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第三話「無言の契約とかりそめの愛」

Author: ひなた翠
last update publish date: 2026-05-17 20:22:20

 恋の苦さに、いつしか慣れてしまった。

 胸の奥底で、かつて踏み消されたはずの、あの小さく頼りない火は――灰の中で、誰にも気付かれることなく、ずっと、ずっと、燻り続けていた。消え去るほどの潔さはなく、かといって、世界を焼き尽くすほど燃え広がる勇気もない。そういう、ぬるくて、けれど肌をじりじりと焦がすような半端な熱のまま、月日だけが、静かに、無機質に過ぎていった。

 その電話が鳴ったのは、街路樹の葉がわずかに色づき、秋が深まり始めた頃のことだった。冷ややかな着信音が、詩織の平穏な、しかし空虚な日常を唐突に突き破った。

    ◇◇◇

 病院の長い廊下は、消毒液の刺すような匂いに、深く、隅々まで浸されていた。吸い込むたびに肺の奥がひりつくような、清潔で残酷な無機質さ。

 白い壁、白い床、白いシーツ。色という色を、誰かが悪意を持って、あるいは慈悲を持って拭い去ったような場所で、詩織は母の、痩せ細った手をただ握っていた。かつてはもっと大きく、温かく、自分を守ってくれたはずの手は、記憶の中よりもずっと小さく、驚くほど軽くなっていた。

 母の手は、思いのほか、痩せていた。指の節が浮き出し、透き通るような皮膚の下に青い血管が力なく這っている。その脆さに触れるのが怖くて、けれど離してしまえば母がどこか遠くへ消えてしまいそうで、詩織は祈るように指を絡めた。

「……ですから、現状では切除よりも、最新の免疫療法を組み合わせた治療が最善かと思われます」

 検査結果。ステージ。治療方針。そして、余命を示唆する数字。

 医師の口から繰り出される淡々とした言葉の連なりを、詩織は身じろぎ一つせず、背筋を伸ばして聞いていた。まるで、そうしていなければ自分という形が崩れてしまいそうだったからだ。膝の上に組んだ自分の指先が、いつのまにか白くなるほど強く力を込めていたことに、彼女自身、気付いてさえいなかった。

 母も、同じように聞いていた。毛布の上に重ねられた母の両手が、ほんのわずかに、けれど絶え間なく震えているのを、詩織は、見ないふりをした。その震えを認めてしまえば、堰を切ったように涙が溢れてしまうことを知っていたから。あるいは、母の恐怖に寄り添うだけの強さが、今の自分にはないことを突きつけられるのが怖かったからだ。

 頷くこと。的確な質問をすること。医師に深々と礼を述べること。

 全部、別人がするように、心はどこか遠い、冷たい水底に取り残されたままで、口だけが精密な機械のように動いていた。

 診察室を出て病院の重い門をくぐると、秋の透明な、けれどどこか拒絶を感じさせるほど鋭い日差しが、視界に強く突き刺さった。眩しいはずなのに、瞳の奥は不思議と乾いたままだった。涙はもう、枯れてしまったのかもしれない。あるいは、流すことさえ贅沢なのだと本能が理解しているのか。

 二人だけで、生きてきた。血の繋がりのない世界で、たった二人きり。幼い頃から、母の背中と、母が用意してくれる質素な食卓だけが、詩織の世界のすべてだった。

(――どうにかしないと。私しか、お母さんを助けられない)

 詩織は立ち止まり、冷たくなった空気を肺いっぱいに吸い込んでから、深く、重く吐き出した。街路樹の銀杏が、足元に鮮やかな、けれど死を予感させる黄金色の葉を散らしている。それをぼんやりと目に映しながら――詩織の頭の中の、何かが、もう、すでに動き始めていた。

    ◇◇◇

 父から呼び出しの連絡が入ったのは、その三日後のことだった。

「愛人の子」として日陰を歩むように育てられた詩織が、父の壮麗な邸宅を訪ねるのは、これが初めてのことだった。

 案内された重厚な書斎。空気は沈殿し、使い込まれた革張りのソファが、座る者を拒むような威圧感を放っている。壁一面の書棚に並んだ革表紙の本の、古い紙と埃の混じった匂いが鼻をついた。

 父の前に座っても、お茶の一杯すら、形式的な挨拶すらすすめられることはなかった。目の前に座る、自分と半分だけ血の繋がった男は、詩織の顔を、ほとんど、見なかった。まるで見栄えの悪い備品を点検するかのような視線が、わずかに彼女をかすめるだけだ。

「お前の母の病気はこちらも把握している。結婚しろ。そうすれば、最新医療の治療費をすべて私が出そう」

 書類の束に目を落としたまま、父は告げた。

 商談を持ちかけるような、あるいは不用品を処分するかのような、起伏のない平坦な声だった。詩織の身体の奥の方で、何かが、ゆっくりと冷えていった。怒りでも、屈辱でもない。ああ、この人はやはり、こういう人なのだ――そういう、冷え切った、静かな、確認のような感覚だった。

 父は、続けて、相手の名を、告げた。

「羽島陵、彼と結婚しろ。話はもうついている」

 その名前が空気を震わせた瞬間――詩織の身体の奥で、止まっていたはずの心臓が、確かに、一度だけ、跳ねた。

 慣れない環境に萎縮していた自分の頭を、大きな掌で、ぽん、ぽん、と優しく叩いてくれた、その人だった。

『とんだ災難だったな』

 そう言って微笑んだ彼の瞳は、冬の星のように澄んでいて、けれど温かかった。

 もう何度、忘れようとしただろう。もう何度、分不相応な夢だと自分に言い聞かせて消そうとしただろう。灰の中で燻り続けていたあの小さな火が――父の言葉の裏側で、確かに、ちらりと、鮮やかに揺れた。

『もう話はついている』

 父の言葉に、胸の奥が痛みを発した。この結婚について、彼はもう承諾しているということだろう。

 でも彼は、モデルのアリスと交際をしているはず――。恋愛と結婚は違う、そういうことなのか。

 恋愛は好きな人として、結婚は会社のために致し方なくする。そう考えているのなら、結婚相手の女性を見ずに了承していてもおかしくはない。

(期待してはいけない)

 詩織は、声にならない悲鳴のような否定を、自分の胸の奥で、強く、繰り返した。

(この結婚を受け入れれば、お母さんは最新の治療を受けさせてあげられる)

 答えなんて簡単だ。

 母の命を繋ぎ止めるための代価として、自分の名前を一つ、無機質な書類に書き込むだけ。

 詩織は、震える膝を押さえつけ、顔を上げた。

「――わかりました」

 声は、思いのほか、凛として揺らがなかった。

 父は、そのとき初めて、ちらりと、詩織の顔を見た。けれどそれは、ほんの一瞬のことで、視線はすぐにまた、書類のほうへと、逃げるように戻っていった。

    ◇◇◇

 婚姻届に判を押した、その日の、夜。秋の夜風は、すでに冬の気配を孕んで冷たく、詩織の頬を撫でた。

 華やかな式もなければ、祝福の披露宴もなかった。役所の夜間窓口で、事務員に急かされるようにして、二人並び、紙を一枚、提出しただけ。あまりにもあっけなく、詩織の名字は変わり、人生の軌道は無理やり捻じ曲げられた。それだけの、簡素で無機質な手続きだった。

 その夜、二人で帰る「家」へ、初めて、足を踏み入れた。

 都心の一等地に建つ、邸宅というにふさわしい、大きな一軒家だった。詩織が昨日まで一人で住んでいた、西日の差し込む古いアパートとは、何もかもが違っていた。広いリビング。磨き上げられたフローリング。雑誌でしか見たことのないような、洗練された重厚な家具。それでも――家具の隙間から立ちのぼる、新しい木の匂いだけが、ここがまだ「誰の家でもない、空っぽな場所」であることを、かろうじて教えてくれていた。

 陵は、リビングのソファに深く腰を下ろし、慣れた手つきでネクタイを緩めながら、何かの書類に目を落としていた。彼は、自宅に戻っても仕事の続きをするのが当たり前のようだった。

 詩織は、廊下の暗がりに身を潜めるようにして。その、横顔を。

 ほんの一瞬だけ――呼吸を止めて、盗み見た。

 切れ長の、目。整った鼻梁。淡い照明に縁取られた、無表情の輪郭。

 あのスタジオで見た、あの人のままだった。あの日、絶望の中にいた自分の頭を、ぽんと叩いて救い上げてくれた、その手の主だった。

(――この人は、私のことを、一体どう見ているのだろう)

 会社の利益のため、書類のために結婚を引き受けた、女。

 父からの卑劣な取引を呑んだ、愛人の子。

 全部知っていて、それでも黙って隣に立つことを、この冷たい家を共有することを選んだのか。

 それとも――私のことなど石ころほどにも興味がなく、ただ書類上の妻として、その隣に置いているだけなのか。

 答えを知るのが、死ぬほど怖かった。もし彼から、軽蔑や憐憫の言葉が漏れれば、自分は今度こそ立ち上がれなくなるだろう。

「この結婚は、秘密にしてもらいたい」

 書類から視線をあげた陵が静かに口を開いた。

(恋人に結婚したと知られたくないんだ)

 心の奥底に冷たいものが流れ込んでいくのを感じた。

「承知いたしました」

「職場では旧姓のまま、仕事をしてくれ」

「――はい」

「この家は、君の自由にして構わない。俺は夫婦で使う寝室とクローゼットがあればいいから」

 それだけ告げると、彼はリビングを出て二階へとあがっていった。

    ◇◇◇

 筆先が、キャンバスに触れる。湿った音が、静かな部屋に微かに響いた。

 一掻き、また一掻きと色を重ねるたびに、胸を締め付けていた見えない鎖が、ほんの少しだけ緩むのを感じた。

 息が、ようやく、一つ吐けた気がした。

(――言えない言葉は、全部。絵の中に、閉じ込めた)

 誰にも触れられない、誰にも見せない。この暗い色の奥に、愛も、憎しみも、縋りたい気持ちも。全部。

 詩織は、憑かれたように筆を動かし続けた。背後で、扉の向こうから、彼が立ち上がる物音が聞こえたような気がしたが――彼女は二度と、振り返ることはなかった。いま描いているこの闇だけが、今の彼女に許された、唯一の自由だったから。

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  • 政略結婚の妻を捨てたら、世界で一番手に入らない女になっていた   第二十六話「双つの銀輪」

     彼が他の女性と、あの寝室で、私の描いた絵を見上げながら新しい夜を紡いでいる。その残酷な想像が、鋭い爪を立てて心臓の柔らかな部分をぐちゃぐちゃに掻き毟る。息をするたびに肺が軋み、目の前がチカチカと点滅し始めた。「本当に、社長ったら寝室の絵を――」「余計なことを言わなくていい」 背後から、不意に声が落ちた。 ピシャリと、冷や水を浴びせかけるような鋭い響き。 低く、ひどく静かな、けれど有無を言わさぬ絶対的な威圧感を孕んで、鼓膜の奥を直接震わせるような男の声。 聞き覚えのある、いや、細胞の隅々にまで染み込んで決して忘れることのできなかったその声に、詩織の肩がびくりと大きく跳ねた。 呼吸が、完全に止まる。 高いヒールを履いた靴の裏が、大理石の床にべったりと張り付いてしまったかのように、身体がぴくりとも動かない。指先から急速に温度が奪われ、代わりに全身の血液が心臓に向かってドクドクと逆流していくのがわかる。 気のせいではない。幻聴でもない。 恐る恐る、軋む首を動かし、スローモーションのようにゆっくりと振り返る。 そこに、彼が立っていた。 数年ぶりの彼が――。 仕立ての良い、深いネイビーのスリーピーススーツに身を包み、長身を静かにそびえ立たせている。かつての傲慢な若さは削ぎ落とされ、代わりに幾多の修羅場を潜り抜けてきた大人の男としての、研ぎ澄まされた凄みが漂っていた。 感情を一切読ませない、氷のように冷たく端正な無表情。 それは、記憶の中に刻み込まれた彼の姿そのものだった。 時が、完全に止まった。 エントランスの空調の音も、遠くから聞こえていたはずの都市の喧騒も、周囲の空気から一切の音が消え去る。ただ、早鐘のように激しく打つ自分の鼓動だけが、耳の奥でやけに大きく、暴力的に響いている。 彼の漆黒の瞳が、真っ直ぐに詩織を捉えていた。その奥で、何かが微かに揺らめいたように見えたが、由衣が目を丸くして慌てた声を上げたことで、その機微はかき消された。「お兄ちゃん? あれ、会議は?」「お前が気にすることじゃない」「いやいやいや、外せない重要な会議があるって言ってたじゃん!」「いいから。お前は席を外せ」「もうっ、なによそれ……」(……お兄ちゃん?) 張り詰めていた糸が、ぷつん、と音を立てて切れた。 陵の、妹。「羽島」という同じ苗字。少し

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