家に着くと、瑛介の母は弥生に対してとても丁寧だった。彼女の手を取り、何度も何かを言いかけては言葉を呑み込んでいた。もっとも、そうしたのは瑛介の母だけではなかった。弥生もまた、何度も口を開いては閉じた。どうやって口にすればいいのか、何と呼べばいいのか、それが分からなかったのだ。子どもたちは「おじいちゃん」と「おばあちゃん」と呼んでいるが、自分は「お母さん」と呼びかけることはどうしてもできなかった。......五年という年月が流れた。きっと、目の動きや表情から、瑛介の母は彼女の迷いに気づいたのだろう。やさしく弥生の耳元にかかる髪をそっと払うと、穏やかな声で言った。「いい子ね......この数年、外で本当に大変だったでしょう?」たったそれだけの一言だったのに、弥生の目には、ふいに涙が浮かんだ。いろんな言葉を想像していた。でも、まさか、そんなふうに言われるとは。その一言が、なぜだか、胸にずしんと響いた。溢れかけていた気持ちは誰にも言えなかった。まるでずっと憧れていた母に、ようやく出会えたかのようだった。それを感じ取ったのか、瑛介の母もまた、胸が詰まるような思いだった。彼女はそっと弥生の頬をつまみ、微笑みながら言った。「泣かないで......いい子ね。帰ってきてくれて、本当にうれしいわ。今まで瑛介があなたを苦しめてしまって......これからは、母さんがちゃんとあなたを守るから」母さん? 弥生の視界は、もうぼんやりと滲んでいて、彼女の表情はよく見えなかった。でも、涙越しに見える瑛介の母の顔は、まるで自分のことを大切に思ってくれているように感じた。ふいに耳に入った母さんという自称に、弥生は一瞬、戸惑った。......私に母さんって言った?じゃあ......私も、お母さんと呼んでいいの?そんな思いがよぎって、弥生は唇をきゅっと噛みしめた。小さく声を震わせながら言った。「......五年も経ったから、てっきり......もう、私のこと、認めてもらえないと思ってました」「馬鹿ね、そんなわけないでしょう? あなたのこと、小さい頃から好きだったのよ。あのときあなたが出ていった後、母さんだって自分を責めたわ......夫婦の間に問題があったのに、母親として早く気づいて助けてあげられな
それでも彼女は、当時まだ結婚していた弥生と瑛介に対して、孫を産めと急かすようなことは一切しなかった。二人には、二人なりの考えがある。年上の人はがあまり口を出すべきではないと考えていたからだ。そもそも、自分自身が若い頃に瑛介を妊娠したのも、まったくの予想外だった。本当は、もう少し夫と二人きりの時間を楽しんでいたかったし、瑛介の祖母もとくに孫を急かすようなことは言わなかった。だからこそ、蜜月のような生活を満喫していたが、うっかり妊娠してしまったのだ。だから、彼女は弥生たちにも「焦らず、自分たちのタイミングで」と思っていた。まさか、その二人が離婚し、弥生が姿を消すとは......想像もしていなかった。それ以来、まわりから「孫がいない」ことを冗談交じりにからかわれることも増えたが、瑛介の母は微笑んで受け流すだけだった。そういう時は連絡を一方的に打ち切った。相手方は取り乱した様子で深夜に謝罪に訪れ、涙ながらに必死に許しを請うていた。その後、数年間は本当に静かだった。もう望みはなかった。まさか、今、近づいてくるあの子達が孫なんて。瑛介の母は無意識にしゃがみ込み、目を細めてその姿を見つめた。弥生も遠くから彼女たちの姿を見つけた。何年も会っていないのに、瑛介の母はまったく変わっていない。相変わらず美しかった。にっこりと微笑みながら、彼女はこちらに向かって手を広げ、しゃがみ込んだ。弥生は小声で言った。「ひなの、陽平......おばあちゃんとおじいちゃんはあそこにいるよ」機内で話していた通り、二人はすぐに声をそろえて挨拶をした。「おじいちゃん、こんにちは。おばあちゃん、こんにちは」まだ初対面のためか、どこか警戒したような目つきをしていたが、それでもはっきりとした声だった。その様子に、瑛介の母は少しも気を悪くすることなく、むしろその愛らしい声に感極まり、目に涙を浮かべた。「......ああ、ああ......」二度も応えるように声を出しながら、彼女はふたりを思いきり抱きしめた。その光景を見ていた瑛介の父も、最初は冷静だったが、次第に顔をほころばせ、静かにふたりの子どもの前にしゃがみこんだ。弥生は少し離れた場所からその様子を眺めていた。目の前で、おじいちゃんとおばあちゃんがすっかり
遠くからでも、瑛介の母には弥生と二人の子供の姿がはっきりと見えた。弥生のそばにいる男の子と女の子はまるで瓜二つな双子のようだった。健司から電話があったとき、彼女はそれだけで大きな衝撃を受けていた。「子供?それって、瑛介と弥生の子供なの?」「はい。間違いありません」「......弥生が瑛介の子供を!?今いくつなの?」健司が「五歳で、しかも男の子と女の子の双子です」と伝えたとき、瑛介の母は感極まって泣きそうになった。あの頃の瑛介は、誰のことも受け入れない頑なな態度で、弥生も姿を消してしまった。彼女は、もう息子に孫もできる可能性はゼロに近いと覚悟していた。それを受け入れるために、何度も心の整理をした。瑛介自身が焦っていないのに、母親が気に病む必要はないと思い直すようにしていたのだ。まさか、諦めの直後に、こんな嬉しいサプライズが待っているとは。ついさっきまで「孫がいない」と落ち込んでいたのに、今や突然、二人も目の前に現れるなんて!遠目に見ても、子供たちはまるで人形のように整った顔立ちで、歩いているだけでも周囲の視線を集めている。しかも、その顔は、どう見ても瑛介にそっくりだった。出発前、家で電話を受けたのを耳にした使用人が口をはさんできた。「霧島さんはもう五年も前に出ていったんでしょう?それなのに本当に旦那さまの子供なんですか?......もしかして、違うかもってことは?」それを聞いた瞬間、瑛介の母の表情は一変した。「変な噂を勝手にするんじゃないの」その剣幕に、使用人はビクリと肩をすくめ、慌てて謝った。「申し訳ありません。そんなつもりは......ただ、旦那様が騙されてたらと思って......心配だっただけで、悪気はなくて......」「うちの子より、あんたの方が物事が分かるっての?彼が騙されてるかどうか、自分で見抜けないと思う?」使用人はそれ以上、何も言えなくなった。そして瑛介の母はきっぱりと言い放った。「次、同じようなこと言ったら、クビにするよ」彼女は息子の目を信じていた。仮に、万が一、本当に子供が瑛介の子でなかったとしても、弥生は彼女たち一家の命の恩人なのだ。過去にあれほど苦労させたのだから、たとえその子を育てることになったとしても、それくらいの恩返しは当然だと考
「君が瑛介とケリをつけるとき、私がいつ止めたって言うんだ?君と結婚してから、この家はずっと君の言うとおりじゃないか」その言葉を聞いて、瑛介の母は少し考え込み、そして唇を引き結んだ。......確かに、言われてみればそうだ。彼女は口をつぐみ、それ以上何も言わなかった。弥生が瑛介と離婚し、家を出てからというもの、瑛介の母の性格は以前と大きく変わった。さらに祖母が亡くなってからは、その穏やかだった性格もどこか影を潜めてしまった。息子への接し方も、以前のような甘さはなくなっていた。彼女はずっと、弥生の行方不明は息子に原因があると信じて疑わなかった。結婚していた女性が家を出ていくなんて、よほどのことがなければ起こらない。つまり、男側の落ち度だ。ましてや弥生は、小さい頃から彼女が見守ってきた子だ。その性格は誰よりもよく知っている。あの子が、自分から家庭を壊すようなことをするはずがない。そう、悪いのはあのバカ息子。そう思っていた瑛介の母は、長い間このことを思い出すたびに心がざわつき、ついには息子に電話をかけて文句を言うようになった。だが、当時の瑛介も心身ともに荒んでいた。母親の小言を聞く余裕もなく、電話を取っても数言で切ってしまうことがほとんどだった。かけても切られ、またかけても切られるというやり取りが続いた。そのうち、瑛介が毎晩のように酒に溺れていると知り、母は胸を痛めた。とはいえ、胸を痛めつつも、つい責める気持ちは止まらない。「自業自得よ。あの時、大切にしなかったから。今さら後悔したって遅いのよ」「苦しみたいなら勝手に苦しんでなさい」そんなふうに口では言っても、母の心は複雑だった。結局は、我が子が可愛いのだ。数年経つうちに、弥生の存在は心の奥にしまい込まれていった。彼女から連絡はなく、祖母の葬儀にも顔を出さなかったことで、もうこの子とは一生関わることはないと、諦めるしかなかった。ちょうどその頃、奈々が瑛介のそばにずっと付き添っていた。そこで母は、そろそろ奈々と進展してもいいんじゃないかと考えるようになった。まさか、自分の息子があんなに頑なに他の女性を受け入れようとしないとは思ってもみなかった。奈々がどれだけ近くにいても、彼は一度たりとも心を動かさなかった。それだけで
飛行機を降りた後、健司は変わらず、せわしなく弥生の荷物を運んでいた。弥生は二人の子供を連れているだけで、彼女の周囲には、大柄なボディーガードたちが複数付き添っていた。かつての誘拐事件を警戒しての配慮だった。健司はスーツケースを押しながら後ろに付き従い、出口が近づいたところで、そっと声をかけた。「霧島さん、おかあさまとおとうさまは出口のところでお待ちです。もうすぐお会いになります」その言葉に、弥生は小さく頷いた。「うん」そう答えてから、彼女は身をかがめ、子供たちに優しく語りかけた。「ひなの、陽平、聞こえた?もうすぐおじいちゃんとおばあちゃんに会うのよ。ママが飛行機の中で話してたこと、覚えてる?」「うん、覚えてる!」「心配いらないよ、ママ。ひなのとお兄ちゃん、ちゃんと礼儀正しくするから!」子供たちは元気に約束してくれた。ボディーガードたちに守られながら、彼らは空港の出口へと進んだ。その頃、空港の出口では、瑛介の母は小さな鏡を取り出し、しきりに自分の顔を確認していた。そして何度も鏡を覗いた末、やや不安げに夫に尋ねた。「ねえ、私、今日のメイク、ちょっと派手すぎるかしら?子供に会うのに、これじゃよくない?」それを聞いた瑛介の父は、ちらりと彼女を一瞥して答えた。「いいんじゃない?子供って、こういうの好きだろう」「なにそれ?子供がこういうメイクを好きって、あなた、子供の気持ちが分かるみたいな口ぶりじゃない」「......いや、分からないけどさ。君も分からないんだろ?だったら、気にする必要ないじゃないか」確かに、子供と大人の美的感覚は違う。そもそも彼女のメイクが派手か地味かなんて、子供にはわからない。ただ、大人だと認識してもらえれば、それで十分だろう。そう考えると、彼女の肩から少し力が抜けた。だが、すぐにまた別の不安が襲ってきて、彼女は鏡をバッグにしまうなり、夫の腕をつかんで語り出した。「しかし......やっぱり弥生って子はすごいわよね。一人で五年も海外にいて、しかも二人も子供を産んで......私たちには何も言わなかったなんて」その言葉に、瑛介の父は目を細めて言った。「......それで、君は何が言いたいんだ?」「何って、決まってるじゃない。全部、あのバカ息子のせいよ
「やった!」ひなのは思わず弥生に飛びつこうとしたが、ここは飛行機の中。二人ともシートベルトを締めているため、それは叶わなかった。そこで弥生は手を差し出し、ひなのにぎゅっと握らせて、その喜びを共有した。「ママ、寂しい夜おじさんはもう知ってるの?」彼、知ってるのかな?弥生はふっと微笑み、穏やかな目元で首を横に振った。きっと、彼が日本に帰ってきたら、わかる。「そのうち分かるわ」「じゃあママ、おじいちゃんとおばあちゃんって優しい人? 寂しい夜おじさんのパパとママのこと?」「そうよ。とても優しくて、話しやすい方たちよ。心配しないで。彼らは......」弥生は少し言葉を選んでから、静かに続けた。「......あなたたちの、本当のおじいちゃんとおばあちゃんなの」その言葉に、ひなのの目がまんまるに見開かれた。「ほんとうの......おじいちゃんとおばあちゃん!?」「うん」弥生はひなのの頭を撫でながら、隣の陽平にも目を向けた。「ひなの、陽平。ママの言ってること、わかる? 寂しい夜さんは、あなたたちの本当のパパなのよ」陽平はすぐにコクリとうなずき、納得した様子だった。しかし、ひなのはしばらく考え込んだあと、ふいに大きな瞳で言った。「でもママ、前に言ってたよね? ひなのと陽平のパパは......もう死んじゃったって」近くでそのやりとりを聞いていた健司も焦っていた......これは、さすがに気まずい。弥生もさすがにバツが悪かった。健司がいなければ、子供たちにもっと丁寧に説明できたのに......でも、もう仕方ない。五年前、まさか自分が瑛介と復縁するなんて、思ってもいなかった。あのときの自分は、ただ心に正直に生きていただけ。そう思い直した弥生は、わずかに微笑んで言った。「うん......生き返ったの」彼の口元がぴくりと引きつった。もし相手が弥生でなければ、間違いなくこう言っていた。さすがにそれは無理がありませんか?死んだって言っておいて、今度は「生き返った」って......案の定、二人の子供は固まってしまい、ぽかんと弥生を見つめていた。その様子に弥生は思わず吹き出し、ふたりの鼻を指でちょんとつついた。「冗談だよ。信じちゃったの?」「もう、心臓止まるか