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「……俺さ、七歳くらいの時……」
「ん?」並んで歩き出し、表通りに出て間もなく、河原が不意に口を開く。
「ピアノの……発表会に出たことがあるんだけど……」
「ピアノ?」初耳だ。思わず問い返すと、河原は眼前に広がる夜空を見上げながら、「そう、ピアノ」と小さく頷いた。
「俺、元々緊張する方で、本番にも弱かったし……。それを何とか克服できたらってことで、習わされてたんだけど……」
「ああ、なるほど」程度はともかく、似た傾向のあった義弟のことから考えても、まぁ分からない話でもない。
「でも俺、その発表会の時に……。あ、あまりの緊張に気絶しちゃって……それもステージの上で」
「……気絶……」反芻するように呟くと、彼は苦笑しながらまた頷いた。
ステージ上ということは、要するに観客の前でということだろう。
……それはさすがにきつかっただろうな。「その上――」
しかも、そこにはまだ続きがあるらしい。
話の先を待つ俺に、彼は少しだけ「俺、その時……。……も……」
「も?」俺は瞬いて彼を見る。
すると彼は、じわりと目端を淡く染めて、「も……漏らしちゃったんだよ……」
と、とたんに声を潜めて、内緒話でもするかのように言った。
言ってしまえば、清々したとばかりに笑っていたけれど、その顔はうっかり湯気でも出るのではないかと思うほどに赤くなっていた。そ……れは……。……なかなかのあれだな。
なるほど……。その一連のできごとが河原の上がり症を決定的なも
*** 11月ともなれば、もう夜風は十分冷たい。 俺はわずかに身を竦めながら、歩道の真ん中まで歩き、そこでようやく彼から手を放す。すると掴まれていた腕をさすりながら、木崎は喚くように声を上げた。「なんなの! そんなに怒ることないでしょ!」 木崎の少々ハイトーンな声は、そうでなくともよく響く。おかげで――時間柄ということもあるのだろうが――彼が少し声高にしゃべるだけで、通行人の視線を嫌でも集めてしまう。 しかも、俺はただそこにいるだけで、特に何を言い返しているわけでもないのに、彼の言いようはまるで痴話げんかでもしているようで……このままではあらぬ誤解を生みそうな気がして溜息が出る。「どうしても帰りたいなら、一人で帰ればいいじゃん。俺は別にそれでも良かったよ!」 そりゃ、できるもんならそうしたいっつーの。 思いながら、俺はふらつく彼の腕を掴んで支えなおした。 言われたように、仮に放置して帰ったところで特に問題はないだろう。 見た目はともかく、木崎だっていい年齢をした大人で、男で、性格から言っても、人を襲うことはあっても襲われることはないだろうし。 ここからは家もそんなに遠くない。 木崎は自転車通勤だったが、今日は飲むからと店に置いたままにして、徒歩で帰ると言っていたくらいだ。 ……自転車を、押して帰るでもなく、置いて帰る? 今にして思えば、その時から思い切り飲むつもりだったのかもしれない。「ほら、しっかり立てよ」 とは言え、口はともかく足元はまだまだ覚束ない。 さっきから見ていれば、時折ふらりとバランスを崩しては、近くの街路樹やガードレールにしがみついている。 その姿は、さながら動物園辺りで見られるような光景に似て、ある意味面白くはあるのだが……。「ちゃんと歩け。帰るぞ」 そんな見世物も長くは続かず、次にはその場にへたり込みそうになってしまう彼の身体を、俺はため息混じりに支え直す。 ……仕方ない。
「……お前、どう見ても飲みすぎだろ。もうその辺でやめとけよ」 見かねてそう促してみても、木崎は「うんうん」と笑って頷くだけで、お構いなしに次のカクテルを注文する。俺の言葉なんて聞こえていないらしい。「だーいじょうぶだよ。俺誰にも言ってないし、これからも言わないし」 「…………」 「だってほら! こう見えても隠しごと得意じゃん? 俺!」 「知らねぇよ……」 たしなめるだけでは何も変わらない木崎に、俺は深いため息をつく。そのくせ、いつから、どこまで知られているのかも気になって、思い切って席を立つこともできない。 ……まぁ、今まで全く気付いている素振りを見せなかったことからも、隠しごとが得意なのは確かなのかもしれないが……。「しっかし、暮科もさぁ、可愛いとこあるよねぇ」 「……もう帰る」 「え、待って待って! なんでそうなるの?! まだ話の途中でしょ!」 「……ってぇな」 不満げに声を上げると同時に、痛みが走るほど強く肩を掴まれる。鬱陶しげに一瞥すると、ちょうどそこに追加のグラスが運ばれてきた。「それで終わりにしろよ」 釘を刺すように言って、俺は短くなった煙草を灰皿に押し付ける。そうして諦めたようにスツールから下りると、「ちょっ……まさかほんとに帰る気なの?」 木崎が飲みかけていたカクテルを噴き出しそうになりながら、俺の腕にしがみついてきた。 ったく、こいつは……。「ほんとにってお前……そろそろ遅番も上がりの時間だぞ」 信じられないと首を振る木崎に、俺は改めてカウンター内に飾られている時計を指差した。 けれども彼はそれを見るでもなく、「もうちょっとだけ!」と言って絡めた腕に力を込めるばかり……。 時刻は23時30分を回ったところだった。遅番の上がりは24時。そろそろ河原も終業の準備を始める時間だ。 ちなみにアリアは24時間営業ではなく、基本は年中無休だが、年始も数日閉めていたりする。「うん、だから今からなら河原も来られるかなぁ
「まぁ、確かに河原はストレートだけどさ」 ……いや、だから。 俺はそもそも、今までお前に恋愛の話をしたことはねぇだろ。 もちろん河原のことだって、一切口にしたことはない。 逆なら嫌というほどあるのだ。木崎の恋愛観や、好みのタイプ、付き合っただの別れただの、浮気しただのされただの。愚痴も惚気も山のように聞かされてきた。そしてその対象が同性だってことも……俺には最初から隠す気がなかったかのようにさらりと話に出されたから知っている。 けれども、その際についでのように自分の話を持ち出すことさえ俺はしたことがないのだ。自分の性的指向が木崎と同じだってことも、もちろん匂わせたことすらない。 なのに、どうしてこうも当たり前のように同性の――あまつさえ〝河原〟の名前が出てくるのか。 元々妙に勘が鋭いところがあるとは思っていたけれど、ここまでとは思わなかった。……というか、少なくとも俺は、今までこんなふうに容易に気付かれたことはなかった。だからよけいに動揺してしまったんだと思う。 マジかよ……。 俺は密やかに息をつくと、なんとかスツールから足を下ろし、床に転がっていた煙草を拾い上げた。「でも……だからって、落ちないとは限んないよ?」 そんな俺を尻目に、木崎は尚もあっさり言ってのける。 その手の中には、既に何杯目かわからないカクテルグラスが握られている。 酔ってんな……。 それもあって、好き放題言ってるってわけか。 それとも酔ったふりして鎌をかけ、俺に諸々白状させようって腹か……。 ああ、こんなことなら、まっすぐ帰りゃよかった。 久々だしと思って気軽にOKしたことを、今更ながら後悔する。 俺は小さく舌打ちし、拾った煙草を軽く払って、そのまま口端に添えた。「それはお前の経験談か?」 「うん、経験談」 ……幸せなやつだな。 俺はスツールに座り直しながら、心の中で呟いた。 イエスともノーとも言えず、かと言ってここまできて白を切り通せるとも思えなく
あれから二年半ほどが過ぎ、河原はすっかり本来の自分を職場でも出せるようになっていた。 相変わらず新人の教育やホールの手伝いはできないが、それ以外での評価は確実に上がってきているし、他のスタッフとの関係も、下手をしたら俺より良好なくらいで、本当によくここまで成長したと思う。 ……それに比べて俺は……。 自分の気持ちをはっきりと自覚してから、すでに二年も経っているというのに、結局それをどうこうしようと思ったことは一度もなかった。 もっと彼と一緒にいたい。もっと彼の声が聞きたい。 できればもっとずっと近くで――。 なんて、思うだけなら思うのだ。 傍にいればいるほど、彼を知れば知るほど、その思いはより強くなる。 一緒に飲んで彼が寝潰れてしまった時など、ついその頬に、唇に触れたくてたまらなくなることもあるのに、俺はその全てに蓋をし続けている。 昔からそうだった。俺は好きになった相手の、親友にはなれても恋人にはなれない。どれだけ親しくなったところで、そこから先に踏み込むことはできないのだ。 ……理由はただ怖いから。そうして失ったときのことを考えると、現状のままでいいと思ってしまうからだ。 例外だったのは、高校の時に初めて付き合った一つ上の先輩だけ。あの時だって、向こうから言ってきてくれなかったら、何の進展もなかっただろう。 その後の……大学の頃の相手とも身体の関係はあったけれど、やっぱり恋愛には至らなかったし……。 ……というか、その前に河原はストレートで、それはまず間違いない。 となれば、尚更踏み出せるはずもなかった。 *** 「いるよねぇ、ノンケばっか好きになる人って」 そんな心の中を読んだみたいに、突然そう言いだしたのは木崎だった。 その瞬間、俺はくわえていた煙草をぽろりと落としてしまう。火を点ける前だったそれはカウンターテーブルの端にぶつかり、そのまま床へと転がって、俺の座るスツールの下でゆっくり止まった。「……」 けれども、
*** 河原に続いて、裏口から外に出る。施錠を確認し顔を上げると、7月だというのに頬を撫でる空気は案外涼やかだった。 スタッフの通用口付近が、建物の陰にあり、加えて湿度が低いせいでよけいにそう感じるのかもしれない。「……俺さ、七歳くらいの時……」 「ん?」 並んで歩き出し、表通りに出て間もなく、河原が不意に口を開く。「ピアノの……発表会に出たことがあるんだけど……」 「ピアノ?」 初耳だ。思わず問い返すと、河原は眼前に広がる夜空を見上げながら、「そう、ピアノ」と小さく頷いた。「俺、元々緊張する方で、本番にも弱かったし……。それを何とか克服できたらってことで、習わされてたんだけど……」 「ああ、なるほど」 程度はともかく、似た傾向のあった義弟のことから考えても、まぁ分からない話でもない。「でも俺、その発表会の時に……。あ、あまりの緊張に気絶しちゃって……それもステージの上で」 「……気絶……」 反芻するように呟くと、彼は苦笑しながらまた頷いた。 ステージ上ということは、要するに観客の前でということだろう。 ……それはさすがにきつかっただろうな。「その上――」 しかも、そこにはまだ続きがあるらしい。 話の先を待つ俺に、彼は少しだけ間を置いて、今更ひどく言いにくそうに言葉を継いだ。「俺、その時……。……も……」 「も?」 俺は瞬いて彼を見る。 すると彼は、じわりと目端を淡く染めて、「も……漏らしちゃったんだよ……」 と、とたんに声を潜めて、内緒話でもするかのように言った。 言ってしまえば、清々したとばかりに笑っていたけれど、その顔はうっかり湯気でも出るのではないかと思うほどに赤くなっていた。 そ……れは……。……なかなかのあれだな。 なるほど……。その一連のできごとが河原の上がり症を決定的なも
「…………」 やばい。 その熱が飛び火したみたいに、俺まで顔が火照ってくる。 ……おかしいな。 俺の好みってこんな感じだったか? 確かに俺は河原のことが気になっていて、多分これはもうなかったことにはできないところまで来ている。 だけど、面食いなのは元々としても、少なくとも河原みたいに、どちらかと言えば天然? なタイプを好きになったことは……今まで一度もなかったはずだ。「――明日、俺は仕事だけど……」 ややして河原は再び口を開く。前方を見据えたまま、ぽつりと呟くように。 反して俺は視線を落とし、ただ静かにその先を待った。 ……そうだな。 明日は俺は休みだけど、河原は仕事だ。「なんだけどさ。……今日、ちょっとだけ、飲みたいな……って、思って」 「飲み……? 今日?」 不意に強く吹いた風に、長めの髪が煽られる。目の前をちらつく前髪を掻き上げながら、俺は思わず彼を見た。「そう、あの、休みの前の日に……時々やってたみたいに……。……だめかな」 「あー……そりゃまぁ、俺はいいけど……」 「ほんと? じゃあ、酒は俺が出すよ」「……わかった。いいよ」 もしかしたら、断られると思っていたのだろうか。俺が承諾すると、彼は見るからにほっとした顔をして、「やった」と笑顔でこぼしていた。 酒は河原が出す――ということは、要するに河原の部屋で一緒に飲もうということだ。 とにかく早く慣れてもらえたらと、この三ヶ月の間に何度かそういう――主に俺の部屋でだったが――宅飲みの機会を作ったことがあった。 俺と河原は、会社から借り受けている部屋が同じマンション内にあったし、教育係をしている間はシフトがまったく同じに作られていたため、予定が合わせやすかったということもある。 そして実際やってみると、思いの外彼の方もそれを気に入ってくれたらしく……考えてみればその誘いを断られたことは一度もなかった。 俺に思ったより早く慣れてくれたのも