ド田舎の小さな集落で生まれ育った星野美亜は幼いころから人ならざるものが見える特殊体質。 そのせいで嘘つきだと決めつけられた美亜は、短大を卒業すると同時に三大都市の一つに転居した。 しかし夢見た都会での生活は厳しく、初めてできた恋人は別れてからも金を無心する最低男で、大手企業で働くことができても雇用は派遣社員。 もどかしい日々が続く中、美亜は自宅ベランダで上司に瓜二つの天狐を目撃してしまう。 それを機に悪霊退治のボランティアをする羽目に!? いなり寿司嫌いのドS天狐にロックオンされたキラキラ女子志望の派遣社員が、ボランティア活動を命がけで頑張るお話。 あるいは悠久の時を生きる天狐が初めの恋に振り回されるお話
Ver mais今まさに日付が変わろうとしている深夜、発泡酒を片手に美亜はベランダに出て空を見上げた。
秋の夜空は、夏のころに比べると明るい星が少なくて寂しい。しかし都会の夜空は、地上の輝きのせいで季節を問わず星が見えない。
東京には空がないという詩をなんとなく覚えている美亜は、名古屋にだって空はないと思う。でも、故郷の本当の空を見たいとは思わない。
美亜こと
空き巣よりも野生動物に気を付けなければならず、夕飯のメニューも夫婦喧嘩の内容も、リアルタイムでバレてしまう狭い集落で育った美亜は、人ならざるものが見えてしまう特殊体質のせいで孤立した存在だった。
嘘つき、気持ち悪い。そんな心をえぐられる言葉を幼少の頃から吐かれ続けた美亜は、引きこもりになっては、また外に出る──を繰り返す、カタツムリ生活を送っていた。
そんな孤独な美亜の心を癒してくれたのは、テレビに映るキラキラした都会の光景。こんなにぎやかで忙しい街なら、人ならざるものが入り込める隙間なんてないだろう。
そう思った瞬間、美亜は都会に強い憧れを持った。
その気持ちは年を重ねても色あせるどころか大きくなり、地元の短大を卒業して兄が働く三大都市の一つ──名古屋に転居したのは当然といえば当然の流れである。
しかし、あっさりと転居できたわけではない。兄こと
地元就職、実家近くでの結婚。それこそが女の幸せだとだ決めつけている両親の説得に手間取り、美亜は就職先を決めることができないまま卒業する羽目になってしまった。
不本意ながら就職浪人となってしまった美亜に救いの手を差し伸べてくれたのは、同居している母方の祖母だった。余談だが美亜の父は、婿養子だ。
齢80を超えても矍鑠としている祖母の
鞠子が俊郎と同居することを条件に名古屋行きを許してくれたのなら、両親とて否とは言えない。おかげで美亜は、大都会東京ではないけれど、まあまあ都会暮らしを手に入れることができた。
……しかし一年半が過ぎた今、美亜は都会生活を謳歌していると思いきや、一人寂しく自宅アパートのベランダで発泡酒を飲んでいる。
「お
恋人と同棲するわと言い残して、兄は三か月前に家を出て行った。
両親にオフレコにする代わりに半年間家賃を半分持つと持ちかけられ、即座に兄と同盟を結んだ自分は、現金な奴ではなくて兄想いの妹だ。
親の期待を一身に背負い、真面目に生きてきた兄の初めての冒険を、妹である美亜は心から応援している。
とはいえ、一人になった2DKのアパートはびっくりするほど静かで、ひと月前に初めて付き合った恋人と別れた美亜は、強い孤独を感じてしまう。
残暑が厳しかった9月はあっという間に過ぎて、もう10月だ。
日暮れは早くなり、風は日に日に冷たくなっていく。それだけでも感傷的な気分になるというのに、冬になったら一体自分はどうなってしまうのだろう。いっそ亀でも飼おうか。いや、駄目だ。あいつは冬眠する。
そんなとりとめもないことを考えながら、美亜は発泡酒をごくごく飲む。本当はビールが飲みたいけれど、もうすぐやってくる給料日までは我慢だ。
「あと5日か……」
兄が家賃を援助してくれているおかげで、生活は楽でもなければ苦でもない。ただ恋人と別れたばかりの美亜の心は寂しくてたまらない。恋人がいなかったあの頃、どうやって日常を過ごしていたのだろう。少なくとも、こんな寂しさを感じたことはなかったはずだ。
孤独は人の心を弱らせる。そして、弱った心には魔が入り込む。普段は意識して見ないようにしている人ならざるものが、一瞬の隙をついて美亜の視界に映りこんでしまった。
「っ……!!」
名古屋に転居してから一度も見ていなかった人ならざるものは、びっくりするほど鮮明だった。
人の姿でありながら、耳と尻尾が生えた狐人。平安時代の衣装を身にまとい、屋根から屋根へと軽やかに移動するその姿は恐ろしいはずなのに、狐人の横顔が規格外のイケメンだったせいで、うっかり魅了されそうになる。
しかしトキメキそうになった美亜だが、すぐに青ざめた。ふいにこちらを向いたイケメン狐人と、ガチッと目が合ってしまったのだ。その顔に、見覚えがある。
「……え、
声に出してみたものの、派遣先の冷血上司が狐人だなんてありえない。きっと見間違えただけ。そうに違いない。
上司の顔を思い出してすっかり酔いが醒めてしまった美亜は、空になった発泡酒の缶をぐしゃりと握り潰した。
「最悪っ、明日は売上データの推移グラフの提出日だったの思い出しちゃったじゃん。あーもー……寝よ。うん、ちょっと早めに出社したほうがいいし、もう寝よう」
冷蔵庫にはまだ発泡酒があるけれど、もう飲みたいとは思えない。美亜はノロノロと室内に戻ると、歯を磨いてベッドに直行した。
明日も変わらぬ一日が始まると、信じて疑わずに──
目が覚めたら見知らぬ部屋のダブルベッドに寝かされていた美亜は、心臓が止まるかと思った。 そして、ここが指宿の自宅──高層マンションの寝室であることを知った美亜は驚愕した。 慌てふためきながらベットボードの時計に目を向ければ、深夜2時。終電はとっくに過ぎている。 鞄は会社に置きっぱなしで所持金ゼロの美亜は、始発電車が動き出すまで指宿の自宅で過ごす羽目になった。身体を迫られることはなかったが、今週金曜日に貸しを返せと迫られ、承諾せざるを得なかった。 星野家にはこんな家訓がある。「いつでもどこでも先払い」 曾祖父が呑助で金遣いが荒く、借金地獄に陥りそうになった過去があるため、星野家では先払いできるものはさっさと支払うようにしている。 しかし美亜は、悪縁を切るために後払いを選択してしまった。 それが後々、命の危機にさらされるなんて、始発の地下鉄に飛び乗る美亜は知る由もなかった。* 翌日、つつがなく仕事を終えた美亜は、帰りに大型書店で本を買った。 タイトルは「日本の神々全集」。価格は三千八百円也。 本など雑誌の付録欲しさに買う程度で、付録も付いてない本の購入は痛い出費であるが、今回ばかりは仕方がない。 七福神すら全員の名前を言えない美亜は、時間を見つけてスマホで狐の神様と、菊理媛神を調べてみたけれど、ゲームのキャラクターばかりが出てきてイマイチ理解できなかった。 特に狐の神様に至っては、色んな種類がありすぎて判別が難しく、美亜は原点に戻って書籍に頼ることにしたのだ。 購入した本を一刻も早く読みたい美亜は、本屋近くのカフェに立ち寄ることにしたけれど、夕方過ぎの地下街は、大変な混みようだ。 制服姿の高校生達がお喋りをしたり、サラリーマンが鬼の形相でノートパソコンを開いていたり、OLらしき女性達が何かのネタで盛り上がっている。 なんとか空席を見つけた美亜はカフェラテの乗ったトレーを持って着席し、買ってきた本の目次に目を落とした。「……あ、あった」 お目当ての神様を見つけた美亜は、パラパラと該当ページをめくった。【菊理媛神は、日本の神。全国の白山神社に祀られる白山比咩神と同一神とされる】 死んでしまった妻である伊弉冉に会いに黄泉の国まで行った伊奘諾尊が、変わり果てた妻の姿を見て逃げ出したけ
「……ババア、何やってくれたんだよ」 美亜が地面に叩きつけられる直前にギリギリで抱きとめた指宿は、菊理媛神を睨む。「何って、悪縁を切ったまでじゃ」「切ったって……そりゃあ、切ったけど。やり方が問題だ。力技にも程があるだろう」「それくらいせねば、切れぬ縁だったということじゃ」「はっ、どうだか」 すまし顔で答える神だが、儚いのは見かけだけだと知っている指宿は物言いたげな目を向ける。 だがその視線は、すぐに美亜に移った。「気絶するなんて、こいつ大丈夫なのかよ」「おや、そなたが人を気遣うなど珍しい。天変地異が起こらなければ良いがなぁ」「おい」 ニヤニヤと意地悪く笑う菊理媛神に、指宿は再び睨んだ。 対して鋭い指宿の視線を受けた菊理媛神は、己の身体をわざとらしく抱きしめた。「おー怖や怖や。狐を怒らせてしまったようじゃの」「ふざけるな」 低く吐き捨てるように言った指宿は、本気で怒っている。 しかし菊理媛神はここで笑った。世界中の生きとし生けるものを小馬鹿にするような笑いだった。「言っておくが、わらわのせいではないぞ。まぁちょっとは、わらわのせいかもしれぬが、そなたのせいでもあるぞ。そうじゃっ、そなたが全部悪い!」 断罪するように人差し指を向けられた指宿は激昂する……ことはなく、低く呻いた。どうやら思い当たることがあるようだ。「まさか……肉体を持ったまま神路を歩かせたせいなのか?」「そうじゃ。人にはちとキツイからのう。あとおぬし、この童に暗示をかけたじゃろ?初めて神路を歩かせたのにあまりに落ち着いておった」「するか。ただ、ちょっとこれを忍ばせていただけだ」 そう言いながら指宿は、袖の中から匂い袋を取り出した。ムッとするほどの甘い香りに、菊理媛神は顔をしかめた。「懐かしいが、品のない香りじゃな」「そう言ってやるな。いつだったか忘れたが、天児屋根命から押し付けられたんだ。人を洗脳する時に使えってな」「なんて奴じゃ。人を傷つける神など消えてしまえ」 呆れ顔になる菊理媛神に、指宿はそこまで言うなと、ついつい肩を持つ。無害かどうか確認もせず、美亜に使ってしまったのだから自分も同罪だ。 しかし、そうでもしなければ美亜をここに誘うことができなかったし、彼女が稀眼かどうかも確認できなかった。 結果として、美亜は悪縁
美亜の家系は女性に限り、昔から不思議なものが見えた。祖母と母、それと美亜だけに受け継がれる能力だ。 といっても、見えるだけで他に何もできやしない。兼業農家の星野家では、そんな能力は無用の長物で、美亜にとっては呪わしいものでしかなかった。 幼い頃から美亜は、田舎道で三つの目を持つお坊さんとか、真冬の河原でじっとしている女の子とか、中央分離帯でボール遊びをしている男の子とか、自動販売機と壁の間に挟まってブツブツ呟いている作業着の男とか──そんな摩訶不思議なものを見てしまっていた。 母親も祖母も同様に見えていたので、星野家では「あ、やっぱあんたも見えるんだ」と別段大騒ぎすることはなかったが、「変なものが見えることは絶対に口にするな」と厳命した。 素直に頷いたみたものの、幼い美亜にとって、人ならざるものとそうでないものを区別するのは難しかった。 見た目からおかしいのは、すぐにわかる。有り得ない所にいる人っぽい何かも、半透明な人も無視の対象だとわかる。 だがしかし、限りなく人に近い何かは存在する。 一緒に遊んでいた友達が急に増えたり、友達の家に遊びに行った際に、赤ちゃんがハイハイしていたり。友達のお父さんの後ろに奇麗な女性がいたり。 悪気は無かった。でもうっかり口にしてしまうことは防ぐことができなくて、気付けば美亜は「嘘つき」と呼ばれるようになった。友達は一人、二人と去っていった。 美亜は嘘は吐いていない。見たままを口にしただけ。しかし稀眼を持たない人にとっては、美亜は嘘つきでしかない。 その結果、美亜は孤立し、虐めを受けるようになり、だんだん学校を休むようになった。両親も祖母も兄も、学校を休み続ける美亜を咎めることはしなかった。 学校に行きたいのに行けないジレンマを抱えて自宅に引きこもっている間、美亜の心の拠り所はテレビだった。 画面越しに見る都会は夜がなくて、色んな人がいる。ここでなら自分はきっと自分らしく生きていける。 そんな願望から美亜は都会を目指し、再び学校に行くことにした。無視をされ、陰口をたたかれても、ぐっと堪えてとにかく短大まで出た。変なものを見てしまう能力は、受験勉強中にいつしか消えた。 そうして普通の人として手に入れた、都会暮らし。 なのに……まさかここで、自分のコンプレックスをさらけ出されるなんて夢にも思
うどん屋を出れば昼時のオフィス街らしく、秋晴れの大通りはとても賑やかだった。指宿は大通りに背を向け、路地裏のもっと奥へと歩き出す。 一体どこに行くんだろうと、美亜が尋ねようとしたその時、急に周囲の音が消えて暗闇に包まれた。「えっ、な……なになに」 怯える美亜に、指宿は眼鏡を外しながら振り返って、こう言った。「神路を敷いた」「はぁ?何を言って……えっ?えぇぇっーーー!?」 中二病かと疑う指宿の発言を聞いた美亜は、間抜けな声す。そして、すぐに目を丸くした。 信じられないことに指宿の頭に、ピンとした獣の耳が生えていたのだ。「か、か……課長、み、み、み、耳が増えてます!」「ああ、やっぱりお前、見えるんだな」 ケモ耳をピコピコ揺らしながら、指宿は表情を変えることなく、ふむと頷いた。まるで部下の報告を聞くように。 でもそれだけ。特にコメントを残すことはせず、くるりと美亜に背を向けて暗闇を歩き出した。 置いていかれたらたまったもんではない美亜は、慌てて後を追う。 振り返ってもくれない指宿は一歩一歩、足を動かす度にその姿が変わっていく。 尻尾がにょきにょき生えて、スーツは平安貴族のような服装に。ゆらめく4つの尻尾にじゃれるかのように、青白い小さな炎が暗闇を照らす。「あの……課長」「今、ハロウィンワードを口に出したら置いていくぞ」「そ、それだけは勘弁してくださいっ」 真顔で忠告を受けた美亜は、ひぃんと半泣きになりながら指宿の尻尾をつかむ。「おい、どこ触ってるんだ」「だ、だって課長が置いていくって言うからじゃないですかっ」 死んでも離すもんかと、ぎゅーっと握る手に力を入れたら、指宿はこれ以上無いほどしかめっ面をした。 しかし離せとは言わず、ただただ黙々と暗闇の中を歩き続ける。青白い小さな灯火だけを頼りに。 指宿の尻尾を命綱にしてしばらく歩けば、時代劇に出てきそうな庵が、ぽっかりと闇の中から浮き出すように現れた。 辺りは、満開の花畑。ただし全部菊の花で、縁起が悪い。微かに漂う香りが実家の仏間を思い出す。 本能的に近づきたくないがそこが目的地のようで、指宿の足は迷わず庵に向かう。尻尾が動けば美亜だって付いていくしかない。 近くで見る菊畑は、お墓参りでよく見る品種の他に、結婚式で見かけるポンポン菊もあって、ちょっとホッとする
向かい合わせに座っているので、指宿の不機嫌さが露骨に伝わる。気まずい沈黙に苦痛を感じ始めたころ、二人が注文したうどんが並べられた。「い、いただきます」「ああ」 きちんと手を合わせてから、猫舌の美亜はハフハフしながら食べる。店構えは残念だが、味は満点だ。 一方、指宿は味噌煮込みうどんの麺は硬いはずなのに、難儀することなく食べている。真っ白なシャツには汁一つ飛ばしていない。 しかも取り皿に麺を移す指宿の箸使いは、とても綺麗だ。「ん?こっちの方が良かったのか?」 つい指宿の手元を見入っていたら、そんなことを訊かれてしまった。さっきまでムッとしていたのに。 急な指宿の態度の変化に、美亜はポカンとしながらも首を横に振る。その後は、意識して食べることに専念した。 指宿が箸をおいて遅れること数分、美亜もうどんを汁まで飲み干した。「ごちそうさまでした」「ああ……さっそくだが」 そう切り出した指宿だが、一旦言葉を止めてポットを手に取り、二人分のお茶を湯呑に足す。「お、恐れ入ります」「いや、ついでだ。で、先に言っておくが俺は仕事の話をしにきたんじゃない」「え……じゃ、じゃあ」「至極プライベートな話だ」 それすなわち、先週金曜日のコスプレの件だろう。 察した美亜は「誰にも言いません」と、先手を打とうとしたが、そうじゃなかった。「お前、あの男と縁を切りたいか?」「……は?」 まったく予測していなかった質問に、美亜は間抜けな声を出してしまった。 てっきりコスプレを口止めされると思っていた美亜に、指宿は言葉を重ねる。「あの男はお前にとって悪縁だ。しかも無駄に固く結びついているから自力で解くのは無理だ。このままじゃ、一生付きまとわれるぞ」「……一生って……そんな……」 あんぐりと口を開ける美亜だが、ここで気になることがあった。「……課長、あの時のこと全部見てたんですか?」「たまたま視界に入っただけだ」「来るべきハロウィンに向けての練習中にですか?」「何言ってんだ、お前?」 どうやら指宿はコスプレのことはしらばっくれるらしい。なら自分もと、美亜はとぼけることにする。「ちょっと仰っている意味がわかりません。それにもうあの人とは別れてます」「お前なぁ男と女の関係が終わったからといって、縁が切れるなんて思うなよ。金づるとしての縁は切
顔の熱が完全に冷めてから、美亜は自分の席に戻る。香苗と綾乃は時間差で、戻ってくるだろう。その辺りの連携は取れている。 昼休憩まであと5分。パールカンパニーは福利厚生が充実していて各階に休憩スペースがあり、最上階はワンフロア全てが社員のためのカフェスペースになっている。 しかも昼食時には無料のデザートまで用意される。ただし数には限りがあり、雇用形態に関係なく早い者勝ちのルールだ。 暗黙の了解として、本来なら正社員に譲るべきなのだが、美亜は遠慮はしない。 だって用意されているデザートは駄菓子だけではなく、自社ブランドの高級菓子”花珠シリーズ”と、コンビニコラボで大ヒットした真珠大福もある。淡く輝くそれを何としても食べたいのだ。 美亜は机の上を片付けながら、綾乃たちが戻ってくるのをソワソワしながら待つ。時刻は11時57分。どうか内線が鳴らないでと祈ったその時、甘い香りとともに頭上から声が降ってきた。「星野君、ちょっといいかな」 空気を読まずそう言ったのは、コスプレ課長……もとい、指宿亮史だった。「は、はい。なんでしょう」 チャイムと同時に駆け出したい美亜は舌打ちしたい気分だが、立場上嫌とは言えない。引きつった笑顔を浮かべて指宿に続きを促す。「お昼前に悪いが、先ほどミーティングでちょっといい案がでなくてね。申し訳ないんだが、派遣の皆さんにも意見を聞きてみようと思ったんだ」「……はぁ」 こりゃあ、話が長くなるなと美亜はうんざりする。何も今じゃなくていいじゃんと、心の中でぼやいていたら、綾乃と香苗がトイレから戻ってきた。「あ、課長お疲れ様です」「お……お疲れ様ーす」「ああ、お疲れ」 二人はぎこちなく指宿に挨拶をして席に着いたが、動揺を隠せないでいる。 無理もない。営業企画課に席を置いて半年近く経つが、これまで美亜を始め、派遣社員は一度も指宿から声を掛けられたことはない。これは、かなりの事件である。 しかし好奇心はあっても、面倒事に巻き込まれたくないと思うのは当然の発想で、二人はこちらを見ようとはせず、ただただ仕事をするフリをしてチャイムが鳴るのを待っている。「で、話は戻すが今度の商品のターゲットが──ああ、昼か」 再び指宿が口を開いたと同時に、昼休憩を告げるチャイムがフロアに響き渡る。 すぐさまざわざわし始める社員達を一瞥した指宿は
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