All Chapters of 婚約者に売られ、親友に顔を奪われた私は、二度目の人生で全てを取り戻す: Chapter 201 - Chapter 210

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少し先の約束

 たい焼きを食べ終えたあとも、綾香と遥臣は商店街を歩いていた。 手はつないだままだ。 最初の頃なら、こんなふうに歩いているだけで意識してしまったはずなのに、今は離す方が不自然に思える。「あ、見て」 綾香が足を止めた。 店先に、小さなガラス細工が並んでいる。 花や動物をかたどったものから、色鮮やかな小瓶まである。「綺麗ね」「欲しいのか」「見てるだけよ」 そう言いながら、一つずつ眺める。 青い花をかたどった小さな置物が目に入った。 母の手帳から落ちた押し花を思い出す。「これ、お母様が好きそう」「青い花か」「ええ」 綾香が手に取ろうとすると、遥臣が先にそれを取った。「これでいいのか」「え?」 そのまま店の奥へ向かおうとする。「ちょっと待って。買ってくれるの?」「欲しいんだろ」「欲しいとは言ってないわ」「ずっと見てただろ」「それは……」 否定できない。「でも、自分で買えるわよ」「知ってる」「じゃあ、どうして」「買いたいから」 あまりにも当然のように言われて、綾香は黙ってしまった。 遥臣はそのまま会計を済ませる。 小さな箱に入ったガラスの花を渡され、綾香はそっと受け取った。「……ありがとう」「ああ」「大切にするわ」「そんな大げさなものじゃないだろ」「値段の話じゃないの」 綾香が言うと、遥臣は何も返さなかった。 ただ、少しだけ視線を逸らした。◇◆◇ 商店街を抜けた先に、小さな公園があった。 二人はベンチに座り、休憩することにした。 綾香は買ってもらった箱をバッグへしまう。「どこに飾ろうかしら」「好きなところに置け」「お母様の写真の近くにしようかな」「いいんじゃないか」「それとも、机の上もいいわね。毎日見えるし」 そこまで言って、綾香は笑った。「迷うわ」「二つ買えばよかったな」「そういう問題じゃないでしょう?」 遥臣もわずかに笑う。 穏やかな午後だった。 黒い車のことも。 父のタイヤのことも。 何も解決してはいない。 それでも、一日中そのことばかりを考えている必要はない。 綾香は隣に座る遥臣を見た。「ねえ」「何だ」「この前、日帰り温泉に行ったでしょう?」「ああ」「今度はもう少し遠くへ行ってみたいわ」「どこに」「まだ決めてないけど……海とか」「海?
last updateLast Updated : 2026-09-24
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見覚えのある車

 週末が明けると、父はいつものように仕事へ戻った。 タイヤに刺さっていた釘についても、その後は特に変わったことはなかった。 ほかのタイヤに異常はなく、車にも細工らしいものは見つからなかったという。 父はすっかり気にしていない。 綾香も、それでいいと思うことにした。 偶然だった可能性の方が、ずっと高いのだから。「行ってくるよ」「ええ。いってらっしゃい、お父様」 玄関で父を見送る。 迎えの車が門を出ていくまで眺めてから、綾香は屋敷へ戻ろうとした。 その時だった。 道路の少し先に、黒い車が停まっている。 綾香の足が止まった。 以前なら、それだけで胸がざわついていた。 けれど今は違う。 バッグからスマートフォンを取り出し、保存していたメモを開く。 ナンバー。 目を凝らして、道路の先の車を見る。「……違う」 数字が違った。 車種は同じ。 色も同じ。 けれど、先日撮影した車ではない。 ほどなく黒い車は走り出し、何事もなく角を曲がって消えていった。 綾香はその場で小さく息を吐いた。「やっぱり、そういうこともあるのね」 街を走る車なのだから、同じ車種くらいいくらでもある。 これまで見た黒い車も、すべて同じだったとは限らない。 記録しておいてよかった。 不安を裏付けるためではない。 不安が間違っていると確認するためにも、記録は役に立つ。◇◆◇ 昼過ぎ。 父から短いメッセージが届いた。『今日は夕食までに帰るよ』 綾香は安心してスマートフォンを置いた。 その直後、また通知が鳴る。 今度は理央だった。『この前は急にお邪魔してごめんね』『お父さんにもよろしく伝えておいて』 それだけだった。 綾香はしばらく画面を見たあと、『分かったわ』 とだけ返した。 理央からのメッセージは、それ以上続かなかった。 以前なら、そのことにも意味を探したかもしれない。 なぜ今日は予定を聞かないのか。 なぜ父のことを口にしたのか。 けれど、考え始めれば何にでも理由をつけられる。 綾香はスマートフォンを伏せた。 理央を警戒する理由は、前の人生だけでも十分にある。 だからこそ、今の出来事まで無理に理央へ結びつける必要はない。 証拠のあることと、ないことを混ぜれば、本当に見るべきものを見失う。 そう思った時、屋敷の
last updateLast Updated : 2026-09-25
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考えすぎ

 夕方、父が帰宅すると、綾香は昼間に受け取った名刺を渡した。「今日、この方がいらしたわ」「ああ、彼か」 父は名刺を見るなり、あっさり頷いた。「知っているの?」「もちろん。直接の取引先ではないが、仕事で何度か顔を合わせているよ」「そうなの?」 思わず聞き返すと、父が不思議そうに綾香を見る。「どうしたんだ?」「だって、会社じゃなくて家に来たのよ。お父様にご挨拶したいって」「近くまで来たついでだろう。あの人なら、それくらいはするよ」「アポイントもなしに?」「昔からの付き合いでは、そう珍しくもないさ。私がいなければ名刺だけ置いて帰るつもりだったんだろう」 実際、男は父が不在だと分かると、屋敷へ上がろうともせず、名刺だけを残してすぐに帰った。 綾香は少し恥ずかしくなった。「……怪しい人なのかと思ったわ」「怪しい?」 父が目を丸くする。 そして、声を上げて笑った。「それだけで怪しい人にされたら、彼も気の毒だな」「もう、お父様」「ははは。悪かったよ」 父はまだ楽しそうだ。「でも、最近の綾香は少し心配しすぎじゃないか?」「そんなこと……」 ない、と言い切れなかった。 黒い車。 タイヤに刺さっていた釘。 知らない会社から届いた贈り物。 そして今日の訪問者。 一つ一つを取り出してみれば、何もおかしくないことも多い。 今日だってそうだ。 綾香には知らない人だった。 ただ、それだけだったのだ。「前はそんなに私の仕事相手を気にしていなかっただろう?」「……そうね」「まあ、心配してくれるのは嬉しいけどね」 父はそう言って、綾香の頭を軽く撫でた。「私は元気だよ」「分かってるわ」「それに、何か変わったことがあれば綾香にも話す」「本当に?」「ああ。だから、何でも一人で心配しなくていい」 綾香は少しだけ笑った。「じゃあ、約束よ」「約束する」◇◆◇ 自室へ戻り、綾香はスマートフォンのメモを開いた。 昼間、あの男について書き残していた。 名前。 会社名。 訪問時間。 そして、黒い車。 綾香はそれを眺めてから、最後に一行を書き加えた。『父の仕事上の知人。近くへ来たため挨拶に寄っただけ。問題なし』「……本当に、考えすぎだったわね」 声に出すと、少しおかしくなった。 黒い車についても、今日だけで違
last updateLast Updated : 2026-09-25
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平日の夕食

 待ち合わせ場所に着くと、遥臣はすでに店の前に立っていた。「早いわね」「お前が遅い」「約束の五分前よ?」「俺は十分前に着いた」「それは遥臣が早すぎるの」 言い返しながら、綾香は笑った。 連れてこられたのは、駅から少し離れた小さな洋食店だった。「ここ、遥臣が選んだの?」「ああ」「よく来るの?」「病院の奴と何度か」「そうなのね」 遥臣が普段使っている店。 そう思うと、観光地や美術館へ連れていってもらうのとは少し違う嬉しさがあった。 向かい合って座り、メニューを開く。「何がおいしいの?」「ハンバーグ」「じゃあ、それにするわ」「即決か」「遥臣がおいしいって言うなら、食べてみたいもの」 遥臣がわずかに視線を逸らす。「……そうか」「何?」「別に」 最近、この反応も分かるようになってきた。 照れている。 そう指摘すれば否定するだろうから、綾香は黙っておくことにした。◇◆◇ 料理が運ばれてくると、綾香は一口食べた。「おいしい」「だろ」「遥臣が作ったわけじゃないでしょう?」「勧めたのは俺だ」「じゃあ、遥臣のお手柄ということにしてあげる」「何で上からなんだ」 また笑う。 こんなふうに平日の夜に会うのは初めてだった。 週末のデートとは違う。 仕事帰りの遥臣と待ち合わせて、夕食を食べて、それぞれ家へ帰る。 特別なことは何もない。 けれど綾香には、それが新鮮だった。「今日、何してた」 遥臣が聞いた。「家にいたわ。少しだけ騒ぎはあったけど」「騒ぎ?」「知らない方が突然いらしたの」 遥臣の表情がわずかに変わる。「大丈夫だったのか」「大丈夫。お父様の仕事のお知り合いだったわ」「そうか」「私ったら、怪しい人かもしれないって警戒してしまって。お父様に笑われたの」「最近いろいろあったからだろ」「ええ。でも、何でも疑うのはよくないわね」 綾香は水を一口飲んだ。「黒い車もそう。今日、同じ車種を二台見たけど、どちらもナンバーが違ったの」「なら、前に見たのも全部同じとは限らないな」「そうなのよ」 遥臣はそれ以上、何かを推測しなかった。 そのことに綾香は少し安心する。「でも、前に怖かったのまで勘違いだったとは思わなくていい」「え?」「あの時は怖かったんだろ」「……ええ」「なら呼んで正解
last updateLast Updated : 2026-09-26
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父の昔話

 翌朝。 綾香が朝食を終えて紅茶を飲んでいると、父が新聞から顔を上げた。「昨日は帰りが遅かったね」「遅いってほどじゃないでしょう?」「私よりは遅かった」「お父様が昨日は早かったのよ」 父は新聞を畳みながら笑った。「九条君かい?」 綾香の手が止まる。「……どうして分かるの?」「最近の綾香が楽しそうに出かける相手なんて、一人しかいないじゃないか」「そんなに分かりやすい?」「父親だからね」 少し得意げに言われ、綾香は困ってしまう。「夕食を食べただけよ。遥臣の仕事が早く終わったから」「平日にも会うようになったのか」「悪い?」「まさか。いいことだよ」 父は嬉しそうに紅茶を飲んだ。「昔のお母さんを思い出すな」「お母様?」「ああ。付き合い始めた頃、よく仕事帰りに呼び出された」 綾香は思わず身を乗り出した。「お父様がお母様を誘ったんじゃなくて?」「もちろん私から誘うこともあったよ。でも、あの人は思いついたらすぐだったからね。『今からご飯を食べない?』って」「意外だわ」「断ると機嫌が悪くなる」「それはちょっと分かる気がする」「だろう?」 二人で笑う。「どんなところへ行ったの?」「普通の店だよ。会社の近くの洋食屋とか、蕎麦屋とか」「お母様が?」「またその顔だ」「だって、私の知っているお母様とは違うんだもの」 綾香の記憶にある母は、いつも綺麗にしていた。 家族で出かける時も、きちんとした服を着ていた。 だから父と二人で仕事帰りの店に入り、たい焼きの餡に文句を言っていた姿など、なかなか想像できない。「綾香の前では母親だったからな」 父が穏やかに
last updateLast Updated : 2026-09-26
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少しだけ先の未来

 数日後。 綾香がリビングへ入ると、父が旅行雑誌を広げていた。「お父様、どこかへ行くの?」「いや。片づけていたら出てきたんだよ」 ずいぶん古い雑誌だった。 父がページをめくると、温泉街の写真が現れる。「あ」 綾香には見覚えがあった。「ここ、箱根?」「そうだよ」「前に写真を見せてくれたところ?」「ああ。綾香が小さい頃、三人で行ったところだ」 以前、母と父と幼い自分が浴衣姿で写った写真を見つけた。 母からアイスを半分もらったことまで、あの時に思い出した。「また行こうって話したわね」「覚えていたか」「もちろんよ」 父は少し考えてから、雑誌を綾香の方へ押した。「なら、本当に行くか?」「え?」「二人で。日帰りでも一泊でもいい」「行きたい!」 即答すると、父が笑う。「ずいぶん食いつきがいいな」「だって、お父様と旅行なんて久しぶりでしょう?」「北海道には一人で追い出されたからな」「追い出したんじゃないわ。休んでもらったの」「似たようなものだよ」「全然違うわよ」 言い返しながらも、綾香は雑誌を覗き込んだ。 古いものだから、載っている店や旅館は今とは違うかもしれない。 それでも、見ているだけで楽しい。「ここにも行った?」「どうだったかな」「お母様は?」「覚えてないなあ」「もう。肝心なところを忘れてるじゃない」「何年前だと思ってるんだ」 父は笑いながら、別のページを開いた。「でも、お母さんが土産物屋でずいぶん長いこと悩んでいたのは覚えてるよ」「何を買ったの?」「結局、何も買わなかった」「そんなに悩んだのに?」
last updateLast Updated : 2026-09-26
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約束の前に

 箱根へ行く日程は、思ったより早く決まった。 父の仕事が比較的落ち着いている週末に、一泊することになったのだ。「日帰りでもよかったのに」 夕食の席で綾香が言うと、父は首を振った。「せっかく行くんだ。慌ただしく帰ってくる必要もないだろう」「お仕事は大丈夫?」「一日くらい休ませてくれ」「それならいいけど」 以前なら、父が仕事を休むと言えば安心しただろう。 今ももちろん安心する。 けれど、それだけではなかった。 父と旅行できることそのものが楽しみだった。「どこに泊まる?」「綾香が決めていいよ」「それじゃ、昔泊まったところは?」「まだあるのかな」「調べてみましょうよ」 二人でスマートフォンを覗き込み、昔の写真と現在の宿を見比べる。 建物は改装されていたが、旅館そのものは今も残っていた。「ここじゃない?」「ああ、たぶんそうだ」「じゃあ、ここがいいわ」「即決だな」「お母様と一緒に行った場所だもの」 父は少しだけ懐かしそうに画面を眺めた。「そうだな。じゃあ、ここにしよう」 綾香は嬉しくなって、そのまま予約画面を開いた。◇◆◇ 翌日。 綾香が庭で花を眺めていると、使用人から来客を告げられた。 理央だった。 父に仕事の用があったらしい。 しばらくして用事を終えた理央が庭へ出てくる。「綾香」「理央」「ここにいたんだね」「ええ」 理央は綾香の隣まで来ると、花壇へ目を向けた。「最近、よくここにいるね」「そうかしら」「前より花を見るようになった気がする」 綾香は少しだけ意外に思った。 理央がそんなことまで覚えているとは思わなか
last updateLast Updated : 2026-09-26
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母と歩いた場所

 箱根へ向かう朝。 綾香が玄関へ下りると、父はすでに準備を終えて待っていた。「遅いぞ」「まだ出発時間の十分前よ」「旅行の日くらい早く来るかと思っていた」「子供じゃないんだから」 そう言いながらも、綾香は笑った。 父と二人だけで旅行をするのは、いつ以来だろう。 少なくとも母が亡くなってからは一度もなかった。 車に乗り込み、しばらくすると見慣れた街並みが遠ざかっていく。「お母様と来た時も、車だった?」「ああ」「私、車の中で寝てた?」「行きも帰りもな」「全然覚えてないわ」「帰りなんて、お母さんに抱かれたまま起きなかったぞ」「私、そんなに小さかった?」「小さかったよ」 父は懐かしそうに笑った。「着いた途端にはしゃいで、帰る頃には電池が切れてた」「子供なんだから仕方ないでしょう?」「お母さんも同じことを言ってたな」 そんな話をしているうちに、箱根へ着いた。◇◆◇ 旅館へ荷物を預け、二人で周辺を歩くことにした。 昔の記憶と同じ場所もあれば、まったく覚えていない場所もある。「ここ、来たことある?」「あるよ」「本当に?」「あの店で綾香がソフトクリームを落として泣いた」「嘘でしょう?」「本当だ」「そんなこと全然覚えてないわ」「お母さんが自分のを半分くれたら、すぐ泣き止んだ」「……食べ物ばっかりね、私の思い出」「子供なんてそんなものだ」 父が笑う。 綾香も笑いながら、店先を覗いた。 今は別の店になっているようだった。 母と来た時と、すべてが同じなわけではない。 当たり前だ。 時間は止まっていない。
last updateLast Updated : 2026-09-26
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お母様がいた部屋

 夕方、綾香と父は旅館へ戻った。 案内された部屋に入ると、綾香は窓辺へ向かった。 山の向こうへ傾き始めた日が、木々を柔らかく照らしている。「綺麗ね」「ああ」「昔もこの部屋だったの?」「いや、違うと思う。もっと小さい部屋だったはずだ」「さすがに同じ部屋までは分からないわよね」「旅館だって改装してるからな」 それでも、母もこの旅館のどこかから同じ山を眺めたのだろう。 そう思うだけで不思議な気持ちになった。「お母様、浴衣は何色だった?」「そこまで覚えてないよ」「お父様、全然覚えてないじゃない」「二十年以上前の旅行を細部まで覚えてる方が怖いだろう」「写真を見れば分かるかしら」 綾香はスマートフォンを取り出した。 以前見つけた家族写真を撮影して保存してある。 三人で並んだ写真を拡大すると、母は淡い色の浴衣を着ていた。「あら。私、お母様と同じ柄?」「子供用と大人用で揃えてもらったんじゃなかったかな」「そうだったの?」「お母さんが喜んでた記憶はある」 綾香は写真をじっと見る。 幼い自分は母の隣で笑っている。 その小さな手を、母が握っていた。「この時のお母様、幸せだったのかな」 何気なく口にすると、父が綾香を見る。「幸せだったよ」 迷いのない答えだった。「どうして分かるの?」「本人が言ってたから」「え?」 父は少し笑った。「綾香が寝たあとだったかな。子供がいる旅行は大変だって話をしてたんだ」「私、そんなに大変だった?」「ずっと走り回ってたからな」「もう、それはいいでしょう」「お母さんも疲れたって言ってたよ。それで――」 父は窓の外へ目を向けた。「大変だけど、こういうのが幸せなのかもねって」 綾香は何も言えなかった。 母が亡くなったあとのことばかり考えていた時には、想像もしなかった。 母には確かに、幸せだった時間もあったのだ。「……そう」「ああ」「よかった」 それだけ言うと、胸の奥が温かくなった。◇◆◇ 夕食を終え、温泉から戻ったあと。 綾香は浴衣姿の父を捕まえた。「写真を撮るわよ」「またか?」「昔と同じような写真が欲しいの」「二人しかいないぞ」「分かってるわ」 母がいないことを、なかったことにしたいわけではない。 今の二人で、今の写真を残したかった。 旅館の人に頼み
last updateLast Updated : 2026-09-27
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帰ってからも

 翌朝。 朝食を終えた綾香と父は、旅館を出る前にもう一度周辺を散歩することにした。 昨日より少し空気が冷たい。「お父様、寒くない?」「これくらい平気だよ」「北海道から帰ってきたばかりだからって、油断しないでよ」「綾香は本当に心配性になったな」「誰のせいだと思ってるの?」「私なのか?」「そうよ」 父が笑う。 綾香も笑いながら、その隣を歩いた。 道の途中で、小さな橋が見えてくる。 父がふと足を止めた。「ここは覚えてるな」「来たことがあるの?」「ああ。お母さんと綾香と三人で写真を撮った」「本当?」「たぶん家にも残ってるぞ」 綾香は橋を見渡した。 特別な場所には見えない。 けれど、母もここに立っていた。「じゃあ、今日も撮りましょう」「また写真か」「昨日言ったでしょう? たくさん撮るって」 父の腕を引き、橋へ向かう。 今度は通りがかった夫婦に頼んで、二人の写真を撮ってもらった。 撮影を終え、スマートフォンを確認する。「いい写真ね」「昨日から何枚撮ったんだ?」「まだ百枚も撮ってないわよ」「そんな基準なのか」「旅行なんだから普通でしょう?」 綾香は写真を眺めながら笑った。 家へ帰ったら、昔の写真を探してみよう。 同じ橋で撮った三人の写真が見つかったら、今日の写真と並べて残しておきたい。◇◆◇ 帰りの車の中。 綾香は撮った写真を一枚ずつ見返していた。 景色。 料理。 旅館。 父との写真。 そして、母が買おうとしていたかもしれない寄木細工の箱。「楽しかった?」 隣から父が
last updateLast Updated : 2026-09-27
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