窓の外から、雨の音が聞こえた。ぽつり、ぽつりと間を置いて、やがて細く続くようにしてガラスを叩く。初夏の雨は静かで、どこか甘やかで、けれど心の奥にじわりと湿りを残していく。志乃はベッドに横になり、薄いシーツを首元まで引き寄せた。時計の針はすでに日付を越えていて、部屋の中には読書灯の明かりだけが残っていた。
明かりを消そうかとも思ったが、手は動かなかった。闇の中に身を委ねるには、今夜は少しだけ不安があった。目を閉じると、昼間のこと、夜のこと、そして夫の背中が、静かにまぶたの裏に浮かんでくる。
須磨はまだリビングにいた。仕事の続きをすると言って、パソコンを開いていた。音はもう聞こえてこない。たぶん、今は画面を見つめたまま、何かを考えているのだろう。それが、仕事のことか、誰かのことか──そこまでは、わからなかった。
寝室とリビングは、壁一枚を挟んで隣り合っている。ドアも閉めていない。だから、志乃が本気で聞こうとすれば、キーボードを打つ音や椅子のきしみも拾える距離だった。でも今夜は、何も聞こえなかった。静かすぎるほどに、音がなかった。
ふたりの関係は、穏やかだと思っていた。波風は少なく、笑顔も会話もあり、誰から見ても平凡な、けれど安定した夫婦。そう信じていたし、疑ったこともなかった。けれど最近、どこかに微かな“ズレ”を感じるようになっていた。それは言葉では説明できない。あるいは、説明したくなかったのかもしれない。
須磨の笑い方が、少しだけ浅くなった気がした。口角は上がっているのに、目が笑っていないような瞬間があった。志乃に向ける言葉のひとつひとつが、丁寧であるぶん、どこか“あらかじめ整えられた”ものに聞こえることがあった。そういった違和感が、まるで湿気のように部屋に溜まっていく。目には見えないけれど、確実に空気を変えていくもの。
今日、塩屋の名前をスマートフォンの画面で見たとき、胸の内にひやりとした感覚が走った。それは嫉妬ではなかった。ただ、“自分が知らない場所で、自分の夫が呼吸している”という実感だった。誰と、どんな空気を吸って、どんな目をして話しているのか。知らない自分が、そこにいた。
でも、それを追いかけることが正しいとは限らない。問い詰めれば何かが壊れるかもしれない。言葉にすれば、もう戻れない距離が生まれるかもしれない。そんな予感が、志乃を黙らせていた。知らないふりをすることは、時に優しさになる。けれど、それが本当に優しいのかどうか、志乃にはまだわからなかった。
薄く目を開けると、読書灯の明かりが、天井に柔らかい影を作っていた。光は滲むようにして、少しずつ部屋の角を曖昧にする。すぐ隣の部屋に、夫がいる。その距離は、決して遠くはないはずなのに、今夜の須磨は、なぜか触れられない場所にいる気がした。
リビングから、椅子を引く小さな音が聞こえた。須磨が立ち上がったのだろうか。あるいは、水を取りにキッチンへ向かったのかもしれない。でも、そのどれもが、もう志乃にとって確かなものには思えなかった。見えないだけで、不確かなものに変わっていく。目を閉じることすら、少し怖くなる。
それでも志乃は、そっと瞼を閉じた。光を遠ざけるように、呼吸を静かに整えていく。雨の音は相変わらず、窓を優しく叩いていた。静かなリズムで、途切れることなく、まるで何かを訴えるように。
その雨音の向こうに、須磨の声はなかった。足音も気配も、静まり返っていた。
夫が今、誰に想いを馳せているのか──その答えを、志乃はまだ知らない。ただ、確かにそこにある何かを、身体が先に察していた。違和感という名の雨粒が、少しずつ、ふたりの距離に染み込んでいく。静かに、けれど確実に。
朝の光は、まるで昨夜の気配を上塗りするかのように明るかった。窓から差し込む陽射しが白いテーブルクロスを眩しく照らし、波の音が遠くに淡く響いていた。キッチンからはパンを焼く香ばしい匂いが漂い、瑞希の軽やかな鼻歌が断続的に聞こえてくる。志乃はエプロンの紐を結び直しながら、トマトのヘタをナイフで切り落とした。彼女の横で、瑞希が手際よくスクランブルエッグをかき混ぜている。「こうやって一緒に朝食つくるの、なんか楽しいね」「ほんと。大学のときみたい。誰かの部屋で、前夜の酒をひきずったままの朝」「二日酔いの塩味スープとか、よく作ったよね」ふたりの笑い声がキッチンに広がり、そのままダイニングへ流れていく。ほどなくして、寝室から塩屋が出てきた。Tシャツに麻のパンツというラフな格好で、髪は少し湿ったまま。すれ違いざま、志乃に「おはようございます」と静かに挨拶をして、グラスに水を注いだ。目元に笑みをたたえてはいたが、その余白に、どこか見慣れない影があるように思えた。須磨も続いて現れた。寝癖のついたままの髪に無造作な服装。彼は軽く伸びをして、塩屋の背中を一瞬だけ見ると、すぐに視線をテーブルへ落とした。「コーヒーある?」「あるよ、淹れたて。ブラックでいい?」志乃がポットを傾けながら声をかける。須磨は頷いて、椅子を引いた。四人はテーブルに並んで座り、ゆっくりと朝食を始めた。焼きたてのパン、野菜と卵、果物のヨーグルト。バカンスらしい、丁寧で明るい食卓だった。だが、その空気の中に、昨夜にはなかった何かが潜んでいた。塩屋はいつも通りの口調で話すが、言葉と言葉のあいだに、微妙な“間”があった。説明のつかない沈黙ではなく、計算された遅れ。意識的に選びすぎた言葉が、時折、話の流れから浮いているようだった。「昨日の焚き火、風がちょうどよくて気持ちよかったですね」「うん。瑞希が用意してくれたランタン、正解だった。あの光、柔らかくて」「たしかに。…ああいうの、ひとりじゃなかなか選ばないから、ありがたいです」須磨はその
貸別荘の夜は、予想以上に静かだった。外の世界から切り離されたように、波の音と夜風のざわめきだけが、そこにあるすべてを包み込んでいた。バーベキューのあと、リビングで少しだけトランプをしていたが、志乃も瑞希もアルコールがまわったのか、思いのほか早く眠ってしまった。子どものような笑い声の余韻だけが残って、室内はゆっくりと夜の色に沈んでいった。須磨はそのまま、ひとりでデッキに出た。グラスに残った白ワインを手に、空を見上げる。街の光が届かないこの場所では、星がはっきりと見えた。ひとつひとつが、まるで手の届きそうな距離にあるように瞬いていた。「きれいですね」背後から静かな声がして、振り返ると塩屋がいた。パジャマ代わりのゆるいTシャツにハーフパンツというラフな格好で、足音を忍ばせるように近づいてくる。手には同じように、琥珀色の液体が入ったグラスを持っていた。ウイスキーのようだった。「眠れない?」「…暑くて。あと、なんとなく、このまま寝たらもったいない気がして」須磨は笑って、グラスをかざした。氷がコツンと音を立てて揺れる。塩屋もそれに応えるように軽くグラスを上げたあと、デッキの縁に腰を下ろした。須磨もそれに倣って、隣に並ぶ。ふたりの間には、肘がかすかに触れるか触れないかの距離があった。風が、少し強くなってきた。蝉の声が遠くから微かに聞こえる。砂浜を洗う波の音は、規則的で心をほどくようなリズムだった。言葉を交わさなくても、音だけで空間が満たされていく。「ここ、なんか現実感なくない?」須磨がぽつりと言った。どこか独り言のような声だったが、塩屋はちゃんと聞いていて、小さく笑った。「たしかに。…夢みたいに、輪郭が曖昧な感じですね」「昼間までは、ただの楽しい旅行って思ってたけど、夜になると…急に距離感がわからなくなるというか」「現実じゃなきゃ、何しても許されますかね」その言葉に、須磨の手の中でグラスがわずかに傾いた。氷が再び音を立てる。塩屋は空を見たまま、視線を動かさなかったが、どこか言葉の重みを計るような沈黙が流れた。「た
夕方の海は、昼間の喧騒を失って、潮の香りだけが残っていた。海面には橙色の光が波紋のように広がり、空はゆっくりと薄紫に変わりつつあった。西の空には、水平線に向かって大きな太陽が沈もうとしている。風がすこし強くなって、肌に当たるたびに汗を冷ましていった。「夕陽、きれいだね」瑞希がそう言って振り返る。膝まで海に浸かっていた志乃も、うんと小さく頷いた。波が足元を撫でるように寄せては引き、貝殻と砂をこぼす音が耳に心地よい。ふたりの背後では、須磨と塩屋が浅瀬で水を掛け合っていた。男たちの笑い声が、海風に乗って小さく流れていく。塩屋は黒のラッシュガードを着ていたが、肩まで濡れていて、髪は額に張りついていた。濡れた前髪の隙間から見える目元が、日が傾くにつれてますます陰影を増している。浅く日焼けした頬が火照っていて、素肌に浮かぶ水滴が光を集めていた。須磨が先に波打ち際から上がり、タオルで髪を拭いながら、ちらと塩屋を振り返る。その視線が、長く、じっと留まった。塩屋は気づいていないふうで、砂を払う手を止めずに動かしていたが、どこかその横顔には気配を感じ取っているような余裕があった。その瞬間、志乃はなにかが引っかかるような感覚にとらわれた。須磨の視線が、ただの“友好的な観察”にしては、いくぶん長すぎた。まるで目で追ってしまっているような、そんな集中の仕方だった。「何か、変かな?」瑞希の問いに、志乃はすぐに首を横に振った。「ううん。ちょっとぼーっとしてただけ」視線を海から引き戻しながら、自分の内心をごまかすように微笑む。だが、その引っかかりは、胸の奥にうっすらと残っていた。些細なものだ。けれど、どこか、忘れられそうにない違和感だった。日が沈みきる少し前、瑞希が用意していた簡易焚き火台に火が灯った。風除けのために並べた流木の間に揺れる炎は、乾いた薪をぱちぱちと鳴らして燃えていた。オイルランプとは違う、野性の明かり。暖かく、そして予測できない不規則な明るさが、周囲の空気をやわらかく染めていった。四人はそれぞれにビーチチェアを囲むように腰を下ろし、手には紙コップのワインやジュースがあった。焚き火
車が海沿いの道を抜け、白と青で塗られた貸別荘が視界に入ったとき、瑞希は運転席で小さく声を上げた。志乃が助手席で笑いながら、窓を開けて潮の香りを深く吸い込んだ。「海の匂い、ちゃんとするね」「うん、久しぶり」先に到着していた須磨と塩屋が、別荘の前で手を振っていた。両手にはクーラーボックスや荷物を抱えたままで、彼らの背後には真新しい木の外壁と広々としたデッキが広がっている。夏の陽差しはすでに傾きかけていたが、それでも眩しく、潮風が熱気とともに肌をなでていく。「やっと着いたな。こっちの部屋、もう鍵開けてある」須磨がそう言って、軽く肩でクーラーボックスを持ち上げた。白いTシャツの裾が風にふわりと揺れ、背中の汗染みがうっすらと浮かんでいた。志乃は荷物を降ろしながら、その後ろ姿にどこか学生時代の須磨を重ねていた。塩屋は黙って荷物を受け取り、少しだけ微笑んだ。彼のシャツは薄いリネン地で、淡いブルーが日光に透けて見えた。眼差しは穏やかで、けれどどこか遠くを見ているような静けさがあった。「こっち、二階の部屋ね。うちは奥でいいから」瑞希がそう言って、志乃の腕を軽く引いた。大きな荷物は男たちが運んでくれると言い残して、ふたりは別荘の裏手へ回る。小さな階段を下りると、その先にはひらけた海岸が広がっていた。波は思ったよりも穏やかで、遠くの方で砂浜に当たる音が心地よく続いていた。「なんか、志乃と旅行なんて、学生ぶりだよね」「そうだね。あのときはもっと雑な宿だった」「ひとり暮らしの先輩の部屋に押しかけたんだっけ。しかも、クーラーなかったよね」ふたりは笑い合いながら、波打ち際まで歩いた。足元のサンダルに砂が入り、湿った砂の感触がじわじわと伝わってくる。志乃は膝までスカートをたくし上げ、海に足を浸した。水はぬるく、午後の陽を受けて濁った琥珀色をしていた。「こうやってさ、また会えるのって、当たり前じゃなかったよね」「…うん」瑞希の横顔は少し日に焼けていて、口元にうっすらと塩の結晶が浮かんでいた。その表情を見て、志乃は静かに頷いた。昔のようにただ無邪
窓の外から、雨の音が聞こえた。ぽつり、ぽつりと間を置いて、やがて細く続くようにしてガラスを叩く。初夏の雨は静かで、どこか甘やかで、けれど心の奥にじわりと湿りを残していく。志乃はベッドに横になり、薄いシーツを首元まで引き寄せた。時計の針はすでに日付を越えていて、部屋の中には読書灯の明かりだけが残っていた。明かりを消そうかとも思ったが、手は動かなかった。闇の中に身を委ねるには、今夜は少しだけ不安があった。目を閉じると、昼間のこと、夜のこと、そして夫の背中が、静かにまぶたの裏に浮かんでくる。須磨はまだリビングにいた。仕事の続きをすると言って、パソコンを開いていた。音はもう聞こえてこない。たぶん、今は画面を見つめたまま、何かを考えているのだろう。それが、仕事のことか、誰かのことか──そこまでは、わからなかった。寝室とリビングは、壁一枚を挟んで隣り合っている。ドアも閉めていない。だから、志乃が本気で聞こうとすれば、キーボードを打つ音や椅子のきしみも拾える距離だった。でも今夜は、何も聞こえなかった。静かすぎるほどに、音がなかった。ふたりの関係は、穏やかだと思っていた。波風は少なく、笑顔も会話もあり、誰から見ても平凡な、けれど安定した夫婦。そう信じていたし、疑ったこともなかった。けれど最近、どこかに微かな“ズレ”を感じるようになっていた。それは言葉では説明できない。あるいは、説明したくなかったのかもしれない。須磨の笑い方が、少しだけ浅くなった気がした。口角は上がっているのに、目が笑っていないような瞬間があった。志乃に向ける言葉のひとつひとつが、丁寧であるぶん、どこか“あらかじめ整えられた”ものに聞こえることがあった。そういった違和感が、まるで湿気のように部屋に溜まっていく。目には見えないけれど、確実に空気を変えていくもの。今日、塩屋の名前をスマートフォンの画面で見たとき、胸の内にひやりとした感覚が走った。それは嫉妬ではなかった。ただ、“自分が知らない場所で、自分の夫が呼吸している”という実感だった。誰と、どんな空気を吸って、どんな目をして話しているのか。知らない自分が、そこにいた。でも、それを
リビングの時計が二十二時を回ったとき、志乃はキッチンの照明を落とし、ダイニングの椅子にゆっくり腰を下ろした。食器はすでに片付いていて、テレビもつけていない。室内は静かで、エアコンの送風音だけが空気を揺らしていた。須磨は今日、仕事部屋に寄ってから帰ると言っていた。今夜は新しい案件の提案書をまとめるから、少し遅くなると、昼過ぎにLINEが届いていた。そういうことは以前にも何度かあったし、特に疑問に思ったこともなかった。ただ今夜は、何か違う気配があった。志乃は自分の中にあるその感覚を、明確な理由もなく否定しきれずにいた。昼間から、なぜかずっと気持ちが落ち着かなかった。曇りがちの空のせいか、あるいは湿気の重さか。理由のない焦燥が指先まで伝ってきて、読みかけの本を何度も途中で閉じてしまった。夫の気配がない部屋には、ふだん以上に静けさが染み込んでいた。志乃は冷蔵庫から炭酸水を取り出し、グラスに注いでひと口飲む。泡のはじける音が耳に残った。ソファに腰を移し、スマートフォンを手に取る。何か確認するべきことがあったわけではない。ただ、手持ち無沙汰だった。スマートフォンの画面には、夫とのLINEのやり取りがいくつか並んでいる。スタンプ、短い連絡、日常の報告。それらはどれも穏やかで、何の異変もないように見えた。でも、ふとした瞬間に思い出す。昨日の食事会で、瑞希の夫──塩屋理仁が、須磨の冗談に応じて柔らかく笑ったときの表情。あの目の奥に、少しだけ残っていた“よそよそしさ”のようなもの。初対面の人に対して抱く自然な緊張とも違った、もっと繊細で内向的なものだった。あれは、何だったのだろう。時計の針が二十三時に近づく頃、玄関のドアが静かに開いた。志乃は顔を上げる。音を立てずに靴を脱ぐ気配がし、バッグを置く音が続く。「おかえり」「ただいま。遅くなった」須磨はやや疲れた表情をしていた。シャツの袖をまくったままで、鞄の紐を肩から下ろしながら、志乃のほうをちらと見る。表情は、普段通りだった。だが、どこか表面だけを撫でているように見えた。微笑みも、声のトーンも、どこかで計算されたような薄さがあった。「仕