LOGIN今日はいよいよ、ビストロレストラン『シエル』でデリ(お惣菜)販売が開始される日だ。
春菜は手書きのポップを丁寧に書き上げ、冷蔵ショーケースのガラスに貼り付けた。
ケースに並ぶ料理は3種類。
どれも『シエル』の定番メニューで、オーナーシェフの真壁が毎日仕込んでいるものである。「これでよし、と」
春菜は確認のため、手書きのポップを小さな声で読み上げた。
『パテ・ド・カンパーニュ』
「豚の粗挽き肉やレバーに数種類の香辛料を練り込み、型に詰めてじっくりと焼き上げた田舎風パテ。
肉の濃厚な旨味が詰まっており、赤ワインのお供やバゲットに最適です」『鴨のコンフィ』
「骨付きの鴨肉を、鴨の脂を使って低温のオーブンで長時間煮込んだ伝統料理。
フライパンで表面を軽く焼くだけで、外はカリッと香ばしく、中はホロホロに崩れる柔らかさに仕上がります」『鶏白レバーのムース』
「新鮮な白レバーを丁寧に裏ごしし、バターと生クリ
佐伯春菜。その名前にギクリとしながら、梨沙は拾い上げた書類に目を落とした。 見覚えのある書類の債務者は、確かに『佐伯春菜』になっている。 間違いない。翔太と組んで春菜に借金を押し付けた時の書類だ。 それがどうして、御堂ホールディングスの名前で送られてきたのか。(春菜は御堂ホールディングスをスポンサーにつけたの? 確かにあの会社は、レストランポータルサイトを運営している……!) 梨沙の頭の中で最悪の予想が組み上がった。(そんな馬鹿な。春菜の悪評を流して業界から追い出してやったのに、一体どうやって?) 冷や汗が流れる中、彼女は父親に向かって必死に言い訳を始めた。「誤解です。私はただ、あの女に少し痛い目を見せようと……」「言い訳は聞かん。御堂のトップ弁護士チームが動いているんだ。お前が個人的な感情でグレーな契約を主導した証拠も完全に揃っている。会社にどれほどの損害と信用の失墜をもたらすか、分かっているのか」 父親の目は完全に冷え切っていた。「お前は関連プロジェクトの責任者から即刻外す。あのレストランへの資金援助も今日限りで凍結だ。自宅で頭を冷やせ」「お父様、お待ちください! 資金援助を止めたら、あのお店は……」 インフルエンサーを使った強引なテコ入れで客足を戻したが、その効果も切れつつある。 放置すれば最悪、倒産まで転がり落ちるかもしれなかった。 しかし九条社長は怒りの表情のまま続けた。「下がれ」 もはや取り付く島もない。 梨沙は唇を噛み、社長室を退出した。 廊下に出た途端、手元のスマートフォンが振動する。翔太からだ。 梨沙は苛立ちに任せて応答ボタンを押した。『梨沙! 大変だ、業者が俺のところに1千万払えって言ってきた!』「うるさいわね。あなたのせいで私はお父様に叱られたのよ。資金援助もストップよ。もう私に連絡してこないで」 梨沙は一方的に通話を切り、スマートフォンの電源を落とした。 保身で手一
翔太は舌をもつれさせそうになりながら、言い返した。「えっ、ちょっと待ってください。あれは佐伯春菜が払う約束で、契約書でもそうなってるはず……」「そんなもん通用しねえんだよ。御堂ホールディングスの法務部から直接連絡が来てんだ。こっちもあんなバカでかい企業相手に揉め事はごめんだよ。あんたが借りた金だ、あんたが払え。明日までに1千万、まずは指定の口座に振り込むんだ」 一方的に通話が切れる。ツー、ツーという電子音が、無慈悲に響いた。(ど、どういうことだよ! あの借金は春菜名義で間違いないだろうが。梨沙がそういう書類を作ったのに! 1千万なんて大金、あるわけない!) 翔太はパニックに陥って、慌ててスマホの連絡先を開く。 何度も間違えながら、ようやく梨沙の番号をタップした。 コール音が長く続いた後に、ようやく繋がる。「梨沙! 大変だ、業者が明日までに1千万払えって……」「うるさいわね。今、それどころじゃないのよ」 電話の向こうの梨沙の声は、かつてないほど冷え切っていた。 翔太の言葉を聞かず、電話はすぐに切れた。 後には呆然とした翔太だけが残された。◇ 同じ頃、九条不動産本社ビルで。 最上階にある社長室の重たげな扉の前で、梨沙は息を整えていた。 今日は父親である九条社長に呼び出された。 父はプライベートでは娘に甘いが、仕事上の線引きははっきりとしている。 その父が社長として梨沙を呼び出した。(何事かしら) 梨沙は少々の緊張とともに、ドアを開けた。 中に入ると、広大なデスクの奥で九条社長が鋭い視線を投げかけてくる。「お父様、お呼びでしょうか」 社長は無言のまま、デスクの上にあった数枚の書類を荒々しく放り投げた。 バサッと音を立てて紙が散らばる。「梨沙、これを見ろ。御堂ホールディングスの法
レストラン『一ノ瀬』のバックヤード、スタッフルームにて。 ディナータイム前の休憩中、一ノ瀬翔太はパイプ椅子に腰掛けて缶コーヒーを飲んでいた。(最近、どうも客足が鈍いな。インフルエンサーの宣伝効果が落ちたか) 彼は活気を失った厨房を眺めた。 多くのスタッフが辞めていった後、穴埋めでアルバイトを雇ったが、やはり経験が浅い者たちの動きは悪い。 何度もクレームになって、翔太はその度にスタッフへ怒鳴り散らしていた。 おかげでスタッフたちは萎縮してしまい、さらに動きが悪くなる。 怒鳴られるのが怖くて、ちょっとしたことも自分たちで判断できない。 いちいち翔太にお伺いを立てるので仕事が進まない。 まさに悪循環だった。 だが、翔太はどうして悪循環が発生しているのか理解していない。 だから何も改善しないどころか、時間が経つほどに事態は悪くなっていく。(これも新人たちの動きが悪いせいだ。あとでもう一度、叱ってやらないと。それに……春菜がいた頃の常連はすっかり来なくなったし) 昔の常連はいつの間にか、姿を見せなくなっていた。 以前は月に一度は必ず来ていた客も、今では全く顔を見せない。 純粋に料理を楽しんでいた上客、良客ほど先に消えたのに、翔太はやはり気づいていない。 だからインフルエンサーという即時的な手段を取って、後は放置していた。 けれどインフルエンサーの宣伝で呼び込んだ客は、リピーターになる率が非常に低かった。 彼らは一度来ただけで、二度と『一ノ瀬』に来ようとしない。 当然だった。 宣伝に釣られて来た客は、料理の味に無関心だ。 彼らは一時の「画面映え」だけを求めて、すぐに飽きてしまう。 そんな客層がリピーターになるはずがない。 少し考えれば、誰でも分かることだ。 だが翔太と梨沙はその失敗を認めたくなくて、あえて意識の外に押しやっていた。 と。 小さな振動音が鳴る。テーブルの上に置いて
「大衆的な洋食店だと? 我が社の次世代AIシステムのショーケースだぞ。そんな地味なコンセプトで、世間の注目を集められると思っているのか」「集められます」 春菜は即答した。「AIによる自動化の真価は、人手不足に悩む大衆店でこそ発揮されるはずです。高級店は元々スタッフの人数が多く、手厚いサービスが売りです。システムを導入しても、その恩恵は伝わりにくい。ですが、薄利多売の大衆店がAIの力で効率化されて、その分料理の質を高められたらどうでしょう」 春菜は言葉を続ける。「仕入れや予約管理のコストを限界まで削り、浮いた予算をすべて食材に回す。そうして手間暇をかけた極上の洋食を、大衆店の価格で提供する。そのコストパフォーマンスの高さこそが、最大の宣伝になります」 礼司は黙り込んだ。 彼の頭の中で、春菜の提示したモデルが急速に計算されて評価されているのが分かる。(お願い。分かってほしい。ただの高級店を作っても、意味がないんだって) 数秒の沈黙の後、礼司は小さく息を吐いた。「……AIの真価は、人手不足に悩む大衆店でこそ発揮される、か。確かに、システムの普及を考えるなら、高級店限定のシステムと思われるよりも、大衆店での成功例を見せる方が市場へのインパクトは大きい」 礼司はモニターの電源を切り、春菜を見つめた。「分かった。君の理想とするコンセプトで進めよう。銀座の物件はキャンセルする。もっと親しみやすく、かつ集客の見込める土地を探し直そう」「ありがとうございます!」 春菜は顔を輝かせた。「ただし、条件がある」 礼司は人差し指を立てた。「君の言う『極上の洋食』が、本当に私のシステムに見合うだけの集客力を持つのか。それを証明してもらう。メニューの完成度には一切の妥協を許さない」「望むところです。最高のハンバーグとオムライスを作ってみせます」 春菜の力強い宣言に、礼司は満足げに頷いた。 年配弁護士へ向かって指示をする。「物件探しの条件を変
春菜は、みやこ食堂で定食を食べる主婦や学生、サラリーマンの笑顔を思い浮かべた。 赤狸でジョッキを傾けながら串焼きをつまむ、サラリーマンたちの笑い声が耳に蘇る。 シエルでテイクアウトの惣菜を受け取り、嬉しそうに帰っていく母親と子供の姿も思い出した。 下町を転々としながら学んだのは、高級食材を使って技巧を凝らした料理だけが人を幸せにするわけではないということだ。 みやこ食堂や赤狸で使っていた食材は、決して高級ではなかった。 それでも仕入れの工夫とソースのクオリティアップで、お客を笑顔にできた。 シエルは良い食材を使っていたが、最高級ではない。客が満足する味に仕上げたのは、シェフの努力の結果だ。 人の温かさと、真心のこもった接客。 手の届く価格で、本物の美味しい料理を味わえる空間。 それこそが、春菜のたどり着いた理想の店だった。 裏切りと喪失から始まった旅だったけれど、春菜は大切なものを手に入れていた。(この思いは、譲れない) 春菜は姿勢を正し、礼司に向かってはっきりと口を開いた。「御堂社長。申し訳ありませんが、その立地とコンセプトでは、私にはお受けできません」 会議室の空気がピタリと止まった。 タブレットを操作していた若手弁護士の手が止まり、他の2人も驚いた顔で春菜を見た。 礼司は眉を寄せて、鋭い視線を春菜に向けた。「……どういう意味だ。銀座の一等地だぞ。料理人として最高の舞台を用意したというのに、不満があると言うのか」「舞台が立派すぎるんです。それに、私の目指す方向性とは違います」 春菜はモニターに映る豪華なパース図を指差した。「私がこの数ヶ月、下町の店を回って学んだのは、料理は日々の生活に寄り添うべきだということです。高級フレンチの技術は素晴らしいですが、それを5万円も払える一部の人たちだけに向けて提供するのは、私のやりたいことではありません」 そういう路線は、レストラン『一ノ瀬』で経験済みだ。 高級店そのものが悪いわけではない。だ
礼司は春菜の方へ視線を向けた。「これで分かっただろう。君の抱えていた問題など、この程度のものでしかない。私がすべて排除すると言った意味が理解できたか」「は、はい」 礼司の言葉は冷酷な響きを含んでいたが、春菜にとってはこれ以上なく心強いものだった。 礼司の言葉は冷酷な響きを含んでいたが、春菜にとってはこれ以上なく心強いものだった。 彼は利益と合理性のために動いている。春菜の料理の腕と頭脳を自社のシステム開発に利用するため、障害となるものを権力で粉砕しただけだ。(ビジネスとしての冷静な判断よね。だからこそ、私は彼を信頼できる) 春菜はそう信じて疑わなかった。 だが礼司の眼差しには、単なる合理性だけでは説明のつかない熱が交ざっていた。 春菜を見つめる彼の瞳の奥には、彼女の料理に対する強い渇望と、彼女自身を自らの手元に置いておきたいという執着のような色が揺らめいている。 礼司自身もまだ明確な言葉にはしていない。 けれど彼は春菜の生み出す皿に完全に胃袋を掴まれ、その実務的な才覚に深く魅了されていた。 それは紛れもなく、恋心に似た感覚だった。 春菜は深く頭を下げた。重くのしかかっていた足枷が、音を立てて外れ落ちるのを感じる。 顔を上げると、礼司がわずかに口角を上げていた。「感謝は君の仕事で示してもらおう。借金問題は彼らに任せて、君は店の準備に入ってくれ。場所は銀座四丁目の路面店だ。明日、現地で厨房の設備を確認してもらう」「感謝は君の仕事で示してもらおう。借金問題は彼らに任せて、君は店の準備に入ってくれ。場所は銀座4丁目の路面店だ。明日、現地で場所を確認してもらう」「銀座4丁目、ですか」 春菜は思わず聞き返した。 高級店が立ち並ぶ一等地である。「プロトタイプ店舗の宣伝費と考えれば安いものだ。それに、内装も厨房機器もすべて最新のものを準備中だ。君の理想とするメニューを形にするために、必要なものは何でも要求しろ」 礼司は立ち上がり、タブレット端末を操作して画面を壁の
アスファルトの地面に靴音が響く。 婚約者として愛し合っていたはずの翔太と、親友だったはずの梨沙。 2人の裏切りは信じたくなかった。 でももう、信じざるを得ない。 ここまではっきりと悪意をぶつけられては、疑う余地がなかった。◇ その後も、ツテを頼って数軒のレストランやビストロを回った。 結果はすべて同じだった。 面会すら断られる店もあった。 巧妙に捏造された横領の悪評は、想像以上に早く業界に浸透していたので
レストラン『一ノ瀬』の定休日の朝。 客席から離れた厨房は、稼働中の騒がしさが嘘のように音がない空間となっていた。 換気扇も火口も眠っている中、春菜はスペースの隅にある小さな事務デスクで大きく伸びをした。 手元のノートには、新しいコースのスペシャリテに関するレシピがびっしりと書き込まれている。 旬の食材をどう組み合わせるか、火入れの温度は何度が最適か。 頭の中で何度も試作と修正を繰り返し、徹夜での作業がようやく完成したのだ。 紙コップのコーヒーは冷めきってしまっていたが、春菜はそれを飲み干した。 徹夜の集中作業で凝り固まった首と肩を、ゆっくりと回す。「ん、右手が痛いなあ」
ここ数ヶ月、春菜は連日睡眠時間3時間で働いていた。 営業中の厨房を仕切りながら、営業時間外は新メニューの開発や食材の選定、原価計算の事務作業に追われている。 婚約者でありオーナーシェフである一ノ瀬翔太(いちのせ・しょうた)は、経営やメディア対応で忙しく、厨房実務はほとんど春菜に任せきりだった。 彼が厨房に立つのは、雑誌の取材用の写真撮影の時くらいだ。(まあ、私が店を守るって決めたんだし。翔太には経営に専念してもらわないと) このレストラン『一ノ瀬』をオープンするにあたり、春菜は両親亡き後の実家を担保に入れた。多額の融資の連帯保証人になっている。 誰よりも大切な婚約者のため、店を
高級レストラン『一ノ瀬』のディナータイムは、いつも通りの賑わいを見せている。 そんな中、厨房はまさに戦場と化していた。 換気扇が回る低い音が響く中、四基のコンロからは青い炎が絶え間なく上がる。 フライパンの中で油が弾ける音が絶えず鳴り響いていた。「前菜、3番テーブルと5番テーブル、同時にアップして!」 佐伯春菜(さえき・はるな)はテキパキとした動作で、部下たちに指示を飛ばしていた。「はい、すぐに出せます!」「メインの肉、火入れはあと1分。ソースの仕上げ急いでください。付け合わせの野菜は上がってる?」「上がってます! アスパラガスのソテー、少し色がついちゃいましたけど大丈夫で







