99.9%の運命よりも、君を選ぶ의 모든 챕터: 챕터 51 - 챕터 60

68 챕터

第二十七章 選びたい人

翌朝。目を覚ました俺は、しばらく天井を見つめていた。 身体は、もうほとんど元に戻っている。昨日まで感じていた重さも、熱も、かなり引いていた。 けれど――。(……今日、社長は何時頃に来るんだろう) ふと、そんなことを考えた。 その瞬間、自分で自分に戸惑う。 昨日までは智臣の匂いを求めるのも、そばにいてほしいと思うのも、ヒートのせいだと思っていた。 長く眠っていたオメガの本能が目を覚ましたから。身体が、特定のアルファを求めているから。 そう考えれば、すべて説明できると思っていた。 でも――今日は、もう熱も落ち着いている。それなのに俺は、智臣が来る時間を気にしている。(……なんでだろう) どんなに考えても、答えは出なかった。 ベッドから起き上がり、スマートフォンを手に取る。通知を確認すると、颯真さんからメッセージが届いていた。『体調はどうかな。無理はしないで、何かあったら連絡ください』 その下には、少し時間を空けて送られたもう一通。『落ち着いたら、また話せると嬉しい』 画面を見つめたまま、俺は少し考えた。 颯真さんとは、また会いたい。前に会ったときも、嫌ではなかった。むしろ、もっと話してみたいと思った。 だから――。 俺は返信を打った。『ありがとうございます。もう大丈夫です』 そして、少しだけ迷ってから続ける。『僕も、またお会いしたいです』 送信した瞬間、胸の奥にほんの少しだけ緊張が残る。 だけど、不思議と後悔はなかった。 誰かに言われたからでもない。九条家に求められたからでもない。 ただ、自分がそうしたいと思った。 そのことが、今は少しだけ嬉しかった。 ――自分で決めた、たったそれだけのことなのに。 俺の人生では、それが今までほとんどなかったのだと、改めて気づいた。 *** 翌日。俺は、久しぶりに出社した。 ヒート前と変わらない朝。いつものように執務室へ入り、智臣に声をかける。「おはようございます」 「……ああ」 たったそれだけの、いつもと変わらない挨拶。 なのに――以前と同じようには、接することができなかった。 智臣が俺を見る。ただそれだけで、あの夜のことが脳裏に蘇る。 俺が無意識に服を求めたこと。智臣の匂いに縋るようにして、ようやく落ち着いたこと。 そして自分の服を抱えた俺を、智臣が
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第二十八章 それぞれの隣で

颯真さんに、きちんとお礼をしたいと思っていた。 ヒートが始まったとき、連絡もできずにいた俺のもとへ駆けつけ、看病してくれた。 あのときは、自分の身体のことで精いっぱいで、感謝を伝える余裕もなかった。 だから出社して数日が経ち、体調がすっかり戻った頃に、颯真さんに連絡を入れた。『この前は、ありがとうございました。おかげで助かりました』 そこまで打ってから、少し迷う。これだけでは、何だか足りない気がした。『……よかったら、今度お礼をさせてください』 送信ボタンを押したあと、俺はスマートフォンを見つめる。(わざわざ時間を作ってもらうほどのことだろうか――) そんな考えが頭をよぎった頃、返信が届いた。『もちろん。僕でよければ、ぜひ!』 思っていたよりも早い返事に、少しだけ驚く。 さらに、もう一通。『でも、本当に体調は大丈夫? まだ完全に戻っていないなら、無理しなくていいからね』 画面を見つめ、俺は小さく笑った。 颯真さんらしい。 昔、結婚相手として名前を聞いていた頃には、こんなふうに個人的なやり取りをすることになるなんて、想像もしていなかった。『大丈夫です。もう問題ありません。少し、外の空気を吸きたい気分でもあるので』 送信してから、誤字に気づいた。(……吸きたいって何だよ) 慌てて訂正のメッセージを送る。 すぐに、颯真さんから笑顔のスタンプが返ってきた。『それなら、一緒に出かけようか』 俺は少し考えてから、待ち合わせの場所と時間を決めた。 こうして、休日に二人で出かけることになった。 誰かに決められた予定ではない。 九条家のためでも、結婚のためでもない。 助けてもらったお礼をしたいと思ったそれだけのことが、今の俺には少し新鮮だった。 *** 待ち合わせ場所で合流すると、颯真さんは俺の顔を見て、ほっとしたように微笑んだ。「湊くん、すっかり顔色もよくなったね」 「はい。もう元気です」 「それならよかった」 颯真さんはそう言って、ゆっくり歩き出した。 連れてこられたのは、駅前の賑やかな通りから少し離れた場所だった。 小さな書店と、その隣に併設されたカフェ。 店先には手書きの看板が出ていて、窓際には観葉植物が並んでいる。華やかさはないけれど、どこか落ち着く雰囲気だった。「湊くん、こういうところが好きか
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第二十八章 それぞれの隣で2

*** 店を出る頃には、日が少し傾き始めていた。「今日はありがとうございました。ごちそうになってしまって……」 「お礼をしてくれるはずだったのに結局、僕のほうが楽しんでしまったね」 颯真さんが笑う。「そんなことないです。俺も楽しかったです」 それは、素直な気持ちだった。 好きな本を見つけて、好きなものを食べて、他愛のない話をする。 特別なことは何もなかった。 それなのに、今日の時間は思っていた以上に心に残った。 駅へ向かう途中、颯真さんがふと足を緩めた。「湊くん」 「はい?」 「次は、君が行きたいところを教えてほしい」 思いがけない言葉に、俺は少し驚いた。「……俺が、ですか?」 「うん。今日は僕が決めたからね。次は、湊くんの行きたいところへ行こう」 何気ない提案なのだろう。けれど、すぐには返事ができなかった。 行きたい場所――そう聞かれて、真っ先に思い浮かぶものがなかった。 これまでの俺は、誰かに決められた予定に従うことが多かった。自分が何をしたいのかを考えるより、何を求められているのかを考えるほうが先だったから。 顎に手を当てながら、何とか答える。「……考えておきます」 「うん。楽しみにしているよ」 颯真さんは、それ以上急かすことなく微笑んだ。 駅で別れ、俺は一人で帰路についた。 次にどこへ行きたいのか、何をしたいのか。 今までなら、わざわざ考えもしなかったことだった。 けれど、少しだけ考えてみたいと思う。 誰かに予定を決められるのではなく、自分で行きたい場所を選ぶ。 それだけのことが、俺には新しかった。 そして――。 自分で選んだ場所へ、誰と行きたいのか。 そこまで考えかけて、俺は小さく首を振った。(……それは、また今度考えよう) 今はまだ、答えを急がなくてもいい。 そう思いながら、俺は夕暮れの街を歩き始めた。 *** 帰宅した俺は、今日一日を振り返った。 楽しかった。颯真と話して、笑って、好きな本を眺めて。 誰かの期待に応えようと気を張ることなく、ただ自分の時間を素直に楽しめた。 また会いたい。 そう思ったのは、嘘じゃない。 けれど――今日のことを思い返しているうちに、ふと別の顔が浮かんだ。 智臣だった。「……なんで、社長のことを思い出すんだろう?」 颯真と過ごした
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第二十八章 それぞれの隣で3

夕方、コーヒーを淹れ直そうとキッチンに立ったときだった。 ふと、湊の言葉が蘇った。『社長、今日はこれのほうがいいと思います』 以前、仕事が立て込んでいた日のことだった。 いつもならブラックのまま飲むコーヒーが、その日だけは少し違っていた。湊が、疲れていることに気づいて用意したものだった。 甘さもミルクの量も、決して大げさなものではない。こちらの様子を見て、いつもと違うものを差し出した。 あのときは、秘書としての気遣いだと思った。 実際、そうなのだろう。 同僚の体調や仕事の進み具合に気を配ることも、秘書の役割の一つだ。湊が自分の様子を見て行動したとしても、何ら不思議ではない。 それなのに今、思い出しているのは、コーヒーの味だけではなかった。 カップを差し出した湊の顔。 こちらの反応をうかがうような、少し控えめな声。 何でもないことのように振る舞いながら、こちらを気にかけていた、その姿。 仕事の予定でも、資料のことでもない。 ただ、湊がそこにいたときのことを思い出していた。「……俺は、何をしている?」 問いかけても、答えはなかった。 コーヒーを口に含む。いつもと同じ味がしたけれど、なぜか物足りないような気がした。 智臣はその理由を考えかけて、すぐにやめた。 考えたところで、答えが出るとは思えなかった。 今日は休日。仕事がないから、時間を持て余しているだけ。 湊から連絡がないことを気にするのも、いつもの習慣が抜けていないだけ。 そう整理すれば、すべて説明できる。 ――少なくとも、今はそういうことにしておこう。 智臣はカップを置き、窓の外へ目を向けた。 静かな部屋に、時計の針が時を刻む音だけが響いていた。 *** 颯真と別れ、自宅に戻ってから、静かに時間を過ごしていた。 ヒートから回復したばかりなのだから、無理をするつもりはない。読みかけの本を開き、気になっていた場所を片づけ、疲れたら休む。 そんなふうに過ごしているうちに、気づけば夜になっていた。 ふと、手元のスマートフォンに目を向ける。 新しい通知はない。 智臣からの連絡も、もちろん届いていなかった。 当然だ、今日は休日なのだから。 仕事の用件があるわけでもない。わざわざ連絡を取り合う理由なんて、どこにもなかった。 それなのに――ほんの少しだけ残
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第二十九章 返すはずの距離

クリーニングに出していたジャケットが戻り、俺は洗濯したシャツと一緒に智臣へ返した。「これ、借りていたものです。ジャケットはクリーニングに出しておきました」 智臣はジャケットを手に取り、少し驚いたように目を細めた。「……きちんと出していたのか」 「借りたものですから」 俺は当然のように答える。それだけのやり取りだった。 借りたものを返すだけのことなのに、手元から服がなくなった途端に、胸の奥に小さな寂しさが広がった。 ヒートのとき、そばに置いているだけで安心できた智臣の服。その匂いに包まれながら、智臣がそばにいてくれた夜。 あのとき感じた安堵を、俺はまだ覚えている。 けれど、いつまでも借りたままにしておくわけにはいかない。 だから返した。それで終わりのはずだった。 けれど手元からなくなった服の感触は、思っていた以上に心に残っていた。 もう、あのときのように服を借りる理由はない。 それなのに俺は返してしまったことを、ほんの少しだけ惜しいと思っていた。 *** 数日後。一ノ瀬ホールディングスでは、予定されていた社内行事の準備に急な変更が入った。 土曜に予定していた最終確認を、日曜に智臣が一人で対応することになった。 湊には、休日出勤をさせるつもりはなかった。秘書とはいえ、休日まで仕事に付き合わせる必要はない。 なのに、その話を耳にした湊は、少し迷ったあと、自分から手伝いを申し出てきた。「秘書が休日まで、仕事をする必要はない」 智臣はすぐにそう言った。「社長だって、休日なのに仕事をされるんですよね」 「俺は責任者だからな」 「俺も、秘書としてできることがあります!」 そう答えると、智臣はわずかに眉を寄せた。 やる気が溢れる湊の申し出を、それ以上強く断ることはなかった。 休日のオフィスには、普段の慌ただしさがない。 必要な資料を確認し、最終的な準備を進める。大きな問題が起きたわけではないからこそ、作業は淡々と進んでいった。 途中、俺は休憩を兼ねて飲み物を用意した。「どうぞ」 智臣のデスクにカップを置くと、彼は画面から目を離し、俺を見上げた。「……お前は、休みの日まで俺の世話を焼くんだな」 「それ、社長が言います?」 思わず笑ってしまった。「社長だって、仕事を井上さんに任せて、俺の看病ばかりしてたじゃないで
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第三十章 名前のない約束

休日の食事から数日が経った。 俺は、智臣と交わした「また食事をしてもいい」という約束を、ふとした瞬間に思い出していた。 仕事中はいつもどおりに接しているつもりなのに、智臣が声をかけてくるだけで、以前よりも少しだけ嬉しくなる。 仕事の話をしているだけなのに、何気ない会話が続くと、もう少し話していたいと思ってしまう。 そんな自分に気づくたび、俺は小さく戸惑ってしまった。 智臣もまた、湊のことを以前より意識するようになった。 好きな食べ物や休日の過ごし方。以前なら、知っていても仕事に関係のない情報として流していたはずのことが、なぜか記憶に残っている。 仕事の相談をしている最中にも、ふと湊の表情が気になった。 何か言いたそうにしていれば、つい目を向けてしまう。楽しそうに笑っていれば、その理由が気になることもあった。 だが、智臣はそれ以上考えようとしなかった。 秘書がどのようなことを好み、何を考えているのかを把握しておくのは、円滑に仕事を進めるうえでも必要なことだ。 そう考えれば、何もおかしなことはない。 ――ただ、仕事に必要な情報にしては、ずいぶんと細かなことまで覚えている。 そんな疑問が頭をよぎっても、智臣はすぐに思考を切り上げた。 名前のない約束が、二人の日常に静かに根を張り始めていた。 *** ある日、仕事が予定より早く終わり、そろって会社を出た。 智臣は、湊と別れればそれでいいはずなのに、なぜか足を止めた。 先日の食事を思い出し、もう一度誘おうかと考える。けれど、特に用事があるわけでもない。何と言えばいいのか分からず、わずかに間が空いた。「社長?」 足を止めた智臣を振り返る湊。 その顔を見て、智臣はようやく口を開いた。「……前に行った店の近くに、お前が好きそうなところがあった。今度、行かないか」 思いがけない誘いに、湊は小首を傾げた。「……俺が好きそうなところ、ですか?」 「ああ。甘いものもあるらしい」 そう言って、智臣は何でもないことのように視線をそらした。 今度は、仕事の礼という理由もない。 ただ、俺が好きそうな店を智臣が見つけたから――それだけの誘いなのに、胸の奥がじんわりと温かくなった。「……はい。ぜひ」 嬉しさを隠しきれないまま答えると、智臣は短く頷いた。 その表情はいつもと変わらない。
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第三十一章 譲れない距離

終業時刻が近づいた頃、一ノ瀬ホールディングスに颯真がやって来た。来訪の理由は仕事ではない。俺に会うためだった。 以前のように突然押しかけるのではなく、あらかじめ俺の都合を確認したうえで、仕事が終わる頃に顔を見せたらしい。「湊くん、お疲れさま。少しだけ時間をもらえるかな」 執務室で智臣に声をかけようとしていた俺を見つけた颯真さんは、ほっとしたように表情を和らげた。「……颯真さん。どうしたんですか?」 「仕事じゃなくてね。前に話した続きをしたくて」 穏やかな声だった。俺の都合を気遣うような言い方に、無理に誘おうという意図は感じられない。 それでも、声をかけられた俺は少しだけ戸惑った。 この前、一緒に出かけたときのことを思い出す。 颯真さんと過ごした時間は楽しかった。だから、また話をしたいと思ってくれたことは素直に嬉しい。「今度は、湊くんの行きたいところへ行こうと思っているんだ」 「俺の、行きたいところ……?」 「うん。この前は僕が選んだからね。次は湊くんの好きな場所を教えてほしい」 そう言って微笑む颯真さんに、俺も自然と笑みを返した。「……そうですね。少し考えてみます」 「ああ。楽しみにしているよ」 そのやり取りを、智臣が見ていた。 兄がここへ来たこと自体に、驚きはなかった。 湊に会いに来ることも、二人が話をすることも、別に不自然ではない。兄が湊に好意を抱いていることも、今さら疑う余地はなかった。 それなのに湊が兄に笑いかける姿から、なぜか目を離せなかった。「……今度は?」 気づけば、口から言葉がこぼれていた。 颯真がこちらを向く。「ん?」 「……いや。今、次の話をしていただろう」 「ああ、この前の外出のことだよ」 颯真は何でもないことのように答えた。「この前、一緒に出かけたんだ。湊くんが楽しそうにしてくれてね。次は本人が行きたいところに付き合いたいと思っている」 智臣は、ほんの一瞬、言葉に詰まった。 湊と颯真が、二人で出かけていた。 そんな話は聞いていない。 いや、聞く必要などないはずだ。湊が誰と出かけようと、誰と時間を過ごそうと、本人の自由なのだから。 それに、自分だって湊と食事に行ったばかりだ。 仕事の礼という理由はあったが、二人で食事をすること自体は、あってもいいと思っていた。 だからといっ
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第三十二章 知らない顔

翌日からも、湊はいつもどおり智臣のそばで仕事をしていた。 昼食の時間になり、手元の書類を片づけながら訊ねる。「九条、今日の昼はどこにする?」 以前の湊なら、迷わず「社長が決めてください」と答えていた。 智臣からの問いかけに、湊は顎に手を当てながら、少し考えてから口を開いた。「……あの、近くの定食屋に行きたいです。先ほどの会議で疲れたので、落ち着けるところがいいなと思って」 「そうか。では、そこにしよう」 そう答えると、湊はどこかほっとしたように笑った。 ほんの些細なことだ。自分の食べたいものを選ぶ。それだけのことに、以前の湊はどこか遠慮がちだった。 仕事帰りもそうだった。「今日は定時で上がれ。何か予定はあるのか?」 「はい。少しだけ、本屋に寄りたいと思っています」 「本屋?」 「ええ。前に見かけた本が気になったので、買って帰ろうかと」 そう答えた湊は、すぐに仕事の報告へと話題を戻した。 湊が自分の意思で行動できるようになるのは、喜ばしいことだと思う。 誰かの期待に応えるためではなく、自分がどうしたいのかを考え、選べるようになる。それは、湊にとって必要な変化なのだろう。 ……そう思っている。 なのに湊が本屋でどんな本を手に取るのか、どんな店を気に入り、休日をどう過ごすのか。 そんなことが、ふと気になった。 自分の知らない場所で、知らない経験を重ねていく。当然のことだ。湊にも、知らない時間がある。 それを不思議に思う理由など、どこにもない。 それでも湊が楽しそうに自分の予定を話すたび、胸の奥に小さな違和感が残った。 知らない顔。 知らない選択。 知らない時間――湊が変わっていくことを喜んでいるはずだった。 その変化を、自分の知らないところで重ねていくことが、なぜか気にかかって仕方がない。 仕事が終わったあと、湊が何気なく話しかけてきた。「社長……今度、行ってみたい店を本で見つけたんです」 いつものように「そうか」と返しかけて、ふと訊ねた。「……どんな店だ?」 湊は嬉しそうに、その店について説明し始めた。 本に載っていた料理のことや、店の雰囲気。話しているうちに、湊の表情が少しずつ明るくなっていく。 その話を聞きながら、気づけば口を開いていた。「……今度、俺も行ってみたい」 言ってから、自分の言葉に
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第三十三章 重なった約束

仕事を終え、帰り支度をしていたときだった。「湊」 呼び止められて振り返ると、智臣が手元の書類を片づけていた。「はい、社長」 「……この前、行ってみたい店があると言っていただろう」 思いがけない言葉に、俺は目を瞬かせた。「覚えていてくださったんですか?」 「ああ」 智臣は、ごく当たり前のことのように答えた。「今度、時間が合えば行くか」 一瞬、何を言われたのか分からなかった。 以前、一緒に食事をしたときも、またこうして食事をしていいかと訊ねたときも、智臣は応じてくれた。 けれど、今回は違う。 俺が何気なく話したことを覚えていて、智臣のほうから誘ってくれた。そのことが、思っていた以上に嬉しい。「……はい。ぜひ」 すぐに返事をしかけて、俺はふと思い出した。「ただ、近いうちに颯真さんと出かける約束をしていて……」 言いながら、智臣の表情を窺った。「……そうか」 智臣はそこで言葉を切った。ほんのわずかな沈黙のあと、何かを確かめるように俺を見る。「……俺とも、行く約束をしただろう」 「……え?」 思わず聞き返してしまった。 智臣は自分の言葉に気づいたように、わずかに眉を寄せた。「前に、また食事をしようと話したはずだ」 「あ……はい。そうでしたね」 確かに、そういう約束はしていた。けれど今の言い方は、ただ約束を確認しただけなのだろうか。 まるで、俺が颯真さんとの予定を優先することが、気に入らないとでもいうような――。 そこまで考えて、俺は慌てて思考を止めた。(そんなはずはない。社長が俺の予定に口を出す理由なんてないのだから)「……もちろん、社長とも行きたいです」 気づけば、そう答えていた。 智臣の表情が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。「……だったら、別の日にしよう」 「はい」 「お前の都合が分かったら、教えてくれ」 「分かりました」 それ以上、智臣は何も言わなかった。 俺も、今のやり取りについて訊ねることはできなかった。 ただ、胸の奥が落ち着かない。 智臣は、どうしてあんな言い方をしたのだろう。 俺との約束を覚えていてくれたから? それとも――。「湊、どうした?」 「い、いえ! 何でもありません」 考え込んでいた俺は、慌てて首を振った。 智臣は不思議そうに俺を見たあと、「そうか」と
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第三十四章 意識してしまう距離

この間の智臣の言葉が、俺の頭から離れなかった。 ――「……俺とも、行く約束をしただろう」 まるで、自分との約束も大切にしてほしいと訴えるような言い方だった。 これまで智臣は、俺が誰と過ごすかも、何を選ぶかも、俺自身が決めればいいと言ってくれていた。 それなのに、なぜあのときだけ、あんな言い方をしたのだろう。 考えても、答えは出ない。 翌日、仕事中に智臣と二人きりになる機会があった。 今なら聞けるかもしれない。 そう思った俺は、書類を差し出しながら口を開いた。「社長、この間のことなんですが……」 「この間?」 智臣が顔を上げる。まっすぐに視線が合った瞬間、用意していたはずの言葉が喉につかえた。 今になって、あの言葉の意味を聞いて、もし何でもないことだと言われたら。 そう考えた途端、なぜか聞くのが怖くなった。「あ……いえ。こちらの確認をお願いしたくて」 俺は手元の書類に視線を落とした。智臣は書類を受け取り、内容に目を通す。「分かった。確認しておく」 「お願いします」 それだけのやり取りなのに、俺はいつもより早く頭を下げて、その場を離れた。 背中に視線を感じた気がしたけれど、振り返ることはできなかった。 湊が出ていったあと、智臣はしばらく手元の書類に目を落としていた。 先ほどの湊は、何かを言いかけていた。 この間のことだと言った以上、あの発言について聞こうとしたのだろうか。 もしそうなら、何を聞きたかったのか。 自分の言葉を不思議に思ったのか。それとも、何か別の意味を感じ取ったのか。 考えたところで、本人に聞かなければ分からない。 そう結論づけたはずなのに、智臣の意識は先ほどの湊の表情に戻ってしまう。 目が合った途端に、言葉を止めた湊。何かをためらうように伏せられた視線。「……何を気にしているんだ、俺は」 小さく呟いて、智臣は書類へ目を戻した。 仕事に集中すれば、すぐに忘れるはずだった。 けれど、その日の智臣はいつもより何度も、湊が出ていった扉に目を向けてしまった。 *** 智臣は仕事の合間に、湊が話していた店について調べていた。 営業時間や定休日、予約の要否。調べること自体は、さほど手間ではない。 ただ店の情報を確認しているうちに、湊が何を気に入っていたのか、どんな料理を食べたいと思っているのか
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