世界唯一の魔法国家・フィオレニア王国―――。 王の独裁のもと、国民には苦しい生活が強いられていた。 家族に奴隷として売りに出された、喋れない少年・ジラソーレは、踊り子としてメディチ・ユーリ侯爵率いるサーカス団に買われることとなる。ジラソーレはコミュニケーションすら上手にできなかった。 だが猛獣使いダフネが優しく手を差し伸べて、次第にジラソーレは彼に恋へと落ちる。 数年後、メディチ侯爵が見世物小屋で美しい少年を買い、サーカス団へと招き入れる。ダフネは美しい少年―――スリジエに見惚れてしまっていた。 スリジエと同室になったジラソーレは嫉妬に駆られるも天真爛漫な彼に絆されていき、次第に深い関係へ―――。
더 보기約二十五年前、世界唯一の魔法国家であるフィオレニア王国は避妊と堕胎を禁じた。
魔法士の減少による兵力の低迷が主な理由として、国民に説明された。母数を増やすことにより、突発的な魔力を持ったものを含めて国力にしてしまおうと考えたのだと。しかし時が経つにつれて、国王の本当の狙いを国に住む民が皆知る羽目になった。 急激な人口の増加に伴う、孤児の増加―――貧困の差が激しいこの国では子供を育てきれず、孤児院に預けるものが後を絶たなかった。魔力さえ持っていれば国から補助金が出るがそんな幸運はほとんどなく、次第に国営の孤児院どころか、貴族が慈善活動として経営している孤児院すら逼迫してしまい溢れる事態へとなった。 そして―――孤児は奴隷という商品として、国の主な産業として発展していくこととなる。***
燦々と太陽が高く昇っている。北部出身であるイリスにはひどく熱気が篭って辛く、今にも倒れてしまいそうだ。
フィオレニア王国は花が多く咲き誇り、神の寵愛を受けた島国として知られている。遥か昔、円形の島国だったそうだ。幾度となく繰り返された魔法士同士の戦争によって東と西の領土は陥落してしまった。現在は縦長の国土を持ち、北部、中部、南部として領域が分かれていた。 北部は貴族や芸術家も多く、フィオレニアの名の通り豊かな自然に囲まれており、一年中過ごしやすい気候だ。しかしイリスが足を踏み入れた南部は貧しい人も多く、様々な熱気が篭っている。 イリスは奴隷船に乗るため、港の奴隷市場へと足を踏み入れた。 襤褸を纏ったイリスは他の奴隷と共に列に並ばされ、逃亡を図らないよう首と足を前の奴隷、後ろの奴隷へと枷を繋がれている。身体を動かす度に、しゃらん、しゃらんと鎖の音が響いた。 靴なども履かせてもらえず、足の裏に石が刺さって痛い。徹底的な逃亡対策は、この二十五年間で積み重ねられたものだ。この港の奴隷市場が最期のチャンスであった。 奴隷船に乗ってしまえば、糞尿が塗れた劣悪な環境で他の国へと輸出される。海の氾濫や環境に耐えられず亡くなる者が多いと聞く。 「さあ、さあ!見てらっしゃい!お気に入りの奴隷がおりましたらお声かけくださいな!」 奴隷商人の明朗な声が複数響いた。国の商品として奴隷を売るよりも貴族や芸術家などの金持ちに奴隷を売った方が利益になるのだと、生き別れた弟が言っていた。そのため奴隷商人たちは商売魂を見せつけ、大きく高らかに声を張っている。 人間が敷き詰められたような場所では、どれも同じに見えるだろうに。道の端に奴隷は並べられ、その中央を貴族らが見世物小屋のように通過していた。 「やあ、商人さん―――今日もお元気そうで何よりだよ」 不意に少年の声が響いた。咄嗟に俯きかけていた視線を上げると、シルクハットにスーツ、杖という上流貴族の三点セットを身に纏った少年がイリスを請け負っていた奴隷商人に話かけていた。 「これはこれはメディチ侯爵、貴方様も姿変わらずお元気そうで」 「ああ、ようやっと最近趣味のサーカスが軌道に乗りそうだ、国王様もお喜びだよ」 「それはそれは。どうです?うちの奴隷なんかも、北から南まで美男美女を揃えておりますゆえに玩具としてもご利用いただけますよ」 「私にその趣味はないのだがね、見させてもらうよ」 下卑た笑みを浮かべた商人をあしらいながら、メディチ侯爵と呼ばれた少年は整備されていない地面を踏みしめた。こつ、こつと革靴の音が響く。集団的な緊張が走る―――最期のチャンスを掴み取れる奴隷がいるのかもしれない。恐怖で、上昇していた視界が下がった。 ふと、目の端に高級そうな靴が止まる。 「ふむ」 少年のまだ喉奥の上澄みが残ったような声が耳に入る。そして、視界の端でステッキが動いた―――途端、顎に衝撃が走り顔が上がる。杖によって無理やり顔を上げられたのだと理解するのに、数秒を有した。 「商人、この奴隷の名は?」 「なんと侯爵、お目が高い。そやつは言葉が喋れずにおります奴隷で、名前がはっきりとしません。知能も少し遅れ気味で文字も書けませぬ。しかし、近頃こういう輩や奇形などが貴族様の中では大人気でございます」 燦々と照らす太陽が翳って、貴族の彼に影を落とす。薄暗い中で、少年の瞳はひどく鮮明に赤く光った。瞳に捕らえられる。「なるほど、口が利けないのだな―――それは好都合だ、これを買おう」
にやりと歪んだ口元が、確かにその言葉を吐いた。イリスの瞳は大きく見開く。
「かしこまりました!すぐに鍵を持ってきます」 「必要ない」 駆けようとする奴隷商人を引き留めて、少年は勢いよく杖の先を土の地面に叩きつけた。直後、しゃらり、しゃらりという音と共に、鎖が引きちぎられたかの如く枷が外れ、地面に砂のように流れ落ちた。 イリスは力が抜けて、その場に座り込む。 「どうした少年。そのような顔をして、随分と間抜けじゃあないか。誇れ、お前は私に見染められた。この国で解放奴隷として生きることができるのだぞ―――ジラソーレと名付けよう。お前は今日からジラソーレという名のもとに太陽に向かって生きることを誓え」 淡々と愉快そうな口調で語られる侯爵の言葉に、イリス―――ジラソーレは小さく頷いた。観客の歓声が響いて高まる熱狂の中、様々な演目が繰り出される。そしてサーカス団の目玉である―――猛獣使い・ダフネと動物たちによる大道芸が始まった。ジラソーレはぼんやりと舞台出入り口付近から眺める。 ダフネがパフォーマンスかの如く、床に鞭を打ち付ける。するとライオンが緩く口を動かしながら、気だるそうに熱された火の輪を道を幾度となく通り抜けた。 歓声が上がる。 ダフネに駆け寄ったライオンは頭を撫でてほしそうに、彼の身体に顔を擦り付けた。ダフネは柔らかく目を細めて、獅子の頭を優しく撫でた―――その手つきはジラソーレのそれと同じだ。 嫌な気持ち。 いくつかの、動物たちの大道芸が終わり、舞台奥から姿を見せたアルレノが大きく声を張り上げた。その代わりにダフネが舞台奥へと引っ込む―――照明に炊かれて汗をかいた彼が、ジラソーレの目の前に姿を見せた。 「皆様、これよりが我らがサーカス団『フィエスタ』の大目玉ネ!目をかっぴらいてよく見るといいネ、大目玉だけに!―――ここは笑うところヨ!とはいっても、アルレノ、ちょっと最近出番が少なくて泣いちゃうネ!みんな美丈夫ばっかり見すぎヨ!たまにはアルレノの真っ白くて美しい顔でも見るがいいネ!」 アルレノの台詞を聞いた観客が、大きくブーイングを起こす。彼は場を持たせる専門家だ―――ケラケラと愉快な笑い方をしながら幕間を埋めた。 ダフネは盛り上がった舞台の方向に視線を流しながら身に纏っていた衣装を脱ぎ、ジラソーレに投げつける。二人の周りでは準団員が大きい幕をもって囲い、簡易の更衣室を作り出していた。全裸になった彼に、ジラソーレは頬を赤らめながらダフネの身体を見ないように視線を背ける―――筋骨隆々で色香の漂う男の身体は、未だに見慣れない。 横目でダフネの表情を伺いながらジラソーレは手元に投げ捨てられた服を抱きしめる。彼は真剣そうな面持ちで瞼のカーテンを下ろして、息を吐いた。 「”我らが友に告ぐ、我らが友に告ぐ―――その姿を貸したまえ”」 淡く白い光が弾けて、ジラソーレの浅黒い肌の上で波打つ。咄嗟に眩しくてジラソーレは瞳を閉じて―――開いた。緩い咆哮が耳の奥で弾ける。眼前には美しい―――白いトラがその
頑ななジラソーレの態度に、アルレノは肩をすくめて栗色の頭を縁取るように優しく撫ぜた。まだ手の中にある薔薇をぎゅっと握りしめると、不意に痛みが走る。ジラソーレは顔を顰めながら手を見ると、薔薇の茎の棘が処理されていなかったらしく手のひらに刺さっていた。 「ワァ!大変ネ!救護の先生に診てもらうといいネ!」 いつもの調子に戻ったアルレノが甲高く声を上げて、ジラソーレの手を引く。「必要ない」 胸が、高鳴る。鼓膜を揺らした声のする方向へと視線をやると、ダフネが無表情のままアルレノとジラソーレの様子を伺っていた。そして手を取られていたジラソーレに近づき身を寄せると、そっと囁くように唱えた。 「”傷よ、癒えよ”」 途端、淡い光が放たれる―――目を細めると、いつの間にか刺さっていた棘が消滅して傷がなくなっていた。 「…相変わらず、魔法ってやつはすごいネ!憧れるネ!」 「この程度の傷なら魔法さえ使えれば誰でもできる。それよりもうそろそろ出番じゃないのか?」 「―――ワァ!ありがとネ!じゃあネ!」 気まずくなったのかアルレノは、腕を直角にしながら駆けて行った。あまり道化師らしくない走り方にジラソーレが唖然としていると「そういう笑いだから笑ってあげな」とダフネは呆れ笑いを零す。 傷が癒えた手を眺めながら、不思議な気持ちになった―――本来ならばジラソーレも使えるはずだった魔法の、活用方法。 魔法というものは”詠唱”があって、初めて成立する。詠唱がなければ魔法として機能しない―――要するにジラソーレは魔力を持っていながら”詠唱”ができないため魔法が使えないという、大変残念で稀有な人間なのだ。 『あ り が と う』 「んーん、どういたしまして―――なぁ、髪直して。ちょっと崩れた」 ジラソーレは静かに頷く。ほんの少しだけ羨ましいと思った―――もし言葉を発せたら奴隷じゃなかったかもしれない。もし言葉を発せたら奴隷じゃなくても一人で生きることができたかもしれない。もし言葉を発せたら、ダフネに会うことができなかったかもしれない。 脳裏を過る”たられば”を無視しながら、緩く崩れたダフネ
息を整えながら、ジラソーレは汗まみれの身体を水で濡れた布で拭った。ジラソーレの演目は終了して、サクラが空中大道芸を行っている最中だ。空中から舞台に垂らされたシルクを掴んで、ワイヤーが引き上げられて身体が宙に浮くたびに様々な技に挑戦するものだ。分かりやすくサーカスらしい演目で、観客も歓声を上げている。 土台が違うパフォーマンスのため質の違う歓声に不満はないが、この後の彼女とダフネの演目を考えると悶々としてしまう。今日はマノでの最終公演ということもあり、サクラの衣装がおおよそ隠せる部分のみ隠しただけの、表現もしたくないものだ。 「おやおやぁ、浮かない顔だネ!―――はい、ドーゾ!」 む、と唇を尖らせながら舞台を覗いていると、目の前に突如赤い薔薇が差し出された。ジラソーレは驚愕して目を見開きながら視線を滑らせると、白く肌を塗りたくったクラウン―――道化師・アルレノが薄っすら笑みを浮かべながら立っていた。 「ほら、受け取ってネ!」 こくりと頷きながら、恐る恐る眼前にある薔薇を受け取る。アルレノは満足したようにわざとらしく何度も頷いて「何か悩み事ネ!」と猪突猛進に配慮もなく言い放った。 ふるふる、とジラソーレは首を横に振って否定する。 「ふむふむ、じゃあサクラの衣装がエッチすぎて目のやり場に困るに一票ネ!」 『う ざ い』 「ワァ!随分と辛辣でアルレノ泣いちゃうネ!」 絡もうとしてくるアルレノをかわして、舞台裏の奥まったところに移動する。てくてくと、背後で道化師らしい歩き方をしながら彼もついてきた。非常に鬱陶しい。 ジラソーレがテントの隅に座り込むと、彼も隣り合わせで屈む―――どうやら彼の知的興味を満たさないと離してくれないらしい。彼の演目はもう暫く先だ。本当に鬱陶しい。 「それで、何かあった?」 『べ つ に』 職業柄、普段からアルレノは道化師としての口調を保っている。しかしふとした瞬間にそれが途切れ、素の口調に戻ることがある。このサーカス団の最古参のためか、何か団員に悩みがあれば喜んで首を突っ込む―――ジラソーレも何度かこの状態にさせてしまっていた。数えること、今回を含め六度目くらいだろうか。しかし彼はキャラクターも相まって思考が前向きすぎるため、相談するたびにみじめになるので三度目あたりで止めた。ダフネのように洞察力が優れてい
夜になると稽古の聞き慣れた雑踏が消えて、ありとあらゆる不透明な声がテント内に響く。 衣装に身を包んだジラソーレは舞台裏にある鏡で、何度も身だしなみをチェックした。深紅の生地の薄い、ひし形の服が腹と胸を覆い、首の後ろと背中の二箇所で固く結び留められている。背中を覆い隠す布はなく、寒い時期は地獄の衣装だ。晒された両腰を隠すように深紅の薄いレース生地が巻かれており、身体を動かす度にしゃらん、しゃらんと生地に縫い付けられた宝石が音を立てた。下半身は白くゆったりとしたパンツを履いている。 髪の毛を整えようと腕を上げると、二の腕と手首につけられた黄金色の腕輪がずれ落ちて鬱陶しい。衣装に合わせた赤い石のピアスもつけ忘れていない。 安心したように息を吐いて、深紅色のベールの両端を木の棒で巻き付けて縫い付けた―――ファンベールに似た小道具を手に取る。一つの布なので両端にある棒を重ねて片手で空中を揺蕩わせることも、両手に広げて舞うこともできるので、大変使い勝手が良い。ジラソーレはお気に入りの小道具を力強く握りしめて開演を待った。 暗がりから覗く客席の爛々とした明かりはいつまで経ってもジラソーレの胸を高鳴らせる。心地よい緊張感と高揚がたまらなく愛おしいと感じてしまうくらいに、この瞬間が大好きだ。『お集まりいただきましたお客様、本日はご来場いただき誠にありがとうございます。私、主催のメディチ・ユーリと申します。このサーカス団・フィエスタを設立して、幾度とこのマノの地で公演をさせていただきました。本日が今年の最終公演となります。どうぞごゆっくりお楽しみくださいませ。それではまず最初の演目は”世にも珍しい男踊り子”からご覧ください!』 メディチ侯爵の声の後、ゆっくりと豪華絢爛な音楽が奏でられる。生演奏だ。明るかったテント内も照明が薄暗くなり、本格的な開演を告げた。 ジラソーレは音楽に合わせて、舞台へと蝶のように飛び込んだ。途端、音楽が激しいものに変わる。まだ照明の熱が残っている床を踏みしめ舞台中央に移動しながら、手に持っていたベールで大きく円を描いた。 薄明りの中で輝く深紅のベールはまるで蝶の鮮やかな翅のようだ、と評されているらしい。ベールの中に入れ込まれた小粒のラメが、まるで蝶の鱗粉のようだと巷で言われている、らしい。 幾度となく形の違う円を描く。手で回し
朝食を終え、日中は稽古に充てられる。そこで準団員のメンバーは実際の舞台で稽古をしている。逆にレギュラーメンバーであるジラソーレやダフネ、サクラを含む団員は街で広報活動をしたり、気が向けば準団員に混じって稽古をしたりと自由に行動することが許されている。 他のメンバーは自由だが、ジラソーレは稽古一択だ。 円形の舞台を囲うよう階段状に客席が設置されており、舞台奥に演者の出入り口があった。その真向かいには客の出入り口があり、舞台出入り口を挟むように高い鉄骨塔が建てられている。 一通り、本日取り行う演目の復習を終えたところでジラソーレは白いブラウスで汗を拭った。 「ジラソーレ」 低く、威圧感のある声が名前を呼ぶ。視線を向けると、シルクハットにスーツ、杖といういつもの三点セットを身に纏ったメディチ侯爵が演者の出入り口付近に立っていた。首を傾げると、呆れた表情で口元を歪めながら手招きする。 とた、とたとメディチ侯爵のもとに駆け寄ると、彼はまた呆れたようにジラソーレの視線より幾許か低いこめかみを抑えた。 「稽古中は構わないが、私のもとに来る時は靴を履け―――よい、今回は大目に見る」 彼の言葉によって素足であったことに気付いたジラソーレは、靴を探しに身体を翻そうとするがメディチ侯爵がその行動を制する。恥ずかしくてジラソーレが頬を掻くと、彼は呆れたように肩で息を吐いた。 「身体の調子は悪くないか?」 両手で大きく丸を作る。昔から身体は丈夫な方だ。 「そうか―――明日の休みにお前の相棒を探しに行こうと思う。来るか?」 メディチ侯爵は、とん、とんと杖で床を小突く。 相棒―――つまり、男踊り子の相棒である。ジラソーレ以外の踊り子は全員女性であり、肩身が狭い思いをしてきた。今ではある程度打ち解けたと言えど、ダフネ以外の団員とは上手に会話ができないでいる。その配慮か、数ヶ月ほど前にメディチ侯爵より男踊り子を増やそうという提案を受けた。ジラソーレとしては同性の踊り子が増えたところで変化があるとは思えないが、せっかくということで了承したのだ。 行く、と返事をしようとして―――ジラソーレは口をつぐんだ。 「都合が悪いのか?」 その様子にいち早く気づいたメディチ侯爵が緩慢で上品な動作で首を傾げる。 『ダ フ ネ』 彼に伝わるように身を屈めな
「ちょっと!アンタたちはいつまで準備してるの?!もう朝ごはんの準備できてるわよ!」 唐突に訪れた女の声とテントが開かれた布の音。咄嗟にジラソーレは眼前のダフネの手を振り払って、距離を取る―――取ろうとした。 「っ」 狭いテント内で後ずさってしまったため、背後にあるベッドの側面に膝裏が当たってしまい体勢を崩してしまう。ぼすん、鈍い音を立ててベッドにジラソーレは倒れ込んだ。 「あら、相変わらずおっちょこちょいね」 テントに侵入した女性―――空中大道芸師・サクラは腰まで伸びた青みがかった黒髪を揺らしながら、ベッドに倒れたジラソーレへと近づく。 「大丈夫?」 彼女の問いかけに、ジラソーレは頷いた。 後ろ手をつきながら倒れ込んだ上半身を起こすと、傷だらけの指先が伸びてジラソーレの栗色を撫でる。ジラソーレの蜂蜜色の視線を伸ばされた手を辿り、ダフネを見上げた。 「サクラが大声を上げるからびっくりしたんだよ」 「あら、そう?それは申し訳ないわ、ごめんなさいね。ジラソーレも他人の準備ばかり手伝ってないで自分の支度をしなさいな」 こくり、と首肯する。サクラの強気で勝ち気な言葉の勢いには押されるしかない。そのジラソーレの心情を察してか、ダフネは苦笑を浮かべながら「サクラは先にご飯食べてな」と零した。 「はいはい、わかりました―――ったく、相変わらずお互いにべったりなんだから」 舞台用ではない普段用の薄いメイクを施された美しい顔が少し歪むも、彼女は相槌を打ってジラソーレのテントから出ていく。再度、鈍い布の音が響いた。 本当はダフネと食事がしたかったのだろう―――彼女の行動を思い返すたび、ジラソーレはやきもきとした気持ちになる。 空中演目を担当しているサクラは容姿端麗かつ家柄が良いということもあり、度々舞台に上がっては助手を務める。人気なのはダフネとの演目で、魔法でダフネがトラになり、その上に彼女が乗っては客席を巡回するというものだ。 自ら動物に変身できる魔法を使える人間は珍しいらしく、その魔法を見たい客が半分、美しい彼女に札束を捻じ込みたい客が半分のようだ。 「ほら、ジラソーレも準備しな」 勲章だらけの手がジラソーレの頭を優しく撫でる。まるで弟を見ているかのような優しい温度の優越感と、決して恋愛対象としては見られていない期待外れの
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