「俺の母です」 直人が答えた。 英明は何も言わなかった。卓を挟んだまま、直人の顔を見つめている。 「母から、あなたのことを聞いたことはありませんでした。俺も最近、若菜から知らされたんです」 直人は一度、息を吸った。 「俺は、あなたと郁美の子です」 祥子がソファの肘掛けをつかんだ。 英明はゆっくり首を振った。 「そんなはずはない。郁美に子どもがいたなんて、俺は……」 声が途切れた。 若菜は、郁美の名を知っている人の顔を見ていた。 直人に似ているかではない。郁美がひとりで息子を育てたことを、この人は今、初めて聞いている。 「郁美は、今どこにいる」 直人の唇が固くなった。 「亡くなりました」 英明の手が卓の縁を滑り、膝へ落ちた。 「亡くなった?」 「はい」 それ以上、直人は続けなかった。 英明は部屋の奥を見た。そこに何かあるわけではない。 若菜もつられて目を向け、閉じたカーテンから戻した。 何を思い出しているのかは分からない。 けれど、生きていると思っていた人には、もう会えない。その事実を受け取るまでの沈黙だった。 「若菜さん」 祥子が呼んだ。
Zuletzt aktualisiert : 2026-10-21 Mehr lesen