午后の陽が傾きかけた頃、礼司は中原家の離れ、薫のアトリエへと向かっていた。
車を降りた瞬間、湿った土の匂いと、石畳の隙間から立ち上る初夏の熱気が鼻腔をくすぐった。舗道脇に整えられた生垣の中に、咲きかけの薔薇がちらほらと混じっている。門をくぐった瞬間、その甘やかな香りがふいに胸の奥へ忍び込んだ。
アトリエの建物は、母屋と同じく瓦葺きの和洋折衷の造りだった。だが、こちらは外壁の塗りがやや粗く、無骨な木枠の窓がいくつも取り付けられている。窓のいくつかは開け放たれており、風が吹き抜けるたびに薄いカーテンが波のように揺れていた。
庭先に踏み出した礼司は、木漏れ日を浴びる石段の下で足を止めた。アトリエの扉は半開きになっており、そこから男が一人、ちょうど出てくるところだった。
男は若く、背の高い体躯に黒いコートを羽織っていた。開かれた襟元からは、白いシャツの肌着がのぞいており、まだ乾ききっていない絵具の匂いを纏っていた。手には細い布の包みと、丸められたスケッチらしき紙の筒。礼司が立ち止まったことに気づいたのか、男はこちらを一瞥し、すぐに視線を逸らすと、無言のまま石段を降りてきた。
薫の声がした。アトリエの奥、扉の内側から。
「また近いうちに…」
男は軽く肩越しに手を振っただけで、返事らしいものはしなかった。ただ、頬にかすかな笑みが浮かんでいた。満ち足りたような、あるいは、どこか余韻を含んだ表情だった。
すれ違う瞬間、男の身体から微かに香水のような香りがした。甘く、そしてどこか汗に近い体温の残滓が混じっていた。礼司は鼻先をくすぐるその匂いに、ほんの一瞬だけ足を止めた。だがすぐに表情を整え、男の背中が庭の出口へと消えていくのを目で追った。
背広の後ろ姿は細身で、首筋の髪がやや長めに揺れていた。薫とは違う。まったく異なる輪郭の男。その背が視界から消えた瞬間、礼司はようやく静かに息を吐いた。
誰だ、今のは。
問いかけは声にならなかった。だが胸の内側で、低く響いていた。
薫の声は、確かに男に向けたものだった。誰かと話す声だった。仕事かもしれない。モデルかもしれない。…それ以上の関係かもしれない。
礼司は扉の前で、数秒間そのまま立ち尽くした。扉の内側には、まだ人の気配がある。まるで先ほどの男が残していった温度が、そこに滞留しているかのようだった。
やがて、薫が姿を見せた。
扉を押し広げた薫は、白いシャツの袖を肘まで捲り、手に筆を持っていた。肩からエプロンを掛けたまま、額には小さく汗がにじんでいる。
「いらっしゃいませ、礼司さん」
その声はいつもと変わらなかった。だが、ほんのわずか、礼司にはそれが“中断された呼吸”のように感じられた。つまり…誰かとの時間が終わった直後に、自分が入り込んだのだと。
「先ほどの…」
口にしかけて、礼司は言葉を呑み込んだ。訊いてどうする。何を得る。そんなことを知りたいわけではないはずだ。
「少し、早かったでしょうか」
「いえ、大丈夫です。ちょうど一区切りついたところでした」
薫は筆をタオルで拭いながら微笑んだ。その笑みが自然であるほど、礼司の胸のざらつきは深まった。
違和感。それは、どこか別の場所からやってきた何かのようだった。だが、正体が見えないまま、皮膚の内側でじわじわと滲み広がっていく。
男の後ろ姿。シャツの襟にかすかに残る絵具の痕。香水と汗の匂い。あの笑み。薫の声。
それらすべてが、礼司の記憶の中で“重なってはいけないもの”として編み上がっていく。
「どうぞ、中へ」
薫の声に促され、礼司は石段を上がった。アトリエの中は広く、天井が高かった。窓からの光が白壁に反射し、部屋全体が淡く濁ったような明るさに包まれている。床には木の節がむき出しのままに伸び、イーゼルが複数、角度を変えて並んでいた。
日が落ちかけていた。アトリエの西側に設えられた窓から、斜めに差し込む夕陽がゆっくりと角度を変えていく。天井から吊るされた白布のカーテンが、風のない部屋でほのかに揺れた。灯りはまだ点けられていなかったが、空気の輪郭にすでに“夜”の気配が含まれている。色がすべて淡くなり、白壁も、木の床も、絵の具の香りさえも、まるで記憶の底に沈んでいくようだった。薫が、ふと小さな箱からスケッチブックを取り出した。厚みのある表紙に指をかけながら、礼司に目を向ける。「これは…少し古いものです」そう言って、彼はゆっくりとページを開いた。礼司は無言でその場に立ち、薫の動きを見つめていた。紙をめくる音が、妙にくぐもって聞こえる。周囲のすべてが静けさに包まれているからか、あるいは、礼司の内側が何かを先に予感しているせいか。やがて、一枚の紙に薫の手が止まった。「これです」紙の上には、一人の男の上半身が描かれていた。シャツの第一ボタンが外され、襟元が少しだけ乱れている。首筋にかかる髪の影。鎖骨の線は細く、だがどこか張り詰めていた。腕は描かれていない。画面は、ちょうど胸のあたりで切れていた。その“途中”で切られた構図が、絵に強い緊張感を与えていた。「《未完の肖像》と呼んでいます」薫の声は低かった。ページを開いたまま、彼は指先で絵の縁に触れた。描かれた人物は目を閉じていた。いや、目はもともと描かれていない。まるで眠っているかのように、瞼だけが線を引かれていた。礼司は、なぜか言葉を失っていた。その絵に、見覚えがあったわけではない。ただ、そこに描かれたシャツの襟元、開いた胸元の角度、首の傾き――それらが、何か“自身の記憶の中の一場面”と強く重なった。あれは、いつだったか。夜会のあとか。あの静かな書斎の夜か。硝子越しに視線を交わした、あのひとときか。思い出そうとするほどに、記憶は曖昧になった。だが確かに、自分もまた、同じように“見られていた”のだと、礼司は肌の上に
アトリエの扉が閉まると、外の空気はきれいに切り取られた。扉の内と外とで、空気の密度が違う。礼司はそのことにすぐ気づいた。外の空気は風に揺れ、鳥の声や庭木の擦れる音を孕んでいたが、内側は静まり返っていた。まるで音すら絵の具で塗り潰されたかのように、ただ柔らかい光だけが静かに漂っていた。薫が歩くたびに、床板が乾いた音を立てた。その後ろ姿を追いながら、礼司はゆっくりとアトリエの奥へと進んでいく。室内は広くはないが、天井が高いせいか閉塞感はない。壁にはいくつかの作品が架けられており、空いたスペースにはイーゼルや額縁、スケッチブックの山が無造作に置かれていた。家具はほとんどない。代わりに、光と匂いと気配が、部屋の隅々にまで染み込んでいる。「こっちです」薫が言った。礼司は足を止め、その声の先に目をやる。そこには、一枚の大きなキャンバスが壁に立てかけられていた。縁に施された金の木枠が、夕陽の反射でわずかに光る。キャンバスは未完のようにも見えた。だが、それが“完成”であるかのような存在感を放っていた。礼司は思わず息を呑んだ。画面に描かれていたのは、一人の裸の男だった。仰向けに寝そべり、右腕を頭の後ろに回し、左足をわずかに折り曲げている。体は細身で、だが筋肉のつき方には職業的な堅さがあった。腹部の起伏、腿の陰影、鎖骨から胸元へと流れる滑らかな線。すべてが、生々しく、それでいて…美しかった。だが、最も強く礼司の目を引いたのは、男の“顔”だった。目が描かれていない。いや、描かれてはいる。だがそれは、“眠っている”という以上に、“見られることを拒んでいる”ように見えた。まるで視線を持たない肉体。見ているのは、自分だけ。絵の中の彼は、誰の視線にも応じない。ただ、見られることを受け入れ、黙してそこに存在している。礼司は、一歩近づいた。足音を立てぬよう、自然と呼吸を浅くする。男の肌には、微かな体毛まで描かれていた。腹部にわずかに残る毛、脇腹に落ちた光の筋。その丁
午后の陽が傾きかけた頃、礼司は中原家の離れ、薫のアトリエへと向かっていた。車を降りた瞬間、湿った土の匂いと、石畳の隙間から立ち上る初夏の熱気が鼻腔をくすぐった。舗道脇に整えられた生垣の中に、咲きかけの薔薇がちらほらと混じっている。門をくぐった瞬間、その甘やかな香りがふいに胸の奥へ忍び込んだ。アトリエの建物は、母屋と同じく瓦葺きの和洋折衷の造りだった。だが、こちらは外壁の塗りがやや粗く、無骨な木枠の窓がいくつも取り付けられている。窓のいくつかは開け放たれており、風が吹き抜けるたびに薄いカーテンが波のように揺れていた。庭先に踏み出した礼司は、木漏れ日を浴びる石段の下で足を止めた。アトリエの扉は半開きになっており、そこから男が一人、ちょうど出てくるところだった。男は若く、背の高い体躯に黒いコートを羽織っていた。開かれた襟元からは、白いシャツの肌着がのぞいており、まだ乾ききっていない絵具の匂いを纏っていた。手には細い布の包みと、丸められたスケッチらしき紙の筒。礼司が立ち止まったことに気づいたのか、男はこちらを一瞥し、すぐに視線を逸らすと、無言のまま石段を降りてきた。薫の声がした。アトリエの奥、扉の内側から。「また近いうちに…」男は軽く肩越しに手を振っただけで、返事らしいものはしなかった。ただ、頬にかすかな笑みが浮かんでいた。満ち足りたような、あるいは、どこか余韻を含んだ表情だった。すれ違う瞬間、男の身体から微かに香水のような香りがした。甘く、そしてどこか汗に近い体温の残滓が混じっていた。礼司は鼻先をくすぐるその匂いに、ほんの一瞬だけ足を止めた。だがすぐに表情を整え、男の背中が庭の出口へと消えていくのを目で追った。背広の後ろ姿は細身で、首筋の髪がやや長めに揺れていた。薫とは違う。まったく異なる輪郭の男。その背が視界から消えた瞬間、礼司はようやく静かに息を吐いた。誰だ、今のは。問いかけは声にならなかった。だが胸の内側で、低く響いていた。薫の声は、確かに男に向けたものだった。誰かと話す声だった。仕事かもしれない。モデルかもしれない。…それ以上の関係かもしれな
中原邸の応接間には、昼の光がしっとりと広がっていた。磨かれた窓硝子から差し込む陽射しは、どこか鈍く、絹張りのカーテンに吸い込まれるように滲んでいる。天井に吊られたシャンデリアの影が、床の大理石に静かに揺れていた。応接間の奥、低いテーブルを挟んで向かい合って座る二人の男。早川礼司と、中原薫。銀器の縁に薄く紅茶の香りが残っていた。午後三時を少し過ぎたばかり。屋敷の中は静まり返っており、庭に面した窓の向こうでは、剪定を終えたバラの枝が風に揺れている。礼司は、薄く砂糖を溶かした紅茶を口に含んだ。薫は、すでにカップを置き、両手の指先を軽く組み合わせていた。その手の甲の色は、外で焼けたのか、わずかに褐色がかっている。指は細く、しかし節は強く、絵を描く者の手だとすぐにわかる。礼司は無意識に視線をそこに留め、すぐに紅茶の残りに目を戻した。「礼司さん。来週、少し時間をもらえますか」柔らかくも芯のある声だった。礼司は顔を上げた。薫の眼差しがまっすぐに自分を見ていた。「時間……?」「アトリエを見に来てほしいんです。ちょうど、整理も終わりましたから」薫の瞳には曇りがなかった。その真っ直ぐさが、かえって礼司の中に小さなざらつきを生んだ。視線の奥に揺れも影もない。何の打算もないままに、ただ『見に来てほしい』と言う。「それは…私に、ですか」礼司の声は自然と低くなった。薫は頷いた。「はい。礼司さんに」庭の風が窓を揺らし、カーテンが一瞬だけ膨らんだ。薫の後ろに光の線が差し込み、黒髪の輪郭を細く縁取る。「…考えておこう」カップをテーブルに戻しながら、礼司はそう答えた。断る理由はなかった。だが、即座に頷けなかった。アトリエ。薫が何を描いているのか、どんな場所で絵を生んでいるのか。見たいという衝動と、それを見てしまったあとの自分を想像する恐れとが、喉の奥で交差していた。薫はそれ以上、何も言わなかった。ただ、軽く頷いたのみだった。そしてその数分後、用件を終えた礼司は屋敷を辞した。
夜の回廊には、濡れたような静けさが満ちていた。庭から吹き込む風が、竹の葉をかすかに揺らす音だけが障子の向こうで細く響き、早川家の重厚な邸内を包む沈黙を際立たせていた。礼司は回廊の柱に背を預け、手には小さな煙草の銀製ケースを持ったまま、蓋を開けもせず、ただ立ち尽くしていた。吐く息は白くない。空気はすでに夏の湿り気を帯び、けれど体の奥に溜まるものは冷えていた。数刻前の夕餉の光景が脳裏に蘇る。食卓に座る薫の姿、ナイフとフォークを扱うその手の滑らかさ、まっすぐ差し向けられた視線の、何かを試すような熱。それは明確な挑発ではなかった。だが、視線の底には、明らかに意図があった。礼司はそれに気づきながら、終始気づかないふりをして食事を続けていた。少しでも目を合わそうものなら、何かが壊れる気がした。「壊れる…?」自嘲のように唇がわずかに歪む。何が、何の関係が、と問えば、答えはなかった。ただ、壊れ得る何かが自分の中にあることだけが、妙に確かだった。そのとき、不意に背筋がぴんと伸びた。何かに見られている。ただの気配ではなかった。明確な、射抜かれるような視線の感覚が、肩口に触れた。ぎり、と煙草ケースの蓋を閉じる音が、やけに大きく響いた。礼司はゆっくりと振り向いた。回廊の先、客間の障子越し。少しだけ開かれた硝子窓の奥、薄く灯りの落ちる部屋の中には誰の姿もない。しかし、あの視線の残滓が、まだ皮膚の上に残っている。「…気のせいか」声に出してみても、その響きは空虚だった。いや、気のせいではない。そう思わせるのに十分すぎる強度で、あの視線は確かに自身を貫いていた。薫だったのか。そう思った瞬間、礼司は無意識に目を伏せた。顔の内側がじんわりと熱を帯び、心臓の奥が、まるで水に沈んだ石のように鈍く疼いた。まさか。あの少年が、男として…?否定しようとしたが、記憶が早すぎた。薫の黒髪がわずかに揺れた瞬間。涼やかな目元。光の下で白く浮か
夕陽が窓枠を朱色に染め、食堂には夕刻の柔らかな光が差し込んでいた。重厚な木のテーブルに並べられた銀器が光を反射し、食卓はまるで静かな舞台のように整えられていた。薫は控えめに着席し、膝の上にナプキンをたたんで置いた。香り立つスープの湯気と、煮込みの香りが混じり合う空気を、ゆるやかに吸い込んだ。目の前には、美鈴が丁寧に整えた皿が並び、小声で「召し上がってください」と言いながら、礼儀正しい微笑みを浮かべた。礼司は背筋を伸ばし、ナプキンを広げて丁寧に膝に置いた。その動きはまるで儀式的で、所作の一つ一つに無駄がなかった。薫はその様子をまっすぐ見つめた。外観上、食事は穏やかに進んでいた。料理の説明、美鈴の彩り豊かな献立の声、客としての薫への配慮――すべてが完璧に履行されていた。しかし、その完璧に揃った空間の中で、明らかなずれもそこかしこにあった。まず、視線が交わらない。美鈴が目を上げて礼司に微笑んでも、礼司はそっと頷くだけで目をそらす。視線の代わりに微かな気遣いが交わされ、彼女の頬に浮かぶ笑みはすでに儀礼の域を出ない。その冷たい静けさを薫は感じ取っていた。次に、身体の距離。椅子が向かい合わせという配置にもかかわらず、礼司と美鈴の間には明確なすき間があるように感じられた。肘をつく距離、カップを持ち上げる時の肩の角度、すべてが慎重に計算された配置に見えた。薫はフォークを軽く持ち、口に運ぶ動作を止めて目線だけを礼司へ向けた。彼の横顔は整っていた。けれどその横顔には、燃えるような温度はなかった。スープを一口飲む時の喉の動きすら、薫には演技のように思えた。「薫さん、お味はいかがでしょうか?」美鈴が穏やかに尋ねた。礼儀正しい問いかけに、薫は小さく笑って答えた。「とても美味しいです。こんなに落ち着いた夕食は久しぶりです」礼儀を尽くした言葉だったが、心の奥では、ある確信が広がっていた。——この二人には、感情の火がない礼司はその言葉に軽く微笑んだが、再び目を伏せた。薫の中で、静かな動揺が芽吹き始めていた。それは単な