!」その声を合図に、四方八方から十数名の屈強なボディーガードが瞬時に現れた。客たちは一様に息を呑む。成哉の瞳に冷たい光が宿り、低い声で脅しをかけた。「天野家を怒らせない方が身のためだぞ」清彦は鼻で笑い、さっさと促す。「早くしろ。言葉が分からないのか?そうそう、叩き出す時は、あそこにいるバカかわいい二人のお嬢ちゃんを巻き込むなよ。その二人はうちの大切なお客様だ。せっかくのディナーを台無しにしてもらっちゃ困る」成哉は拳を強く握り締め、清彦を睨みつけた。「……行くぞ!」剛は悪態をつきながら抵抗したが、最後は十人がかりで取り押さえられ、レストランの外へと放り出された。裸で荒野に放置されたあの夜を除けば、これほど屈辱的な経験は、彼の人生に二度となかった。「バカかわいいお嬢さん」二人――紬と美咲は、まるで痛
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第46話

文人は「宵庭」を出てようやく、人知れず安堵の溜息をついた。――社長の秘密を漏らすなど、死罪に等しい。ましてや、セレブ界の歩く情報網とも言える清彦が相手では、なおさらだ。今日うっかり口を滑らせれば、明日には一族のグループチャットに「理玖が結婚した!」という噂が蔓延していても不思議ではない。文人は、自分の口の堅さを心から誇らしく思った。外回りの打ち合わせ中に紬を見かけ、真っ先に理玖へ報告したのは彼だった。自分が動く前に、清彦が飼い犬同然の連中を一掃してくれたのは僥倖だ。料理を出す際、「質のいいものを多めに出せ」と清彦に念を押したのも文人だった。まさか、それだけでここまで嗅ぎつけられるとは。文人は紬の好物だけをまとめたリストを作成し、理玖へ送信した。続けて電話をかけ、剛が裏で動かしていた小細工についても報告する。受話器越しの理玖の声は、ひどく気だるげだった。「……きれいに片付けろ。西園寺の海運ラインを、少し締め上げておけ」理玖は文人から届いた資料を何気なく開いた。中身を見て、一瞬目を疑う。だが、ドキュメントのタイトルを確認すると、ゆったりとした口調で言った。「……昇給だ」電話の向こうで、文人は思わずガッツポーズを作り、その場で足踏みしながら喜びを噛み締めた。――やった。賭けに勝った。一方、紬と美咲は、レストランで穏やかな夕食の時間を過ごしていた。その流れで、来週の月曜日に会社へ出勤する約束も交わす。「迎えに行こうか?」と美咲が尋ねる。紬は頬杖をつき、目を細めて微笑んだ。「大丈夫ですよ先輩。ノヴァへの道は、ちゃんと覚えてますから」最初に来た時と同じように。紬は、成哉と二人の子供のために、あまりにも多くのものを手放し、あまりにも多くの機会を逃してきた。自分が差し出してきたものは、一度として、成哉や子供たちが本当に望んだものではなかった。もう二度と、余計なことはしない。美咲は鼻で笑う。「忘れるのが怖いんじゃなくて、逃げられるのが怖いのよ」その時、美咲のスマホが鳴り、彼女の表情からさっと血の気が引いた。「紬、ごめん。義母が海原に来ちゃったみたい。迎えに行ってくるわね」紬は頷く。「ええ、行ってください。道中、気をつけて」会計をしようとすると、フロントで「す
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第47話

翌朝、紬のもとに見知らぬ番号から電話がかかってきた。「もしもし、綾瀬紬さんでしょうか。突然のご連絡、失礼いたします。私は南沢レイのマネージャー、河原優一(かわら ゆういち)と申します。一度、警察署までお越しいただけないでしょうか」紬は、それが昨夜のクラブでの出来事に関する件だとすぐ察した。「わかりました。すぐに向かいます」通話を切り、スマホでトレンドを確認する。昨夜あれほど騒がれていたレイのニュースは、跡形もなく消え去っていた。紬はひとまず胸を撫で下ろした。身なりを整えて警察署へ向かうと、入口に優一が立っていた。「お手間を取らせてすみません。レイは今、とてもデリケートな時期でして、表に顔を出せないんです。それで、紬さんにお願いするしかなくて……」「いえ、お気になさらず。それで、あの二人はどうなりましたか。処分は?」紬が案じるように尋ねると、優一は苦い顔で首を振った。「証拠不十分です。警察から厳重注意を受け、供述書を書かされた後、本日中に保釈されました。起訴は難しいでしょう」喉に何かが引っかかったような衝撃が走る。「証拠不十分……?実際に誰かが傷つかなければ、犯罪として成立しないということですか」二人の間に言葉が途切れた。紬の瞳には深い懸念が渦巻く。優一は力なく続けた。「あいつらは確信犯です。準備が周到すぎる……クラブ側も、あの個室には防犯カメラがないと言い張っていますし、薬が入っていた可能性のあるグラスも、すでに処分されていました。レイは今、『蒼星賞』の候補に入っている、極めて重要な時期なんです。この件を大事にはできない。裏で糸を引いている人間は……本当に、やり口を心得ているというか、狡猾です」蒼星賞。それは海原市が主催する、映画界で最も権威ある賞の一つだ。この賞を手にすれば、映画界での地位は揺るぎないものになる。レイは今年二十三歳。受賞すれば、望美を抜いて史上最年少の最優秀主演女優賞となる。紬は事情を飲み込み、ふと尋ねた。「……西園寺は、レイさんに会いに来ましたか?」「いいえ。レイが何度も電話していますが、一度も繋がらないそうです」優一は頭を抱えた。「あのクラブは西園寺家の経営よ。彼がこの件を知らないはずがない。この大事な時期に……それに、あの賞はかつて望美さんも受賞している。
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第48話

男たちは、紬がここまで周到に手を打っているとは、夢にも思っていなかった。「このアマ……よくも……」タロは歯ぎしりし、悔しさを露わにする。紬は微笑みを浮かべたまま、録音中の画面を軽く揺らしてみせた。「続けて。どうぞ」「落ち着け、タロ!落ち着けって!命あっての物種だ。今は引くんだ!」ジロが慌てて制止する。タロは首筋を怒らせ、紬に向かって捨て台詞を吐いた。「覚えてろよ!」二人は悪態をつきながら、足早に警察署を後にした。優一が心配そうに口を開く。「紬さん、あいつらは救いようのないならず者です。あまり追い詰めると、逆恨みして何をしてくるか分かりませんよ」紬は余裕のある笑みで応えた。「大丈夫です。考えがありますから」――「クソが!あの女、隙を見て絶対にぶち殺してやる!」タロは地面に唾を吐き、目に凶悪な光を宿らせた。ジロはきょろきょろと周囲を見回す。「おい、声を落とせ。万が一、通報されたらたまったもんじゃねえ」「じゃあ、このまま泣き寝入りしろってのか?剛さんが保釈してくれたのはいいが、弁護士費用は給料から引かれるんだぞ!散々こき使われた挙げ句にクサ飯まで食わされて……このままじゃ腹の虫が収まらねえ!」「ああ、俺だって同じだ。だが、あの女に証拠を握られてる以上、今までみたいに正面からぶつかるのは得策じゃねえ」ジロが低くなだめる。タロはいらだたしげに怒鳴った。「言いたいことがあるならはっきり言え!ネチネチ回りくどく喋るんじゃねえ!」ジロはニヤリと下卑た笑みを浮かべた。「いいか。まずはあの女のあとをつけて、マンションを突き止める。生活リズムを掴んだら、隙を見て眠らせるんだ。たっぷり可愛がって、その様子を写真に撮れば、こっちが逆に弱みを握れるだろ?それでも気が済まなけりゃ、あのピチピチした顔をナイフでズタズタにしてやればいい。泣いて許しを請う顔が目に浮かぶぜ」タロは顎をさすり、大きく口を開けて笑った。「それはいい!最高だ!泣き叫んでも誰も助けに来ねえ絶望を味わわせてやる!」二人が下品に笑いながら路地裏に差し掛かった、その瞬間だった。角を曲がった途端、視界が闇に閉ざされる。「ぐっ……?!」「誰だ!誰だよ!」頭から袋を被せられ、間髪入れずに鈍い衝撃が振り下ろされた。息を
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第49話

紬は少し考え込んだ。「これは小さな仕事ではありませんから、少し考えさせてください」「わかりました」二人が警察署を出た瞬間、断末魔のような悲鳴を上げる男たちの姿が視界に飛び込んできた。「お巡りさん、通報だ!通報するんだ!」見れば、つい先ほど立ち去ったばかりのタロとジロだった。全身を滅多打ちにされたかのように腫れ上がり、まともな皮膚がほとんど見当たらない。目を背けたくなるほど無惨な姿だった。優一は一瞬驚いたものの、すぐにどこか晴れやかな声で言った。「悪人には天罰が下る、ということですね」紬は小さく微笑んだ。「正義の味方が現れたみたいですね。行きましょう」二人は署の前で別れた。帰宅途中、紬はマンション近くのスーパーに立ち寄り、生活用品と食材を買い込んだ。今日は大掃除をして、夜は自分のためにスープを煮込むつもりだった。店を出ようとしたとき、彼女は生き生きと育ったシソの鉢植えに目を留めた。そういえば、隣の部屋で花や草の手入れをしていた、あのおじいさんも、ずいぶん長いこと見ていない。紬は代金を払い、その鉢も一緒に持ち帰ることにした。マンションのふもとに差しかかると、遠くから男女の言い争う声が聞こえてきた。女はブランド物のスーツに身を包み、茶色の巻き髪を後ろでまとめている。一方、疲れ切った顔の男は地面に膝をつき、必死に哀願していた。「美紀ちゃん!俺が離婚したら一緒になるって言ったじゃないか!もう離婚したんだ、あの女も子供も全部捨てた!お前のために家も車もバッグも買ったのに、今さら別れるなんて……そんな仕打ちがあるか!」「岡崎誠(おかさき まこと)、何でも私のせいにしないでくれる!?この私、二十代のうら若き乙女が、あんたみたいなオヤジに騙されたのよ。世間から見れば私だって被害者だわ!買い与えられたものなんて、全部精神的慰謝料よ!さっさと消えなさい。警察を呼ぶわよ!」女は不機嫌そうに男を見下ろし、吐き捨てるように言った。紬はちらりと一瞥し、胸の内で小さく息をついた。妻子を捨てたクズ男と、金のために道徳を捨てた愛人。紬は首を振り、関わらないよう足早に二人の横を通り過ぎた。その背後で、男が突然怒号を上げた。「坂本美紀(さかもと みき)!お前だって、俺に家庭も妻も子もいるって知ってて
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第50話

その女性は小柄で、杏色のファーコートに身を包んでいた。顔までははっきり見えない。ただ、そのコートは、紬も同じようなものを持っていたはずだ。かつて成哉は、紬に服を買い与えようとしたことがある。しかし紬は、「自分の服は、自分の手で作りたい」と言って、それを断った。彼はそれに対して、肯定も否定もしなかった。たかだか一着の服のために、そこまで手間をかけるなど、時間の無駄だとしか思えなかったからだ。案の定、悠真と芽依が生まれてからは、紬にそんな余裕はなくなり、すべての気力を二人の子供の世話に注ぐようになった。紬がデザインした服など……成哉はその女性から視線を外し、冷淡さと侮蔑を隠そうともしなかった。どうせ俺に黙って、どこか安っぽい店で買ってきたんだろう。ほら見ろ、あんなふうに他人と被るような代物だ。「成哉、ここ、すごく気に入っちゃった。ここに決めてもいいかしら?」心ここにあらずといった様子の成哉の腕を、望美が引いた。彼女は事前に調べていた。紬が今、このマンションの敷地内に住んでいることを。自分と成哉が睦まじく寄り添う姿を、あの女が目の当たりにすれば、いつまで「記憶喪失」なんて白々しい芝居を続けていられるか、見ものだ。成哉は彼女の手を握り返し、異論を挟まなかった。「いいよ。君が気に入ったなら、ここにしよう」契約が成立したと確信した仲介業者は、歓喜に声を弾ませ、即座に最高値を提示した。「六億円です!」望美は小さく顔をしかめた。「そのお値段なら、市内の超一等地の物件が買えてしまうわ。成哉、やっぱりいい。もったいないもの」成哉の胸に、柔らかな感情が広がる。――望美は、ここまで自分のことを思ってくれている。そもそも、崇に追い出されたせいで、彼女は新しい家を探さざるを得なくなったのだ。成哉は表情を変えぬまま、手を挙げて言った。「君が気に入ったなら買えばいい。今すぐ契約だ」仲介業者は、二人が気を変えるのを恐れるかのように、慌てて鞄から契約書を取り出した。――へっ。このご時世、こんなにカモにしやすい太客はそうそういないぜ。契約を終えた二人は、そのまま新居へと向かった。望美は、さりげなく不安を口にする。「成哉、私がいなくなったら、芽依ちゃんの方はどうなるの?」「心配はいらない。紬
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