4 Answers2025-10-23 13:19:23
舞台化の話になると、まず原作の立場と舞台化を手がける人間の役割がどう分かれているかを考える必要がある。
'ワイルドストロベリー'はもともとイングマール・ベルイマンが映画の脚本も手がけた作品で、映画版の台詞や場面構成は監督自身の筆によるものだと私は認識している。とはいえ、映画脚本を書いた作者が舞台用の脚色まで自ら行うケースはそれほど多くない。映画と舞台では演出の前提や時間配分、登場人物の表現方法が違うため、舞台化の際には別の脚本家や翻案者がクレジットされることが一般的だ。
実際の上演における脚本担当は、その公演ごとのクレジットを見ないと断言できないが、過去の例を見れば映画の原作者がそのまま舞台脚本を担当するのは例外的だ。劇場プログラムや公式発表を確認すると、担当者の名前が明示されているはずだという点は心に留めている。
4 Answers2025-10-23 08:02:01
混同しやすい話題だから丁寧に整理しておくよ。
私が調べた限り、『ワイルドストロベリー』はそもそも映画作品で、原作の小説が存在するわけではない。正式なスウェーデン語タイトルは『Smultronstället』で、イングマール・ベルイマンが脚本と監督を務めたオリジナル映画だ。だから「原作小説がどの出版社から出たか?」という問いには、厳密には答えがない。小説としての原典が存在しないため、出版社名は存在しないのだ。
それでも混乱が生まれるのは、映画作品が後になって脚本や解析本、翻訳本として書籍化されるケースがあるためだ。そうした書籍がどの出版社から出ているかを探すのは意味があるけれど、それは「原作小説」ではなく脚本集や研究書という扱いになる。僕は映画史や脚本集を何冊か見てきたけれど、『ワイルドストロベリー』の「原作小説」は存在しない、という点だけは明確に伝えたい。
1 Answers2025-10-23 11:51:41
読むたびに場面が頭に浮かぶんだ。まず、原作の結末は登場人物の内面がゆっくりと解けていくような描写が中心で、感情の微妙な揺らぎや記憶の層が最後まで残るタイプだと感じる。言葉の細やかな選び方で読者の解釈を許す作りになっていて、出来事そのものよりも“そこに至る心の距離”が強調されている。だから読後に胸の内で反芻する余地が大きい。
映像作品の終わり方は、同じ物語でも視覚で印象づけるために象徴や具体的な行動で結末を示す傾向がある。たとえばある場面がカットで繋がれたり、音楽で感情を締めくくったりすることで、原作で曖昧にされた部分に映像的な解答が与えられていることが多い。尺の制約や観客に残したい印象の違いから、登場人物の和解や決断がより明確に描かれる。
余白を楽しみたいなら原作の終わり方が刺さるし、視覚的な「完結感」を求めるなら映像版の方が満足度が高い。個人的には両方を比べることで両方の良さが見えてくると思う。