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冷酷御曹司は逃げた妻を愛してやまない
冷酷御曹司は逃げた妻を愛してやまない
作者: 結城 芙由奈

1-1 もし私が死んだら

last update 最終更新日: 2025-09-15 18:52:36

視界が、ぐらりと揺れた。

何かが砕ける音。誰かの叫び声。

身体が宙を舞い、叩きつけられた。

途端に身体を引き裂かれるような痛みが全身を走る。

耳鳴りが酷くて、周りの音が何も聞き取れない。

空気が薄くなったかのように、息が苦しく呼吸ができない。

頭がズキズキと割れるような痛み。

一体何が起きたのか分からない。その時、自分のスマホが転がっているのが目に留まった。

「う……」

朦朧とする意識の中で沙月は夫――天野司の電話番号を振るえる指先でタップした。

トゥルルルル……

耳元で聞こえる呼び出し音が続く。

(お……願い……出て……)

しかし……。

プツッ!

通話が切れた……いや、切られてしまった。

「フ……」

沙月は小さく笑った。

馬鹿な話だ。彼は一度だって、沙月の電話に出たことは無い。いつも無情に切られてしまうのは分かり切っていたはずなのに。

急激に自分の意識が遠くなっていく。

(ひょっとして……これが死ぬということなのかも……)

もしこのまま死んだら、自分の遺体を引き取ってくれる人は、いるのだろうか?

誰か、泣いてくれるだろうか?

それとも身元不明の遺体として荼毘に付されてしまうのだろうか……?

そんなことを考えながら、沙月の意識は闇に沈んでいった――

****

沙月が次に目覚めた場所はベッドの上だった。

辺りには消毒液の匂いが漂い、廊下は騒がしく看護師の声が聞こえてきた。

「交通事故です。数十人の負傷者が出ています」

看護師の声が飛び交い、ストレッチャーが廊下を走る音が聞こえている。

「また……病院……?」

天井の白さが眩しく思わず目を細めたとき、看護師が現れて急ぎ足でベッドに近づいてきた。

「天野さん? 目が覚めたのですね? 良かった……あなたは交通事故に遭って病院に運ばれてきました。事故のことは覚えていらっしゃいますか?」

「……はい」

沙月の脳裏に事故に遭った瞬間の出来事が蘇る。

「天野さんは事故で脳震盪を起したので経過観察が必要です。原則としてご家族の付き添いをお願いしているのですが、連絡の取れるご親族はいらっしゃいますか?」

「家族……」

沙月には付き添ってくれるような家族はいなかった。

2年前――

あの強引な契約結婚以来、彼女は天野家から「家族の体面を守るため」、外部との連絡を絶たれていたのだ。

友人に連絡することも、実家に頼ることも許されなかった。

今、頼れるのは天野家だけ。

けれど、そこでも彼女の立場は弱かった。

仕事もなく、社会からも孤立している。彼女は、ただ「妻」という肩書きだけで天野家に縛られていた。

「では……連絡を入れてみます……廊下で……電話しても……いいでしょうか……」

看護師の前では司に電話をかけたくはなかった。彼が電話に出ることも無く一方的に切ることは分かり切っていたからだ。その姿を見られたくなかった。

「……ですが、脳震盪を起しているのに起き上がるのは無理です。もし、私がいることで電話をかけにくいなら席を外しますから、こちらでかけてください」

看護師は沙月の枕元にスマホを置くと、病室から去って行った。

「……」

繋がるはずのないスマホを握りしめたとき、廊下から会話が聞こえてきた。

「聞いた? 13号室の患者さん、朝霧澪さんらしいよ!」

(朝霧……澪?)

その名前に沙月は反応した。視線を動かすと、2人の看護師が沙月の部屋の前で立ち話をしている。

「え? 朝霧澪? 最近ネットで話題のニュースキャスターでしょ? どうして入院してるの?」

「多重事故で、腕を怪我したのよ。大した怪我でもないのだけど、顔で食べてる人だから、やっぱり普通の人よりデリケートね。それに若い男性もいたのよ! 以前財経雑誌で見た天野グループの超イケメン御曹司にそっくりだったの! 絶対あの雰囲気だと恋人同士に違いないわよ」

興奮しているのか、看護師の声が大きくなる。

「その話、本当なの? だって噂じゃ、数年前に極秘結婚したって騒がれていたじゃない。……もしかして朝霧さんが相手だったの?」

(結婚相手……)

沙月の心臓の鼓動がドクドクと早まる。

その時。

「あなたたち! こんなところで患者さんの噂話をしているんじゃないの! 早く持ち場に戻りなさい!」

突如、2人を叱責する声が聞こえた。

「は、はい!」

「すみません! 師長!」

慌てた様子で謝罪し、足音が遠ざかっていった。

「朝霧……澪」

天井を見つめていた沙月はポツリと呟いた。

朝霧澪――天野司の初恋の相手。

彼女は海外にいるはずではなかっただろうか? しかも……司が一緒にいる?

沙月は痛む身体を何とか起こし、ベッドから降りた。

壁に手をつき、ふらつきながら廊下を歩き……気づけば13号室の前に立っていた。

扉は少し開いており、隙間から見えたのは――

司が病床のそばに座り、澪の手をそっと握る姿。沙月が今まで見たことのない優しい笑みを浮かべていた。

「!」

その瞬間、沙月は息が詰まりそうになった。

胸の中の感情を必死に押さえようとするが、澪の声が耳に飛び込んできた。

「良かったわ……子供は無事で」

澪が自分のお腹にそっと手を当てる様子を見てしまう。

ドクンッ!

世界が一瞬静まり返った。

(子供……? まさか……もう2人に子供がいた……?)

沙月の全身から血の気が引いていった――

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