Alle Kapitel von 夫を送る日、息子はいなかったーー榊原家の秘密: Kapitel 21 – Kapitel 30

53 Kapitel

21話

「あなたに、生きていてほしかったから」直人の眉が寄った。若菜は伏せた携帯の横で、両手を重ねた。口にしてしまえば、あまりにも身勝手な答えに聞こえた。それでも、あのとき何を恐れていたのか、直人に話さなければならなかった。「それと、圭吾さんとの結婚がどうつながる」「郁美さんの治療費を教えてくれたでしょう。あのときから、ずっと怖かった」直人はうなずかなかった。若菜を見たまま、続きを待っていた。あのとき、直人は新しい薬の費用を教えてくれた。最初の投薬に3億円。そのあとも、毎月1,000万円。若菜が聞き返すと、直人は同じ金額を繰り返した。「治るわけじゃない。進行を抑えて、少しでも長く生きるための治療だ」少しでも長く。その言葉にすがりたかった。けれど若菜には、働いて何年分ためれば届く金額なのか、考えることさえできなかった。「お金があれば、郁美さんは受けられるの?」「受けられる治療はある。でも、うちでは出せない」治療があることを知っているのに、自分の母親には受けさせられない。医師である直人がそう言うことが、若菜には怖かった。郁美の病気は遺伝することがある。直人にも同じ病気の原因があり、将来、発症する可能性が高いのだと、そのとき初めて聞いた。「俺も、50代になれば母さんと同じようになるかもしれない」若菜が何か言おうとすると、直人は首を振った。「そのとき俺に、こんな治療費は払えない」まだ先のことだとは思えなかった。今、目の前で話している人が、郁美と同じように失われてしまう。そう話した直人の顔が、ずっと忘れられなかった。「お金がなくても、あなたと一緒にいられればいいと思ってた」個室の向かいにいる直人へ、若菜は言った。「でも、お金がないから生きられないことがあるって、知ってしまった」琴音とふたり、空腹をこらえていたころには、明日の食事のことしか考えられなかった。郁美の家では、食べ終わったあとも席にいてよかった。琴音が話し、直人が笑い、郁美が若菜にも話を向けてくれる。いつまでも座っていたいと思う食卓を、初めて知った。その家から、郁美がいなくなる。いつか直人まで。「そのあと、湊がお腹にいると分かったの。あなたの子だと思ったら、うれしかった」直人の視線が、若菜の手元へ下がった。「でも、この子まで同じ病気で失うかもしれないと
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-10-08
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22話

「俺に話したら、その暮らしが壊れると思ったのか」若菜はうなずいた。直人は椅子の背にもたれ、天井へ目を向けた。しばらくして顔を戻したが、若菜を見ようとはしなかった。「俺が知らないままなら、続けられたんだな」膝の上で、若菜の指がスカートをつかんだ。圭吾と湊のそばで笑っていた。その時間を大切に思うほど、直人には言えなくなった。今、傷ついた顔を前にしても、幸せではなかったとは言えなかった。「……そう思ってた」廊下を誰かが通り、隣の部屋で食器の触れ合う音がした。直人のカップは、卓の脇へ寄せられたままだった。若菜は隣の椅子に置いたバッグを見た。今夜渡そうと、家を出る前にまとめたものが入っている。「見てもらいたいものがあるの」直人が顔を上げた。若菜はバッグを膝へ移し、紙の束を挟んだファイルを取り出した。伏せていた携帯を自分のほうへ寄せ、空いた卓の中央にファイルを置く。直人は手を出さなかった。「何だ」「あの病気の研究と、治療のこと。私が調べて、残してきたもの」公開されている研究の経過を印刷した紙。相談窓口でもらった案内。その間に、自分で書いたメモを挟んでいた。どこまで研究が進んだのか。治療が必要になったら、どこへ相談すればいいのか。分からなかったことには印をつけ、調べた日付も残した。「あなたなら、もう知っていることも多いと思う。でも、読んでもらいたい」直人は表紙を見ていた。若菜はファイルから手を離し、バッグを隣の椅子へ戻した。持って帰れと言われたら、しまおう。そう思って待つ間、表紙の角がわずかに曲がっていることばかり気になった。家で何度も開いては閉じ、最後にバッグへ入れた。直人がファイルを引き寄せた。最初の紙に目を通し、次をめくる。若菜のメモが出てくると、印刷された文字より長く、そこに目を留めた。「これも、お前が?」「うん。読んでも分からなくて、あとで調べようと思って」直人の指が、紙の隅の日付をなぞった。少し前のものも、何年も前のものもある。「今も、調べていたのか」「うん」答えると、直人はもう一度、最初のページへ戻った。若菜はその手元を見ていた。ひとりで読んでいた紙を、直人が読んでいる。分からない言葉に出会うたび、この人に聞けたらと思った。連絡先を開くこともできないまま、質問だけを増やしていた。「少
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-10-08
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23話

「うん。これからは、私から知らせる」 若菜が答えると、直人は隣の椅子から上着を取った。 その脇に置いたファイルも、一緒に持ち上げる。 返されずに済んだ。そのことがうれしくて、けれど、喜んだ顔を見せていいのか分からなかった。 「今日は、聞いてくれてありがとう」 直人は上着に腕を通した。 「……読んだら、連絡する」 若菜はうなずき、卓に伏せていた携帯をバッグへしまった。直人が個室の扉を開ける。ファイルは、彼の手にあった。 許してもらえたわけではない。次に会う約束もしていない。 それでも、もう二度と連絡できないかもしれないと思っていた相手が、今は湊の話を聞きたいと言ってくれている。 バッグを持って立ち上がり、直人に続いて廊下へ出た。 …… 翌日の昼、祥子は実家の鷺宮邸を訪ねた。 応接室の窓の向こうには、松の影が白い砂利へ落ちている。 使用人が低い卓に茶を置いて退出すると、向かいの雅臣が身を乗り出した。 「英明との検査は、どうなった」 祥子はバッグを隣へ置いた。 「……祖父と孫だと、認められたわ」 兄は眉を上げた。祥子は、その顔を見ていられず茶碗へ目を落とす。 「英明さんは皆の前で、湊くんを孫として扱えないと言ったことを取り消したの。跡継ぎとして育てるとも言ったわ」 
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-10-10
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24話

「どうして私が、修哉さんを勧めるんですか」 若菜は廊下に立ったまま尋ねた。 「修哉が会社へ入れば、湊くんの力になれるでしょう。兄も、あなたに直接話したいと言っているの」 居間から、絵本をめくる音が聞こえた。 湊を助けるという話なのに、母親の自分だけが、何を頼まれるのか分からずにいる。 若菜は開いた扉へ目を向けた。手伝ってもらえるのはありがたい。けれど、先にうなずくことはできなかった。 「お話は聞きます。返事は、それからでもいいですか」 「ええ。明日はどう?」 若菜は予定を確かめ、湊を幼稚園へ送ったあとの時間を伝えた。 祥子が兄に確認すると言い、折り返しの連絡で約束が決まった。 …… 翌朝、湊を園へ送った若菜は、約束の時間に鷺宮邸を訪れた。 応接室には、祥子と兄の雅臣が並んで座っていた。 勧められた入口側の椅子へ腰を下ろし、バッグを脇に置く。 窓の向こうでは、手入れされた松が白い砂利に影を落としていた。 使用人が茶を置いて出ていくと、雅臣が口を開いた。 「修哉に経営へ加わってもらい、湊くんを支えさせたい。あなたからも、英明に勧めてくれないだろうか」 「修哉さんのことを、私はよく存じ上げません」 「そのために、今日来てもらったのよ」 祥子は若菜へ向き直り、声を和らげた。 「あなたと湊くんだけで頑張らなくてもいいの
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-10-11
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25話

「圭吾が望んでいたと言ってもらう話までは、修哉にはしていない」雅臣の答えを聞き、若菜は椅子の脇のバッグを膝へ戻した。「では、私がお断りしたことも伝えてください」祥子は何も言わなかった。若菜はふたりへ一礼し、応接室を出た。助けが欲しかった。断ってよかったと思っても、その気持ちまでなくなったわけではない。帰宅すると、雅臣から電話があった。話を聞いた修哉が、直接会いたいと言っているという。また説得されるのだろうか。迷った末に、若菜は同席者を確かめた。修哉と雅臣だけだった。本人の言葉を、一度は聞いてみたい。若菜は次の登園日の午前に訪ねると答えた。……約束の朝、鷺宮邸の応接室へ入ると、窓側にいた修哉が立ち上がった。「お時間をいただいて、すみません」低い声で頭を下げ、若菜が挨拶を返すのを待つ。若菜は前と同じ入口側の椅子へ座った。修哉は向かい、雅臣は横手に腰を下ろす。窓の外には、白い砂利と松の影が見えた。この庭を眺めながら、圭吾の望みだったと言ってほしいと頼まれた。今日は本人を前に、同じことを断るのだろうか。使用人が茶を置いて退室すると、修哉が口を開いた。「父から聞きました。圭吾さんの言葉として話してほしいと頼んだことも、お断りになったことも」若菜はうなずいた。「修哉さんは、会社に入りたいんですか」「はい。それは俺の意思です。父に任された仕事だけで終わりたくない。自分がどこまでやれるか、確かめたいんです」はっきりした返事に、若菜は膝の上で手を重ねた。父親が勝手に進めた話だと聞けるのを、どこかで期待していた。「そのために、私から勧めてほしいと?」「俺が何をしてきたかも知らずに、勧めてほしいとは言えません」雅臣が茶碗を置いた。「グループの役員には、もう話してある。修哉を湊くんの支えとして経営へ入れたい、母親にも協力を頼むとね」若菜は雅臣を見た。「いつ、お話しになったんですか」「あなたに来てもらう前だ。賛成してもらったとまでは言っていない」修哉も父へ顔を向けた。「そこまで話を進めていたのか」「先に聞いておかねば、誰が味方になるかも分からんだろう。若菜さんが勧めたとなれば、英明も話を聞く」「その名前は使わないでくれ」修哉の声は大きくなかった。「圭吾さんが言っていないことも、若菜さんが引き受けていないことも、俺を入れる
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-10-15
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26話

【私も、湊のことをもっと知ってほしい。会おう】 若菜はそう返してから、今、電話をしてもいいか尋ねた。 返事を待ち、通話を押す。寝室の扉は閉まっていた。声を落とすと、直人も静かに応じた。 「会わせてくれるのか」 「うん。私も一緒に。近くに公園があるの。最初は、そこで少し話せたらと思って」 携帯を耳へ押し当てながら、言葉を選んだ。 「ただ、湊にはまだ、あなたのことを話していない。お母さんが昔から知っている人だって紹介してもいい?」 直人はすぐには答えなかった。 「あの子が呼んでいたお父さんは、圭吾さんだもの。急に別の人もそうなんだと言われたら、何を信じていいか……」 そこで止めた。直人が会いたいと言ったばかりなのに、会えない理由を並べているようだった。 「ずっと伏せておきたいんじゃないの。どう話すかも、あなたと考えたい」 「……分かった。まず、会いたい。湊がどんなふうに話すのか、俺も聞きたい」 若菜は携帯を握り直した。 「うん。会おう」 都合のつく日を確かめ、公園の場所と時間を送った。 画面に表示された待ち合わせの約束を、若菜はもう一度読み返した。 今度は、送るだけの話ではない。直人の前へ、湊を連れていく。 …… 約束した日の午後、若菜は湊と公園へ向かった。 出かける前に、今日は母が昔から知っている
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-10-16
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27話

次の休み、朝食の皿を片づけてから、若菜は湊の隣に座った。 テレビをつけようとしていた湊が、リモコンを膝へ下ろす。 「この前、公園で遊んだ直人さんのことで、話したいことがあるの」 「あの石、難しかったね」 うれしそうに笑う顔を見て、若菜も一度うなずいた。 この笑顔が変わるのが怖い。けれど、今朝も黙れば、次に直人へ会わせるときも同じことで迷う。 「直人さんはね、湊と血のつながったお父さんなの」 湊は笑うのをやめた。 「お父さん?」 「うん。湊が生まれる前、お母さんと直人さんは、お付き合いしていたの」 湊の目が、棚に置いた圭吾の写真へ向いた。 「じゃあ、お父さんは?」 若菜は急いで説明を続けそうになり、口を閉じた。 今、湊が見ているのは直人ではない。毎晩帰ってきて、眠る前に話を聞いてくれた人だ。 「圭吾さんも、湊のお父さんだよ。ご飯を食べたり、お風呂に入ったり、一緒に暮らしてきたでしょう。それは変わらない」 「ふたり?」 「びっくりするよね。直人さんとは血がつながっているの。でも、一緒に暮らしてきたお父さんが、お父さんじゃなくなるわけじゃないよ」 湊は写真を見たまま黙った。 若菜も待った。 少し前まで自分の膝へ乗ってきた子に、どうしてこんなに難しい話をさせてしまうのだろう。 それでも、分かるまで考える時間まで急がせたくなかった。
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-10-17
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28話

若菜は直人に電話をかけ、本邸から送られてきた予定を伝えた。 「次に会う日も、泊まりに来ることになってる。でも、私は返事をしていないの」 「湊は知ってるのか」 「まだ。まず、私が話す。あなたと会う約束まで、勝手に取り消したくない」 直人はしばらく黙った。 以前なら、会わせられなくなった理由を整えてから知らせただろう。 直人を榊原家と争わせたくない。湊を困らせたくない。 そう考えるたび、誰にも相談しない自分へ戻りそうになる。 「別の日にすれば済む話じゃないんだな」 「うん。これからの週末も、全部決まってるの」 若菜が言うと、直人は息を吐いた。 「話したら、どうなったか教えてくれ。俺も、次に会うつもりでいる」 待つだけではなく、同じ約束を持っていてくれる。そのことが、若菜には心強かった。 電話を切る前に、直人が言った。 「それと、もらった資料の相談先へ連絡した」 若菜は携帯を持ち直した。 「行くの?」 「まず、話を聞いてくる。お前にも、そのあと伝えたい」 …… 数日後の昼前、若菜は相談先に近い喫茶店で直人を待った。 湊は幼稚園にいる。迎えまでにはまだ時間があったが、携帯の時計を何度も確かめた。 扉が開き、直人が入ってきた。こちらに気づくと、手にしていた薄いファイルを少し上げ
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-10-18
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29話

本邸の小応接室で、英明は若菜の持ってきた予定表を見た。 「泊まらせないということか」 「毎週、とは決められません。昼間に伺う日を、そのつど相談させてください」 湊は幼稚園にいる。若菜は、ひとりで来るように言われたわけではない。 それでも、ここで何を聞かれるか分からないまま、湊を隣に座らせたくなかった。 英明は表の最初の日付を指した。 「この日は、何がある」 「湊が、会うのを楽しみにしている人がいます」 「遊びの約束なら、別の日にすればいい」 若菜は英明を見た。湊が電話で確かめてきた顔が浮かぶ。 あのとき、大丈夫だと答えたのは自分だった。 「先に約束しました。今度の午後は、変えません」 隣の祥子がカップを置いた。 「誰なの。その人は、本邸で過ごすより大切な相手?」 「大切です」 自分でも驚くほど、はっきり出た。 祥子の目が細くなった。 「誰かと会わせているのね。私たちには知られたくない人?」 若菜は膝の上で手を重ねた。この部屋で名を言えば、自分だけでなく直人の生活も変わる。 昨日までなら、それを理由に黙り続けただろう。 「その人にも関わることです。本人と話してから、私からお伝えします」 「ずいぶん都合がいいのね」 「今日お返事できるのは、宿泊の予定は受けら
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-10-19
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30話

翌日の夕方、若菜は直人と並んで本邸の玄関を上がった。 湊は自宅で琴音と過ごしている。 出がけに、何時に帰るのか尋ねたのは琴音だった。 若菜は、遅くなるなら必ず連絡すると答えた。 相馬に案内され、小応接室へ入る。 英明はソファに座ったまま、直人を足元から見上げた。 隣の祥子も、挨拶を返したきり黙っている。 「藤井直人です」 直人は名乗って頭を下げた。 相馬が椅子を勧め、部屋を出た。扉が閉まると、英明が口を開いた。 「湊の父親の話とは何だ」 若菜は鞄を足元へ置いた。言うことは、来る前に何度も確かめた。 それでも、英明の前では舌が乾いた。 「湊の実の父親は、直人さんです」 祥子の肩が動いた。 英明は若菜を見たあと、直人へ視線を移した。しばらくして、卓の上に置いた手を握る。 「何を言っている」 「私が圭吾さんと結婚する前に、お付き合いしていた方です」 「俺と湊には血がつながっていた。結果は、お前も見ただろう」 「見ました。あの結果を否定しているのではありません」 祥子が身を乗り出した。 「やっぱり、最初の検査が正しかったのね」 若菜は祥子を見た。 「あれほど、誰の歯ブラシか分からないと言っておいて。あなたは父親が別にいる
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-10-20
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