玄関の外から、二度、短くノックの音がした。高田は机の上で動かしていた指を止めた。ちょうど演算アルゴリズムの見直しをしていた最中だったが、その音を聞いた瞬間、頭のなかの処理スレッドが一斉に中断されたように感じた。
立ち上がり、パーカーの袖を引き下ろす。今日もフードは深めに被った。手元のデジタル時計を見ると、午後五時ちょうど。時間通り。大和は、いつも約束の時間から一秒もずれないでやって来る。それが高田のなかでは、すでに“パターン”として記録されていた。
ドアのチェーンはすでに外してある。彼の訪問が二回、三回と続くうちに、そうすることが自然になった。施錠の工程を一つ減らすことで、接触時の身体的ストレスをわずかに軽減できる。それも一種の最適化だと思っていた。
ドアを開ける。視線は上げないまま、ドアの隙間に立つ男の影が、前よりも鮮明に見えた。手には白い紙袋。そこからは、わずかに出汁の匂いがした。記憶にある、それは“前回と違う弁当の種類”だった。
「お疲れさん」柔らかい声がした。
高田は、うなずく代わりに口を開いた。
「……その、重くないですか」
声に抑揚はなかったが、言葉の選び方に自分でも驚いた。想定されていた反応は「どうぞ」か「入ってください」のような形式的挨拶だった。だが出てきたのは“気遣い”の文脈だった。
そのことに気づいてから、ほんのわずかに耳が熱くなるのを感じた。大和の反応を確認しないまま、踵を返し、玄関からリビングへと戻る。
背後から聞こえた「重くないよ、ちょっとええやつやけどな」という声は、どこか弾んでいた。
リビングのテーブルには、書きかけのコードとノートPCが置かれていた。高田はそれを一度端に寄せ、向かいの席に置かれていた小さな布巾を手に取る。自然と身についてしまったこの動作も、たぶん、彼がこの部屋に来るようになってから習慣化されたものだった。
椅子を引く音がして、大和が座った。弁当箱の蓋を開ける手元から、湯気と一緒に匂いが立ち上る。煮物、卵焼き、白ごはん。素材の匂いが混ざりあい、空気の密度が少しだけ変
冷蔵庫の扉を開けたとき、微かに冷気が頬に触れた。整然とした庫内に、見慣れぬ簡易保冷バッグがぽつんと置かれていた。白地に紺のステッチが走ったその小さな布製バッグは、どこか大和の雰囲気に似ていた。目にした瞬間、高田の呼吸が少しだけ詰まった。誰もいない部屋。物音ひとつしない。静寂という名の沈黙が、室内に深く沈んでいた。冷蔵庫の棚からバッグをそっと取り出し、テーブルに置いた。手つきは丁寧で、どこか恐る恐るという印象を含んでいた。ファスナーを開けると、なかにはタッパーがひとつ。普段よりも量が控えめで、消化の良いおかずが並んでいた。白粥のように柔らかく炊かれたご飯、出汁の香りが穏やかな煮物、刻んだ野菜がほのかに甘い卵焼き。すべてが、どこか“気遣い”という言葉に満ちていた。その上に、折りたたまれた紙片が一枚、乗っていた。高田はそれを指先でつまみ、広げる。筆跡は、見慣れた癖のある丸文字だった。《気にせんでええ。また行くわ。》その一文だけが、白い紙の中央にぽつんと記されていた。目を伏せたまま、高田はその紙を両手で持った。視線がその短い文字列に固定される。言葉が頭の中で反響する。気にせんでええ。また行くわ。たったそれだけの文章なのに、そこに込められた意図を完全には読み取ることができなかった。いや、できなかったのではない。読み取りたくなかったのかもしれない。なぜ自分は、あんな言い方をしてしまったのだろう。あのとき、大和が飲み会に誘ってきたとき。胸のなかに咄嗟に生まれた拒否感が、反射的に「無理。行けない」という言葉に変わった。その語調が、どれだけの距離を大和に感じさせたか。いまになってようやく理解が追いついてくる。感情にまつわるすべてが、自分にとっては過負荷だった。喜びも、戸惑いも、怖れも、すべてが閾値を超える処理不能なデータとして押し寄せる。けれど、それをすぐに言語化する術は、自分にはない。言葉は、どこまでも不器用な伝達装置だ。少しの選択ミスで、意味が裏返る。少しの声色の揺れで、信頼が揺らぐ。そして何より、それは“伝えたい”という意志がなければ、存在しえない。
夜の帳が静かに降りて、部屋のなかはいつものように整いすぎていた。機械的に管理された温度、湿度、光量。それらは完璧なはずだったのに、今夜の空気はなぜか胸の奥をざわつかせる。高田はデスクの前に座り、手帳を開いていた。いつものように、手元の鉛筆を持ち、記録の準備をする。だが、指先に微細な震えが走っていた。スクリプトのような筆致で、手帳のページに文字を走らせる。```c// 感情解析:他者接触による心拍変動if(他者に接触→心拍上昇){ 排除モード = on;}```その部分までは、いつもの処理と同じだった。想定された範囲の反応。だが、次の行に手を移したとたん、鉛筆の先が紙の上で迷った。```cif(相手 == 大和){ 排除不可; 接近による安心感 = 存在;}else { 新しい関数が必要か?}```その文を書いたあと、彼はしばらく鉛筆を動かさなかった。紙面を見下ろしたまま、視線がそこに固定される。呼吸が静かに浅くなる。機械的に一定だった心拍が、またしても上昇しているのがわかる。耳の奥で、ざわつくような拍動の音が響いた。「心臓が動きすぎる。うるさい。……怖い」小さな声で呟いたその言葉が、まるで誰かに聞かれるのを恐れるように、空気のなかで淡く消えた。手帳に記された文面は、論理的な記述でありながら、そのどれもが自分の混乱を隠せていない。通常の他者との接触に対しては、明確な反応ルールがある。目を合わせず、距離を保ち、必要最小限の発話で済ませる。それが最も低コストで済む方法だった。しかし、大和だけは、そのパターンに当てはまらなかった。彼が部屋にいるとき、心臓は必ず速くなる。だがそれは、かつてのような警戒によるものではなかった。むしろ、彼が発する音、呼吸のリズム、足音の強さ、そうした些細な情報のすべてが、自分の内部で「安心」の定義に収束していくのがわかる。高田は目を閉じた。呼吸を整えようとするが、なぜか酸素が喉を通りにくい。わ
夕方の光が薄く部屋の窓辺を染めていた。高田の部屋は、いつものように静まり返り、空気は温度も匂いも一定で、整いすぎていた。大和は玄関で靴を脱ぎながら、手に持ったコンビニ袋から、今夜の夕飯を取り出していた。買ってきたのは、高田の好きそうな魚の照り焼き弁当と、あんこ入りの和菓子ひとつ。甘いものが好きかどうかはわからないが、前に一度口にしたとき、ほんの少し眉がほどけたように見えたから、なんとなく手に取っていた。キッチンの明かりを点けると、奥の部屋から高田が現れた。白いパーカーのフードをかぶったまま、無言でソファに腰を下ろす。挨拶も交わさず、それでも拒まれている感じはなかった。これが、いつもの彼との関係のかたちだった。「今日の、魚。甘めの味付けっぽいから、食べやすいかもな」そう言って、弁当のフタを外す。高田はちらりと視線を落として、軽くうなずいた。小さな音で「いただきます」と呟いたあと、箸を手に取った。二人の間に流れるのは、言葉ではなく咀嚼音と、器の鳴る微かな音だけだった。テレビも音楽もなく、それなのに不思議と苦ではない沈黙だった。大和はそういう時間が、いつの間にか心地よくなってきている自分に気づいていた。ふと、箸を置いて口を開いたのは、大和の方だった。「なあ、高田」その声に、対面の高田がゆっくり顔を上げる。「来週、会社の飲み会あんねん。営業も開発も合同で。まあ、強制とかちゃうし、無理ならええんやけど……お前、来てみる?」そう問いかけた瞬間、空気がわずかに揺れた。高田は動きを止めたまま、しばらく何も言わなかった。視線が宙を泳ぎ、やがて一点に固定される。そして、少しだけ口を開いた。「無理。行けない」それは決して冷たくはなかった。声のトーンは一定で、尖った響きもない。だが、明確な拒絶だった。その一言に、大和は箸を置いたまま、眉を動かさなかった。けれど、目元にかすかな曇りが浮かんだのを、自分でもはっきりと自覚していた。肩の奥が、わずかに力を失うように沈む。「……そっか。まあ、無理せんといてな」
社内ビルの二階、カフェラウンジの奥まった席に、大和は深く腰を下ろした。昼休みの時間帯は、どこもかしこも社員たちの雑談で賑わっていたが、ここはガラス張りの仕切りに囲まれた半個室で、外の喧騒はほとんど届かない。向かいに座った島本は、大和の同期で、かれこれ五年の付き合いになる。営業部にしては落ち着いた物腰の男で、そういうところが逆に観察眼を鋭くしていた。「で、高田ってやつ、どうなん?」何気ないようでいて、まっすぐに核心を突くその問いに、大和は苦笑でごまかしながらアイスコーヒーにストローを差した。グラスの内側に氷が音を立て、ゆっくりと回転する。「どうなんって、何が」「いや、最近やたら顔がゆるんどるからさ。そいつの話になると特に」島本は唐揚げサンドにかぶりつきながら、わざとらしく眉を上げてみせた。大和は、視線を落としたまま箸を持ち直した。今日のランチはサーモンの照り焼きと小鉢が数種。いつもなら一口食べればその美味さに自然と頬が緩むのに、今日はなぜか箸が進まなかった。「まあ…ちょっと変なやつやけどな。天才肌っちゅうか。生活力ゼロで、めっちゃ合理主義やのに、なんか妙に繊細でさ」「ふうん」曖昧な相槌を打つ島本の視線は、大和の目元に留まっている。そのことに気づいた瞬間、大和は顔を背けるようにして、コップを持ち上げた。「なに見とんねん」「いや、マジで顔に出てる。わかりやす」大和は笑いながらも、グラスを持つ指先にわずかに力が入った。否定の言葉を探すが、口から出てきそうになるたびに、別の何かに引き留められてしまう。「お前、完全に落ちてるやん」唐突な言葉だったが、どこかやさしい響きだった。島本はそれ以上なにも言わず、残りのサンドイッチをゆっくりと口に運んだ。大和は黙ったまま、視線を天井に向けた。照明が少しだけ強すぎて、目の奥に光が滲んだ。あいつの笑顔が頭をよぎる。練習したような、ぎこちない表情。たぶん、彼自身は“笑顔”の意味なんてまだ理解してない。だけど、あの口元が少しだけ上がった瞬間に、自分の心が確実に何かで満たされるのを、大
高田の部屋には、相変わらず時計の音ひとつすら存在しなかった。パソコンの排熱ファンのかすかな唸りが、無音の空気にわずかに歪みを与えていた。夕方六時過ぎ、部屋の奥から差し込むオレンジ色の光は、既に温度を失い始めていた。大和は床に置いた保温バッグを開き、二人分の弁当箱を並べている。高田はいつものように黙って座っており、その指先はすでに割り箸の包装を剥がしていた。「ほら、今日は豚のしょうが焼きやで。あと、冷凍の春巻き。こっちはサラダや」そう言って、大和が軽く笑いながらタッパーを渡すと、高田は無言でそれを受け取った。箸の動きは相変わらずきれいで、手首の角度にも無駄がない。味見をするように一口だけ春巻きを噛み、すぐに二口目に進んだ。大和は弁当箱のふたを開けながら、ちらとその顔を見た。そのときだった。ほんの一瞬、だが確かに、高田の口元がわずかに持ち上がったのを大和は見逃さなかった。「……今の、それって練習した?」箸を止めた高田が、大和の声に反応する。首をゆっくりと傾け、その表情は曖昧だった。視線は合わないまま、しかし、質問の意味は理解していた。「……データとしては、喜びの表現が相手に安心を与えるらしいので」それは、答えではなく“説明”だった。感情を伝えるためではなく、現象を報告するための声だった。表情も音調も均一で、笑っていた本人すらその感情を実感していないようだった。大和は、箸を置き、しばらく沈黙した。「お前なあ……」苦笑交じりにそう呟いたが、続きの言葉は出てこなかった。ふと胸の奥にひっかかった何かが、うまく言語化できなかったからだ。まるで、目の前の彼の笑顔が誰か別の人間の“模倣”に見えてしまったような気がした。お前の笑顔、誰かに向けたもんちゃうのか…そんな言葉が喉まで来たが、それをぶつけるのは違うと思った。高田が“笑う”ことに、どれほどの覚悟と演算があったのか、少し想像できてしまったからだった。「それ、データにある
ソファの上で、ふたりの肩がわずかに触れたまま、部屋の空気は静かに落ち着いていた。何かを語るでも、何かを強制するでもなく、ただそこに同じ呼吸が存在していた。深夜の室内はエアコンの低い駆動音と、時折外から届く車の音だけが響いていた。高田の手は新しい絆創膏に包まれ、わずかに熱を持っていたが、その温もりさえも、今は心地よく感じられた。大和は背もたれに軽く体を預けて、天井を仰ぐように目を向けていた。落ち着いたまなざし。疲れているはずなのに、不思議とその顔には穏やかな色が差している。「……連絡をくれたん、初めてやな」ぽつりとこぼれたその声は、どこか柔らかかった。問いでも詰問でもない、ただの気づきのような言い回し。咎めるような響きはどこにもなかった。高田はその言葉にすぐには答えず、わずかに視線を落とした。小さく瞬きをし、濡れたままの前髪を指で払う。その指先に、まだ少し痛みが残っている。「……それは、“喜び”で、合ってる?」沈黙の中にぽつりと落とされた、高田の問い。その声は、ぎこちなかった。問いかけという形を取りながらも、どこか確かめるような…あるいは、初めて発音する言葉を探るような響きを持っていた。大和は一瞬、目を丸くして、それから思わず吹き出した。「せやな。正解。大正解や」笑いながらも、その目元には温かな光が宿っていた。高田の言葉に、確かに心を動かされていたのだと、表情が物語っていた。高田はと言えば、その反応に目をしばたたかせてから、ごくわずかに唇の端を上げた。微笑と言っていいのか迷うほどの、ほんのかすかな表情の変化。それでも、その変化が彼にとってはどれほど大きなものだったか、大和は理解していた。「……むずかしいな、人の感情って」小さく高田が呟く。声はほとんど囁きに近く、聞き取るには耳を澄まさなければならないほどだった。けれど、その中にある真剣さは紛れもなかった。「むずかしいよ。でも、ちょっとずつ覚えていけばええ。こうやって一個ずつ、正