「あなたに、生きていてほしかったから」直人の眉が寄った。若菜は伏せた携帯の横で、両手を重ねた。口にしてしまえば、あまりにも身勝手な答えに聞こえた。それでも、あのとき何を恐れていたのか、直人に話さなければならなかった。「それと、圭吾さんとの結婚がどうつながる」「郁美さんの治療費を教えてくれたでしょう。あのときから、ずっと怖かった」直人はうなずかなかった。若菜を見たまま、続きを待っていた。あのとき、直人は新しい薬の費用を教えてくれた。最初の投薬に3億円。そのあとも、毎月1,000万円。若菜が聞き返すと、直人は同じ金額を繰り返した。「治るわけじゃない。進行を抑えて、少しでも長く生きるための治療だ」少しでも長く。その言葉にすがりたかった。けれど若菜には、働いて何年分ためれば届く金額なのか、考えることさえできなかった。「お金があれば、郁美さんは受けられるの?」「受けられる治療はある。でも、うちでは出せない」治療があることを知っているのに、自分の母親には受けさせられない。医師である直人がそう言うことが、若菜には怖かった。郁美の病気は遺伝することがある。直人にも同じ病気の原因があり、将来、発症する可能性が高いのだと、そのとき初めて聞いた。「俺も、50代になれば母さんと同じようになるかもしれない」若菜が何か言おうとすると、直人は首を振った。「そのとき俺に、こんな治療費は払えない」まだ先のことだとは思えなかった。今、目の前で話している人が、郁美と同じように失われてしまう。そう話した直人の顔が、ずっと忘れられなかった。「お金がなくても、あなたと一緒にいられればいいと思ってた」個室の向かいにいる直人へ、若菜は言った。「でも、お金がないから生きられないことがあるって、知ってしまった」琴音とふたり、空腹をこらえていたころには、明日の食事のことしか考えられなかった。郁美の家では、食べ終わったあとも席にいてよかった。琴音が話し、直人が笑い、郁美が若菜にも話を向けてくれる。いつまでも座っていたいと思う食卓を、初めて知った。その家から、郁美がいなくなる。いつか直人まで。「そのあと、湊がお腹にいると分かったの。あなたの子だと思ったら、うれしかった」直人の視線が、若菜の手元へ下がった。「でも、この子まで同じ病気で失うかもしれないと
Zuletzt aktualisiert : 2026-10-08 Mehr lesen