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第341話
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再び頂点に戻る、桜都の御曹司にママ役はさせない 第359話
大きく口を開け、抑えのない泣き声が体育館中に響き渡る。みかんの入った容器を抱きしめる姿は、まるで置き去りにされた子獣のようだった。「坊ちゃま！」ボディーガードが慌てて声をかけるが、泣き声を止める術を知らなかった。冬真が近づいてきた。「悠斗、何を泣いている？」五歳の息子の突然の感情の爆発に不満げな様子で言う。「もう五歳なんだぞ。泣くんじゃない」先ほど夕月がみかんを渡して去った途端に泣き出した様子を見ていた冬真は、悠斗の膝の上の容器に手を伸ばした。「やだぁ！！」悠斗は叫び、すぐさま身を屈めて、夕月からもらったみかんを守るように体を被せた。まるでその容器が最も大切な宝物であるかのように。冬真は冷たい声音で警告した。「泣くな」子供をなだめる術を知らない彼は、ただ大勢の前での息子の涙を不愉快に感じているだけだった。悠斗は冬真がみかんを取り上げることを恐れ、急いで口の中に詰め込んだ。筋の付いたままのみかんには、かすかな苦みが混じっている。悠斗はその苦みと涙の塩味を一緒に飲み込んだ。昔なら、夕月が筋を取り忘れただけで駄々をこねただろう。でも今は、もうそんな贅沢は許されない。夕月がみかんの皮を剥いてくれただけでも、有難いことなのだ。悠斗は容器の中のみかんを全て口に押し込んだ。冬真は息子の唇からみかんの果汁が溢れ出る様子を眉をしかめながら見つめていた。そんな行儀の悪い食べ方は見ていられない。ボディーガードにティッシュを持ってこさせ、身を屈めて悠斗の口を拭こうとする。「うっ！！」悠斗は顔を背けた。夕月からもらった大切なみかんを奪われることを怖れて。冬真は息子の警戒する様子に気づき、諦めと不本意さの入り混じった声で言った。「取らないよ」*日曜日、藤宮テックの本社ビルで買収セレモニーが間もなく始まろうとしていた。マイバッハS650プルマンのタイヤが地面を軋み、回転ドアの前で停車した。制服姿の守衛が階段を駆け降り、車のドアを開けると、涼が長身を滑らかに降ろした。ダークグレーのスリーピースが187センチの体躯を包み、整然としたカラーにはエレガントなウィンザーノットのネクタイが添えられていた。北の海で採れる最高級ミンクと名門織物の高級ウールを混紡した生地のスーツは、桜国からの注文は一切受け付けないとい
再び頂点に戻る、桜都の御曹司にママ役はさせない 第358話
冬真は瑛優の練習相手を一時間以上続けていた。胸が激しく上下し、大きく息を吸い込むたびに、その荒い息遣いが広い体育館に響き渡る。まるで堤防が決壊したかのように、額から汗が溢れ出る。濡れた黒髪が一筋一筋と張り付き、いつもの鋭い表情が柔らかく崩れていった。雨に打たれているかのように、頬を伝う汗が止まらない。上着とセーターベストを脱ぎ捨て、着ていたネイビーのドライシャツさえ、汗で色が濃く変色していた。意志の力だけで立っているようだった。体を少し前かがみにしながら、何とか倒れまいと踏ん張っている。だが、両足はまるでコンクリートを流し込まれたように重く、一歩も動かすことができない。木柱から飛び降りた瑛優は、演出衣装を着たままで、頬を紅潮させ、汗ばんだ額に細い髪が乱れて張り付いていた。夕月の元へ駆け寄ると、夕月は瑛優専用の水筒を差し出した。瑛優が大きく水を飲み干す間、夕月は小さなタオルを瑛優の襟元から背中に差し入れ、汗を拭い取っていく。夕月はしゃがみ込んで、瑛優の服の中に手を入れて確かめた。「汗でびっしょりね。着替えてきましょうか？」「うん」瑛優は素直に頷いた。夕月は瑛優を更衣室へ連れて行った。練習のために何着もの着替えを用意してあり、靴下や靴まで予備を持ってきていた。瑛優が靴下を脱ぐと、汗でしっとりと湿っていることに気づいた。乾いた服と新しい靴下に履き替え、洗面台の前に立つ瑛優の顔と手を、夕月は濡らしたタオルで丁寧に拭った。更衣室を出ると、用意しておいたフルーツと、すぐにエネルギー補給できるチョコレートバーを瑛優に手渡した。瑛優は椅子に座り、小さな足をぶらぶらと揺らしながら休んでいた。夕月は悠斗の前に歩み寄り、みかんの入ったプラスチック容器を差し出した。「食べる？」悠斗は胸が高鳴り、急いで容器を受け取った。中を見て、思わず口走った。「筋が付いてる……」返事はなかった。顔を上げると、夕月が背を向けようとしているのが見えた。「筋、嫌いなのに！」慌てて声を張り上げる。夕月は手を伸ばした。「いらないなら、返してくれていいわ」車椅子に座った悠斗の目は、まるで子うさぎのように真っ赤に染まっていた。「どうしてママは、筋を取ってくれないの？」「もう、私はあなたのママじゃないから」夕月
再び頂点に戻る、桜都の御曹司にママ役はさせない 第357話
練習開始からまだ三十秒も経っていなかった。「うっ！」冬真は瑛優の一撃で一歩後退し、喉から低い呻き声が漏れた。肋骨が折れるかと思うほどの衝撃だった。筋肉が神経に沿って激しく痛み、喉元に生臭い気配が上がってきた。冬真は激しく咳き込んだ。木柱の上から瑛優が心配そうに声をかけた。「橘おじさん、大丈夫？」胸を押さえながら、冬真は体を起こすことさえままならなかった。まさか瑛優の一蹴りでここまで効果的なダメージを受けるとは。彼が何か言おうとする前に、涼やかな男声が響いた。「橘おじさん、やっぱり無理なんじゃない？」冬真が振り向くと、壁にもたれかかった涼が夕月の傍らに座り、不敵な笑みを浮かべながら見下ろしていた。その笑みには明らかな悪意が込められていた。突然現れて瑛優の練習相手を買って出た冬真の魂胆は、誰の目にも明らかだった。しかし、夕月も天野も止めようとはしなかった。彼らは冬真が自ら招くことになる結果を知っていたからだ。かつての娘がどれほどの実力を持っているのか、それを知らないのは冬真だけだった。「できる！」冬真は怒りを込めて叫んだ。涼に見下されるわけにはいかない。自分が瑛優の父親としてどれほど重要な存在かを見せつけてやるつもりだった。夕月は二人の言い争いには目もくれず、膝の上のビニール袋からみかんの皮を剥いていた。瑛優が休憩する時に食べられるよう、フルーツの盛り合わせを用意していたのだ。悠斗は車椅子に座り、大きな黒のダウンジャケットに包まれた小さな体は、まるで巨大な毛布に埋もれているようだった。夕月から三メートルほどの距離を保ち、体育館に入ってから一度も視線を外さない。けれども、夕月は一度も彼の方を見ようとしなかった。悠斗は夕月がみかんの皮を剥いているのを見つめていた。夕月は丁寧にみかんの房を一つずつ分け、爪楊枝で種を取り除いていく。普段、瑛優は食べ物にそれほど気を遣わない。スイカの種も飲み込むし、リンゴの皮も剥かずに食べる。悠斗のように細かい要求はしない。悠斗はスイカなら種無しで、真ん中の部分しか食べない。瑛優はいつも「もったいない」と言って、悠斗が一口かじって残したスイカを全部平らげてしまう。リンゴは小さな四角に切らなければならない。皮を食べさせようとすれば、うさぎの形に剥いてあげないと口
再び頂点に戻る、桜都の御曹司にママ役はさせない 第356話
太鼓を打ち鳴らす天野は上半身裸で、ブロンズ色の肌に汗が滴り、白い照明に照らされて金属のような輝きを放っていた。太鼓バチを握る腕には、幾重にも筋肉が重なり、上腕二頭筋は鉄のように隆起していた。涼は切れ長の目を細め、思わず舌打ちした。「義兄さんも一緒に舞台に立つってわけか？」夕月は頷いた。「アクションシーンがあるの。瑛優が考えた演目には、兄の協力が必要なのよ」涼は鼻で軽く笑った。今回も天野は瑛優のためにずいぶん力を尽くしているようだ。「義兄さんが舞台に立てば、きっと園児のお母さんたちが大騒ぎになるだろうな」と冗談めかして言った。夕月が微笑みを浮かべる中、天野は振り返り、木柱の上の小さな獅子と向き合った。瑛優は天野の胸に両足を乗せ、天野は彼女を支え、再び木柱の上へと戻した。「踏み込みが甘いぞ。そのフォームじゃ、木柱から落ちる危険がある」天野は厳しい口調で指導を続けた。「もう一度！」瑛優は再度跳躍を試みたが、獅子頭を掲げた瞬間にバランスを崩し、木柱に脛をぶつけそうになった。天野は咄嗟に彼女を受け止めた。「基本動作が完璧じゃないな。この動きは何度も練習しないと」と天野が言い、ベンチで休んでいた獅子舞の師匠たちに声をかけた。「瑛優の練習につきあってください」「いや……」師匠たちは疲れた表情を浮かべ、「朝の六時から練習してるんですけど、お二人はまだそんなに元気なんですか！？」天野は眉をひそめた。几帳面な性格そのままに、「瑛優の練習時間は限られている。アクションシーンがまだ完璧じゃない。今は練習に集中すべきだ」と断言した。「瑛優、パパが練習相手になってあげるよ！」冬真が数人を連れて入ってきた。その後ろには車椅子に座った悠斗の姿もあり、橘家のボディーガードに押されていた。悠斗は入ってくるなり、夕月に視線を固定した。不意の来客に、天野の放つ冷気が一気に強まった。「出ていけ」天野は冬真が自分のテリトリーに踏み込むことを快く思わなかった。冬真は夕月のいる方向を横目で見やった。涼もいる。本当に付かず離れずだな、この二人は。「瑛優の練習時間は限られている」冬真は天野に真剣な面持ちで言った。「監視カメラをハッキングして、瑛優の練習を見させてもらっていた。必要な動作は全て把握している。練習相手は私が
再び頂点に戻る、桜都の御曹司にママ役はさせない 第355話
階段を降りながら、鹿谷は不思議そうに首を傾げた。「ねぇ、僕にはよく分からないんだけど。あいつ、瑛優の親権が欲しいのか、それとも君との離婚を後悔してるのか。どっちなんだろう？」「どうでもいいわ」夕月の声は穏やかだった。「あの人から、傅家から離れて、私は毎日が自由よ」「でも」鹿谷は眉を寄せた。「あいつ、しつこいヤツになりそうだぞ。まるでカビみたいに君に粘着してくる気がする」夕月の眉間に小さな皺が寄る。自分もそんな可能性を考えていた。「接近禁止命令を申請してみたら？警察に相談して、彼が近づけないようにするのよ」と鹿谷が提案した。「暴力を振るわれたわけじゃないから、接近禁止命令は下りないでしょうね。それに……」夕月は一瞬言葉を切った。「橘冬真は追い詰められると、反動で余計に暴走するタイプなの」あの監禁事件を思い出し、夕月は今でも背筋が寒くなる。「あの人には、強く制限をかければかけるほど、逆効果になるわ。だから……近づきたければ近づかせておけばいい。でも、私は決して思い通りにはさせないわ」夕月は冷静に分析した。*その日の夜、帰宅してすぐに瑛優は学芸会での演目を決めた。高さの異なる木柱を使った獅子舞を披露すると言い出したのだ。夕月の前で、獅子舞の一節を披露してみせる瑛優。夕月が目を丸くして拍手する中、鹿谷に至っては目が飛び出んばかりに驚き、睡魔も吹っ飛んで夢中で拍手を送った。「すげえな、瑛優！誰に習ったんだ、この獅子舞？」一通り舞い終えた瑛優は、息も上がらず、顔色も変わらないまま落ち着いた様子で答えた。「テレビ見て覚えたの」「マジで！？テレビだけかよ！」鹿谷は驚きのあまり声が裏返った。「うん！」瑛優は頷きながら続けた。「これ簡単すぎるから、ステージでは木柱の上で演じて、アクションシーンも入れたいの。そしたらもっとかっこよくなると思わない？」鹿谷は心配そうに眉を寄せた。「木柱での演技は相当キツいぞ。練習期間があと二日しかないのに……」夕月は瑛優の練習進度についてそれほど心配していなかった。「瑛優ってね」と鹿谷に説明する。「テレビを見ただけでバレエのステップを習得したのよ。開脚もターンも、見るだけで完璧にできちゃうの」「でも」鹿谷は眉間に不安な色を浮かべる。「獅子舞って、バレエより体力いるんだよな。しかも今
再び頂点に戻る、桜都の御曹司にママ役はさせない 第354話
瑛優の無邪気な声に、後ろに立つ教師たちの表情が「これは面白い」とばかりに緩んだ。冬真は頭が真っ白になり、「そんなことは……」と血の気の引いた顔で否定するのが精一杯だった。夕月の方をちらりと見上げると、胸の中で苛立ちが爆発しそうになる。「パパは藤宮楓と一緒に寝たことなんて一度もない！絶対にそんなことはしていない！」まるで夕月に聞かせるかのような必死な否定の声。その反応を窺う視線。しかし、そんな必死な説明も、瑛優の素直な論理を覆すことはできなかった。「でも、楓兄貴は橘おじさんの親友で、鹿谷さんはママの親友でしょう？同じことじゃないですか？」「違う！それは全然違う！」冬真が強く否定すると、瑛優は頬を膨らませ、少し反抗的な眼差しを向けた。「ダブルスタンダードはよくないです。自分に甘くて、他人に厳しいのは、フェアじゃありません」冬真の呼吸が止まりかける。大人の私生活に関わる話題を、五歳児にどう説明すればいいのか——完全に言葉を失っていた。ふと何かを思い出したように、夕月を見つめる。「瑛優にいったい何を吹き込んだんだ。私と楓の関係をそんな風に見るなんて」夕月は鼻で軽く笑う音を立てただけ。説明する価値すら感じないという様子で、冬真には一瞥すら向けなかった。「橘おじさん、ママのことを誤解してます」その声に、冬真の表情が和らいだ。「そうか」と穏やかな声で続けた。「パパの行動が誤解を招いていたのかもしれない。でも覚えておいて、楓とは友達関係だけだ。私たちは決して、ママとこいつみたいに……」言葉が途切れた時、鹿谷は夕月に横から抱きつき、その肩に頭を乗せていた。「へぇ？」鹿谷は挑発的な目つきで冬真を見据えた。「親友同士で抱き合ったことなんてないって？」「……」冬真の言葉が喉に詰まる。「私、見たことあります！」瑛優が即座に反応する。「楓兄貴と橘おじさんが抱き合ってたの！」横で見ていた教師たちは、まるでドラマでも見ているかのように、息を潜めて事態の成り行きを見守っていた。「親友同士なら抱き合うのも普通」鹿谷は細めた目で笑いながら言った。「親友同士なら、こうやってチューだってね〜」そう言うと、サッと夕月の頬にキスをした。一瞬にして冬真の胸の中で血が逆流し、口の中に血の味が広がった。両手は強く握
再び頂点に戻る、桜都の御曹司にママ役はさせない 第353話
自分の存在価値を示したい一心で、父親としての力を見せつけようと、冬真は諦めずに続けた。「国営放送の制作チームだって呼べるんだ。ダンスをやるなら、国内外のトップダンサーと連絡を取ることだってできる。瑛優、お前は私の娘なんだから、遠慮なく頼っていいんだよ！」瑛優の表情が一瞬固まった。これまでの五年間、冬真がここまで自分に関心を示したことはなかったからだ。突然の優しさに、どう反応していいのか戸惑いを覚える。「瑛優、パパを頼ってほしいんだ」冬真は真剣な眼差しで続けた。「今までお前のことを疎かにしてきた。でも、まだ五歳なんだ。これからならまだ間に合うはずだ」その言葉に込められた本心も、その裏にある意図も、幼い瑛優には判断がつかない。ただ、素直な気持ちのままに答えた。「橘おじさんは、ママと私の邪魔をしなければ、それでいいです」「邪魔なんてするわけが……」「でも」瑛優は静かに言葉を重ねた。「鹿谷さんのこと嫌いみたいだし、ママと一緒にいるのも反対してるでしょう？」その一言が、まるで刃物のように冬真の胸を貫いた。口の中に血の味が広がるような錯覚さえ覚える。思わず口をついて出そうになった言葉を必死で押し殺す。——当然反対だ！夕月の傍に他の男がいることなど、どうして認められるだろうか。しかもあの鹿谷は夕月の「本命」だというのに！「本命」という言葉が、まるで毒を持った種子のように心臓に根を下ろし、千の棘となって内側から突き刺してくる。胸の中で心臓が軋むような痛みを覚えながら、冬真は愕然とする。自分の血を分けた娘が、夕月と鹿谷の関係を応援している——くそっ！冬真は表情を引き締め、断固とした口調で言った。「母親には彼氏がいるのに、その鹿谷という男を家に泊めて、一緒に寝るなんて、不倫じゃないか」感情の機微については娘に詳しく話すべきではないと思いながらも、冬真は諭すように続けた。「パパはただ、ママが悪い手本になることを心配してるんだ」夕月と鹿谷が視線を交わす。鹿谷は唇を噛みしめ、胸が震えた。笑いを必死に堪えている。夕月は肩をすくめて鹿谷に目配せした。まるで「この人バカね」と言わんばかりに。もう笑いを抑えきれなくなった鹿谷は、素早く夕月に抱きつき、その肩に顔を埋めた。その光景に冬真の不機嫌さは増すばかり
再び頂点に戻る、桜都の御曹司にママ役はさせない 第352話
冷ややかな眼差しが冬真に向けられる。つまり、さっきの講堂での出来事を全て把握していたということか。そして、エレベーターの故障と、冬真がここに現れたことも——その意図は明白すぎた。瑛優の小さな手を握る夕月の手のひらが汗ばむ。完全に正気を失っている。「私の娘」と口にしながら、その娘の安全など眼中にないなんて。だが、確たる証拠がない以上、エレベーターの故障が自分の仕業だとは決して認めないだろう。胸の内で膨れ上がる怒りを必死に抑え込みながら、夕月は尋ねた。「京花さんが瑛優を狙い撃ちにしてることは知ってるの？」「最近、母と親密にしているようだが……」つまり、京花が幼稚園でこれほど好き勝手できるのは、橘大奥様が後ろ盾となって、そそのかしているということ。そのとき、エレベーターの扉が開き、文芸部の教師たちが数人降りてきた。「橘社長」と彼らは冬真に深々と頭を下げる。瑛優はその顔ぶれを覚えていた。年少組の時の学芸会で、審査員として見守ってくれた先生たちだ。「先生方、こんにちは」瑛優は両手を胸の前で組み、真っ直ぐな瞳で見上げた。「幼児部年長組の藤宮瑛優です。学芸会でソロの演目を披露したいのですが、お願いできますでしょうか？」教師たちの表情が曇る。彼らは理事長である冬真の方をちらりと見た。冬真が首を縦に振れば、彼らも従うしかない。だが、そんな表立って言えない暗黙のルールを、瑛優には説明できるはずもない。「ここで待ってたのは、私に頭を下げさせたかったから？」夕月は冬真を鋭く見据えた。冬真の深い瞳に笑みが宿る。夕月が自分に頭を下げる姿を見たがっているのは明らかだった。「お前が頼むなら、瑛優の学芸会の件も簡単に解決できるがな」瑛優は下唇を軽く噛んだ。「学芸会に出たいです。でも、まだ何を披露するか決めていなくて……」真摯な眼差しで先生方を見つめ、はっきりとした声で続けた。「練習を重ねて、先生方に見ていただきたいんです。もし良い演目だと思っていただけたら、全校の前で披露させてください！」娘が自分を眼中に置いていないことに気付いた冬真は、声をかけた。「瑛優、パパの力を借りなくていいの？」間を置いて、今度は甘く諭すような口調で続けた。「パパの娘として私の元に戻り、橘家のお嬢様になってくれれば、学芸会の出演はおろか、
再び頂点に戻る、桜都の御曹司にママ役はさせない 第351話
冬真は、夕月が振り向いた瞬間を見つめていた。彼女の瞳に浮かぶ笑みには、鹿谷への無条件の愛おしさが満ちていた。その表情に冬真は息を呑んだ。夕月がこんな表情を見せるのは初めてだった。桐嶋にさえ向けたことのない笑顔で、まるで鹿谷の言葉なら何でも百パーセント支持するかのようだった。鋭い刃物で心臓を一突きまた一突きと抉られるような痛みが走る。冬真の呼吸が乱れ始めた。幼馴染という存在が持つ破壊力は、こんなにも凄まじいものなのか。鹿谷と夕月が幼い頃から一緒に育ったことは知っていた。だが、これまで眼中に置いたことすらなかった。橘家の後継者である自分が、田舎育ちの人間など気にかける必要などなかった。夕月と鹿谷の仲の深さは承知していたが、それでも鹿谷という存在を見下していた。まさか夕月が、鹿谷の「本命」という言葉を肯定するとは。もし鹿谷が「本命」で、桐嶋が「彼氏」なら——自分は何なのか。七年に及ぶ結婚生活は、夕月にとって笑い話でしかなかったというのか。千キロの鉄槌で殴られたような衝撃が全身を貫いた。胸に空いた穴から冷たい風が吹き込み、内臓をナイフで切り裂かれるような痛みが走る。「夕月！」漆黒に染まった瞳で、眉間に深い皺を刻みながら、冬真は吐き捨てるように言った。「あいつが本命なら、桐嶋は何なんだ？」「桐嶋さんに片思いでもしてるの？」夕月は冷ややかな声で返した。「随分気になるみたいね」男の鋭い視線を受け止めながら、夕月はその眉間に深い哀しみを見た気がした。まつ毛が僅かに揺れる。元夫を前にしても、胸は何も揺らがない。「何度言えば分かるの？私たちは他人でしょう。離婚の時はさっさと手を切りたがってたくせに、どうして今さら私の前に現れては存在感を示そうとするの？」その言葉に、男の声音が一気に冷たくなった。「考え過ぎだ。まさか、私がわざとお前を待ち伏せていたとでも？」冬真は唇の端を歪めて嘲笑う。漆黒の瞳には軽蔑の色が浮かぶ。だが、後ろめたさからか、夕月の顔を直視できず、視線を逸らしてしまう。実は——彼は確かに意図的にここで夕月と出くわすよう仕組んでいた。瑛優を連れて文芸部の先生に会いに校舎に来るという情報を掴むや否や、エレベーターを細工したのだ。だが、この階で夕月を待っている間、思いもよらない邪魔者が現
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