社長の子じゃありません――でも、逃がしてもらえない のすべてのチャプター: チャプター 441 - チャプター 450

534 チャプター

第441話

パーティーは午後六時からだった。三久は蒼汰を連れて帰り、昼食を済ませて少し休んでから支度に取りかかった。黒い服はお腹の膨らみをそれほど目立たせず、白い肌をいっそう際立たせている。化粧をしなくてもやつれた様子はなく、少し体重が増えたせいか、むしろ血色がよく見えた。バッグを提げて外へ出ると、洲人はすでにロールスロイスで玄関先に来て待っていた。車体に寄りかかり、うつむいてスマホをいじっている。ドアの開く音に気づいて一瞬目を上げたものの、すぐにまた画面へ視線を戻した。だが、そのまま数秒固まったかと思うと、はっと顔を上げてこちらを見た。夕暮れの陽が斜めに差し込み、三久の白い肌を淡い黄金色に染めている。艶やかな黒髪をひとつに束ね、毛先が肩口に垂れていた。その清楚な佇まいは、まるで高校生のようにも見えた。「行こっか」三久が近づいてドアハンドルを引いたが、開かない。顔を上げて洲人を見ると、その漆黒の瞳と真正面からぶつかった。眉をひそめる。「何ぼうっとしてるの」「……?」洲人は我に返り、スマホをポケットに突っ込むと、運転席側から回り込んでドアを開けようとする。ハンドルを引いても開かず、そこでようやく鍵がかかったままだったことを思い出す。ばつが悪そうに笑いながらキーを取り出して解錠し、もう一度ドアを引いた。視線は何度も三久のほうへ吸い寄せられては、すぐに逸らされることを繰り返している。三久は、今夜は夕食に行けないと、梨々香へ連絡するのを忘れていたことに気づいた。うつむいてメッセージを打つのに気を取られ、洲人の様子がどこかおかしいことには気づかない。打ち終えて顔を上げたときには、車はすでにマンションを出ていた。夕陽はまだ濃く、重なる山並みの向こうへ沈もうとしている。吹き込む夜風にはうっすらと涼しさが混じっていた。三久は花鳥柄のショールを肩に羽織る。「神崎家って、深川にも取引先があるの?」彼女は洲人に訊ねた。「あ?」洲人は慌てて彼女を一瞥し、すぐに視線を戻した。「大昔に親父がこっちに来たことがあってさ。どんな取引先なのかは俺もよく知らねえんだ。とにかく来たついでに一度顔合わせておけって話で」三久は小さく頷いた。「そうよね、ビジネスの世界って付き合いが大事だから」洲人もつられるよう
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第442話

「わかった」申し訳ないとは思いつつも、三久は立場を考えて席を外すことにした。身を翻し、会場の外へと向かう。人混みの中でひときわ目立つ男の視線が、ふいにこちらを向いた。三久のなめらかで華奢な後ろ姿に、その目が留まる。由樹はほとんど一目でそれが誰なのか気づいていた。洲人と一緒に来ていたのか。由樹の顔つきに、抑えきれない不機嫌さがいくらか翳を落とした。話していた相手は、わけもなく背筋が冷えるのを感じ、話の途中で口をつぐんだ。何人かが由樹の視線を追ったが、そこに見えたのは洲人の姿だけだった。由樹と洲人が犬猿の仲だという噂は、どうやら本当らしい。ただ、洲人の姿を見ただけで由樹が真っ先に顔色を変えるほどとは、誰も思っていなかった。「失礼、少し外します」由樹はグラスを置くと、吹き抜けに面した手すり際へと足を向けた。会場は三階にあり、中央が吹き抜けになった造りのため、一階ロビーの様子が見下ろせるようになっている。会場を出た三久は、エレベーターを降りてロビーのソファに腰掛けていた。一枚のガラス越しに、その姿がやけにくっきりと見えた。由樹の視線は、自然とそこへ吸い寄せられた。コツコツと硬質なヒールの音が近づき、彼の背後で止まった。由樹は視線を戻し、身体をそちらへ向ける。「酒井社長、あなたほど薄情な人、見たことないわ」紫織が背後に立ち、いかにも腹立たしげな顔で言う。「千歳を怒らせて追い返しておいて、宥めにも行かないなんて。もうすぐ結婚するっていうのに、そんな仕打ち、ひどくない?」由樹の瞳が冷ややかに光った。「暇なんだな。人のことに首を突っ込むのが好きらしい」「千歳とは仲がいいのよ。彼女のために言ってあげてるの、報われないじゃない!」紫織は一歩前へ出て、なおも言い募ろうとする。海外にいた二年間、千歳と一緒に過ごすあいだ、彼女の口から出る言葉はいつだって由樹のことばかりだった。そう語ってやろうとしていた。ノートいっぱいに、由樹の名前を書き連ねている千歳の姿を見たこともある。だがふと一階の三久の姿が目に入り、その目が険しく細まった。「またあの女?あなたの子を身ごもってるのをいいことに、あなたを独り占めして千歳を無言で挑発してるってわけ。あの女もいい度胸してるけど、あなたもいい加減
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第443話

「あなた、一体何様のつもりよ!」紫織は口を挟んだ男を遮り、由樹へ向き直った。「千歳のために説明を求めているだけよ。困らせるつもりなんてないわ。もし三久のお腹の子があなたの子じゃないって言うなら、じゃあ訊くけれど、父親は誰なの?上司なんだから、事情を知っていてもおかしくないでしょう」「俺を困らせる、か」由樹は唇の端に冷ややかな笑みを刻む。「お前に俺を困らせる資格もなければ、彼女を困らせる資格もない」紫織の顔がさっと曇る。由樹は今、大勢の前で三久を庇ったのだ。「それって、遠回しに三久のお腹の子は自分の子だって、認めてるってことかしら?」由樹は鷹を思わせる切れ長の目をわずかに細め、紫織を見据えた。まるで、まとわりついて離れない厄介者でも見るような眼差しだった。心底、疎ましい。だがよりによって、この件は三久のお腹の子に関わることだった。彼女の体面を守ろうとすれば、身動きが取れない。「あいつの腹の子が誰の子だろうと、あんたに何の関係もないさ」洲人が人混みをかき分けて歩み出ると、紫織を値踏みするように見た。「自分の腹の子のために、少しは口を慎んだらどうだ。暇があるなら少しは頭を使えよ。そんな頭じゃ、あんたそっくりの子が生まれちまうぞ!」高崎家といえば深川でも名の知れた家柄であり、これまで彼女にこんな口をきく者などいなかった。紫織の顔はみるみる怒りで朱に染まる。彼女がさらに何か言い返すより早く、洲人はもう由樹のほうへ視線を移していた。「こんなところで会うとはな。ちょうどいい、ひとつ厚かましいお願いがあるんだが」由樹は深い瞳に冷ややかな気配を纏わせながら、洲人へ視線を向ける。だが何も答えない。「うちに一人、譲ってもらいたいんだ」洲人はそう言った瞬間、妙な既視感を覚えて思わず吹き出した。「これで二度目だな。公の場で人を譲ってくれって頼むのは。しかも相手はまた同じ、早坂三久だ」一度目は西戸、二度目はここ深川で。まるで由樹を追いかけ回して三久を求めているかのようだった。ひとりで愉快そうに軽口を叩いてから、さらに続ける。「三久の腕は本当に買ってるんだ。仕事の腕は確かだし、さすが酒井社長が目をかけただけのことはある。ただ、惜しいだろうが、あいつを俺に譲ってくれるかどうかだよなあ」「あいつを譲る」という
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第444話

「俺と酒井社長、二人で君を呼んだんだ」洲人が歩み寄ってきて彼女の隣に立ち、見下ろすように言った。「うちの九洲グループに来て働かないかと思ってな。酒井社長は、君自身に決めさせるとさ」三久の目が驚きに震えた。信じられないというように洲人を見て、それから由樹へ視線を移す。由樹は微動だにせず立ち、周囲を圧するような気配を漂わせている。洲人は三久自身に決めさせると言っているものの、最終的な決定権は由樹にあることを、三久ははっきりと悟っていた。「神崎社長、ご冗談を。私、今は産休中ですよ」「有能な人材は惜しいもんでな」洲人はすかさず言った。「君が頷くならすぐにでも入社手続きをするし、産休はそのまま取ってもらって構わない。給料もきちんと払うぞ」その表情はいたって真剣で、大勢の前でそう口にする以上、本気のようだった。三久には、この短い数分のあいだに一体何が起きたのかまるで理解できない。傍らでは、紫織が険しい顔で洲人をまっすぐに睨みつけていた。「……社長」三久は迷いながらも由樹へ目を向けた。何が起きているのか知りたかったのだ。由樹はわずかに身じろぎすると、薄い唇を開く。「神崎社長がお前を評価している。決めるのはお前自身だ。明日、会社で返事を聞かせてくれ」三久が何かを言う間もなく、由樹は身を翻して立ち去った。これは紛れもなく、三久の転職を認めるという意味だ。遠ざかっていくその背中を見送る三久の胸はぎゅっと締めつけられ、不意に息苦しさを覚えた。「ふん。三久、大したものね。まさかあの人まで手玉に取るなんて」紫織は冷笑した――そういうことか、三久のあの子は由樹の子ではなく、洲人の子だったのだ。スマホで千歳へこの朗報を伝えながら、身を翻して去っていく。周囲の人々も次第に散っていった。その場には、三久と洲人だけが残される。「どういうこと?」頭の中がまだ整理できないまま、三久は訊ねる。「一体、何があったの」洲人は彼女の肩を軽く叩いた。「車の中で待ってろ。五分もかからず戻る」そう言うと、人混みをかき分けて由樹が去った方向へと歩いていく。ホテルの入り口で、由樹は車を待っていた。立て続けにタバコを深く吸い込み、あっという間に半分近くまで灰にしている。「おい酒井」追いついてきた洲人
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第445話

それに、もし神崎家までこの子を洲人の子だと思い込んだら、きっと向こうの家族が押しかけてくるに決まっている。酒井家を振り払ったと思ったら、今度は神崎家を迎え入れることになる。一難去ってまた一難だ。そんな危ない橋を次々渡るほど、自分は命知らずではない。どちらの側にも恨まれかねない。「三久、酒井家に対して、この子が酒井の子じゃないって証明するのは、ものすごく難しいだろ。でも、うちの神崎家に対して、この子が俺の子じゃないって証明するのは、簡単なことだ」洲人は真面目な顔で分析してみせる。「うちの親父たちなら、この秘密は絶対に外へは漏らさない。俺が大勢の前で君を引き抜いたのは、酒井の面目を潰したってことだからな。親父は喜びこそすれ、怒りゃしないさ」三久が神崎家に対して、子どもが洲人の子ではないと証明できさえすればいい。神崎家はこの噂を揉み消したりしないだろう。噂のひとつひとつが、酒井家への痛烈な一撃になるのだから。こうした状況は、洲人だけでなく由樹にも見えているはずだった。それでも彼は、三久自身に決めさせることを選んだのだ。三久の胸は張り裂けそうなほど苦しくなり、胸の奥がきゅっと締めつけられるような痛みに襲われ、息をするのも難しかった。「こういう状況じゃ、俺にはこういうやり方で君を守ることしかできない。もし嫌なら断ってくれていい。ただ、よく考えてほしいんだ。断れば、酒井家への説明はますますつかなくなる」洲人はエンジンをかけ、車を家路へと走らせた。由樹が三久を守ろうとしていることに、洲人はもう気づいている。そして三久を守ることは、いつしか自分にとっても本能のようなものになっていた。三久は誰に守られることを選ぶのだろうか。彼女がどちらを選ぶかで、理性と感情のどちらを選ぶのかがわかるのかもしれない。洲人の車を降りると、三久は両腕を抱え込むようにして家へと歩き出す。数歩も行かないうちに、肩に一枚のジャケットがかけられた。車を降りて追いかけてきた洲人が、そっと羽織らせてくれたのだ。「もし俺のこのやり方がまた余計な面倒を君にかけることになったなら、悪かった。皆にはちゃんと自分から説明するつもりだ。でも、本当によく考えてほしい。俺は自分のやり方は間違ってないと思うから」三久はその場に立ち尽くし、どこか焦点の定まらない
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第446話

「え?」理紗は胸の奥がひやりと冷えるのを感じた。「また何かあったんですか?こんな朝早くに、一体どうしたんです?」三久はビルの前に立ち、上を見上げていた。「終わったら話すから」電話を切ると、彼女はビルへ入っていく。オフィスにはまだ誰もいない。人目につく前に最上階へ向かうため、あえて早く来たのだった。だが思いがけず、由樹はすでに出社していた。ほどなくして、由樹のオフィス。三久は部屋の中央に立っていた。来る前には何をどう話すか頭の中でしっかりと組み立て、何度も練習してきたはずだった。だが実際に由樹を前にすると、ひと言も出てこない。由樹は右側の引き出しを開け、退職合意書を取り出すと彼女のほうへ差し出した。「サインしてくれ」三久は思わず言った。「まだお返事、していませんが」「お前はずっと去りたがっていた。もうここに留まる理由はないだろう」簡潔な言葉が、一語一語、的確に痛いところを突いてくる。「どうした?まさか本当に辞められるとなったら、未練が湧いたとでも言うつもりか」由樹の細長い瞳がわずかに細められ、探るような眼差しが彼女へ向けられる。三久はその書類に目を落とした。穏やかな表情の奥に、複雑な感情がわずかに滲んだ。小さく息を吸い込むと、バッグから一本の黒いボールペンを取り出し、迷わず最後のページを開いてサインした。【早坂三久】。その筆跡は柔らかくも力強く、どこか鋭さを帯びている。最後の一筆を書き終えた瞬間、由樹の視線が引き戻された。「会社の規定では、社内機密が漏洩した場合、お前は徹底的な調査を受け、しかも真っ先に調査対象となる。もしお前が関与していたと判明すれば、会社が被った損失の倍額を賠償してもらうことになる」由樹は淡々とした声で、退職合意書の条項を告げた。三久はペンにキャップをはめ、契約書の脇に置く。「わかりました」「条項は確認しなくていいのか」由樹は最後まで目を通すよう促した。三久は首を横に振る。「社長を信じていますから」由樹は思わず苦笑した。喜んでいいのかそうでないのか、自分でもわからない。「退職手続きは二営業日以内に終わる。その時になったら人事から連絡が行くはずだ」「手続きの流れは承知しております。ご説明には及びません」三久は頷い
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第447話

「わからないことがあったら、いつでも電話して。真夜中でも構わないから」三久は理紗の肩を軽く叩き、由樹のオフィスへちらりと目をやった。ドアは固く閉ざされていて、まるでふたつの世界が完全に切り離されてしまったかのようだった。「じゃあ、行くわね」理紗は何かを思ったのか、泣き出しそうな顔になった。三久はきっぱりと踵を返した。理紗が涙をこぼして仕事に支障が出ては困る。理紗はビルの下まで見送ろうとした。そのとき、デスクの内線が鳴る。由樹の低く艶のある声が響いた。「入ってくれ」「入ってくれ」「ちょっと来てくれ」「三久、来てくれ」。そういった言葉を、三久はこれまで数え切れないほど聞いてきた。聞き慣れているはずなのに、どこか遠い。そんな感覚に襲われ、エレベーターへ乗り込もうとした足が止まる。「あっ、早坂さん!」理紗は慌てふためいた。見送るべきか、行くべきか。「待っててください、すぐ戻ります!」振り返ると、理紗が慌ただしく由樹のオフィスへ駆け込んでいくのが見えた。ドアが開き、また閉まる。その一瞬、午後の陽光に照らされた男の影が壁に映って見えた。一瞬のことだった。三久は視線を戻すとエレベーターに乗り込み、その場を後にした。退職のことは、梨々香にはまだ伝えていない。家に戻ると、退職合意書を一枚、そのまま梨々香の前に置く。梨々香は蒼汰を抱きしめて愛おしそうに頬ずりしていたが、ふいに目の前に置かれた書類には気にも留めなかった。「何それ?読んで教えてよ」「退職合意書。私と百栄の。ここに、私と由樹のサインが入ってるわ」三久は最後のページを開き、由樹のサインへ目を落とした。「はぁ?」梨々香は蒼汰を下ろすと、書類をひったくって目を通す。声が一気に裏返った。「うっそでしょ!?いつの間の話よ?何がどうしてこんなことに?」梨々香は立ち上がって三久をまじまじと見た。「みくちゃん、大丈夫なの?辛いなら泣いていいのよ」三久は首を横に振った。頭の中は落ち着いていて、意外なほど冷静だった。それでも心のどこかには、まだぽっかりと穴が空いたような感覚が残っている。「何年も続けた仕事だもの。急に辞めるってなったら、多少名残惜しく感じるのも普通でしょ?」梨々香はじっと三久を見つめ、意外にも落ち着いているのを
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第448話

洲人は手を伸ばして握ろうとしたが、ふと何かを思い出したように、パジャマで両手をごしごしと拭った。「よろしくもなにも、これからは俺が君を守ってやる!」三久はいわば、なし崩し的に洲人の会社へ移籍することになったわけだ。彼女にとってはまったくの予想外の展開だったが、洲人にとっては思いがけない喜びだった。「まず安心して産休を取ってろ。うちの家族には俺から話しておく」神崎家の人間が後になって三久に難癖をつけてくるような事態を、洲人は避けたかった。先手を打って、きちんと説明しておくつもりだった。「わかった。ご飯できたら電話するね」「よし、食材はもう買いに行かなくていいぞ。部下に届けさせるから。俺は君の上司なんだから、ただ飯を食わせてもらうわけにいかねえだろ」洲人は口元を耳まで裂けそうなほど緩ませた。「部屋で待ってろよ!」そう言うと、身を翻して自分の家へと駆け戻っていった。三久が止めようとする間もなかった。仕方なく部屋に戻り、買い物に出ようとしていた青木さんを引き止めた。一時間も経たないうちに食材が届けられたが、予定していたよりもはるかに豪華だった。ちょうどその頃、三久が百栄を退職し、九洲グループに移籍したというニュースが流れ始めていた。事情を知らない人々はただ面白がり、三久はすごいと単純に感心していた。出産を控えた妊娠中の身でありながら、九洲グループに引き抜かれて厚遇されているのだから、よほど仕事の能力が高いに違いない、と。内情を知る者たちは、その裏を読み取っていた。三久のお腹の子は、十中八九、洲人の子に違いないと。有能な人材を引き抜かれた百栄は面目を失い、世間の噂に晒されることになった。だがそれは、摩美にとってはむしろ朗報だった。彼女は由樹に代わって役員たちの追及を一手に引き受け、西戸の古株たちを抑え込んでみせた。「認めざるを得ないな、酒井のお袋、なかなかやり手だぜ」洲人はほろ酔い加減で酒をちびちび飲みながら、湯気の立つ鍋をつつき、上機嫌極まりない様子で言った。「うちのお袋だったら、何かあったら俺を売り飛ばすだけだろうな」三久は食事をしながら、ニュースの動向にも目を配っていた。全体として見れば、百栄への影響は多少あるもののそれほど大きくはなさそうだった。何しろ、彼女のお腹の
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第449話

洲人は熱さのあまり飛び上がり、テーブルの周りを二周してからようやくゴミ箱を見つけて口の中のものを吐き出した。だが口の中はもう真っ赤に腫れ上がっていて、舌にはひりひりと火傷したような痛みが残っていた。「き、君、悪魔か!」「あんたの毒舌ほどじゃないわよ」梨々香には、こんなに可愛い蒼汰の父親が、洲人の言うようなろくでなしだなんて到底想像できなかった。洲人は冷たい水を口に含んで、ようやく口の中が少し楽になった。「精子提供って、厳しい審査を通ってるんだからな。身体だけじゃなくて、経歴にも問題がないことが条件なんだぞ」三久が口を挟む。「梨々香が選んだのは、国内でも特に審査の厳しい、きちんとした病院よ。問題なんてあるわけない」「ちょっと言っただけだろ。そんな怒ることかよ」洲人は椅子を引き、梨々香から少し距離を取って座り直した。梨々香はジト目で彼を睨む。「じゃあもしあたしが、将来あんたの嫁になる女が、今どこの男のベッドで寝てるかもわからない、しかも何人の男と寝てきたかもわからないって言ったら、あんたどう思う?」子どもの母親と妻とでは、どうやら重みが違うらしい。洲人ははっとした。将来の妻に過去があっても全然平気だと思っていたはずなのに、いざ子どもの母親の過去が奔放だったと言われると、自分でも意外なほど子どものために受け入れがたい気持ちになる。「じゃあ罰として、今度一杯奢ってよ。そしたら許してあげる」梨々香は彼に向かって顎をしゃくった。「舌を火傷してんだぞ。今、こんな度数の高いものなんか飲んだらしみてしょうがないだろ!」洲人はふんと鼻を鳴らした。「治ったら、ちゃんと埋め合わせしてやるよ」それを聞いて梨々香は笑った。「それならよし。じゃあ今回は許してあげる」二人が騒がしくやり合う横で、三久は黙々と食事を続けていた。鍋の湯気と賑やかな空気のせいもあってか、なぜか胸のうちがざわついて落ち着かない。そのとき、スマホが鳴った。理紗からの電話だった。電話に出るために席を立ち、リビングへ移動する。「理紗」「早坂さん、大変です、社長の様子が変なんです!」理紗の声は強い風の音にかき消されて、言葉の端々が聞き取りづらい。三久はスマホを耳にぎゅっと押し当てて、ようやく言葉を拾えるほどだった。「どん
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第450話

「秦先生がわざわざご連絡くださるのが面倒でしたら、それでも構いません。社長はもう大人ですし、何かあってもあの秘書さんには関係のないことですから」龍太郎からこういう遠回しな探りを入れられるのは、三久にとってもう何度目だったか、数えきれないほどだった。そう言い終えると電話を切る。龍太郎は表情を強張らせ、手元のスマホへ目を落とした。そこへ突然、缶が飛んできて頭に当たる。中に残っていた酒がこぼれ、シャツにぽたぽたと垂れた。苦い顔で由樹のほうを見やる。「何をぶつぶつ言ってるんだ」由樹の顔つきは不機嫌に暗く沈んでいた。「メッセージを送っておけ。俺は元気だとな」こんな真夜中に橋のたもとで海風に吹かれながら座り込み、わざわざ電話で酒まで持って来させておいて、それのどこが元気だというのか。龍太郎はそれを察しながらも突っ込まず、由樹の傍らに腰を下ろした。「そういえば、村上との結婚式、もう一ヶ月ちょっとだろ」由樹は眉根を寄せる。「言われなくてもわかってる」龍太郎は缶を開け、自分の缶を由樹のグラスに軽く合わせた。「礼なんていいって」由樹は答えず、顔を仰け反らせて酒をあおる。透明な雫がひと筋、口の端から伝い落ちた。端正な顎の線をなぞり落ちるその雫がうっすらと濡れた跡を残し、色気をいっそう際立たせている。「なんで急に早坂さんを転職させる気になったんだ」龍太郎が興味深そうに訊く。「あいつが辞めたいと言うんだ。俺に引き止めろとでも?」皮肉めいて、どこか達観したようにも聞こえるその言葉は、今の由樹の様子とはまるで釣り合っていなかった。龍太郎はあえて突っ込まず、ただこう言う。「引き止めたところで、どうにもならなかっただろうな」「酒はここに置いて、帰れ」由樹は追い払うように言った。「ここはお前の家じゃないだろ。俺がどれだけここに座ってようが俺の勝手だ」龍太郎は両脚を岩に投げ出して言い返した。海風で乱れた自分の服を整えながら、由樹の襟元が今にもはだけそうになっているのに目をやる。「少しは自分を大事にしろよ。風邪でも引いたって、心配してくれる奴はいないぞ」由樹は眉を険しくして不快そうに彼を見た。「言っとくけど、村上も深川にはいないんだ。お前が病気になっても、俺がお前の世話をする暇なんてないから
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