99.9%の運命よりも、君を選ぶ의 모든 챕터: 챕터 31 - 챕터 40

68 챕터

第十一章 九条家の条件

翌日の午後六時。俺は仕事を一旦抜け出し、一人で九条家の屋敷の前に立っていた。 重厚な門構えと手入れの行き届いた庭。幼い頃から見慣れたはずの景色が、今は異様に遠く感じる。 結婚式の日に、ここから逃げ出した記憶が鮮やかに蘇った。「欠陥オメガ」と呼ばれ続けた日々。 家族から切り捨てられた瞬間、すべてが胸に込み上げてきて、足が止まりそうになる。 それでも俺は奥歯を噛みしめながら、門をくぐった。自分の身体について知るために。 出迎えたのは、兄の蓮だった。「本当に来たんだな」 冷たい声と値踏みするような視線を注がれる。 俺は警戒しながら、父・怜司のいる書斎へ通された。父は、以前と変わらない態度で待っていた。「久しぶりだな、湊」 穏やかな笑顔を浮かべる。しかし、その奥には計算高い光が宿っているのが分かった。 俺は余計な話をせず、単刀直入に切り出した。「俺がなぜ欠陥オメガになったのか、教えてください」 父はすぐには答えなかった。 先に俺が九条家を捨てたこと、勘当されたこと、一ノ瀬智臣の秘書になったことを話題にする。「お前は、自分が九条家から完全に自由になったと思っているのか?」 それは、意味深な言葉だった。「どういう意味ですか?」 「そのままの意味だ」 父は椅子に深く腰掛け、俺を見つめた。「お前が『欠陥オメガ』だと思っているものは、そう単純な話ではない」 「……どういうことでしょうか?」 父は少し間を置いてから、静かに口を開いた。「幼い頃からフェロモンがほとんど出なかったことも、ヒートが極端に軽かったことも、九条家ではすべて『欠陥』と判断していた」「……それは知ってます」 「だが――お前の身体には、九条家ですら完全には把握していない特殊な性質がある」 息が止まりそうになった。「特殊な……性質?」 「そうだ」 父の声には、妙な確信があった。「そして近年になって、お前の身体には明らかな変化が現れ始めた」 俺は眉を寄せた。「……ヒートのこと?」 「それだけではない」 怜司は俺の反応を観察するように続けた。「そのきっかけになったのが、一ノ瀬智臣だ」 「……社長?」 「99.9%という極めて高い相性によって、これまで抑え込まれていたお前のオメガとしての性質が刺激された」 俺は愕然とした。「じゃあ……俺が変わっ
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第十二章 生まれた日の秘密

 父は、ゆっくりと口を開いた。「お前が生まれた日のことを、話そう」 書斎の空気が、さらに重くなる。俺は黙って父の言葉を聞いた。「お前は出生直後から、一般的なオメガとは異なる兆候を示していた」 耳に聞こえる父の声は、淡々としている。「フェロモン値が極端に低く、通常ならオメガとして認識されるはずの身体反応も、ほとんど見られなかった。医師からは、『将来的にもオメガとしての機能が、十分に発現しない可能性がある』と告げられていた」 九条家にとって、オメガは家の跡継ぎを生むための重要な存在だった。 だから俺は、生まれた時から「問題」として扱われることになった。それゆえに直接聞かされても、今さら驚きはない。 俺はずっと、自分がそういう存在だったと思って生きてきた。 けれど――。「だからといって、お前を最初から『欠陥』と決めつけていたわけではない」 「……え?」 「お前には、九条家にとって別の価値があった」 「……別の価値?」 俺は戸惑って聞き返したのに、父はそれ以上を語らなかった。 代わりに、机の引き出しから古い書類を取り出す。「これは、お前が幼い頃の医療記録だ」 差し出された紙を受け取る。そこには、幼い頃から通常のオメガとは異なる数値を示していたことが記録されていた。「……これ」 残念ながら、いくつかの検査項目が、不自然に黒く塗りつぶされている。「なんで、ここだけ隠されてるの?」 「当時、お前の母親がそうすることを望んだからだ」 その言葉に、息を呑んだ。「母さんが……?」 「ああ」 初めてだった。母が俺について何かを知っていた可能性を、はっきりと突きつけられたのは。 幼い頃の記憶が蘇る。 母は、俺に優しかった。いつも笑っていた。 けれど、身体のことを話す時だけは違った。 俺の顔を見つめながら、何かを恐れるような表情を浮かべていた。 当時の俺には、その意味がわからなかったが、そのせいで母が時々見せる表情だけが、妙に記憶に残っている。「母さんは……俺について何か知ってたの?」 父は答えなかった。ただ、古い記録を机の上に戻した。「お前が『欠陥オメガ』と呼ばれるようになった経緯も話しておこう」 俺は顔を上げる。「九条家では、最初からお前を『欠陥品』と判断していたわけではない。幼少期のお前は、『特殊なオメガ』として経
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第十三章 迎えに来た人

父から突きつけられた選択を抱えたまま、俺は九条家を出ようとしていた。『九条家に戻るか。それとも、自分が何も知らないまま生きるか』 その言葉が、頭から離れない。 本当は、自分の身体について知りたい。「欠陥オメガ」という言葉が間違いだったのなら、その理由も知りたい。 黒く塗りつぶされた医療記録――母さんが何を隠したのかも知りたい。 けれど、そのために九条家へ戻れば、また俺は「九条家にとって価値のあるオメガ」として扱われるかもしれない。 身体の秘密を知るために自分自身をもう一度、九条家へ差し出す。 正直なところ、そんなことはしたくなかった。「……俺は、どうすればいいんだ」 答えの出ないまま、俺は肩を落として玄関へ向かった。外へ出た瞬間、夜の冷たい空気が頬を撫でる。 そのときだった。 門の前に、一台の見覚えのある車が停まっていることに気づいた。(――もしかして、一ノ瀬家の車?) まさか。 そう思いながら車を見つめていると、後部座席のドアが開いた。降りてきた人物を見て、思わず息を呑む。「え……社長?」 そこにいたのは、智臣だった。 いつものスーツ姿。いつもの眼鏡。そして、いつもと変わらない落ち着いた表情。 けれど、どうしてここにいるのか分からない。 そんな俺に、智臣は静かに告げた。「迎えに来た」 「…………」 一瞬、何も言えなかった。 胸の奥が、熱くなる。 九条家に戻れと言われたばかりだった。 自分が何者なのかも分からなくなっていた。 そんな俺を――この人は迎えに来た。「どうして、ここに?」 「連絡がなかったからだ」 「……すみません」 反射的に頭を下げる。「迷惑を……」 「謝る必要はない」 智臣の声が、少しだけ厳しくなった。「ただ、何も言わずに九条家へ来るのは感心しない」 「……はい」 やっぱり、迷惑をかけた。 そう思って俯いた、そのとき。「一ノ瀬社長自ら、湊を迎えに来られるとは」 背後から父の声がした。振り返ると、いつの間にか父が玄関まで出てきていた。 口元には、意味ありげな笑みが浮かんでいる。「彼に、どういうご用件でしょうか」 智臣が淡々と訊ねる。「何、息子と話をしていただけですよ」 父は俺を一瞥してから、智臣へ視線を戻した。「それにしても……随分と大切にされているようだ」
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第十四章 聞こえてしまった言葉

翌朝、俺は自宅のベッドで目を覚ました。 カーテンの隙間から差し込む朝の光が、部屋を淡く照らしている。 身体の重さはまだ残っているけれど、昨夜よりは楽になっていた。 安堵してふっと息を吐いた瞬間、思い出してしまった。 昨夜、一ノ瀬家の車の中で、俺は眠ったふりをしていた。『次からは、何かあったら俺に言え』 智臣の低い声が、頭の中で何度も繰り返される。 今までの智臣なら、もっと事務的に「次からは事前に報告しろ」と言ったはずだ。 淡々と、仕事上の注意として。 なのに、昨日の言葉には妙な温度があった。 優しくて、少しだけ心配そうで、いつもより柔らかい響きだった。「……何だったんだろう」 俺は天井を見つめたまま、小さく呟いた。 胸の奥が、じんわりと熱い。 けれど、すぐに自分に言い聞かせる。(社長は優しいから……秘書を心配してくれただけだ) きっと、それだけだ。俺だけが特別というわけじゃない。 智臣は、困っている人間を放っておけない人だから、あの言葉にもそれ以上の意味なんてない。 俺が勝手に、特別な温度を感じてしまっただけだ。 そう思えば、胸の奥に残った熱も少しは消えてくれる気がした。 伸びをしてベッドから起き上がり、朝の準備を始める。 聞こえてしまった言葉は、まだ耳の奥に残っている。 何度思い返しても、あの声は優しかった。 それでも――それを「特別」だと思うのは、きっと間違いだ。 そう思い込みながら、今日も会社へ向かう準備をした。*** 出社した湊を見て、井上はすぐに声をかけた。「おはようございます、九条くん」 「おはようございます」 湊はいつも通りに振る舞おうとしている。挨拶も表情も、普段と変わらない。 けれど――。 井上は、ほんのわずかな違和感を覚えた。 湊の視線が、何度も社長室へ向かっている。 そして智臣が執務室から出てくると、そのたびにほんの一瞬だけ視線を逸らす。(……何かありましたね) 昨日の九条家への訪問。 智臣が自ら湊を迎えに行ったこと。 そして、二人が戻ってきたときの、どこか落ち着かない空気。 井上はそれらを思い返す。 だが、あえて何も聞かなかった。 今はまだ、訊ねる必要はない。 何かが変わり始めている。 それだけは、間違いなさそうだった。 *** しばらくして、智臣
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第十五章 頼ってもいい人

出社して数日が経った。 俺は、普段通り仕事をこなしていた。資料の整理やスケジュール管理、会議の準備も、問題なく進められている。 表面上は、何も変わっていないように見えた。 でも――身体は違った。 以前なら、ほとんど感じなかったフェロモンの揺らぎが時折、はっきりと分かるようになっている。 しかもオメガとしての身体反応も、少しずつ現れ始めていた。 首筋が熱を帯びたり、胸の奥がざわついたり――仕事に集中しているはずなのに、ふと意識が身体へ向いてしまうこともある。 昼休み。俺はデスクの引き出しから、医師からもらった薬を取り出した。 手のひらに乗せたまま、しばらく眺める。「また……身体が変わっていくのか」 小さく呟くと、不安がじわりと胸に広がった。 特に怖いのは、以前のように突然体調を崩して、智臣に迷惑をかけることだった。 入院したときのことや九条家の前で倒れたことを、まだ鮮明に覚えている。 あのとき智臣は仕事に行かずに病院まで付き添い、何度も俺を気にかけてくれた。 だからこそ――もう、あんなふうに心配をかけたくなかった。 だから誰にも相談せず、自分で何とかしようと思った。 そのとき、不意に頭の中に智臣の声が浮かんだ。『何かあれば、俺に言え』 車の中で聞いた言葉を、不思議とあれから何度も思い出してしまう。 俺は少しだけ迷って、スマートフォンへ手を伸ばした。智臣の名前を表示する。 そして――指が止まった。(……こんなことで、社長に相談するのは違うよな) 身体の変化なんて、自分で管理すべきことだ。それに、これは俺自身の身体の問題だ。 智臣に心配をかける理由にはならない。 しばらく画面を見つめたあと、俺はスマートフォンを伏せた。 薬を引き出しに戻す。 そして、深呼吸をひとつ。「……大丈夫」 自分に言い聞かせるように呟いて、仕事へ戻った。 頼ってもいい人。 頭では、そう思い始めている。 けれど――。 まだ、素直に頼ることはできなかった。 *** 手がけている仕事を確認してもらうべく、智臣に資料を渡そうとしていた。 いつも通りの動作だったはずなのに、なぜか手元がわずかに狂った。 指先が、ほんの少し震える。「九条?」 「……大丈夫です」 反射的にそう答えた。 智臣は、すぐには何も言わなかった。ただ、眼鏡
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第十五章 頼ってもいい人2

*** 井上は偶然、執務室のドア付近で二人の会話を耳にした。 どうやら九条くんが、社長に相談したらしい。 それだけでも、井上にとっては少し意外だった。 だが――。「関連する資料を集めてくれ。医療・製薬部門のネットワークも使う」 その言葉に、井上は思わず足を止めた。 九条くんの身体について調べる。しかも、会社の医療・製薬関連のネットワークまで使うつもりらしい。 井上は、思わず声をかけた。「社長、そこまでしますか?」 智臣は振り返らずに答えた。「必要だからな」 「……そうですか」 またしても、「必要だから」 井上は心の中で、小さくため息をついた。(九条くんのことになると、判断が早いんですよね……) 普段の智臣なら、会社の資源を使う前に必要性とリスクを慎重に検討する。 ましてや、本人の身体に関わることならなおさらだ。 なのに今回は違った。 湊が知りたいと言った。それだけで、迷うことなく動き始めている。 井上は、そんな社長の横顔をしばらく見つめた。 本人には、その違いが分かっていないのだろう。「では、すぐに手配します」 「ああ。頼む」 井上は軽く頭を下げた。 そして、執務室を出ようとしたところで、ふと足を止める。 ――必要だから。 社長はそう言った。 けれど、その「必要」は果たして、本当に秘書だからというだけなのだろうか。 99.9%という数字でも。 アルファとオメガの適合率でも。 実際、説明しきれない何かが、少しずつ生まれている。 井上は、それ以上考えるのをやめた。 今はまだ、それを口にする時ではない。 ただ一つだけ。 これから先、九条くんに関することで社長が動くたびに――自分は、また胃薬のお世話になることになりそうな予感がした。 そんなことを思いながら、井上は静かに執務室を後にした。 *** 一方、九条家でも、静かに動きが始まっていた。 夜の書斎。怜司は手元の報告書に目を落としたまま、しばらく何も言わなかった。 向かいに立つ蓮が、沈黙を破る。「湊は、一ノ瀬社長に相談するでしょうか」 「するだろう」 怜司の答えに迷いはなかった。 蓮がわずかに眉を寄せる。「……それで、いいんですか?」 怜司はグラスを静かに置いた。「ああ。むしろ、そのほうがいい」 「なぜです?」 怜司は答
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第十六章 あの数字の意味

智臣は一人、執務室で医療記録を読み返していた。 デスクの上に広げられた古いファイル。ページをめくるたび、湊の出生から現在に至るまでの数値が静かに並んでいる。 特に気になっているのは、その一文だった。『特定のアルファとの適合時にのみ、オメガ機能が活性化する可能性あり』 智臣は何度もその記述に目を落とす。 頭の中で、出生時の記録と過去の検査結果を照合する。しかし、肝心な部分は意図的に欠落していた。 母親からの問い合わせ記録も、途中で途切れている。 智臣は冷静に、事実を整理した。 湊は生まれた時から「通常のオメガ」とは違った。九条家はそれを「欠陥」と判断した。 しかし母親は「欠陥ではない」と考えていた。 特定のアルファとの適合によって、眠っていたオメガ機能が活性化する可能性があった。 そして現在、湊に起きている変化は、99.9%の適合と一致している。 だが――「なぜ自分なのか」だけが分からない。 智臣は眉を寄せ、眼鏡のブリッジを指で押さえた。 強い違和感が、胸の奥に残る。 99.9%という数字は、確かに稀有な適合率だ。 しかし、それだけで「特定のアルファ」と断言できるほど、単純なものなのか。 母親が何を知っていたのか。 九条家が何を隠しているのか。 智臣は資料を閉じ、静かに息を吐いた。 この数字の意味を、まだ完全には理解できていない。 ただ、一つだけ確かなことがあった。 湊の身体が、自分との接触によって強く反応しているという事実。 そして、その変化が湊を苦しめているという現実。 智臣は窓の外の夜景を見つめた。 違和感は、消える気配がなかった。*** 翌朝、湊はいつも通り出社してきた。 智臣を見た瞬間、昨日相談したことを思い出したのか、少し緊張した様子を見せる。「昨日は……ありがとうございました」 「礼を言う必要はない」 「でも……相談してよかったです」 その言葉に、智臣は一瞬、動きを止めた。 湊が自分を頼ってくれた。ただそれだけのことなのに、胸の奥がわずかに熱を帯びる。 なぜ、そんなふうに感じたのか――智臣自身にも分からなかった。「そうか」 短く返すと、湊は少しだけ笑った。柔らかく、安堵したような笑顔だった。 その笑顔を見て、智臣はまた昨夜の資料を思い出す。『特定のアルファとの適合時にのみ、
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第十六章 あの数字の意味2

*** 九条家の怜司のもとに、報告が入った。「一ノ瀬側が、過去の医療記録を調べ始めました」 蓮が低く続ける。「予想より早いですね」 怜司は動じなかった。「智臣なら、そうするだろう」 静かにグラスを回しながら、怜司は続ける。「だが、まだすべてには辿り着けない」 その言葉には、何かを確信しているような響きがあった。 怜司は机の上に置かれた古いファイルへ手を伸ばす。 湊の母親が残した記録。その中に、以前から気になっていた一文がある。『もしこの子が、特定のアルファと適合した場合――』 そこで、記録は途切れている。 怜司はその先を見つめたまま、しばらく動かなかった。 やがて、ゆっくりとファイルを閉じる。「……まだ、ここまでか」 蓮が眉を寄せる。「父さん?」 「何でもない」 怜司は窓の外へ視線を向けた。暗い庭には、何も見えない。だが、その目には何かを見極めようとする光があった。「急ぐ必要はない」 静かな声が、夜の書斎に落ちる。「あの男が、どこまで辿り着くのか。もう少し見ていよう」 蓮は黙って頷いた。 怜司は再び窓の外へ目を向ける。 その表情からは何を知り、何を知らないのか――読み取ることはできなかった。 ただ一つ。一ノ瀬智臣が動き始めたことを、九条家は確かに把握していた。 そして、その動きさえも。 九条家にとっては、計画の一部になりつつあった。 *** いつものように帰宅した俺は、服を着替えている途中でふと立ち止まった。 以前なら感じなかった自分自身のフェロモンが、微かに部屋に漂っている。 甘く、柔らかな匂い――欠陥オメガだと思い込んでいた頃には、ほとんど意識することさえなかったものだった。 ふーっと深いため息を吐く。最近になって、少しずつ変わってきた。 自分の身体が、自分の知らないところで変化している。 そのことに戸惑いながらも、今日はなぜか、それほど不安ではなかった。 智臣が自分のために調べてくれている。それを思い出すと、胸の奥が少しだけ温かくなる。 その時だった。 部屋の隅に置いていた資料に、ふと目が留まった。今日、智臣から渡されたものだった。 手に取ろうとして――微かな匂いを感じた。 低く、落ち着いたアルファの香り。それは、智臣の匂いだった。「……なんでだろう」 思わず呟く。
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第十七章 身体が知っている

出社した俺は、朝から妙に身体が落ち着かなかった。熱があるわけではない。体調が悪いわけでもない。 それなのに胸の奥がそわそわして、いつもより仕事に集中しにくかった。 昨日、自宅で智臣の匂いを感じたときのことを思い出す。 あの瞬間だけ、強張っていた身体から自然に力が抜けた。「……まさか」 自分でも馬鹿げていると思い、すぐにその考えを打ち消した。 智臣の匂いが、俺に安心を与える。 そんなはずがない。きっと、ただの気のせいだ。 そう思った、その直後だった。 執務室の扉が開き、智臣が出てくる。その姿を目にしただけで、胸の奥にあったざわつきが、ほんの少しだけ和らいだ。 そして、智臣が俺の傍を通り過ぎた瞬間――身体の緊張が、ふっと抜けた。 安堵したことで、思わず小さく息を吐く。 そんな俺の様子に目を留めた智臣は、不意に足を止めた。「九条、大丈夫か?」 「あ……はい。大丈夫です」 反射的に答えた。けれど自分自身はもう、「大丈夫」と言い切れなくなっていた。 智臣が近くにいると、身体が自然と落ち着く。 逆に少し離れると、また胸の奥がざわつき始める。 偶然だと思いたい。 そう思うのに、何度試しても同じだった。 まるで――。 身体だけが、俺より先に何かを知っているようだった。 *** 智臣は昨日のことを気にしているのか、いつも以上に俺の様子を注意深く見ていた。 顔色や体温、呼吸やため息。そして、フェロモンの変化に至るまで――。 何かを確認するように、時折こちらへ視線を向ける。「……社長?」 「なんだ?」 「いえ……」 何でもない、と言おうとして、口を閉じた。 以前なら、単なる体調確認だと思っていた。 けれど今は違う。 智臣は俺の身体に起きている変化を、意識して見ている。 そう思うと、不思議なくらい胸が温かくなった。 自分のために、ここまで気にかけてくれている。 それが嬉しい。 けれど、その嬉しさと同時に、別の不安が胸の奥に生まれた。 しばらくして、智臣が執務室へ戻ろうとする。 その背中が遠ざかるにつれて、また胸の奥が落ち着かなくなった。 反対に智臣が近くにいると、不思議なくらい呼吸が楽になる。 そのことに気づいた瞬間、胸がざわついた。(これってまるで……俺の身体が、社長に依存しているみたいじゃないか)
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第十七章 身体が知っている2

*** 夜。湊が退勤した後の執務室で、智臣はその日の観察結果を資料に加えていた。 顔色・呼吸・フェロモンの変化――そして、自分が離れた時に見られた緊張と、近くにいる時の安堵。 一つ一つを、事実として細かく記録していく。 そこで、智臣は手を止めた。「……単純な適合反応ではない?」 99.9%という適合率によって、オメガ機能が活性化している。 それ自体は、これまでの記録とも矛盾しない。 だが、それだけなら――。 熱が強くなる。 フェロモンが増える。 ヒートが進行する。 そうした、一方向の変化として現れるはずだ。 ところが、湊の反応には明らかに別の傾向がある。 自分が近くにいると、緊張が和らぐ。 匂いを感じるだけでも、身体から力が抜ける。 逆に、自分が離れると落ち着かなくなる。 智臣は記録を見つめ直した。 単に、オメガ機能が活性化しているだけではない。そこには、別の反応がある。 だとすれば――。「……身体そのものが、特定のアルファを安全な存在として認識しているということか?」 口にした途端、その言葉が妙に胸に残った。 自分が湊にとって、安全な存在。 その事実を想像すると、なぜか胸の奥がわずかに熱を帯びる。 だが、智臣はすぐに思考を切り替えた。 まだ仮説に過ぎない。感情を挟めば、判断を誤る。 そう自分に言い聞かせる。 智臣は眼鏡を外し、目頭を軽く押さえた。 この仮説が正しいのか。 そして、もし正しいのなら――。 湊の身体に、これから何が起こるのか。 まだ、答えは出ていない。 だからこそ、調べる必要がある。 智臣は再び眼鏡をかけると、資料へ視線を戻した。 *** 一方その頃、九条家にも、湊の近況について報告が入っていた。「湊様の身体に、さらに変化が出ています」 報告を聞いた怜司は、しばらく何も言わなかった。 やがて、机の上に置かれた母親の記録へ視線を落とす。 蓮が低い声で訊ねた。「一ノ瀬社長が調べていることと、関係があるのでしょうか」 「おそらくな」 怜司は短く答えた。しかしながら、その声に確信はなかった。「……ただ、まだ判断するには早い」 手元の記録には、あの一文しか残されていない。『もしこの子が、特定のアルファと適合した場合――』 そこで途切れている。 それより先に、何が書
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