昼前の光はやわらかく、遮光カーテンの隙間から斜めに差し込んでいた。天気は曇りだったが、空気は澄んでいて、部屋の温度もいつもより少しだけ心地よかった。
玄関のチャイムが鳴ったとき、高田は机の上にあったマグカップをそっと置いた。音がしないように気を遣った自分に気づき、少しだけ胸の奥がざわついた。予告はなかったが、それでも誰なのかは分かっていた。迷いなく玄関へ向かい、チェーンを外して扉を開ける。
大和は、いつものように手に保冷バッグを提げていた。服装はラフだったが、その視線にはこちらを真っ直ぐに見つめる温度がある。高田はそれに一瞬だけ目を逸らし、それでも何も言わずに中へ招き入れた。言葉より先に、空気の重さが和らいでいくのが分かる。
弁当を机の上に並べる手つき。袋から取り出されるプラスチック容器。蓋を開けたときに立ち上る湯気と香り。いつもと同じはずのそれらが、今日はなぜか、特別に思えた。箸を割る音に続けて、大和が無言で横に腰を下ろす。その動作すら、なぜか自分の呼吸のリズムに影響していた。
高田は気づいていた。この空間に彼がいるときだけ、自分の身体が正常に近づくことを。普段は喉の奥が詰まったような息苦しさがあるのに、彼の隣にいると、自然に酸素が入ってくる。それは意識していなかったが、明確な事実だった。肺がよく動く。胸が静かに開く。
「味、合ってる?」と大和がぽつりと尋ねる。高田はうなずくだけだったが、その瞬間も、皮膚の表面にある微細な神経が静かになる感覚があった。視線を交わすたびにざわついていた皮膚が、今は逆に安定を求めている。不快ではない。むしろ、安心を感じている。それが事実であることに、高田は戸惑っていた。
完食したあと、大和は食器を片づけるように立ち上がった。その背中を見送りながら、高田はそっと手帳を開く。ペンを持った指が震えていた。午前中は震えなかったのに。午前中は、何も食べられなかったのに。
ページの左上に、細い字で日付を書いた。その下に、ためらうように言葉を綴る。
「……これは、防衛反応か……それとも……恋……?」
喉の奥で
夜の部屋は、しんと静まり返っていた。氷室が去ったあと、大和の気配も引き、再びひとりになった空間に、高田はぽつんと座っていた。壁際に寄りかかることもなく、ソファにも腰掛けず、ただ床の上に座り込んでいた。手帳を膝の上に置いたまま、指先はそこに触れるでもなく、ぼんやりと浮いたままだった。電気の色はやわらかく、視界の端には、まだ温もりを持った弁当袋が置かれていた。大和の置いていったそれは、未開封のままだった。匂いが立たないように封をされたビニールの結び目を、ほどく気力すらなかった。時間の感覚が薄れていく。どれほどの時間、同じ姿勢でいたのか分からない。ただ、胸の奥にじくじくと痛むものがある。そこに触れるたび、古い記憶がぶわりと浮かび上がってきた。氷室の声。笑い方。仕草。優しさを装いながら、心を壊す言葉を吐くあの口元。一度、彼に抱かれていた自分を思い出してしまった。あのとき、自分がどれほどの言葉をのみこんできたか。抱き寄せられるたび、自分がそこに存在していないような感覚。身体だけが、恋人としての機能を果たしていただけだった。それが彼の求めた「愛情」だったのだと、今なら分かる。だが、当時は、それでもそばにいようとした。それしか選択肢がないと思っていたから。大和の言葉が、脳裏で反芻される。「俺は、あいつを“人間”として好きや」その一文は、まるで理解の外からやってきたコードだった。そんな言葉を、自分が受け取っていいのか。そんなふうに扱われる価値が、本当に自分にあるのか。ふと、膝の上の手帳に目を落とした。ページを開く。ペンを持ったのは、無意識だった。いつものように、演算式を書くことを身体が求めていたのかもしれない。だが、文字は浮かばなかった。どれだけ脳を動かしても、何も言語化できない。恋愛を、信頼を、自己価値を。数式に落とすことすらできなかった。手の中で、ペンが小さく震えていた。指先が冷えて、関節が思うように動かない。何かを書こうとしても、思考が寸断される。頭の中でノイズがひどく、集中できない。ページの白さだけが、やけに目に刺さった。何も書けない。何も分からない。それでも、手だけが勝手に動いた。
夕方の光は、静かに部屋の輪郭をなぞっていた。高田の部屋はいつも通り整頓されていて、空気の流れさえも一定のリズムで保たれているようだった。けれど、その日だけは、目の前のメール画面に映る一行の名前が、その均衡をひそかに揺らしていた。氷室 弘紀。文字列としては、何の変哲もない。でも、その名前は高田の中で、脈拍を乱すコードのように働いた。鼓動が早まり、指先の感覚が薄れていくのを感じる。呼吸が浅くなっていた。胸の奥に、ざらついた痛みのようなものがじわじわと染み出していた。ちいさなチャイムの音が、空気を切った。高田は反射的に立ち上がる。きっと大和だ。いつものように弁当を持ってきてくれたのだろう。そう思い込み、深く息を吸って玄関に向かおうとした。ドアの開く音がした。だが、その次に響いた声は、想定していたものではなかった。「久しぶり。入ってもいい?」その声を聞いた瞬間、体中の筋肉が一斉に収縮した。玄関に立っていたのは、氷室だった。白いシャツの胸元は少し開かれ、ノーネクタイ。出会った頃と何も変わらない外見だった。けれど、その笑みだけは——いや、その笑みこそが、高田の奥底に沈んでいた記憶を呼び起こした。呼吸が止まった。喉が、言葉を作るための空間を与えてくれなかった。顔は無表情のまま、ただ、彼を見ていた。何かを言おうとしたのかもしれない。でも、声にならなかった。氷室は一歩、室内へと入ってくる。「ここ、君の?きれいだね。誰か片付けてくれてるのかな」その言い回しに、過去と同じ支配の匂いがあった。一見やさしげでいて、相手の領域をじわじわと侵食していく、あの声。高田の視線は床に落ち、手がわずかに震えていた。沈黙が部屋を包んでいた。だが、それを切るように、再び玄関の扉が開いた。「ただいまー……って、あれ?」大和の声。紙袋のなかには弁当が二つ。室内に一歩足を踏み入れた彼の足が止まる。そこにいたのは、彼が知らない男だった。そして、その男と向かい合っている高田の姿は、いつもとは違っていた。凍ったように動かず、まるで何かを拒絶するような張り詰めた姿勢。「ああ、一緒に住んでるの?ほんと、変わってな
部屋の空気は、すっかり夜の温度を帯びていた。ドアが閉まったあとの静寂は、いつもより深く、耳の奥で鳴る心音さえも増幅していた。高田は、カーテンの隙間からわずかに見える街灯の灯りをぼんやりと眺めていたが、しばらくしてゆっくりと立ち上がった。テーブルの端に置かれていた手帳に、いつものように手を伸ばす。けれど、開く指先には、わずかなためらいがあった。ページをめくると、前回まで記された数式や構造図が不自然に感じられた。いずれも冷静で論理的、整理された思考の痕跡。しかし今夜、自分が書こうとしているのは、それとは異なる“何か”だった。ペンの先をページの余白に落とす。その瞬間、わずかに息が詰まる。指先に力を込めすぎて、文字がかすかににじんだ。```c// 感情関数案関係名 = 恋愛 or 安心装置 or 未定義領域```書いた途端に、心臓がひとつ跳ねるような音を立てた気がした。読み返すと、そこに並んだ語句たちは、いつものように機械的ではなかった。『恋愛』『安心装置』『未定義領域』。それぞれが、いまの自分と大和とのあいだに存在している何かを表そうとしていた。大和のことを考えると、胸のあたりが温かくなって、同時に焦燥にも似たざわめきが生まれる。それは不安ではなかった。むしろ、自分の内部に“変化”が起きているという感覚だった。だが、その変化を記述する言葉が、まだ見つかっていない。```cif(呼吸安定・接触欲求・精神静音){ tentative_name = 恋}```書き加えながら、手の動きがふと止まる。「tentative(仮)」という単語を入れたのは、高田自身のためだった。確定ではない、仮称。だが仮称であっても、何かを定義しようとする行為そのものが、彼にとっては“踏み出す”ことだった。まだ“return”は出ていない。関数の最終的な値は返ってこない。自分のなかで、あの感情が“恋”であるという確信を持つには、不確定要素が多すぎ
夜風が窓のすき間から音もなく吹き抜けていく。高田の部屋には灯りがひとつだけ灯されており、テーブルの上のマグカップからは、もう湯気も立っていなかった。大和は、コートを羽織るわけでもなく、そのまま玄関に向かう途中でふと立ち止まり、何かを振り返るように声をかけてきた。「なあ、俺らって、今なんやろな」その言葉は、いつもと変わらない口調に聞こえた。けれど、なぜだろう、室内の空気がわずかに揺れたように感じた。高田は、振り返らないまま立ち尽くす。耳に残るその問いの余韻を、どう処理していいかわからず、手帳にも指を伸ばせなかった。言葉が浮かばなかった。論理的な反応も、予測も、あの問いにはなかった。高田の中で、情報が並列処理されるはずの場所に、白いノイズのような沈黙が広がっていた。喉がひくつく。返答しようと、ほんの一瞬だけ口が開く。だが、吐き出すべき言葉が浮かばない。「……定義づけは、まだ、できていない……」心のなかでは確かにそうつぶやいていた。それがもっとも近い答えだった。しかし声にすることはできなかった。もし口にしたなら、それは答えではなく、拒絶と取られるかもしれないという予感が、唇の動きを縛った。大和は数歩戻ってきて、テーブルに手を置いた。その手の位置が、少しだけ高田に近づいたことが、わずかながらに緊張を生んだ。彼は、真っ直ぐにこちらを見るわけでもなく、どこか遠くを見ながら、それでも柔らかな声で続けた。「せやけどな、そろそろ“名前”つけたいねん。この関係に」その言葉に、高田はふるえるほどの感情を感じた。けれど、それは決して強い声ではなかった。むしろ、大和の声音はいつもよりもずっと穏やかで、どこか寂しげな揺れを含んでいた。それが余計に、心の奥を深くえぐった。“名前”。それは、対象に対して与える定義。曖昧な存在を意味付けるための、最小限の単語。言語処理としては、当然の流れだった。けれど、なぜそれが今、こんなにも難しく感じられるのか。どうして、自分のなかにある関係性を言語化することが、こんなにも困難なのか。定義とは、対象
昼前の光はやわらかく、遮光カーテンの隙間から斜めに差し込んでいた。天気は曇りだったが、空気は澄んでいて、部屋の温度もいつもより少しだけ心地よかった。玄関のチャイムが鳴ったとき、高田は机の上にあったマグカップをそっと置いた。音がしないように気を遣った自分に気づき、少しだけ胸の奥がざわついた。予告はなかったが、それでも誰なのかは分かっていた。迷いなく玄関へ向かい、チェーンを外して扉を開ける。大和は、いつものように手に保冷バッグを提げていた。服装はラフだったが、その視線にはこちらを真っ直ぐに見つめる温度がある。高田はそれに一瞬だけ目を逸らし、それでも何も言わずに中へ招き入れた。言葉より先に、空気の重さが和らいでいくのが分かる。弁当を机の上に並べる手つき。袋から取り出されるプラスチック容器。蓋を開けたときに立ち上る湯気と香り。いつもと同じはずのそれらが、今日はなぜか、特別に思えた。箸を割る音に続けて、大和が無言で横に腰を下ろす。その動作すら、なぜか自分の呼吸のリズムに影響していた。高田は気づいていた。この空間に彼がいるときだけ、自分の身体が正常に近づくことを。普段は喉の奥が詰まったような息苦しさがあるのに、彼の隣にいると、自然に酸素が入ってくる。それは意識していなかったが、明確な事実だった。肺がよく動く。胸が静かに開く。「味、合ってる?」と大和がぽつりと尋ねる。高田はうなずくだけだったが、その瞬間も、皮膚の表面にある微細な神経が静かになる感覚があった。視線を交わすたびにざわついていた皮膚が、今は逆に安定を求めている。不快ではない。むしろ、安心を感じている。それが事実であることに、高田は戸惑っていた。完食したあと、大和は食器を片づけるように立ち上がった。その背中を見送りながら、高田はそっと手帳を開く。ペンを持った指が震えていた。午前中は震えなかったのに。午前中は、何も食べられなかったのに。ページの左上に、細い字で日付を書いた。その下に、ためらうように言葉を綴る。「……これは、防衛反応か……それとも……恋……?」喉の奥で
モニタの前に座る高田の指は、Ctrlキーの上で止まったままだった。数秒前までタイピングを続けていたはずの手が、今は動かない。社内チャットの右端に小さく表示されたオンラインインジケーター。その色が緑から赤に変わったとき、彼の心拍は確実に一拍、跳ねた。氷室 弘紀。その名前が表示されたとき、最初に走ったのは思考ではなかった。反射的に脳の奥に焼きついている“笑顔”が、網膜の裏に浮かび上がった。仕事の顔ではない。かつて、唇のすぐそばに頬を寄せられたときの、あの表情だった。音声付きのミーティング招集が届いたのは、その直後だった。クリックして開かれたウィンドウに、穏やかな口元を浮かべた男が映る。柔らかい声、口調、微笑み。画面越しであるにもかかわらず、皮膚がざわめいた。背中を冷たい汗が這い、椅子に深く座っているはずの身体が、なぜか浮き上がるような感覚に襲われる。「……ッ……」声にならない息が喉奥から漏れた。胸が締めつけられたように苦しく、瞬時に映像と音声をミュートにする。指が勝手に動いた。映ってはいけない。聞かれてはいけない。反応してはいけない。そう強く言い聞かせるように、ディスプレイの輝度を落とし、モニタを閉じかける。その動作の途中で、チャットが一件、ポップアップで表示された。《今日の昼、カレー。辛いのあかんかったら言うてな》高田は、一瞬それを見つめた。意味のない内容に見えるはずの短い一文。しかし、その無意味さこそが、今の彼には必要だった。脈絡もない、ただの昼食報告。それがこんなにも、温度を持って胸に届くとは思わなかった。握っていたマウスから指を外し、背もたれに身を預ける。肩が重い。吐息が長く漏れ、視界の端で木漏れ日がカーテンの隙間から差し込んでいた。大和のチャットを、もう一度開く。今度はスクロールし、前日のやり取りまで戻った。弁当の中身の写真。夕飯の報告。見慣れた絵文字や変換ミス。それら一つひとつが、胸のざわめきを少しずつ解いていく。記憶は、突然に戻る。氷室の笑顔の裏にあった、拒絶の声。繰り返された“お前は感情がない”“可愛げがない