「え?啓介が結婚する?嘘でしょ?」
カフェでミルクティーを飲んでいたが、思わずカップを落としそうになった。スマートフォンの画面に表示された友人のメッセージに私は思わず二度見する。
(あの啓介が結婚?なぜ?私が結婚の話をした時は興味がないって言っていたのに…。)
過去の記憶が怒涛のように押し寄せる。啓介は結婚願望がなく、どれだけ真剣に交際を申し込まれても結婚を意識している女性とは距離を置く男だった。どれほど尽くしても努力しても彼を手に入れることは出来ない。何を隠そう私もその被害者の一人なのだから。
会社の経営者で社長で見た目もスマートで多くの女性が狙っていた。啓介のことを色々と知っていくうちに結婚願望がないことが分かり、自分も結婚願望はないと言って近寄った。時間をかけてゆっくりと過ごしていくうちに私の存在の大きさに気づいて結婚を意識してもらおう。付き合って1年以上経ってから何度か結婚の話を持ち出した。高収入で浮気もせずに一途に愛してくれる誠実な啓介との結婚は理想の未来そのものだった。しかし、その度に啓介は眉間に皺を寄せ「結婚は今の俺には無理だ」と頑なに結婚を拒んできた。
「付き合ったら啓介も変わって結婚を考えてくれるかもしれないと信じていたのに……。」
最終的にはそう言って別れを告げた。その言葉を聞いた啓介は「つらい思いをさせてごめん」と悲しい顔をして言ってきた。それ以上は言葉にせず引き留めない啓介に悔しさと嫌気がさした。
それなのに啓介が結婚?しかも相手は自分ではないどこかの女。
「ふざけないでよ……結婚なんて興味ないって言ってたじゃない。結局、私との結婚を避けたかった口実だったの?」
唇がわなわなと震える。胃の奥から込み上げてくるどす黒い感情。それは、失恋の悲しみとは違う、もっとドロドロとした相手の幸せを許せないという醜い感情だった。
自分がどれだけ頑張っても手に入れられなかったものを、他の誰かがやすやすと掴んだのだとしたら?悔しさ、怒り、屈辱感が心を苛んだ。
啓介のようなハイスペックな男性を逃したことは、私にとってキャリアの失敗と同じくらい許しがたいことだった。彼を自分の物にできなかったことへの不甲斐なさ。そして、啓介に「結婚する気はない」と拒絶された過去が今、最悪の形で突きつけられている。
(相手の女は何者なの?どうやって啓介をその気にさせたっていうの?)
その時、私の脳裏にひとつの邪悪な考えが浮かんだ。
啓介が結婚に嫌悪感を抱いているのは知っている。彼が結婚するというのはきっと何か裏があるに違いない。私と同じように「結婚したい」と圧をかけ彼を追い詰めたというのなら、その女もすぐに啓介に捨てられるだろう。
(啓介を奪いたい。正攻法ではなくとも二人の関係の弱点を突くようなやり方はないだろうか……。)
「相手のことは知っている?」
結婚を教えてくれた友人にメッセージを送りスマホを握りしめ画面を見つめる。返信が来るまでの時間がとてつもなく長く感じられた。数分後、ピコンと通知音がなり心臓が跳ねる。
「それが聞いたことない名前だったんだ。カナさんって言うらしい。結構キャリアウーマンみたいだよ」
その名前には聞き覚えがなかった。啓介の会社関係?それとも全く別の繋がり?どちらにしても自分よりも後から現れて啓介を射止めた女。
凛は席を立ち化粧室へ向かった。鏡に映った自分の顔はひどく歪んでいた。
『カナ……』
その響きを心の中で反芻する。
(カナは一体どんな女なの?どんな風に啓介を落とした?なぜ私ではダメだったの?)
怒りがじわじわと込み上げてくる。それは啓介への怒りであり「カナ」という未知の相手への強い敵対心だった。
(啓介を手に入れたい。このまま終わらせてなるものか。彼の隣にいるのは私であるべきなんだから……!)
鏡の中の自分の目に強い光が宿る。悔しさや怒りとは違う冷たい決意の光。
「カナ……」
まずは情報を集めよう。カナという女について知る必要がある。
啓介との関係は?どんな付き合い方をしている?きっと啓介が結婚を決めるほどの何か特別な理由があるはずだ。でも、結婚という形式を選んだとしても彼の根本にある「自由」へのこだわりは消えていないはずだ。
頭の中で、啓介を取り戻すために様々な思惑が交錯し始める。
啓介が結婚を厭うのは、家族のプレッシャーや責任を嫌うからだ。きっと結婚する女は、啓介にとって都合のいい「形式上の妻」に過ぎない。あの啓介が恋愛感情で縛られるような結婚を選ぶはずがない。……ならば方法はまだある。
(啓介の家族は、彼が一人っ子であるため跡取りを強く望んでいる。そして啓介自身が子供嫌いではない。もし相手が子供を望まないタイプだとしたら……?)
私はニヤリと顔を歪んで笑みを浮かべた。
(諦めるものか。啓介…あなたを取り戻すから。見知らぬ女なんかにあなたを渡さない……)
自分でもゾッとするほど冷ややかに微笑んだ。それはこれから始まる嵐の前の静けさかのように不気味な微笑みだった。
「逆手にって……。」「啓介、考えてみて。お母さまができないと思っているからこの条件を提示してきたとするなら、完璧にこなしてみせれば目論見は外れる。そして周りの人たちが祝福してくれることで、私たちを応援してくれる人も増えて、尚且つ私たちの絆の強さをアピールできる絶好の機会だと思わない?」確かに母は試している。しかし、その試練を乗り越えれば母も認めざるを得なくなる。佳奈は、この状況をネガティブに捉えず、むしろ自分たちをアピールするチャンスだと捉えているのだ。その発想の転換に感嘆した。「でも、どうやって…」俺が口を開きかけると、佳奈は俺の言葉を遮るように俺の唇に人差し指を当ててきた。「それは秘密。啓介は、ただ私を信じて当日を楽しみにしていてくれればいいから」佳奈の言葉はまるで魔法のようだった。彼女の自信に満ちた笑顔を見ていると、不思議と俺の不安も薄れていく。普段はクールで合理的な佳奈が時折見せるこういう大胆な一面に、俺はいつも惹きつけられる。「分かった。佳奈を信じる」俺は、そう言って佳奈の手を強く握った。彼女の温かい手のひらが俺の心に安堵をもたらす。この結婚は確かに母にとっては気に入らないかもしれない。しかし、佳奈と俺の間には誰にも邪魔できない確かな絆がある。このパーティーでその絆を母に見せつけてやる。
実家からの帰り道、佳奈のマンションに向かう車内で俺は助手席の佳奈をちらりと見た。先ほどまでの母に対する毅然とした態度は打って変わって、今はただ静かに窓の外を眺めている。「佳奈、大丈夫なのか? あんな条件、本当に飲めるのか?」俺は意を決して尋ねた。特に料理だ。佳奈は料理が大の苦手だ。俺にとってパーティーでの手料理は最大の懸念材料だった。佳奈はゆっくりと俺の方を振り向くと、にこりと微笑んだ。その笑顔は、母に見せた笑顔とはまた違って、どこか自信に満ちているように見えた。「心配ないよ。ああ言うしかない状況だったからね。あの場で断れば、お母様は間違いなく結婚を認めないと言い張っただろうし、それこそ啓介の立場も悪くなる」佳奈の冷静な分析に思わず息をのんだ。確かに、あの場で反論し続けても母の態度はさらに硬化するだけだっただろう。「でも、料理も、段取りも、全部佳奈一人でやるのか? 仕事もあるのに…」俺の不安は尽きない。佳奈は、そんな俺の心配を笑い飛ばすかのようにくすっと喉を鳴らした。「大丈夫だって言ってるでしょ。パーティーの段取りは私の得意分野なんだから。それに、料理だって、やればできる」「やればできるって…」
「あ、もちろんお料理は佳奈さんの手作りでね。」母はにこやかに、しかし有無を言わさぬ口調でそう付け加えた。「え……手作りですか?」佳奈は戸惑ったように聞き返した。佳奈は俺が包丁の持ち方から教えるくらいに料理が苦手だった。「もちろん。人様を招待してもてなすのだもの。お料理くらいしっかりしなきゃダメよ」母は当然のことのように言い放った。その言葉の裏には「花嫁修業もできていないような娘は認めない」という意図が透けて見えた。これ以上母のペースに乗せられるのはまずいと感じ、すかさず反論した。「母さん、佳奈だって仕事をしているんだ。毎日忙しくしているのに、そんなことまで押し付けるのは無理があるだろ。それに、俺だってこの年になって誕生日を周りに祝ってほしいなんて思っていない。婚約発表だって、皆の前でする必要はないだろ? 結婚を認める条件なはずなのに皆の前で先だって婚約を公表するのもおかしくないか?」俺は、思いつく限りの言葉を並べ立て全て母の思い通りにならないように釘を刺した。「あら、それは認めてもらう自信がないってことなの? 嫌ならいいのよ。ただし、結婚は絶対に認めませんから」反論されるのは予想していたようで微笑んで言い返す。このままでは結婚自体が認められなくなってしまう。俺がどうにも言葉が出ずにいると、隣にいた佳奈が突然顔を上げてハキハキとした声で答えた。「では、周りから祝福されて無事、素敵な会が出来たら結婚を認めてくださるということなのですね。嬉しいです。認めてくださるきっかけを作ってくださりありがとうございます」佳奈は満面の笑顔で母に返している。その笑顔に母の顔は明らかにひきつっていた。佳奈の顔は、母の企みが見透かされているかのような雰囲気さえあった。母の眉間に深い皺が刻まれいる。まだ釈然としない気持ちだったが、佳奈が引き受けた以上、俺も覚悟を決めるしかなかった。俺の誕生日兼婚約パーティー。(大勢の前で婚約発表と誕生日会? そして料理は佳奈が作る……? どれもこれも、本当に大丈夫なのか?)一体どんな一日になるのだろうか。こんなに誕生日をめでたくないと思うことは近年なかったと思うくらい俺は憂鬱な気分になっていた。佳奈はなぜ、こんな条件を易々と受け入れたのだろう。彼女のその大胆な決断の裏に一体何があるのだろうか。俺にはまだ佳奈の真意が掴めずにいた。
「一つ目は、近いうちに啓介の誕生日パーティーを開いてほしいということ」母の言葉に俺は首を傾げた。俺の誕生日パーティー? それと結婚に何の関係が?「二つ目。そのパーティーに啓介の知人や仕事関係の方々を大勢呼んでほしいの。そして、そのパーティーの招待や段取りは佳奈さんが主体となって行ってちょうだい。」佳奈は母の言葉に小さく頷いた。「そして、三つ目。そのパーティーで皆の前であなたたちの婚約を報告すること」最後の言葉を聞いた瞬間、俺と佳奈は再び顔を見合わせた。驚きを通り越して戸惑いと警戒心が入り混じった表情になった。(二つ目は佳奈の力量を見極めようとしているのかもしれないと思ったが、婚約の報告を皆の前で?なんでそんな大々的に報告する必要なあるんだ?それに皆の前で報告したら、結婚を既に認めたようなものじゃないか?)母は、そんな俺たちの戸惑いを気にする様子もなくニコリと微笑んだ。その笑顔はまるで全てを見通しているかのようだった。「どうかしら? この条件をクリアできればあなたたちの結婚を心から祝福するわ」母の言葉は、甘く響きながらもどこか重い響きを含んでいた。俺は佳奈の顔を見た。彼女の目にも同じような警戒の色が浮かんでいるのが分かった。これは結婚を認めるための条件ではない。俺たちを試しているかのような、あるいは何かを企んでいるかのようなそんな不穏な空気が漂っていた。「分かりました、お母様。啓介さんのお誕生日を素敵な集まりに出来るよう計画しますね」佳奈は俺の隣で毅然とした態度で母に答えた。その言葉に俺は内心驚いた。(この状況でよく承知できるな……。)しかし、佳奈の瞳の奥には確固たる決意が宿っているようだった。この状況を乗り越える覚悟を決めているのだ。
「今日は、あなたたちに話があるの」紅茶を一口飲んだ後、母は静かに切り出した。俺と佳奈はゴクリと唾を飲み込み母の次の言葉を待った。「正直なところ、私はまだあなたたちの結婚に全面的に賛成できるわけではないわ」母の言葉に俺はやはりそうかと肩を落とした。佳奈も少しだけ表情を曇らせたのが分かった。しかし、母はそこで言葉を切ると意外なことを口にした。「でもね、啓介。そして佳奈さん」母は、一つ一つ言葉を区切るようにゆっくりと続けた。「あなたたちが本当に周りの人たちから祝福されていると私が納得できるのであれば……私は、あなたたちの結婚に反対することはできない。むしろ認めてあげたいと思っているわ」その言葉に俺と佳奈は目を見開き、顔を合わせた。予想外の言葉に俺は混乱した。(祝福されているなら認める? あの頑なだった母が、一体どういう風の吹き回しだろうか。)俺は隣に座る佳奈の顔を覗き込んだが、佳奈もまた驚きと戸惑いの表情を浮かべていた。「ただ、そのためにはいくつか条件があるのよ」
平日の午後、デスクで仕事を片付けているとスマートフォンが震えた。画面に表示された「母」の文字に俺は一瞬たじろいだ。この間の実家訪問以来、母からの連絡は途絶えていた。恐る恐る通話ボタンを押すと、いつもより幾分か穏やかな母の声が聞こえてきた。「啓介、話があるから今度佳奈さんと家に来てほしいの。ゆっくり話しましょう」その言葉に俺は思わず耳を疑った。何かあったのだろうか。あの日の母の剣幕を思えば、こんな穏やかな口調で呼び出すこと自体が、かえって不気味にさえ感じられた。しかし、これも母と佳奈が歩み寄るための第一歩かもしれない。俺は覚悟を決めて「分かった」と返事をした。電話を切って佳奈にも電話を入れる。「佳奈、仕事中に悪い。今、大丈夫かな?」「仕事中にかけてくるなんて珍しいね、どうしたの?」「実は今、母さんから電話があって話があるから実家に来て欲しいと連絡があったんだ。」「え!?お母さんから?どうしたんだろう。どんな内容なのかな」「分からない……。何も内容には触れてこなかったんだ。」「うーん、いい予感はしないけれど歩み寄るチャンスになるかもしれないし今週にでも行こう」