LOGINレストラン〝Aria(アリア)〟に勤めるの暮科静(くれしなせい)は、自ら終わらせたはずの想いをいまだに引きずっていた。 そんな胸中に変化が表われたのは、新たに入社してきた河原英理(かわはらえいり)の教育係に抜擢されてから。 河原は極度の人見知りであり、極度のあがり症だった。 けれども、それを補って余りあるほど素直で優しく、直向きな性格でもあり――。 そんな彼に接するうち、やがて暮科の世界にも色が戻り、止まっていた時間が再び動き始める。 だけど河原は確実にストレート。 この想いは伝えられない。今の関係を壊したくない。 そんな折、目の前に姿を現したのは――。
View More「お前にだけは言われたくねぇよ」 「いや、意味分わかんねぇし」 相変わらず軽口めいた応酬は続いている。けれども、そこにはもうさっきまでの険悪さは感じられなかった。今度は気のせいじゃない。「河原……お前、マジなんで甲斐なんかとつるんでんだよ」 「へ……」 それどころか、まるで何ごともなかったのように今度は暮科に名を呼ばれ、思わず間の抜けた声が出た。 払われないのをいいことに、暮科の手を掴んだままなっていた手も緩む。「それはこっちのセリフだわ」 甲斐の言葉にもいっそう力が抜けた。力も気も抜けて、唖然とするばかりで言葉も出なくなる。 なんなんだよ……。 俺は頭痛がするみたいに額を押さえた。 二人が少しでも打ち解けてくれたなら、俺だってそれが一番嬉しい。嬉しいけれど、正直なところ、やっぱり腑に落ちない部分はあった。だってきっかけが全くわからなかったから。 ……まぁ、いっか。 俺は長い前髪を力なく掴み、深呼吸をするように大きく息をついた。 するとそれに気づいた二人が、今度は揃って肩を揺らす。 ――あ、分かった。この二人、似てるんだ。 思い至ると、少しだけ呆れたような心地になったけれど、同時に酷くほっとした。「二人とも、俺の話……ちゃんと聞いてくれてたよな?」 俺は仕方ないように笑って念を押した。 二人が当たり前のように頷いたことで、ようやく俺の心も少しは晴れたような気がした。 *** 暮科が立ち去るのを見送った頃には、近場のテーブル席はすっかり空になっていた。元々そんなに忙しい時間でもなかったけれど、考えてみれば俺は今の今まで、周囲のことにまで頭が回っていなかった。 対して二人はあれでもちゃんと声は抑えていたから……やっぱり似たもの同士というべきか、さすがだなぁと思う。 ……反省。 心の中で呟き、溜息をつく。 と、まるでそれが聞こえたかのよう
俺は改めて背筋を伸ばすと、暮科を一瞥し、それからまっすぐ甲斐を見た。「ごめん。ちょっと聞いて」 俺の言葉に、暮科が黙って背を向けようとする。その手を俺はとっさに掴む。「暮科も」 自分でも驚くくらい端的に言うと、暮科も手を振り解くことはしなかった。「俺、今日は二人に、聞いてもらいたいことがあって」 暮科も甲斐も、今度はちゃんと話を聞いてくれるらしい。視線の所在はまちまちだったが、それぞれが俺の声に耳を傾けてくれているのはしっかり伝わってきた。 俺は密やかに深呼吸をして、まずは暮科の方を見た。 そして軽く甲斐を示しながら、説明を始める。「えっと、この前も言ったけど……甲斐は俺の前の会社の同僚で、いまも時々飲みに行ったりしてる友達。……あ、あと、この間の女の人も、同じ会社で知り合った人」 暮科はいつもみたいに伏し目がちのまま、特に何も言わなかった。 言わなかったけど、それが拒絶を示しているようにも見えなくて、俺は少しだけほっとする。 次いで視線を甲斐に移すと、不意に甲斐は声には出さず、「なるほど」と口だけを動かした。 この間の女の人、という説明に、ピンと来るものがあったのかもしれない。 塔子さんの名前は出さなかったけど、俺が外で二人きりで会う女性なんて、他にはいないし……それは甲斐が一番よく知ってるはずだし。 かと言って、それ以上の感情は表には出さず、甲斐はただ苦笑気味に頷いただけだった。 ああ、そうか。今夜甲斐が話したかったって話も、塔子さんに関することだったんだ。 ……ごめん。それはあとでちゃんと聞くから。 心の中で謝りながら、俺は再び口を開く。「で……こっちは暮科。さっき甲斐が言ったことは……まぁ、うん……間違ってない」 「間違ってないって……」 「ああ、いや、〝合ってる〟ってこと。確かに俺は、今まで好きになった人は……そう、なんだけど。……それでも、暮科なら平気だなって思うから」 「マジで……?」「平気……」
ほどなくして俺と甲斐が座るテーブルの前へとやってきた暮科は、きわめて淡々と頭を下げた。「お待たせしました」 告げられた声に、心臓が跳ねる。 ……まさか、暮科が運んでくるなんて。 正直、それだけはないと思っていた。だから気持ちの準備もできていなかった。 もともと、暮科に声をかけるつもりはあったのだ。そのために場所もアリアに変えたわけで。 甲斐と一緒に店に行き、暮科をどうにか捕まえて――それが無理なら、最悪呼び出してでも顔を出してもらって――そうして、今夜こそちゃんと紹介しようと思っていた。二人それぞれに、甲斐という友人のことを、そして暮科という恋人のことを。 ――なのに。 ちょっと、待って……。 突然すぎるこの状況には、どうしても頭が真っ白になってしまう。 動揺しすぎて視線は泳ぎ、鼓動も逸るばかりで収まらない。緊張した時みたいに顔がどんどん熱くなって、それがよけいに俺を萎縮させる。 考えてみれば、暮科が給仕にくる可能性なんていくらでもあったのに、なんで俺は〝それだけはない〟などと思い込んでいたのだろう。 こうして暮科が出てきてくれたこと自体は純粋に嬉しいのに、何故かその分胸の痛みも強くなっていく。「ご注文の赤ワインと――グラスはこちらをお使い下さい」 「あ、ありがとう……」 そんな俺の目の前で、暮科はまるで普段通りにワインボトルとグラスを下ろす。半ば反射的に俺が頭を下げると、そつのない会釈まで返されてしまい――。 だめだ、とにかく引き留めないと……! 思うが早いか、俺は深呼吸するみたいに大きく息を吸い込んでいた。「く、暮し――」 「珍しいな。わざわざ店を選ぶなんて」 けれども、俺が口を開くと同時に、降ってきたのは暮科の声――。 そのくせ、とっさに上げた目線の先で、暮科は淡々と視線を伏せるなり、何ごともなかったように一礼を残して踵を返すところだった。 俺は慌てて声をかけた。 「あ、ち
塔子さんを店に連れて来た日、暮科がホールに出てこなかった理由を、俺は木崎に聞こうと思っていた。だけど結局、飲みに誘ってもらった日も聞けるタイミングがなくて、今日までそのままになっている。 それでも、多少吹っ切れたような心地にもなっているのだ。そこまで気になるなら、本人に直接聞いてもいいんじゃないかと……そう思えるようにもなっていたから。「――へぇ、ここがお前の」 甲斐と約束をしていた月曜日。 最初はどこかの居酒屋にでも行こうと言う話だったが、急遽その予定を変更して、向かった先はファミレス『アリア』――。 気になるなら本人に、と思いながらも、木崎と飲んだ翌日から暮科は予定外の早番が続き、挙句、昨日はまた向こうの公休日で、現実問題、なかなかゆっくり話せそうな機会は持てていなかった。 だから俺は、昨日のうちに甲斐に連絡をして、場所を変えさせてほしいと頼んだのだ。居酒屋ほど雑多な種類はないけれど、酒なら一応、うちの店にも置いてあるからと。 それでもし返答を渋られたなら、その時は素直に取り下げるつもりだったんだけど、そんな心配をよそに甲斐はあっさりOKしてくれて、寧ろ一度俺の職場を見てみたかったから丁度いいとまで言ってくれた。特に場所を変えたいと言った理由を問うこともなく――。 甲斐にも救われてるなぁ、俺……。 改めて思いながら、俺はたどり着いた店の外観を見上げている甲斐の横顔に無意識に目を細める。「ほんと洒落た店なんだな。ファミレスって言うわりに」 不意に「なるほど」と頷いた甲斐の様子に思わずぱちりと瞬いた。 「……?」 その姿にどことない違和感を覚えて一瞬首を傾げたものの、「入ろうぜ」 続けざまにそう促されると、結局「オーナーの趣味らしいんだ」と返しながら、招き入れるようにドアを開けることしかできなかった。「この時間、まだちょっと人が多いけど……」 二人揃って店内に入ると、先日の塔子さんの時と同様、必要以上にスタッフの視線を集めてしまう。 俺は多少気恥ずかしく感じながらも、見知った店員に
「たとえば暮科はさ、もし今回の河原みたいな状況になったとして、やっぱり言わないと思うんだよ。でも、暮科ならそれを表情や態度に出さない。本当に問題ないことなら、そう徹底すると思う」 と、突然出された名前に一瞬動揺する。まるで心の中を読まれたような気分になって、わけもなく咳き込みそうになった。「俺はその逆だけどね。隠さなくていいと思うから言っちゃう。本当にやましいことがないなら、はっきりね。元カレと会ってましたって」 元カレ? あ、元カノの聞き間違いかな。 気を取り直し、「なるほど」と小さく頷きながら、改めて木崎の顔を見る。「で、問題は君だよ、河原英理。河原はさ、そう言うの、言ったり言わなかったり……結構迷っちゃうんだろうけどさ。でもね、どっちにしろ隠しきれてないから。表情《かお》とか態度とか、見る人が見ればすぐ分かるからね。しかもそれに自分で気づいてないとか……マジたち悪い」 「…た、たち……」 「あーごめん。俺のたち悪いは褒め言葉だから」 「へ……?」 俺が口を挟む余地もないほど、矢継ぎ早に言って、木崎は思い出したようにグラスを呷る。でもそのグラスは空だった。 それに気づくと、少しだけ不満そうに雫だけを嚥下し、「や、っていうか、そもそもね! 誰に隠せても、俺に隠せるなんて思ったら大間違いだからね!」 そう声高に言うなり、勢い良くグラスを天板に戻す。その片手間に、近くを通りかかった店員へと「カシスオレンジ追加ね」と声をかけ、そしてまた口を開いた。「迷ってさぁ……迷って、悩んで、悩みまくって、で、行き詰まって怪我までしちゃうとかさ――…」 「怪我、なんて……」 「したじゃん、つい最近」 少しだけ据わった目で、まっすぐに俺を見つめて、「あれもさ……? 俺、気づいてたんだけど……まぁ自分から言ってくるまで待ってみようかなとかって……思ってたらあんなことになるし――!」 高くなったり低くなったりするその声は、俺に怒っているようで、どこか悔しそうにも聞こえた。 俺は「ごめん」と苦笑しなが
*** 「ここでいいよね」 そう言って木崎がドアを開けたのは、店からそう遠くない居酒屋だった。 以前にも木崎に連れられて来たことがあったこの店は、暗めの照明といい、控えめにかけられているジャズといい、居酒屋と言うよりは一見おしゃれなバーを思わせるような佇まいだったけれど、メニューや客層は確かに居酒屋然としているものも多く、その店内の様子も、常に個人的な話をしても気にならない程度の喧騒――うるさすぎず、静かすぎず――に包まれていた。 暮科も何度か連れて来られたことがあるらしく、居酒屋と言うわりに酒の種類が豊富だと、いつだったか教えてもらったこともある。 それなりに広いフロアには、個室のテーブル席もいくつかあり、希望すればカウンター席にも座ることができる。カウンター席は一段と照明が落とされており、一人飲みの客にも人気なようだった。「で、さっそくだけどさ」 そんな中、俺と木崎に用意されたのは、まだ誰も座っていないカウンターの端の席だった。予約なしの飛び込みだったからか、時間のわりに個室を押さえることができず、それならと木崎が希望した場所だ。 とりあえず、と揃って生ビールを注文し、一旦店員が姿を消すと、「この前の女の人って……もしかして、河原の元カノ?」 まるで待っていましたとばかりに、木崎が口を開いた。「えっ……」 「やっぱそうなんだー」 そのうち何か聞かれるかもしれないと思ってはいたけれど、こんなにも直球で来られるとは思わなかった。 思わず返答に詰まった俺に、木崎は勝手に納得し、束の間考え込むように頬杖をつく。 なんとか言い繕おうにも、まったくその通りなので言い訳もできない。俺が固まったままでいると、木崎はおもむろに俺の方を見て、「その話、今つきあってる人には?」 またしても不意打ちのように言った。「え……いや、言ってないけど」 「やっぱり……」 「やっぱり?」 ひとつ瞬いて問い返すと、ちょうど店員がビー
Comments