ホーム / 恋愛 / 捨てられ料理人は諦めない / チャプター 141 - チャプター 150

捨てられ料理人は諦めない のすべてのチャプター: チャプター 141 - チャプター 150

168 チャプター

140

「今から、ですか? できなくはありませんが、もう遅い時間ですよ」「構わない。私もちょうど、少し小腹が空いていたところだ。君の新作があるなら、ぜひ味見させてもらいたい」 礼司の言葉に、春菜は思わず笑みをこぼした。「ふふ、分かりました。では、少しお待ちください。すぐに作りますから」 春菜は席を立ち、厨房へと向かった。 厨房に入った春菜は、冷蔵庫から手早く食材を取り出した。 今日仕入れたばかりの新鮮な真鯛、よく熟した桃、そして彩りの良いハーブ類を調理台に並べる。 手際よく真鯛を薄切りにし、皿に並べる。オリーブオイルとレモン果汁、少量の塩とピンクペッパーでマリネ液を作り、真鯛に回しかけた。  仕上げにディルとセルフィーユを散らせば、彩り豊かなカルパッチョの完成だ。 続いてデザートの準備に取り掛かる。  桃の皮を丁寧に剥き、白ワインと砂糖、レモン汁で軽く煮てコンポートを作る。  冷水で粗熱を取り、ガラスの器に盛り付け、ミントの葉を添えた。 調理時間はわずか十数分。  春菜は2つの皿をトレイに乗せ、礼司の待つテーブルへと運んだ。「お待たせしました。真鯛のカルパッチョと、桃の白ワインコンポートです」 礼司の前に皿を置くと、ハーブの爽やかな香りと、桃の甘い匂いがふわりと漂った。「見た目も美しい」 礼司はフォークを手に取り、まずはカルパッチョを口に運んだ。  ゆっくりと咀嚼し、味を確かめる。「……真鯛の身が程よく締まっていて、オリーブオイルのコクとレモンの酸味が絶妙だ。ピンクペッパーのアクセントも効いている」「今の時期の真鯛はさっぱりしているので、酸味を少し立たせて食欲を刺激するように仕上げました」 次に礼司は、スプーンで桃のコンポートをすくい上げた。  口に入れた瞬間、彼の表情がふっと和らいだ。「甘さがくどくない。白ワインの風味が桃本来の甘みを引き立てている。食後のデザートとして完璧だ」 礼司はスプーンを置き、春菜を見た。
続きを読む

141

「……ありがとうございます。社長にそう言っていただけると、自信になります」 春菜は少し照れ隠しをするように、視線を下げた。 心臓がドクドクと鳴って、彼の顔をまともに見ていられない。 礼司はしばらく春菜を見つめた後、静かな声で口を開いた。「佐伯さん」「はい」「私はこれまで、事業を成功させるためにはデータとシステムがすべてだと考えていた。人間感情や属人的な技術は、いずれシステムに置き換えられるものだと」 礼司の言葉に、春菜は顔を上げた。「だが、君の料理を食べ、君の働きぶりを見て、その考えは変わった。AIは確かに効率化をもたらす。しかし最終的にお客を笑顔にし、店に血を通わせるのは、料理人の熱意と技術だ」 礼司は言葉を切り、さらに真剣なまなざしを春菜に向ける。「このシステムの成功は、君という存在があってこそだ。君がいなければ、このプロジェクトはただの無機質な実験で終わっていただろう」 彼の目は、春菜の心の奥底まで見透かそうとしているかのようだった。「だからこそ、私は君を失うわけにはいかない」 礼司の言葉は、ビジネスの枠を超えた熱を帯びたものだった。「今後、店が大きくなれば、それに伴って新たな障害やトラブルが起きるかもしれない。だが、何があろうと、この店と君自身を私が必ず守る。君は安心して、料理のことだけを考えていればいい」 その力強い宣言に、春菜は思わず言葉を失った。 以前、裏口でスカウトされた時にも「私が君の盾になる」と言われた。 あの時は、大企業の社長としての合理的な判断だと思っていた。一大プロジェクトを守るための、仕事上の言葉だと。 けれど今の彼の言葉には、明らかな感情がこもっていた。 春菜という個人を大切に守りたいという強い意思が。(御堂社長……) 春菜の心の中で、彼への信頼が、淡い恋心へと確かに変わっていくのを感じた。 この小さな恋が育っていくのかどうかは、まだ分からな
続きを読む

142

 深夜。 春菜を店に残し、礼司は迎えの社用車に乗り込んで帰路についていた。 後部座席に深く身を預けて、流れる夜景を窓越しに眺める。 舌の上には、まだ桃のコンポートの爽やかな甘さが残っているような気がした。(彼女の作る料理は、不思議な魅力がある。食べるたびに、もっと知りたいと思わせる) 春菜の笑顔を思い出し、礼司は自然と口元を緩めた。 彼女となら、飲食業界の常識を覆すという彼の野望を、必ず成し遂げられると確信している。 それ以上に彼女という存在そのものが、礼司にとってかけがえのないものになりつつあった。 と。 その時、ジャケットのポケットに入れていたスマートフォンが短く振動した。 着信画面には、御堂ホールディングス本社のシステム管理室の番号が表示されている。 礼司は顔から笑みを消し、通話ボタンを押した。「私だ」『夜分遅くに申し訳ありません、社長』 電話越しに聞こえるエンジニアの声は、ひどく緊張していた。『ハルナズ・キッチンに導入しているAIシステムにおいて、異常なアクセスを検知しました』「異常なアクセスだと。具体的に言え」 礼司の口調が、冷徹な経営者のものへと一変する。『外部から、システムに対して断続的なポートスキャンが行われています。不正アクセスの突破口を探るような、意図的な攻撃の兆候です。ファイアウォールでブロックしていますが、攻撃元のIPは頻繁に偽装されており、単なる素人のイタズラとは思えません』 エンジニアの報告に、礼司は眉根を険しく寄せた。 翔太や梨沙が行ったような、手作業の架空予約とはレベルが違う。 システムの脆弱性を突こうとする、組織的で専門的なサイバー攻撃だ。(このタイミングで……。我が社のAIシステムの情報を嗅ぎつけ、妨害しようとする勢力か) 思い当たる企業はいくつかある。 飲食業界のITインフラを巡って、御堂ホールディングスと激しいシェア争いをしているライバル企業だ
続きを読む

143:次世代システムへの攻撃

 ネクサス本社の最上階に位置するCEOオフィスは、広大な面積を誇りながらも、生活感や人の温もりを一切排除した無機質な空間だった。 ネクサスCEOである灰谷圭(はいたに・けい)は、装飾を省いた黒いデスクの前に座り、壁面に整然と並べられた複数台のモニターを見上げている。 30代半ばの彼は、機能性のみを追求した仕立ての良いスーツを身にまとい、感情の起伏をまったく感じさせない冷たい顔立ちをしていた。 室内の照明は落とされており、モニターから放たれる青白い光だけが、瞬きすら少ない彼の横顔を照らしている。「CEO。御堂ホールディングスのサーバー群へ向けたサイバー攻撃ですが、現在ダミーサーバーを経由して初期段階の負荷テストを完了しました」 背後に控えていたシステム担当社員が、手元の端末を操作しながら淡々と報告した。「御堂側の初動対応はどうだね?」 灰谷は視線をモニターに向けたまま、抑揚のない声で尋ねる。「想定通り、不正トラフィックの検知と同時にアクセス分散のプロトコルが自動で起動しています。しかし、こちらの用意したリソースの総量にはまだ気づいていないようです」「よろしい。御堂礼司が社運を賭けて開発している次世代AIシステム、あのプロトタイプ店舗のインフラを完全に破壊しようじゃないか。システムに致命的な脆弱性があるという事実を市場に提示すれば、株価と信用はたちまち底を打つ。そこを御堂ホールディングスごと吸収合併するのさ」 灰谷はデスクの上のグラスを手に取り、無色透明なサプリメント飲料を喉へ流し込んだ。 味を楽しむためではない。ただ肉体を維持するための最も効率的な栄養摂取行動に過ぎない。 御堂礼司には、過去のビジネスで何度も先を越されてきた。 御堂はデータ解析とインフラ構築において、常に灰谷を上回る最適解を叩き出していたのだ。(忌々しい。たかが御堂ごときに私が遅れを取るなど) その事実を、灰谷は消去すべきエラーデータとして記憶に刻み込んでいる。(だが、最終的な勝者はこの私だ) 灰谷は数日前、御堂がテスト店舗として選んだ『ハ
続きを読む

144

「肉の表面のメイラード反応、ソースの粘度、温度管理。確かに技術的な数値は高い水準にあった。だが、ただそれだけのことだ。あんなものは、いずれ機械で完全に再現できる。レシピを読み込み、調理マシンを使えばよほど効率的に実行できるだろうさ」 灰谷は無表情のまま呟いた。「御堂礼司ともあろう男が、たかが人間の料理人などにシステムの根幹を依存させているとは理解に苦しむね。人間などという不確定要素を挟むから、システムに隙ができるというのに」 灰谷は他者を見下すことしかしない。 料理による感動や空間の温かみなど、彼にとってはシステムに不要なノイズでしかなかった。 料理や店そのものには興味はない。 灰谷の関心はあくまで、レストランポータルサイトを介したネットワーク事業だ。 ライバルである礼司を叩き潰すため、また、成熟した事業をより少ない資本で手に入れるため、ハッキングに踏み込んだ。 証拠を残さない自信がある。 サイバー攻撃とは、防衛側よりも攻撃側が圧倒的に有利なのだ。「あの料理には何の価値もない。非効率なものは、市場から排除するだけさ。午後からの本命の攻撃で、あの店を停止させるんだ」「はい」 指示を出す灰谷の目には、勝利の歓喜はない。あえて言うなら相手を貶める愉悦だけがある。 それ以外はただ、計算式が正しく実行されることを確認する機械のような冷たさが存在していた。◇◇ 御堂ホールディングス本社、システム管理室にて。 フロアには、巨大なサーバーラックの冷却ファンが発する低い駆動音と、数十人のエンジニアたちがキーボードを叩く乾いた音が絶え間なく響いている。 御堂礼司は、昨夜から一睡もせずにメインモニターの前に立ち続けていた。「社長。不審なアクセスのトラフィックパターンを解析しました。多数のダミーサーバーを経由していますが、この執拗さと手口の痕跡は、ネクサスのもので間違いありません」 エンジニアの一人が、画面に表示された侵入経路のグラフを指し示す。 礼司は鋭い視線
続きを読む

145

 システムの完全ダウン。 そうでなければ、違法ハッキングをしてまで攻撃してくる理由がない。 灰谷は春菜ごと礼司を潰すつもりだ。「灰谷め、私のシステムだけでなく、彼女の城を壊そうというのか。このタイミングで……!」 礼司は誰にも聞こえない低い声で呟いた。 佐伯春菜は、今もあの厨房で料理と向き合っているはずだ。 昨夜、料理を振る舞ってくれた時の、彼女の柔らかい笑顔が脳裏をよぎる。 彼女が心を注いで作り上げた料理と、客を迎え入れるあの温かい店は、決して灰谷のような人間に踏みにじられていいものではない。 礼司自身も、少し前まで料理の力を信じていなかった。 レシピで再現可能な技術の1つだとしか思っていなかった。 でも今は違う。 春菜のような才能ある料理人が、情熱を傾けて作る料理のなんと美味なことだろう。 レシピを得ていたはずのレストラン『一ノ瀬』の落ちぶれ方を見ても、人間の力と熱こそが心を動かすのだと思い知った。「店舗のネットワークは通常通り稼働させろ。現場の佐伯さんたちには、この攻撃の事実を伏せておく。彼女には料理だけに集中させるように」 礼司はエンジニアたちに向けて、強い口調で指示を飛ばす。「我々が盾となる。本社側のファイアウォールで、すべての攻撃を完全に遮断しろ。一滴の悪意も、あの店には届かせるな」「承知いたしました」 エンジニアたちが一斉に作業のピッチを上げる。 礼司も自らの端末を開き、防衛システムの再構築に取り掛かった。 彼は今では社長の地位にいるが、学生時代にこの会社を立ち上げた時は、一介のエンジニアだった。 今、御堂ホールディングスが展開する多彩な事業は、彼自身の経験と閃きを基盤にしている。(佐伯さん。君の城は必ず守り抜く) 灰谷の手口は良く知っている。 画面に映し出される膨大なコードの羅列を追いながら、礼司は春菜が安心して厨房に立てる環境を死守することだけを考えていた。◇
続きを読む

146

(私も頑張らないと。私にできることを、精一杯)「木崎くん、夏野菜の仕込みはどこまで進んだかしら?」「トマトとズッキーニのダイスカットは終わりました。今は週替わりの限定メニュー用の、冷製パスタのソースを氷水で冷やしているところです。バジルの香りもしっかり出ていますよ」 木崎が手際よくボウルをかき混ぜながら答えた。「田中くんは、白身魚のカルパッチョの準備をお願い。ドレッシングの酸味は、少しだけ立たせてね。暑い日だから、さっぱりと食べられるようにしたいの」「了解です。魚の温度管理もバッチリです」 田中が冷蔵庫から真鯛の柵を取り出す。 今日は近隣の広場で大規模なイベントが開催されている。 AIの需要予測システムによれば、オープン以来最高の客数が予測されていた。 昨夜、礼司に試食してもらった限定メニューも、今日から本格的に提供を開始する。 仕込みの量は普段の倍近いが、熟練のスタッフたちの連携により、作業は極めて順調に進んでいた。「今日はとにかく忙しくなるわよ。どんなに注文が入っても、絶対にお客様を待たせないようにね」「はい!」 春菜が声をかけると、スタッフたちが力強く返事をした。 ――その時だった。 厨房の壁に設置されたタブレット端末の画面が、一瞬だけ不自然にフリーズしたのだ。『食材の、ざ、在庫……かく、確認を……』 AIの合成音声に、わずかなノイズが混じる。 佐藤がフロアから顔を覗かせた。「あれ? 今、画面の動きが少し変でしたね。音声もブレていたし?」「そうね。でも、もう直ったみたい」 春菜がタブレットをタップすると、画面は再び正常に動き始めた。「システムの軽いアップデートか何かでしょう。気にしないで、フロアの準備を進めてちょうだい」「はい、分かりました」 佐藤がフロアに戻る。 春菜も再び包丁を握り、仕込みの最終確認に取り掛かった。
続きを読む

147

 メインモニターに表示されたハルナズ・キッチンの管理サーバーの負荷グラフが、限界値を示す赤色に染まっている。「持ちこたえろ……」 礼司は額に汗をにじませながら、バックアップサーバーへの切り替えとトラフィックの分散を試みる。(今日は近くの広場でイベントが入っている。客足は大幅に増える見込みだ。そんな時にシステムに障害が出れば、彼女がどれほど困ることか) しかし灰谷の用意周到な物量攻撃の前に、強固に構築したはずの防衛ラインが次々と突破されていく。 ハルナズ・キッチンを支えるシステムのメイン機能に、深刻なダメージが入り始めていた。 礼司の指先がキーボードの上で一瞬止まる。 彼自身と御堂ホールディングスほどの技術と経験を持っても、この波状攻撃を無傷で凌ぐことは不可能に近い状況に陥っていた。◇◇ 午前11時30分。 ハルナズ・キッチンのエントランスドアが開かれて、ランチ営業がスタートした。「やった、一番乗り!」「ここのお店、人気だから。開店前から並んだ甲斐があったね」 イベントの行き帰りだろう家族連れやカップル、近隣の会社員たちが、次々と店内になだれ込んでくる。 あっという間に客席は満席になり、店の外には長い行列ができ上がった。「うわあ、すごい人だね」「このお店、最近すごく評判がいいから楽しみだよ。限定メニューもあるみたいだし」「私はやっぱり定番のオムライスかな。早く注文しよう」「期間限定、夏野菜のパスタだって。美味しそう!」 客たちの楽しげな声が、フロアを満たす。 空調の効いた店内には、厨房から漂うデミグラスソースやガーリックの良い香りが広がっていた。「いらっしゃいませ。ご注文はテーブルの端末からお願いいたします」 佐藤が笑顔で案内し、客たちがタブレットに手を伸ばした。 その瞬間だった。 ――プツン。 店内の全卓に設置されたタブレッ
続きを読む

148

「春菜さん。全システムがダウンしました。テーブルの端末も、レジも全く動きません。再起動を試しましたが、サーバーに接続できないというエラーが出ます」「なんですって……!?」 木崎と田中が動きを止める。 厨房の空気は一瞬にして凍りついた。「これじゃあ注文が取れないし、厨房への指示も来ない」「外にはあんなにお客様が並んでいるのに、どうすればいいんですか。システムがなければ、在庫の引き落としも決済もできませんよ」「そんな馬鹿な!」 スタッフたちはパニックの一歩手前に陥った。 春菜は、沈黙したままのモニターと、フロアにあふれる空腹の客たちを交互に見つめた。 オープン以来最大の客数が、店内を満たしている。 そして、完全に機能を停止したシステムの姿。 通常であれば、営業を停止して客に謝罪するしかない状況だ。(AIが止まった。システムは動かない。でも……) 春菜はコンロの火を見た。 青い炎は、鍋の底を舐めるように力強く燃え上がっている。 換気扇は回り続けて、食材は完璧な状態で準備されている。(私の手と、厨房の火はまだ生きている) 春菜はエプロンのポケットに手を入れた。 取り出したのは、アナログのメモ帳とボールペンだ。 彼女はそれを佐藤の前に突き出した。「システムが復旧するまで、手書きの伝票で回すわよ」 春菜の声は、厨房の空気を切り裂くように力強く、それでいて落ち着いていた。「佐藤くんは各テーブルを回って、口頭で直接オーダーを取ってきて。木崎くんと田中くんは、佐藤くんが持ってきた伝票を見ながら私が口頭で指示を出すから、それに合わせて動いてちょうだい」「で、でも、会計はどうするんですか。レジも開かないんですよ」 佐藤が不安げに尋ねる。「そうね……。AI頼りのやり方は、今はできない。でも今はとにかく、お客様をお待たせしないことが最優先
続きを読む

149:起死回生のアイディア

「システムが復旧するまで、手書きの伝票で回しましょう」 春菜の宣言に、ホール担当の佐藤は手渡されたアナログのメモ帳とボールペンを戸惑い気味に見つめた。 厨房の入り口から見えるフロアでは、すでに多くの客が不満の声を上げ始めている。「春菜さん。手書きでオーダーを取るのはいいですが、メニューは20種類以上あります。それを全部手書きで受けて、後から電卓で計算していたら、今のピークタイムの回転スピードには絶対に追いつきません。それにレジの引き出しが開かないので、お釣り銭の準備もできませんよ」 佐藤の指摘は完全に正しい。 超満員のランチ営業だ。メニューが多岐にわたれば、厨房の作業も混乱する。 何より会計で長蛇の列ができてしまえば、外で待っている客を案内できなくなる。(佐藤くんの言う通りだわ。ただ手書きにすればいいというものじゃない。であれば……) 春菜は数秒だけ思考を巡らせた。そして、エプロンの紐を強く結び直した。「それなら、メニューを絞ります。佐藤くん、メモして」 春菜は厨房を出て、フロアの中央へと歩み出た。 客たちの視線が一斉に春菜に向けられる。不満と焦りを含んだ視線だ。 窓際の席では、スーツ姿の会社員が苛立たしげに腕時計を見ている。 中央のテーブルでは、小さな子供を連れた母親が困惑した顔で周囲を見回していた。 春菜は深く一礼し、よく通る声でアナウンスした。「皆様、本日はご来店ありがとうございます。ただいま店舗のシステムに予期せぬ障害が発生しており、タブレットでのご注文とお会計ができない状態となっております。多大なるご迷惑をおかけし、誠に申し訳ありません」 フロアに「やっぱりか」「どうするんだ」「昼休みが終わっちゃうよ」というため息や文句が漏れる。 春菜は顔を上げ、客たちの顔を1人ひとり見渡した。「そこでお詫びといたしまして、本日のランチは特別メニューに切り替えさせていただきます。メニューは『和牛ハンバーグ』『特製オムライス』『夏野菜のパスタ』の3種類のみとさせていただきます」
続きを読む
前へ
1
...
121314151617
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status