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1-4 覚醒

last update 最終更新日: 2025-09-16 19:22:52

 沙月の言葉に、少しの間司は驚いて目を見開いていたが……。

「はっ! 離婚? 今度はまた何を企んでいるんだ!」

沙月はため息をつくと首を振り、静かに答えた。

「別に他意はないの。ただ疲れただけよ。でもこれであなたの望みも叶うでしょう?」

すると司は嗤った。

「俺と離婚して一人で生きていけると思っているのか? 世間から隔絶されたような生活を送っているお前に! 許しを請うつもりなら今のうちだぞ!?」

「……」

眉根を寄せる沙月。

司の反応は何故か予想を超えたものだった。てっき素直に離婚に応じると思っていただけに、意外だった。

(私と離婚したいはずじゃなかったの……? それとも何か理由があるのかしら?)

だが、今の沙月にはそんなことはどうでもよかった。もうこれ以上司に振り回されるつもりは全くない。

「許しを請うつもりはないし、離婚したい気持ちも変わりません」

無表情で答える沙月。その淡々とした態度に、司の怒りはさらに増す。

「勝手にしろ! 後で後悔して泣きながら謝りに来ても、俺はもう知らないからな!」

司は吐き捨てるように言うと大股でリビングを出て行った。

バンッ!!

勢いよくドアが締められ、重い扉の音が空っぽのリビングに響き渡る。

「……ついに言ったわ……」

1人になった沙月はため息をついた。

司の怒声も、冷たい視線も、もう何も感じなくなっていた。

ただ唯一、胸にぽかりと穴があいたような虚無感だけが残った。

「荷造りをしなくちゃ……」

沙月は立ち上がると、自室へ向かった。

****

部屋に戻った沙月はウォークインクローゼットから大きなスーツケースを引っ張り出すと、荷造りを始めた。

ドレッサーの引き出し、クローゼットの服、ベッド下の収納棚。

この家で使っていた自分の持ち物を手に取るたび、胸が締めつけられる。

それでも、手は止めなかった。

司に離婚宣言をした以上、もうここには居られない

この部屋には、思い出らしい思い出は殆ど無かった。

結婚してからというもの、司との会話は必要最低限だった。

朝食の時間も、帰宅の挨拶も、互いに形式だけ。そして別々の寝室。

夫婦というより、まるで同居人。

互いに干渉しないことを暗黙の了解とする契約結婚……冷え切った関係だった――

「あ……」

アクセサリーを整理していた沙月の手が止まった。決して多くはないアクセサリーの中で、唯一ケースに収められた品。

震える手で蓋を開けると、中に入っていたのは婚約指輪だった。

「婚約指輪……」

沙月は指輪を手に取り、じっと見つめた。

契約結婚が決まった当初、世間体を気にする司から「金は用意するから婚約指輪は自分で用意しておけ」と言われた。

女性が一人で婚約指輪を買いに行くということは世間一般ではありえないことだ。

さすがに自らの足で宝石店に行くことは躊躇われた。そこでやむを得ずネットで選んで購入したものだった。

(わざとらしく部屋に残していけば、私の決意が本当だと伝わるかしら……)

沙月はドレッサーの前に、指輪が入ったケースを置いた。

「……行きましょう」

スーツケースを持つと沙月は玄関の扉を閉め、大通りへ向かって歩き出した。

もう振り返ることはしなかった。

この家に、自分の居場所はない。

いや、最初から無かったのだ。

(実家には……戻れないわ)

大通りに出た沙月はタクシーを拾い、運転手に「近くのビジネスホテルをお願いします」と告げた。

「承知いたしました」

運転手は頷くと、タクシーはすべるように走りだした。

****

――10分後。

沙月はビジネスホテルのフロント前で数枚のクレジットカードを手にし、青ざめていた。

全てのカードがエラーを起こし、使えなくなっていたのだ。

「そ、そんな……」

青ざめるとフロントの女性が困り顔で言った。

「お客様、当ホテルは先払い制です。申し訳ありませんが、お支払いが確認できない場合はお部屋のご案内ができません」

(司が……カードを凍結したの?)

その可能性が頭をよぎった瞬間、司が本気で自分を追い詰めようとしていることを察した。

離婚を切り出した沙月に対して、経済的な締め付けという形で報復してきたのだ。

(彼は……本当に私のことが憎いのね)

沙月は唇を噛みしめた。

不思議なことに涙は出なかった。

ただ、心の奥で何かが静かに崩れていくのを感じた。

(いいわ。そっちがその気なら、とことん受けて立つまでよ)

沙月はフロントの女性スタッフに「お騒がせしました」と告げ、ホテルを後にした。

****

夜の街をあても無く歩く沙月。

ベンチを見つけた沙月は腰を下ろすと、スマホを見つめた。

連絡できる相手は殆どいない。

(私は……本当に、何も持っていないの?)

その瞬間、過去の記憶が蘇る。

――XX大学文学部国際教育学科主席卒業。

報道局からの内定。教授たちの期待。

自分は将来を約束されていた。

卒業式の日、教授に言われた言葉が蘇る。

『君なら、どんな会社でも期待の星として、やっていけるはずだ』

その言葉を胸に、沙月は夢を描いていた。管理職を目指し、女性でも活躍できる社会作りに貢献したい。

それが沙月の目指した未来だった。

しかし、あの夜――司との出会いが、自分の生活を一変させた。

沙月は「妻」として生きることを強いられ、外界との接触を絶たれ、友人たちともほとんど疎遠になった。

かつて抱いていた夢は、目に見えない檻の中に閉じ込められてしまった。

だが……。

「ここで終わらせるものですか」

沙月の中で何かが目覚めた。

スマホを手に取るとメッセージを送った。

『少しだけ、相談に乗ってほしいの。今度、時間ある?』

送信ボタンを押した指先は、もう震えていなかった。

沙月は、「自分の人生」を取り戻すための一歩を踏み出したのだった――

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コメント (1)
goodnovel comment avatar
matsuda.midori
現金も持ってた方がいいよ。
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