LOGIN「システムが復旧するまで、手書きの伝票で回しましょう」
春菜の宣言に、ホール担当の佐藤は手渡されたアナログのメモ帳とボールペンを戸惑い気味に見つめた。
厨房の入り口から見えるフロアでは、すでに多くの客が不満の声を上げ始めている。「春菜さん。手書きでオーダーを取るのはいいですが、メニューは20種類以上あります。それを全部手書きで受けて、後から電卓で計算していたら、今のピークタイムの回転スピードには絶対に追いつきません。それにレジの引き出しが開かないので、お釣り銭の準備もできませんよ」
佐藤の指摘は完全に正しい。
超満員のランチ営業だ。メニューが多岐にわたれば、厨房の作業も混乱する。
何より会計で長蛇の列ができてしまえば、外で待っている客を案内できなくなる。(佐藤くんの言う通りだわ。ただ手書きにすればいいというものじゃない。であれば……)
春菜は数秒だけ思考を巡らせた。そして、エプロンの紐を強く結び直した。
「それなら、メニ
礼司の早口はまだ止まらない。「今後の物流ネットワーク構築のためにも、社長である私が直接生産の現場を視察するのは、当然の業務の一環だろう」 専門用語を並べ立てて論理武装する礼司の姿に、春菜は思わず吹き出しそうになった。 どう聞いても、後付けの苦しい言い訳にしか聞こえない。 けれど彼が真剣な顔で自分を見つめているのを見て、春菜は口元を緩めた。(きっと社長は息抜きがしたいのね。いつもタブレットやパソコンの画面とにらめっこでは、肩が凝ってしまうもの。たまには郊外に出かけてリフレッシュするのも悪くない。私がお供すればいいわ)「……分かりました。そういうことであれば、ぜひご一緒にお願いします。車で移動することになるので、運転を交代していただけると助かりますし」「ああ、任せておけ。スケジュールは調整しておく」 礼司は満足げに頷くと、タブレット端末を取り出してスケジュールの確認を始めた。 厨房の奥で、木崎と田中、佐藤が顔を見合わせてニヤニヤと笑っているのが春菜の視界の端に入った。「もうアレはデートだろ」「間違いない。デートだ」「御堂社長、頑張れ」 幸か不幸か、彼らの囁きは春菜の耳には届かなかった。◇◇ 翌週のこと。 澄み渡る秋晴れの空の下、春菜と礼司は長野県にいた。 新幹線で長野駅まで行った後、そこからは手配しておいたレンタカーでの移動だ。 礼司はサングラスをかけて、慣れた手つきでハンドルを握っている。 彼の端正な面立ちは、サングラスがよく似合う。 いつものスーツではなく、カジュアルなシャツとジャケット姿だ。サングラスで目元が隠されているおかげで、かえって美貌が際立っていた。 車窓の外には赤や黄色に色づき始めた山々と、たわわに実ったリンゴ畑の風景が広がっていた。「社長、運転お上手ですね。普段からよく運転されるんですか?」 助手席の春菜が外の景色を眺めながら尋ねると、礼司
「長野ですか。確かに、信州のリンゴや豚肉なら期待できそうですね」 木崎が頷く。 あそこはそれらの食材の名産地だ。春菜が自分の目で確かめれば、新しい発見があるだろう。「私がこの目でぜひ、確かめたくて」「春菜さん。お店の仕込みは僕たちでしっかりやっておきますから、安心して行ってきてください」「ありがとう。頼りにしていますね」 春菜が笑顔で答えた時、エントランスのドアベルがカランと鳴った。 ランチ営業を終えた店内に姿を現したのは、御堂礼司だった。 今日の彼はネクタイを外し、少しばかりカジュアルなジャケット姿である。「お疲れ様です、御堂社長。今日は早いですね」 春菜が厨房から声をかけると、礼司は客席フロアのテーブル席に歩み寄りながら答えた。「ああ。近くの支社で会議があってな。少し時間が空いたので、システムの稼働状況を確認しに来た。……いい匂いがするな」 礼司は春菜の手元の皿に視線を向けた。「秋の新作メニューの試作をしていました。信州ポークのローストに、リンゴとバルサミコのソースを合わせようと思っているんですが、食材の選定で少し悩んでいまして。……こちらです」 春菜は礼司にも試食用の皿を差し出した。 礼司はフォークを受け取り、豚肉を一切れ口に入れる。彼の表情がわずかに動いた。「十分に美味いと思うが」「ありがとうございます。でも、もっと美味しくできるはずなんです。だから来週、数日お休みをもらって長野県へ食材探しに行ってこようと思います」 春菜が今後の予定を報告すると、礼司の手がピタリと止まった。 彼はフォークを皿に置き、春菜の顔をじっと見つめた。「長野へ行くのか」「はい。農家さんを直接訪ねて、食材探しと仕入れの交渉をしてきます」 礼司は腕を組み、しばらく沈黙した。 そして急に居住まいを正すと、低い声で言った。「ならば、私も行こう」「&helli
厳しい夏の暑さもそろそろ和らいで、朝夕の風に心地よい涼しさを感じる季節になった。 ハルナズ・キッチンの厨房には、いつものデミグラスソースの香りに混じって、少し酸味のあるフルーティーな匂いが漂っている。 春菜はフライパンの中で、厚切りの豚ロース肉にじっくりと火を通していた。 真剣な眼差しで肉の焼き加減を見ている。 表面に香ばしい焼き色がつき、脂が溶け出してチリチリと音を立てている。それをバットに移して余熱で火を通す間に、同じフライパンにバルサミコ酢とすりおろしたリンゴ、少量の赤ワインと醤油を投入した。 ソースが沸き立ち、フライパンの縁でふつふつと泡が弾ける。リンゴの甘酸っぱい香りが一気に広がった。「木崎くん、田中くん、佐藤くん。新作の試作よ。味見をしてもらえるかしら」 春菜は白い皿に豚肉を切り分けて並べると、その上から艶やかなソースをたっぷりとかけた。付け合わせには、バターでソテーした数種類のキノコを添えている。 木崎と田中、佐藤がフォークを手に取り、一口分を切り分けて口に運んだ。 3人はゆっくりと味わって咀嚼して、それぞれ顔を見合わせる。「美味しいです。豚肉の脂の甘みと、バルサミコの酸味がよく合っていますね」 田中が感心したように言って、佐藤も笑顔で頷いた。けれど木崎は少しだけ首をひねった。「味はまとまっていますが、春菜さんが狙っている『極上』には、あと一歩届いていない気がします。ソースのリンゴの主張が、豚肉のパンチに負けているというか……」「やっぱりそうよね」 春菜は自分の分を口に運び、小さく息を吐いた。 美味しいのは間違いない。だが、秋の看板メニューとしてお客様に出すには、まだ何かが足りない。 その『何か』を言語化するため、春菜は考えを巡らせた。 足りないのは木崎の言う通り、ソースのリンゴにありそうだ。「今の仕入れルートで手に入るリンゴは、生食用の甘い品種がメインなのよ。ソースに使うには、もっと酸味と香りが強いクッキングアップルが必要になる。豚肉も、もう少し脂にサ
木崎と田中が厨房の奥から「そうですね!」と同意の声を上げる。 礼司の口元が、自然と緩んだ。「君たちには敵わないな。料理の腕だけでなく、心の強さにも」「私たちはチームですから。社長がITの力でお店を支えてくれるなら、私は料理の力でお客様を笑顔にします。お互いに背中を預けられる、最高のパートナーだと思っています」 春菜がそう言うと、礼司は少し驚いたような顔をした後、深く頷いた。「チーム、パートナー……。ああ。その通りだな」 特にパートナーという言葉は、礼司の胸に深く根付くように落ちた。 単なる出資者と雇われシェフという関係を超えて、2人の間には強い絆が芽生えていた。 互いの専門分野を尊重し、足りない部分を補い合う。 礼司がただ出資し、技術を提供するだけではない。ビジネスの枠組みを超えた、確かな信頼関係だった。「さて、今日もたくさんのお客様が来ますよ。仕込みを始めないと」 春菜は厨房に戻り、フライパンを手に取った。「社長も、朝ご飯にオムレツでもいかがですか? 徹夜明けの体には、温かいものが一番です。とびきり美味しく作りますから」 春菜の提案に、礼司は迷うことなくカウンター席に腰を下ろした。「……そうだな。ありがたくいただこう」 春菜は冷蔵庫から新鮮な卵を取り出し、ボウルに割り入れた。 シャカシャカと卵を溶く軽やかな音と、フライパンの上でバターが熱される甘い匂いが店内に漂い始める。 春菜の手首の返しで、卵は美しい黄色いオムレツへと姿を変えていく。 見えない敵の脅威は、完全に去ったわけではないかもしれない。けれど春菜の心に不安はなかった。 春菜には強力なシステムと、頼もしい仲間たち。それに誰よりも信頼できるパートナーがいるのだから。(きっと大丈夫。御堂社長がいれば、私たちの力を合わせれば、どんなピンチが来ても乗り越えられる) 春菜は自然に思った。「できました。さあ、どうぞ」
やがてモニターの電源が次々と落ちて、オフィスは静寂と暗闇に包まれた。「御堂礼司……」 灰谷は暗い画面を見つめながら、低い声で唸る。「そして、あの目障りな料理人……」 ハルナズ・キッチンのシステムをダウンさせたはずなのに、店はアナログな手法で営業を継続し、かえって客の支持を集めたという報告を受けている。 システムを過信した灰谷の敗北と、人間の力を信じた御堂と春菜の勝利。 目の前にその事実を突きつけられた。「この屈辱は、必ず晴らす。徹底的に叩き潰してやる」 灰谷の胸の奥で、決して消えることのない激しい憎悪が燃え上がっていた。◇◇ 翌朝のハルナズ・キッチン。 春菜が厨房に入ると、壁に設置された大型モニターには見慣れたAIシステムのインターフェースが表示されていた。「あ、システムが直ってる」 春菜が安堵の声を漏らすと、出勤してきた木崎や田中もモニターを見上げた。「本当ですね。テーブルの端末も全部正常に起動しています」「御堂社長が頑張ってくれたんだ」 ホールを担当する佐藤が、タブレットを操作しながら報告する。 厨房には換気扇の低い音が響き、いつもの平穏な日常が戻ってきていた。「おはようございます。みんな、今日も一日頑張りましょう」 春菜がエプロンをつけようとした時、エントランスのドアベルがカランと鳴った。 入ってきたのは、御堂礼司だった。 いつものダークスーツ姿だが、少しだけ疲労の色が見える。しかし、その顔つきはとても晴れやかだった。「御堂社長。おはようございます」 春菜は笑顔で礼司を出迎えた。「システムは完全に復旧した。セキュリティは以前の数倍に強化してある。もう二度と、昨日みたいな真似はさせない」 礼司の言葉に、春菜は深く頭を下げる。「ありがとうございます、御堂社長。徹夜で作業して
「全ポートを開放。ペタバイト級のジャンクデータを、相手のサーバーへ向けて一斉送信しろ」 礼司の最終コマンドが実行された。 御堂ホールディングスのシステムから、膨大な量の無意味なデータがネクサスの裏サーバーへと雪崩れ込んでいく。 これは、灰谷の傲慢さに対する礼司からの明確な回答だった。◇◇ ネクサスのCEOオフィスに、けたたましいエラー音が鳴り響いた。 壁面のモニターが次々と真っ赤な警告画面に切り替わる。「な、なんだこれは!」 灰谷が声を荒げた瞬間、オフィスにシステム責任者が血相を変えて飛び込んできた。「CEO! 大変です! 逆に侵入されています!」「逆に侵入されているだと? どういうことだ!」「我々の攻撃用サーバーの場所が完全に特定されました。現在、外部から天文学的な量のデータが送り込まれており、サーバーの処理能力を超えてシステムがクラッシュし始めています!」「馬鹿な……」 灰谷は信じられないという顔でモニターを睨みつけた。 彼の指示を待つことなく、メインモニターの画面が切り替わり、ポップアップウィンドウが表示された。 そこには、御堂礼司からの短いテキストメッセージが記されている。『他人の城に土足で踏み入るなら、自らの足元には気をつけることだ。これ以上の干渉は、関係当局への全データ提出をもって報いる』「御堂め……最初から罠を張っていたというのか!」 灰谷はギリッと奥歯を噛み締めた。 御堂は意図的に防壁に穴を開け、ネクサスの攻撃プログラムを誘い込んだ。接続を維持したまま逆探知を行い、拠点を特定した上でカウンター攻撃を仕掛けてきたのだ。 すべては御堂の手のひらの上だった。「CEO、どうしますか!? このまま接続を繋いでおけば、ネクサス本社のメインネットワークにまで被害が及びます!」 部下の悲鳴に近い声が響く。 もし裏で行って
彼らが奪えたのは、レシピと店と資金だけだ。 春菜は自分の手のひらを見つめた。 長年の調理を続けた手は、荒れてしまっている。 これこそが春菜の勲章だ。食材の最適な火入れを見極める感覚や、味を構築する舌の記憶は、誰にも奪えない。 たとえレシピが翔太の手に渡っても、料理とは繊細なもの。 その日の食材の鮮度や天候、気温にも影響を受ける。 春菜だからこそあの味が出せた。 部下のスタッフや翔太では、レシピを使いこなせるかどうか。 技術は絶対の財産だ。それさえあれば、どこでだってやり直せる。
レストラン『一ノ瀬』の裏口から放り出されて、春菜は冷たい雨の中を歩いていた。 薄手の上着は雨水を吸って重くなり、肌に張り付いて体温を奪っていく。 濡れた前髪から滴る水滴を拭いもせず、翔太と同居していたタワーマンションのエントランスに辿り着いた。(もう翔太とは暮らせない。荷物を引き上げないと) 電子キーを持って、自動ドアを通り抜けようとする。 ――ビーッ。 すると、愛想のないエラー音が鳴った。何度か試すが、赤いランプが点滅するだけだ。 ふと視線を横にやると、ガラス張りの掲示板に見慣
翔太が一歩前に出る。「君はもう十分に働いた。これ以上は役立たずなんだよ。俺は梨沙さんと結婚して、九条不動産の資本でこの店をもっと大きくする。ほら、君だってこのレストランが大きくなれば嬉しいだろう?」 悪びれる様子もなく告げる翔太に、春菜は言葉を失った。 必死で厨房を回してきた。新しいメニューの開発も、休んだことはなかった。 文字通り寝る間も惜しんで働いてきた日々が、「役立たず」という言葉に塗りつぶされていく。「ちょっと待って、この店は……私が実家を担保にしたお金で、建てたものでしょう」 ようやく絞り出した春菜の言葉を無視して、翔太はデスクの上にあったノートに手を伸ばした。「待
レストラン『一ノ瀬』の定休日の朝。 客席から離れた厨房は、稼働中の騒がしさが嘘のように音がない空間となっていた。 換気扇も火口も眠っている中、春菜はスペースの隅にある小さな事務デスクで大きく伸びをした。 手元のノートには、新しいコースのスペシャリテに関するレシピがびっしりと書き込まれている。 旬の食材をどう組み合わせるか、火入れの温度は何度が最適か。 頭の中で何度も試作と修正を繰り返し、徹夜での作業がようやく完成したのだ。 紙コップのコーヒーは冷めきってしまっていたが、春菜はそれを飲み干した。 徹夜の集中作業で凝り固まった首と肩を、ゆっくりと回す。「ん、右手が痛いなあ」







