結婚していたのは、女と男。でも、愛したのは…男と男だった。 ごく平凡な二組の夫婦。静かに満ちていたはずの日常は、ある夏、貸別荘での“再会”によって軋みはじめる。 互いの胸に秘めた欠落を埋めるように、男たちは夜の帳の中で重なり合う。 気づきながらも目を逸らす妻たち。そしてついに、「信じること」が崩れ落ちる夜が訪れる。 裏切りと赦し、欲望と孤独、愛と再生。 すべてを失ったふたりの男が、それでも「ただ、あなたと生きたい」と願ったとき—— 新しい愛のかたちが、ゆっくりと立ち上がる。 心を揺らす純愛BL、ここに誕生。
Lihat lebih banyakガラス越しに外を見れば、薄曇りの空がぼんやりと陽を透かしていた。風はなく、じっとりとした湿気が街を包んでいる。夏の始まりを告げるような、重たい空気だった。志乃はカフェ併設のフラワーアトリエの扉の前で立ち止まり、薄く息を吸った。大学時代の親友が運営している店舗である。
十年ぶりの再会というものに、少しばかりの緊張と、ほんのわずかなときめきが混じっていた。ドアのガラスに映った自分の顔を見て、志乃は小さく姿勢を整えた。肩にかかる髪を撫で、軽くリップを確かめる。こんなふうに誰かに会う前に、鏡を気にするなんて、いつ以来だろうと思った。ドアに手をかけた瞬間、内側から鈴の音が鳴った。
「いらっしゃいませ…あ」
振り返った瑞希の声は、あの頃のままだった。けれど、声の張りが少しだけ丸くなっていた。語尾に柔らかさが増していて、それが不思議と心に残った。志乃は思わず笑みをこぼし、ふたりの間の距離が一気に縮まったように感じた。
「志乃…久しぶり」
「瑞希、変わってないね」
お互いの名を口にした瞬間、学生時代の記憶が一気に甦る。講義の合間にカフェでしゃべり込んだ午後、卒論の締切前に泣きながらプリンタを奪い合った夜、真夜中に無意味に外を歩きながら交わした恋の話。たしかにすべて、あったはずの記憶だった。
アトリエの奥、カフェスペースに案内されて、二人は向かい合って座った。瑞希の頬には自然な紅がさしていて、白いブラウスの襟元からはほのかにラベンダーの香りが漂っていた。志乃は無意識のうちに、瑞希の左手を見た。薬指には、細いゴールドのリングが光っていた。
「素敵な指輪だね」
志乃が言うと、瑞希は照れたように笑って指を隠した。
「ありがとう。もう三年かな。結婚して」
「早いね。大学卒業してから、どんなふうに過ごしてたの?」
「いろいろあったよ。実家に戻った時期もあったし…でも、今はやっと、落ち着いたかな」
志乃は頷いた。瑞希の服の色は、昔よりも淡くなっていた。かつては黒や深い赤を好んでいた彼女が、今日はラベンダーグレーのワンピースを着ている。そういう変化に、年月の流れを思い知る。
「志乃は? 結婚してるって、聞いたけど」
「うん。もう三年目。彼はフリーで建築の仕事してて。わりと自由人だけど、まあ、合ってるのかも」
「へえ。なんか、想像つくな。志乃って昔から、自分の世界を大事にする人だったもんね」
「そう?」
「うん。恋愛でも、相手に飲み込まれるより、ちゃんと対等でいたいって思ってたでしょう?」
志乃は少し笑って、カップに口をつけた。瑞希のそういうところは、昔から変わらない。人の心を読むようにして、でもそれを静かに語る。
「…あの頃のこと、よく覚えてるんだね」
「だって、志乃との時間が、すごく楽しかったから」
そう言われて、志乃はふいに胸の奥があたたかくなった。あの頃の記憶は、懐かしいけれど、どこか夢のように遠い。自分たちは変わってしまった。けれど、それでもまたこうして、向かい合って笑えるのだ。
ふと、瑞希が店内を見回してから言った。
「ねえ、今度さ、旦那さんも一緒に会わない? うちの人も紹介したいし。四人でご飯とか、どう?」
「あ、いいね。夫婦同士で。そういうのって新鮮かも」
「でしょ? たぶん、ふたりとも気が合いそうな気がするんだ」
「うちの人、ちょっと変わってるよ?」
「うちのも変わってるよ。真面目だけど、何考えてるかわかんないところある」
笑い合ったふたりの空気に、どこか安心感が満ちていた。昔と今、そのあいだにあるものを、無理に測ろうとせずにいられる時間。
「じゃあ、来週あたり、予定合わせようか」
「うん。楽しみにしてる」
そう言いながら、志乃はもう一度、瑞希の手元に目をやった。指輪が、さっきよりも深く光を集めていた。ふたりのあいだには、もう学生時代のような無垢な時間はない。だけど、大人になった今だからこそ、築ける絆もあるのかもしれない。
帰り際、志乃は店を出て、ふと振り返った。ガラス越しに、瑞希が花を包んでいる姿が見える。その肩の丸みに、少しだけ「誰かの生活」が重なって見えた。
瑞希の声は、あの頃のままだったけれど、語尾の柔らかさに、誰かと長く暮らした人の匂いが混じっていた。
ベッドの上には、最小限の白いシーツがきちんと敷かれていた。仮眠用にと用意されたそれは、ほとんど使われたことがなかった。須磨は、自分がこの場所で眠りこけた記憶すらあまりないことを、ふと意識の隅で思い出していた。だが今、隣に座る塩屋の吐息を感じながら、その全てが“用途のため”だったのではないかと、静かに思い直していた。ソファでの会話が途切れたあと、ふたりは無言のまま立ち上がり、ただベッドへと向かった。約束も、確認も、冗談すらなかった。ただ、互いの呼吸が導くままに、ゆっくりと距離を詰めていった。どちらが先だったのか、もう思い出せない。けれど、頬が触れ合うよりもずっと手前の場所で、ふたりの体温はすでに交わっていた。須磨は塩屋の手をとった。指を絡めるのではなく、まずはその掌の内側をそっとなぞる。滑らかな皮膚の感触。ひんやりとした温度が、やがて須磨の体温を吸い込んでいく。塩屋は抵抗しない。むしろ、その指先がこちらを求めるように震えているのが分かる。シーツの上に、静かに塩屋を横たえる。そのまま自分も、肩が触れるほどの距離で横になった。互いの顔が至近距離にあった。塩屋の睫毛が、驚くほど長く、光を反射して淡い影を作る。お互いの吐息が、額と額の隙間で交じり合い、ひとつの浅い雲のように漂う。「…なんだろう、この感じ」塩屋が、ほとんど聞き取れないほど小さな声で呟いた。問いかけでもなく、誰に向けたものでもない。須磨は返事をせず、そっと塩屋の額に自分の額を寄せた。二人の体が、どちらからともなく密着していく。触れる部分すべてが、互いの“輪郭”を確かめようとするように、ゆっくりと動く。愛撫、というにはあまりに静かな手つきだった。須磨は塩屋の髪をすくい、耳の後ろへ滑らせる。その流れで頬に触れ、顎のラインをなぞる。塩屋は目を閉じ、指先がシーツをつかんだ。爪の先から伝わる微かな震えが、須磨の手のひらに直接伝わってくる。ふたりの呼吸は、次第に速くなっていく。けれど声はない。ただ、熱だけが音も立てずに、部屋の空気を濃く染めていく。塩屋が、ゆっくりと須磨の肩に腕をまわした。その手は、頼るように、あるいは何かを抑え込む
ウイスキーの琥珀色が、薄いガラスの底に静かに揺れていた。氷は入れない。理由を問われれば「香りが消えるから」と答えるだろうが、本当はもう、冷たさなど必要としていなかった。午後はとっくに過ぎ、窓の外の雨は細く長く続いていた。秋の雨特有の粘り気が、部屋の空気に薄い膜をつくっていた。帳簿作業はすでに終わっていた。ノートパソコンも閉じられ、塩屋のカバンは壁際に寄せられている。だが彼は帰らなかった。「一杯だけ、飲んでいきます」と言ったのは、ほんの五分前。言葉に曖昧な照れはあったが、拒まれることは最初から予想していなかったような、安心した声音だった。ソファに並んで座るその距離は、初めてこの部屋に塩屋が来たときより、たった数十センチ詰まっていた。けれどその僅差が、ふたりの呼吸に与える影響は決して小さくなかった。「なんでこの部屋、白ばっかりなんですか?」グラスを唇に運びながら塩屋が言った。ウイスキーの縁が唇の端にわずかに濡れ跡を残し、それを拭おうともせずに、彼はただ、前を向いている。「余計な色があると、集中できない」「須磨さんらしいな。…潔癖じゃないけど、境界は引くタイプですよね。人にも、自分にも」須磨は笑いもせず、ただ視線を向ける。「それ、どういう意味で言ってんだ」「誉めてるつもりなんですけどね。僕、そういう人に惹かれやすいんです。…昔から、曖昧な人間には自分が溶けちゃいそうになるから」「塩屋って、そんな自己分析するようなやつだったか?」「昔からですよ。見た目のせいでそう見えないだけで」須磨はその言葉に軽く笑った。笑うことで、落ち着こうとしたのかもしれない。けれど笑った直後、深く呼吸を整えたのが自分でもわかった。グラスを持つ手が、少しだけ強くなっていた。「で、何が言いたいんだ。俺といても、溶けそうか?」「……」塩屋は答えなかった。ただ一度、グラスの底を見つめてから、唇を湿らせるようにして口を開いた。「こういう関係、っていうか、こういう空気に慣れてるんですか。須磨さんは」
秋雨は、じわじわと窓ガラスを濡らしはじめていた。午後四時をまわったばかりのはずなのに、空はすでに灰色がかって重く、部屋の白い壁紙に落ちる光もどこか沈んで見えた。須磨の“仕事部屋”とされるそのワンルームには、生活の匂いが一切なかった。白い壁、灰色のソファ、無機質なデスク。最低限の家具と事務用品しか置かれておらず、長く腰を落ち着けるには冷たすぎる空間だったが、今の彼にはその距離感がちょうど良かった。玄関がノックされ、須磨が鍵を開けると、塩屋がいつものスーツ姿で立っていた。黒のショルダーバッグを肩にかけ、片手にノートPCの入った薄いケースを持っている。濡れた傘のしずくが、彼の靴に静かに落ちていた。「こんにちは。思ったより降ってましたね」「だな。中入れよ」須磨がドアを開け、塩屋が一歩足を踏み入れる。その足取りは、どこか丁寧すぎるように見えた。塩屋は部屋の奥に目をやりながら、濡れた傘をたたみ、玄関の隅に立てかけた。「この部屋、落ち着いてていいですね。…生活の匂いがしない」「そういう部屋にしたくて借りたからな」須磨は笑いながら、コーヒーメーカーのスイッチを押した。塩屋がPCをテーブルに広げる。その手元を、須磨が何気なく見る。白くて細い指先。タイピングの動きがなぜか視線を引いた。「今月の収支、前月と比較しても特に大きな変動はなかったです。ただ、広告費の出費が少し目立ってたので、来月以降の予算の配分を少し変えたほうがいいかもしれません」「ふん、そうか」須磨は応接用の椅子に腰を下ろし、カップを両手で包むように持った。熱はまだ伝わってこない。代わりに、視界の端で塩屋が眼鏡を外し、シャツの胸ポケットに差すのが見えた。細いまつ毛が、その瞬間だけ印象的に映る。塩屋は身をかがめて、プリントアウトした帳簿のファイルを手渡そうとする。須磨がそれを受け取る。指先が重なった。軽く、ほんの一瞬、だが確かに。息が止まった。塩屋の視線が須磨をとらえた。須磨も視線をそらさなかった。沈黙のまま、ふたりの間にある距離が測り直される。まるで机の上に置か
チェックアウトの時間が迫り、貸別荘のなかはどこか浮足立った空気に包まれていた。昨夜の余韻も、朝の柔らかい食卓の記憶も、荷物をまとめる気配に押し流されていく。志乃と瑞希は寝室のシーツを整えながら、忘れ物がないかを確認し合っていた。「本当に楽しかった。やっぱりこういうの、定期的にやりたいね」「うん。…ねえ、須磨さんとうちのダンナ、結構気が合ってるっぽいよね」「うん、びっくりするくらい。…正直、あんなに自然に打ち解けるなんて思わなかった」ふたりは笑いながら、まだ湿った水着をバッグに押し込む。海の匂いが荷物の奥からふわりと立ち上り、昨日の記憶をほんの一瞬だけ鮮やかに蘇らせた。リビングでは、男たちがキッチンの片付けと掃除を分担していた。須磨は冷蔵庫の中身を確認し、使い残した調味料を袋に詰めている。塩屋は、ソファの上に散らばった衣類をまとめていた。そのうちの一枚──薄手のリネンのシャツを、何気なく持ち上げる。「これ、須磨さんの?」「うん、ありがとう」塩屋は畳もうとして、少し躊躇うような手つきになった。どこか手慣れたようでいて、妙に丁寧すぎる折り方だった。袖口をそっと揃えようとしたとき、須磨が無意識に同じ部分に手を伸ばす。指と指が、かすかに触れた。ほんの一瞬。それ以上でもそれ以下でもない。それなのに、その接点が生む空気の濃度は、二人の呼吸すら変えてしまうほどだった。須磨はゆっくりと顔を上げた。塩屋もまた、ほとんど同じタイミングで視線を向けていた。何も言葉はなかった。だが、言葉よりも重く、密やかに伝わるものがあった。シャツの柔らかさが、指先に残っている。それがどちらの体温かもわからないまま、ただ重ねた視線の奥で、何かが確かに起きていた。塩屋は先に目を逸らし、ふっと短く息を吐いた。笑ったようにも見えたが、それが自嘲なのか、安堵なのか、須磨には判別できなかった。ただ、その横顔の静かさに、須磨は妙に胸を掴まれる思いがした。「じゃあ、あとは鍵だけですね」塩屋の声は、穏やかでいつも通りだった。須磨もまた、同じようにうなずい
朝の光は、まるで昨夜の気配を上塗りするかのように明るかった。窓から差し込む陽射しが白いテーブルクロスを眩しく照らし、波の音が遠くに淡く響いていた。キッチンからはパンを焼く香ばしい匂いが漂い、瑞希の軽やかな鼻歌が断続的に聞こえてくる。志乃はエプロンの紐を結び直しながら、トマトのヘタをナイフで切り落とした。彼女の横で、瑞希が手際よくスクランブルエッグをかき混ぜている。「こうやって一緒に朝食つくるの、なんか楽しいね」「ほんと。大学のときみたい。誰かの部屋で、前夜の酒をひきずったままの朝」「二日酔いの塩味スープとか、よく作ったよね」ふたりの笑い声がキッチンに広がり、そのままダイニングへ流れていく。ほどなくして、寝室から塩屋が出てきた。Tシャツに麻のパンツというラフな格好で、髪は少し湿ったまま。すれ違いざま、志乃に「おはようございます」と静かに挨拶をして、グラスに水を注いだ。目元に笑みをたたえてはいたが、その余白に、どこか見慣れない影があるように思えた。須磨も続いて現れた。寝癖のついたままの髪に無造作な服装。彼は軽く伸びをして、塩屋の背中を一瞬だけ見ると、すぐに視線をテーブルへ落とした。「コーヒーある?」「あるよ、淹れたて。ブラックでいい?」志乃がポットを傾けながら声をかける。須磨は頷いて、椅子を引いた。四人はテーブルに並んで座り、ゆっくりと朝食を始めた。焼きたてのパン、野菜と卵、果物のヨーグルト。バカンスらしい、丁寧で明るい食卓だった。だが、その空気の中に、昨夜にはなかった何かが潜んでいた。塩屋はいつも通りの口調で話すが、言葉と言葉のあいだに、微妙な“間”があった。説明のつかない沈黙ではなく、計算された遅れ。意識的に選びすぎた言葉が、時折、話の流れから浮いているようだった。「昨日の焚き火、風がちょうどよくて気持ちよかったですね」「うん。瑞希が用意してくれたランタン、正解だった。あの光、柔らかくて」「たしかに。…ああいうの、ひとりじゃなかなか選ばないから、ありがたいです」須磨はその
貸別荘の夜は、予想以上に静かだった。外の世界から切り離されたように、波の音と夜風のざわめきだけが、そこにあるすべてを包み込んでいた。バーベキューのあと、リビングで少しだけトランプをしていたが、志乃も瑞希もアルコールがまわったのか、思いのほか早く眠ってしまった。子どものような笑い声の余韻だけが残って、室内はゆっくりと夜の色に沈んでいった。須磨はそのまま、ひとりでデッキに出た。グラスに残った白ワインを手に、空を見上げる。街の光が届かないこの場所では、星がはっきりと見えた。ひとつひとつが、まるで手の届きそうな距離にあるように瞬いていた。「きれいですね」背後から静かな声がして、振り返ると塩屋がいた。パジャマ代わりのゆるいTシャツにハーフパンツというラフな格好で、足音を忍ばせるように近づいてくる。手には同じように、琥珀色の液体が入ったグラスを持っていた。ウイスキーのようだった。「眠れない?」「…暑くて。あと、なんとなく、このまま寝たらもったいない気がして」須磨は笑って、グラスをかざした。氷がコツンと音を立てて揺れる。塩屋もそれに応えるように軽くグラスを上げたあと、デッキの縁に腰を下ろした。須磨もそれに倣って、隣に並ぶ。ふたりの間には、肘がかすかに触れるか触れないかの距離があった。風が、少し強くなってきた。蝉の声が遠くから微かに聞こえる。砂浜を洗う波の音は、規則的で心をほどくようなリズムだった。言葉を交わさなくても、音だけで空間が満たされていく。「ここ、なんか現実感なくない?」須磨がぽつりと言った。どこか独り言のような声だったが、塩屋はちゃんと聞いていて、小さく笑った。「たしかに。…夢みたいに、輪郭が曖昧な感じですね」「昼間までは、ただの楽しい旅行って思ってたけど、夜になると…急に距離感がわからなくなるというか」「現実じゃなきゃ、何しても許されますかね」その言葉に、須磨の手の中でグラスがわずかに傾いた。氷が再び音を立てる。塩屋は空を見たまま、視線を動かさなかったが、どこか言葉の重みを計るような沈黙が流れた。「た
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