発掘記録や遺物一覧を繰り返し眺めるうちに、証拠の“確かさ”は一様ではないと強く感じるようになった。
アンデスの『Llullaillaco』の子どもミイラほど明瞭なケースは稀だ。高所で氷に包まれて発見された遺体は、衣装や祭具、放射性炭素年代測定、組織保存の良さが揃っていて、宗教的な供儀(キャパコチャ)として行われたことを示す総合的な証拠がある。土器や織物の配置、遺体の安置状況が一貫しており、単なる病死や偶発的な死亡と切り分けられる点が確かだと感じる。
一方で、同じ「
人身御供」という言葉でも地域や時期で意味が大きく変わる。形跡が断片的だと解釈が分かれる。例えば、神殿遺構で刻まれた像や壁画、儀礼用のナイフといった物証は強い手がかりだが、骨の損傷や焼却痕をどう読むかは慎重にならざるをえない。保存状態や掘り出し時の記録、年代測定の精度、比較資料の有無が判断の分かれ目になる。
結局、確かさの度合いは個々の発見ごとに評価するしかない。現地の文脈、遺物群、骨学的データ、そして時には古文書や図像資料も総合して判断するのが現実的だと考えている。