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違和感は、まだ名前を持たない

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-07-02 16:21:20

窓の外から、雨の音が聞こえた。ぽつり、ぽつりと間を置いて、やがて細く続くようにしてガラスを叩く。初夏の雨は静かで、どこか甘やかで、けれど心の奥にじわりと湿りを残していく。志乃はベッドに横になり、薄いシーツを首元まで引き寄せた。時計の針はすでに日付を越えていて、部屋の中には読書灯の明かりだけが残っていた。

明かりを消そうかとも思ったが、手は動かなかった。闇の中に身を委ねるには、今夜は少しだけ不安があった。目を閉じると、昼間のこと、夜のこと、そして夫の背中が、静かにまぶたの裏に浮かんでくる。

須磨はまだリビングにいた。仕事の続きをすると言って、パソコンを開いていた。音はもう聞こえてこない。たぶん、今は画面を見つめたまま、何かを考えているのだろう。それが、仕事のことか、誰かのことか──そこまでは、わからなかった。

寝室とリビングは、壁一枚を挟んで隣り合っている。ドアも閉めていない。だから、志乃が本気で聞こうとすれば、キーボードを打つ音や椅子のきしみも拾える距離だった。でも今夜は、何も聞こえなかった。静かすぎるほどに、音がなかった。

ふたりの関係は、穏やかだと思っていた。波風は少なく、笑顔も会話もあり、誰から見ても平凡な、けれど安定した夫婦。そう信じていたし、疑ったこともなかった。けれど最近、どこかに微かな“ズレ”を感じるようになっていた。それは言葉では説明できない。あるいは、説明したくなかったのかもしれない。

須磨の笑い方が、少しだけ浅くなった気がした。口角は上がっているのに、目が笑っていないような瞬間があった。志乃に向ける言葉のひとつひとつが、丁寧であるぶん、どこか“あらかじめ整えられた”ものに聞こえることがあった。そういった違和感が、まるで湿気のように部屋に溜まっていく。目には見えないけれど、確実に空気を変えていくもの。

今日、塩屋の名前をスマートフォンの画面で見たとき、胸の内にひやりとした感覚が走った。それは嫉妬ではなかった。ただ、“自分が知らない場所で、自分の夫が呼吸している”という実感だった。誰と、どんな空気を吸って、どんな目をして話しているのか。知らない自分が、そこにいた。

でも、それを追いかけることが正しいとは限らない。問い詰めれば何かが壊れるかもしれない。言葉にすれば、もう戻れない距離が生まれるかもしれない。そんな予感が、志乃を黙らせていた。知らないふりをすることは、時に優しさになる。けれど、それが本当に優しいのかどうか、志乃にはまだわからなかった。

薄く目を開けると、読書灯の明かりが、天井に柔らかい影を作っていた。光は滲むようにして、少しずつ部屋の角を曖昧にする。すぐ隣の部屋に、夫がいる。その距離は、決して遠くはないはずなのに、今夜の須磨は、なぜか触れられない場所にいる気がした。

リビングから、椅子を引く小さな音が聞こえた。須磨が立ち上がったのだろうか。あるいは、水を取りにキッチンへ向かったのかもしれない。でも、そのどれもが、もう志乃にとって確かなものには思えなかった。見えないだけで、不確かなものに変わっていく。目を閉じることすら、少し怖くなる。

それでも志乃は、そっと瞼を閉じた。光を遠ざけるように、呼吸を静かに整えていく。雨の音は相変わらず、窓を優しく叩いていた。静かなリズムで、途切れることなく、まるで何かを訴えるように。

その雨音の向こうに、須磨の声はなかった。足音も気配も、静まり返っていた。

夫が今、誰に想いを馳せているのか──その答えを、志乃はまだ知らない。ただ、確かにそこにある何かを、身体が先に察していた。違和感という名の雨粒が、少しずつ、ふたりの距離に染み込んでいく。静かに、けれど確実に。

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