All Chapters of 元夫の目は節穴?名門令嬢が電撃再婚!: Chapter 271 - Chapter 280

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第271話

絃葉はゆっくりと立ち上がり、笑っているとも嘲っているともつかない表情で、健二をまっすぐ見つめた。「へえ?本気で言ってるの?」健二は苛立たしげにネクタイを緩めた。まるでそれが、自分の勢いを締めつけているかのようだった。「俺は西尾グループの将来について真剣に話しているんだ。冗談を言っているように見えるのか?」絃葉は鼻で笑い、鋭い目を向けた。「交渉の席に着きたいなら、まずは自分にその資格があるか考えたほうがいいわ。あなたに、その資格があると思う?」言い返せなくなった健二は顔を真っ赤にし、呼吸まで荒くなった。「な......どういう意味だ!?親父だって俺を息子と認めたんだ!君が認めるかどうかなど関係ない。所詮、君はただの孫娘にすぎない!」絃葉の瞳が一瞬で氷のように冷え切り、その声にも凍てつくような冷たさが宿った。「なら、あなたも人前では堂々と名乗れない愛人の子にすぎないでしょう。西尾グループの人間が全員、あなたたち親子のたくらみに気づかないほど愚かだとでも思ってるの?おじいちゃんは年を取ったけれど、まだ判断力まで失ってはいないわ」健二は奥歯をぎりぎりと噛み締め、激しい怒りで目尻を赤く染めた。「だったら隠していないで、直接本人に確かめさせろ!西尾グループを君に任せるのか、それとも俺に任せるのか、はっきりさせればいい!」絃葉は彼をじっと見つめ、唇に冷ややかな笑みを浮かべた。「おじいちゃんの容体が安定するまで、会わせるつもりはないわ。会いたければ、自分の力で捜し出せば?」健二は言葉に詰まり、絃葉を激しく指さすことしかできなかった。「き......貴様!よくもそこまで言えたものだな!覚えていろ!穏便に済ませるつもりがないなら、あとで痛い目を見ても後悔するなよ!」これ以上いても勝ち目がないと悟った健二は、勢いよく背を向けた。部屋が揺れるほど乱暴にドアを閉め、怒りに任せて立ち去っていった。健二が出ていくと入れ違いに、蒼生がドアを開けて入ってきた。心配そうな目を絃葉へ向ける。「絃葉、大丈夫だったか?」絃葉はこめかみが脈打つように痛み、言葉では表せないほどの息苦しさが重く胸にのしかかるのを感じた。疲れた様子で首を横に振る。「株主総会が迫っているのに、健二が次々と......蒼生さん、あの事業計画書に
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第272話

注文を確定しようとした瞬間、ふとあることに気づいた。――そういえば......仕事をしている景の姿を、まだ一度も見たことがないのでは?そう思うと急に興味が湧き、時刻を確認して、迷わず「店頭受け取り」を選んだ。30分後、絃葉は二つのコーヒーを手に、海城の中心部にそびえ立つ築山グループ本社ビルの前にいた。受付へ向かうと、女性スタッフが丁寧に尋ねてきた。「いらっしゃいませ。どなたにご用でしょうか?」絃葉は一瞬、返答に詰まった。景はこの会社のトップだ。いきなり名前を出したら、あれこれ質問されて、なかなか取り次いでもらえないかもしれない。そこで機転を利かせ、うつむいて景へメッセージを送った。【ご注文の品が届きました。配達員が1階で待っているので、受け取りに来てください】生まれて初めて「配達員」から呼び出された景は、そのメッセージを見て眉を上げた。佳樹を取りに行かせようかとも思ったが、昼休みの時間なら、どうせどこかで仕事をさぼっているに違いない。そう考え、自ら席を立って一階へ向かった。2分後、景は一階のエントランスホールに現れ、無意識に入口へ目を向けて「配達員」を捜した。ちょうどそのとき、絃葉が振り返った。人混みを挟み、二人の視線が一瞬で重なる。景の深い瞳に、かすかな光が宿った。足早に絃葉の前まで歩み寄り、一メートルほど離れた場所で足を止める。「どうして自分で?」声はいつもどおり落ち着いていたが、わずかな動揺を隠し切れていなかった。絃葉は愛らしい笑みを浮かべた。「あら、築山社長は歓迎してくれないの?」「まさか。どうぞ」絃葉は笑いながらコーヒーを彼へ渡し、二人は並んで景専用のVIPエレベーターへ向かった。受付の女性二人は、何も見ていないふりをして静かに立っていたが、二人の姿が遠ざかると、たちまち声を潜めて話し始めた。「わあ、築山社長にコーヒーを届けに来る女性がいるなんて。彼女さんなのかな?」「余計なことを言わないの。築山社長の恋人は楠原さんじゃない?最近、毎日のように来てるし」「でも、さっきの女性に向けた笑顔だけは、いつもと全然違ったよ......」「しっ、もうやめて。噂をすれば来てるわよ。鉢合わせしたら、きっと大変なことになる......」その言葉が終わらないうち
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第273話

エレベーターの中は人目に触れず、安全な空間だった。しかも、ここは景だけが使える場所だ。扉が閉まるや否や、景は絃葉の腰へ腕を回し、身をかがめて彼女を隅へ追い込んだ。絃葉はそのまま彼のネクタイをつかみ、つま先立ちになって唇を重ねる。景もすぐに応え、力強い手で彼女の腰を支えながら、さらに深く口づけた。とはいえ、エレベーターという限られた空間だったため、二人は軽く味わうだけにとどめた。絃葉はかかとを床へ下ろし、景の唇から離れた。それでも指先には彼のネクタイを絡めたまま、もう片方の手を胸元へそっと当てている。景は、自分の心までそのネクタイに締めつけられ、深く沈んでいくような感覚を覚えた。「どうして自分でコーヒーを届けに来たんだ?」かすれた低い声で尋ねると、絃葉は小さく笑った。「そのほうが気持ちが伝わるでしょう?」景は顔を寄せ、彼女の頬へ軽く口づけた。「確かに。うれしいかも」「うれしいのはコーヒー?それとも、私が来たこと?」意味ありげに尋ねた言葉が終わらないうちに、景は再び彼女を壁際へ閉じ込め、その唇を奪った。長身が落とす影が、絃葉をすっぽりと包み込む。今度のキスは先ほどよりも深く激しく、抑えを失った熱を帯びていた。軽い電子音とともに、エレベーターの扉が開く。それでも、重なり合った二人の唇は離れなかった。絃葉が身を引こうとしても、景は逃がそうとせず、彼女を強く抱き寄せる。まるで一つにつながったかのように、エレベーターから廊下へ、さらに廊下からオフィスまで、口づけを交わしたまま進んでいった。景は後ろ手でドアに鍵をかけると、再び絃葉を扉へ押しつけた。その力は、先ほどよりもさらに強かった。絃葉は息ができなくなりそうになり、どうにか彼の体をわずかに押し離した。「ちょっと、誰か来たら......」「誰も来ない」景も息を乱していた。「最上階には、俺しかいない」二人は再び求め合い、入口からデスクチェアの前まで口づけを重ねて、ようやく高ぶった感情を少し落ち着かせた。絃葉はストローを差し込み、コーヒーを彼の唇へ差し出した。「どうぞ」景は絃葉を抱き寄せ、自分の膝の上へ座らせると、素直に一口飲んだ。「うまい」頬を赤く染めた絃葉が尋ねる。「本当に......このままでいいの?
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第274話

絃葉は、オフィスの奥にある小さなドアを指さした。景は眉をひそめた。「そこまでする必要はないが」「余計な面倒は避けたいだけだから」絃葉は足早にそのドアへ向かい、中へ入った。そこは景専用の休憩室だった。高級ホテルのスイートルームのように整然としており、室内には彼が普段まとっている、ほのかなシダーウッドの涼やかな香りが漂っていた。絃葉が中へ入ったのを確認してから、景は立ち上がってドアを開けた。優奈は書類の束を抱え、愛らしい笑みを浮かべて立っていた。頬はわずかに赤く、目には羞恥がにじんでいる。「仕事の邪魔じゃなかった?」「今は昼休みですから、問題ありません。どうぞ」優奈はオフィスへ入ると、さりげなく室内を見回し、最後に景の唇へ目を留めた。「唇......いつもよりずいぶん赤くない?」何気ない口調で尋ねられ、景の脳裏には、つい先ほど絃葉と交わした激しい口づけがよみがえった。口元に一瞬だけ笑みが浮かんだが、すぐに消え、声もいつもの冷静さを取り戻す。「今日はどのようなご用件ですか?」優奈は深く息を吸った。全身の勇気を振り絞るように顔を上げ、熱のこもった目で景をまっすぐに見つめる。「景」その声はかすかに震えていた。「私......ずっと前から、あなたに伝えたいことがあったの」景は静かで深い眼差しを向けたまま、先を促した。「高校のディベート大会で初めて景を見たときから、ずっと好きだった」優奈の頬が、不自然なほど赤く染まっていく。「この何年も、必死に努力して、今の地位まで上り詰めたのは、もっと、もっと近くに......少しでもあなたの近くに行きたかったから。両家が私たちの政略結婚を考えていることも知ってる。私にとっては、願ってもない話よ!」そう言って、入念に作成した「政略結婚契約書案」を景の前へ差し出した。そして次の瞬間、誰も予想しなかった行動に出る。優奈は景の前に片膝をつき、彼を見上げた。「あのね景、突然なのは知ってる......でも私たちのどちらかが、最初の一歩を踏み出さなければ何も始まらないと思うから......景が動かないのなら、私から動いたっていいじゃないって。この契約書には、私の誠意がすべて詰まってる。私と結婚してください。景と結婚したら、私は誰よりも信頼できる人
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第275話

景がこのタイミングで二人の関係を公表するはずはない。絃葉は本能的にそう思っていた。しかし、ドアの鍵が回る音を耳にした瞬間、頭の中が真っ白になった。慌てて周囲を見回すと、休憩室にあるクローゼットが目に入る。彼女はほとんど反射的にその中へ飛び込み、すぐに扉を閉めた。息を潜め、暗闇の中で長い間じっと待つ。休憩室は防音性が高く、さらにクローゼットの扉まで隔てているため、外で交わされている会話はまったく聞き取れなかった。焦りに耐え切れなくなり、扉を開けて様子を確かめようとした、そのとき――再び鍵の回る音がして、足音が近づいてきた。続いて、景の落ち着いた声が聞こえる。「絃葉、もう隠れなくていい。彼女は帰った」絃葉は大きく息を吐き、息を止めて赤くなった顔でクローゼットの扉を開けた。外へ出ると、景が笑いをこらえるような目で彼女を見ている。「もう、心臓が止まるかと思った......公表するつもりなのかと思った」景はわずかに眉をひそめた。「そんなに公表するのが嫌なのか?」絃葉は彼のそばへ歩み寄った。「理由は分かってるでしょう?嫌なんじゃなくて、ただ......」景はそのまま彼女の腰を抱き寄せ、唇へ軽く口づけた。「ああ、分かっている」絃葉は怒ったふりをして、彼の胸を軽く叩いた。「分かってるなら、脅かさないでよ。さっきは本当に――」景は、彼女の背後にある半開きのクローゼットへ目を向けた。「驚きすぎてクローゼットに隠そうとした?」絃葉は舌打ちするように息を漏らした。「ええ、生まれて初めて、こんな......」「こんな?」「こそこそ隠れるような真似をしたわ」「......」絃葉は顔を上げ、からかうような笑みを浮かべた。「堅物で真面目な築山先生にも、言い寄ってくる女性がいたのね。それも、私が高校時代に犬猿の仲だった相手だなんて。まったく、どんな展開よ......」景は表情一つ変えずに答えた。「俺に言い寄ってきた女性なら、ほかにもいる。彼女だけではない」絃葉は興味をそそられた。「へえ?ほかには誰がいるの?」景はいたって真面目な顔で、さらりと自慢した。「多すぎてもう覚えていない」絃葉は思わず吹き出した。「そんなに人気があるようには見えなかったけど」
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第276話

「本当よ!来るたびに偉そうに振る舞ってたんだから、自業自得!これからも同じように得意げな顔ができるか見ものね!」――優奈は自分の車へ飛び込むと、ついに声を上げて泣き出した。景に冷たく拒絶された光景が悪夢のように繰り返しよみがえり、彼女の心を引き裂いていく。胸が少しずつ砕けていくような鋭い痛みからは、どこにも逃げられない。あまりの苦しさに、正気さえ失いそうだった。そのとき、目の前に現れた光景に、優奈は完全に凍りついた――ヒマワリの花束を抱えた絃葉が、景と並んでビルから出てくるところを目の当たりにしたのだ。しかも景は、絃葉のために紳士的な仕草で車のドアを開け、彼女を見送っていた。普段は冷ややかなその顔に、優奈が一度も見たことのない優しい笑みまで浮かべている。優奈は信じられないという表情で、景の姿を食い入るように見つめた。全身が固まり、心臓が破裂しそうな瞬間、頭の中でも轟音が鳴り響いたように感じる。泣き声はぴたりと止まった。代わって胸に押し寄せたのは、絃葉に対する千倍にも膨れ上がった激しい憎悪だった。高校時代から、絃葉はまるで天敵だった。優奈が全力を尽くして勝とうとした大会でも、絃葉はいとも簡単に優勝をさらっていく。優奈が入念に準備した発表も、なぜかいつも絃葉に注目を奪われた。負けず嫌いな優奈は、誰が相手でも勝つことができた。それなのに、絃葉を前にしたときだけは、いつも惨敗してしまう。神でさえ、絃葉ばかりを特別扱いしているようだった。――どうして?どうして、自分が大切にしてきたものは、最後にはすべて絃葉の手に渡るの?長年想い続けてきた景まで、今では絃葉にだけ特別な目を向けている。骨の髄までむしばむような痛みが、優奈の胸を襲った。絃葉のせいで、景との政略結婚を実現するという長年の願いがかなわなくなる。そして、このところ重ねてきた努力がすべて水の泡になる――そう考えた瞬間、怒りが一気に頭まで込み上げた。優奈は何度も大きく息を吸い、どうにか気持ちを落ち着かせた。彼女は、簡単に諦めるような人ではない。景が好きになったところで、築山家が問題だらけの過去を持つ彼女を受け入れるはずがない。景と絃葉がまだ入籍していないのなら、自分にはいくらでも機会がある。――落ち着
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第277話

優奈は一方的に通話を切った。すべてを思いどおりに動かしているという自信が、再び胸の奥を満たしていく。指に挟んでいたたばこを乱暴にもみ消し、灰皿へ投げ捨てた。深くシートに身を沈めながらも、その両目には激しい炎が燃え上がっていた。楠原家という泥沼の中で、彼女は長年「永遠の二番手」という屈辱的な立場から、必死にのし上がってきた。幾度もの血で血を洗う争いをくぐり抜け、ようやく姉と弟を引きずり下ろして、現在の発言力を手に入れたのだ。たかが絃葉一人に、自分の行く手を阻めるとでも?――冗談じゃない!優奈はもう、高校時代のように陰で張り合うことしかできない、力も発言権もない女ではなかった。2本目のたばこを取り出して火をつけ、深く吸い込む。刺激の強い煙が肺へ流れ込み、新たな力を注ぎ込んでくれるようだった。彼女は再び電話をかけた。受話器の向こうから、優しい女性の声が聞こえてくる。「優奈ちゃん、私に何か用?」優奈は一瞬で、穏やかで愛らしい話し方に切り替えた。「特に用事はないんです。ただ、会いたくなってしまって。今夜、景の好きな料理の材料を買って、お宅で夕食を作ってもいいですか?できれば、景にも帰ってきて一緒に......」静代の声が、驚きと喜びに弾んだ。「あら、優奈ちゃんは料理もできるの?」優奈は謙虚な口調で答えた。「よく言うでしょう?男の心をつかむなら、まず胃袋をつかめって。だから私、こっそり料理とお菓子作りを習っていたんです」静代はすっかり上機嫌になった。「それは感心するわね。今どき、進んでキッチンに立とうとするお嬢さんなんて、めったにいないわ。優奈ちゃんをお嫁さんにできるなんて、景は本当に幸せ者ね!」優奈の口元がゆるんだ。「そんなことないです。まだまだ覚えなければならないことがたくさんありますから。でも景が必要としてくれるなら、仕事でも家庭でも、全力で支えるつもりです」静代は何度もうれしそうに応じた。「ええ、ええ!では今日は早めに仕事を切り上げていらっしゃい。二人で一緒に食材を選びに行きましょう!」満足そうに電話を切ると、何もかも自分の手で動かしているという優奈の高揚感は、さらに大きく膨れ上がった。2本目のたばこが燃え尽きる。優奈は冷静にしばらく考えてから、3本目に火をつ
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第278話

【母さんが少し具合が悪いらしい。今夜は様子を見に行くから、帰りが遅くなる。】絃葉は特に深く考えず、返信した。【分かった。静代さんとゆっくり食事してきて。私は悠を誘うわ】景からは短い返事が届いた。【ああ】――絃葉は荷物をまとめ、足早に会社を出ると、タクシーを拾って悠と約束したレストランへ向かった。急いでいた彼女は、少し離れた後方から見覚えのある車が静かについてきていることに、まったく気づいていなかった。運転しているのは凪杜だった。凪杜は絃葉をレストランまでつけると、近すぎず遠すぎない場所に席を取り、ずっと彼女を目で追った。悠と楽しそうに話しながら食事をする様子を、ただ見つめ続ける。やがて二人が手を振って別れると、凪杜は再び車を走らせた。絃葉の乗ったタクシーから一定の距離を保ってあとを追い、最高級マンションの地下駐車場へ入っていくところを確認する。絃葉がエレベーターに乗るのを見届けると、凪杜はエレベーターホールの外で階数表示を見つめた。数字は次々と上がり、最後に「20」で止まった。A棟20階。凪杜はその場所を心に刻み込んだ。エレベーターにはセキュリティがかかっており、専用のカードがなければ動かせない。凪杜は振り返って重い防火扉を開け、暗く冷え切った非常階段へ入っていった。一段ずつ、ひたすら上り続ける。20階分の階段を上り切り、ようやく防火扉を開けたときには、全身が汗にまみれ、激しく肩で息をしていた。喉はからからに乾いていたが、冷たい壁にもたれ、耳を澄ませる。息を潜めながら、絃葉の部屋の前から聞こえるわずかな物音も逃すまいとしていた。絃葉が本当に景のもとへ行ったなど、凪杜は頑なに信じようとしなかった。彼女はかつて、骨の髄まで染み込むほど深く自分を愛していた。野々花とのことでどれだけ傷ついたとしても、これほど早く自分への想いを断ち切り、別の男の腕へ飛び込めるはずがない。ここで待っているのは、自分の目で確かめるためだった。絃葉と景が、いったいどこまで進んでいるのか。自分への当てつけで恋人を演じているだけなのか、それとも......本当に心変わりしたのか。廊下は物音一つなく、冷え切っていた。隙間から吹き込む風が、肌を刺すような冷たさを運んでくる。凪杜は全身
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第279話

凪杜は非常階段の薄暗い物陰に身を潜め、2時間以上も待ち続けていた。絃葉の部屋の固く閉ざされたドアは、ずっと何の動きもなかった。神経が限界まで張り詰め、もう諦めようとした、そのとき――チン。エレベーターが到着した澄んだ音が、突如として静寂を切り裂いた。凪杜はほとんど同時に、防火扉の隙間へ目を押し当てた。そこで目にした光景に、全身の血が逆流する。大きめのピンク色のウサギ柄パジャマを着た絃葉が勢いよく玄関を開け、エレベーターへ向かって駆け出した。そしてエレベーターから降りてきた男の胸へ、身軽に、何のためらいもなく飛び込む。景は両腕を広げ、絃葉をしっかりと受け止めた。笑みを浮かべながら、彼女の鼻先を優しくつまみ、甘やかすような低い声で尋ねる。「どうして裸足で出てきたんだ?外は寒いよ」絃葉は駄々をこねる子どものように景の肩へ両腕を回すと、軽く飛び上がり、そのまま全身で彼に抱きついた。「景がいるんでしょ?」景は力強い両腕で彼女を支え、腕の中へしっかりと抱き留めた。「甘えん坊だな」絃葉は顔を上げた。景を見つめる瞳は驚くほど輝き、隠しようのない喜びに満ちている。あどけなく無邪気な笑顔には、遠慮のない甘さがあふれていた。非常階段の中で、凪杜は雷に打たれたように凍りついた。全身の血が一気に頭へ上り、次の瞬間、冷酷な現実によって凍りついていく。凪杜はドアの隙間から、目を刺すようなその光景を信じられない思いで凝視した。無意識に口を開いたものの、声は一つも出なかった。――絃葉......彼女が自分の前で、こんな表情を見せたことがあっただろうか?凪杜の前にいた彼女は、いつだって穏やかで、従順で、家庭的で、物分かりがよかった。わがままを言うこともなければ、節度を失うこともなかった。目の前にある顔は、骨の髄に刻み込まれているほど見慣れたものだった。しかし、その表情も、甘えきった態度も、誰かへ全身を預ける姿も、凪杜の背筋が凍るほど見知らぬものだった。――違う。あり得ない......あれが絃葉のはずがない。自分の絃葉が、どうしてほかの男の腕の中で、甘やかされた子どものように振る舞っている?衝撃が重い槌のように胸を打ちつけ、激しい疑念が理性をのみ込もうとした。そして次の瞬間、抑え難
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第280話

何発も殴られ、口元から血を流した凪杜は、そこでようやく茫然自失の状態から我に返ったようだった。苦しそうに声を絞り出す。「景......どうして......俺を殴るんだ?」「どうしてだと?」景は、凪杜の右頬へ容赦なく拳を叩き込んだ。「1つ。絃葉は俺の女だと警告したはずだ。それでもお前は、しつこく彼女につきまとった!」続いて、さらに激しい一撃を胸へ浴びせる。「2つ。絃葉は5年もの時間をお前に捧げた。それを大切にするどころか、彼女をますます深く傷つけた!一番ひどく傷つけた張本人のくせに、よくも逆に彼女を責められたものだ!」今度は鼻へ拳を振り下ろした。「3つ。前から殴りたかった。ずっと我慢してきたが、今日はもう限界だ!」その一撃は、これまで以上に強烈だった。凪杜は床へ倒れ込み、一本の歯が血とともに飛び出した。口元からは、絶え間なく血が流れている。景は冷然と立ち上がった。凪杜は苦労して起き上がり、口元の血を拭うと、冷笑を浮かべた。「俺の女を奪っておいて......よく俺を殴れたものだな?」そう言うなり、右の拳を握り締めて景へ振りかざした。だが景はその手首を難なくつかみ、直後、腹部へ強烈な一撃を叩き込んだ。絃葉がこんな人間のために流産し、心身ともにあれほど深い傷を負わされたことを思うと、景は凪杜など死んで当然だと思った。何度も拳を振り上げ、凪杜の腹へ容赦なく叩き込んでいく。「よくも自分の女などと言えたな?偽造した書類で5年間も彼女をだまし、愚弄し続けた。そのうえ、ほかの女との間にできた子どもまで押しつけて育てさせ、一生彼女を食い物にするつもりだった!名目上の代表に据えるだけで、株式も資産も一切渡さない。そんな人間以下の真似までしておいて......よく彼女の前に顔を出せたものだな!」景は怒りに任せて再び凪杜を床へ押し倒し、その首を締め上げた。「俺が長年、何よりも大切に想い続けてきた女が、お前のせいで命まで失いかけたんだ!愛せないなら、最初から結婚しなければよかった。結婚しておいて裏切るなんて、殴られて当然だ!」再び重い拳が振り下ろされた。それでも、長年胸にたまっていた感情は、どれほど殴っても消えなかった。鈍い刃物で肉を切り裂かれるような痛みは、絃葉が自分のもとへ戻ってきてからも、
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