もし――あなたと、あなたの夫がずっと心に秘めていた特別な女性が、同じ事故に遭ったとしたら。彼は、どちらを助けると思う? 冬川 悠真(ふゆかわ ゆうま)は、迷いなくその女性を抱き上げ、去っていった。命が、静かに消えていく音がした。お腹に宿った小さな命が途絶えていくのを感じながら、篠宮星乃(しのみや・ほしの)は、自分の心までもが崩れていくのを感じていた。 ――彼との結婚は、取引のようなものだった。それでも、星乃は心から望んでいた。最愛の彼と夫婦になることを。 だが、周囲はみな知っていた。その結婚は、悠真とあの女性の関係を引き裂いてまで手に入れたものだと。 それでも、彼の心がいつか自分に向く日が来ると信じていた。 けれど――三ヶ月育んできた命を、自らの手で土に還したそのとき、星乃はようやく目を覚ました。 「……離婚しましょう」 一枚の離婚協議書が、ふたりの縁を静かに切り離した。 あれから三ヶ月。揺れるドレスの裾と甘い香水のなかで、星乃は壇上に立ち、静かに賞を受け取った。その姿を、男は驚いたように三秒見つめた後、何事もなかったかのように周囲にうなずき、口を開いた。「ええ。彼女が、俺の妻です」 「妻?」 星乃は微笑みを浮かべながら、手にしていた離婚協議書を静かに差し出した。「すみません、悠真さん。もう前妻です」 普段は冷静で感情をあまり見せない男が、その時は目を赤くし、声を震わせて叫んだ。「前妻って……何言ってるんだ!俺は一度だって、そんなの認めたことはない!」
View More彼女は、もう二度と戻る気がないのだろうか。悠真はそう思った。「これだけじゃだめだ。デザイナーには、もっと正確なサイズが必要なんだ。もし合わなかったら、修正に時間がかかる。けど、もうそんな余裕はない」悠真の声は冷たく響いた。星乃は困り果てた。サイズなんて特に問題ないと思っていたが、悠真にそう言われてしまえば、反論する気にもなれなかった。二人は打ち合わせの時間を決めると、電話を切った。彼女はもう、ひどく眠たかった。髪を半分ほど乾かしたところで、ベッドに倒れ込むようにして眠りに落ちた。翌朝。体がまるで鉛のように重く、頭は鈍く痛み、胃の奥がぐるぐるとかき回されるように気持ち悪い。それでもなんとか起き上がり、身支度を整えて外に出た。ところが、エレベーターの前まで来たところで、視界が一瞬真っ暗になり、次の瞬間には全身から力が抜け落ちる。意識が戻ったとき、鼻をつく消毒液の匂いがした。目を開けると、そこは病院のベッドの上だった。「目、覚めた?」ぼんやりした視界の中に、遥生の姿があった。彼は彼女のそばに腰を下ろし、心配そうに見つめていた。「今の気分はどう?」「……私、どうしたの?」星乃はこめかみを押さえながら、痛みをこらえて尋ねる。家を出たところまでは覚えている。けれど、そのあとは記憶が途切れていた。遥生は彼女の青ざめた顔を見て、唇を引き結んだまま何も言わなかった。窓の外はもう真っ暗だった。「今、何時?」胸がざわめき、慌ててスマホを探す。もう夕方を過ぎていた。彼女は布団をめくって起き上がろうとしたが、遥生が素早く手を伸ばして押し止める。「どこへ行く気?」「まだプランが確定してないの。実験室に戻らなきゃ」星乃は答えた。遥生は手を放さず、きっぱりと言った。「今は何も考えず、しっかり休むこと。医者も、もう無理はできないって言ってた」「でも、時間がないのよ」発表会まであと六日。時間はもうギリギリだ。彼女には、一日たりとも無駄にできない。「その件は僕が対処する」遥生は続けた。「宣伝部に連絡して、発表を延期するように頼むよ」星乃は思わず顔を上げた。「……なんで?遥生、私なら大丈夫って、あなたも分かってるでしょ?昨日だって、そう約束したじゃない」これまでにも、突発的なトラブルはいくらでもあった。それでも
星乃はスマホを取り出し、悠真からの不在着信がいくつも入っているのに気づいた。最近、悠真は妙に彼女へ連絡してくることが多い。何の用なのか見当もつかず、星乃は紙片を机に戻し、かけ直す気もなく、そのまま浴室へ向かった。シャワーを浴びて出てくると、再び着信音が鳴る。画面にはまた悠真の名前が表示されていた。出なければ、この先数時間は落ち着いて休めそうにない。星乃は通話ボタンを押した。「もう家に帰ったのか?」低く冷えた声がスピーカー越しに響く。星乃はタオルで髪を拭きながら、「うん」とだけ答えた。「俺が残したメモ、見たか?」悠真は聞く。「見たわ」淡々とした声。その口調が気に障ったのか、悠真の声にわずかな苛立ちが混じる。「なんで電話を返さない?」「もう遅い時間だから」星乃は時計をちらりと見た。悠真が鼻で笑う。「へえ、遅いってことはわかってるんだな。こんな時間に帰ってくるなんて、どうかと思わないのか?」「どうかと思うって、どこが?一晩中帰らなかったあなたよりは、ずっとましじゃない?」今日は一日中、腹立たしいことばかりだった。冬川グループが人を使って資料を盗ませた件も、結衣を総責任者に任命したことも――星乃にとってはどれも無視できない。だから、言葉にも棘が混じる。悠真は一瞬、言葉を失った。彼女がこんなふうに言い返すなんて、これまで一度もなかった。いつもなら黙って耐えて、自分の中に飲み込んでしまうタイプ。そんな彼女が、今は爆発したように過去のことまで持ち出してくる。それがむしろ新鮮で、怒るどころか、彼はむしろ少し面白そうに笑った。「女が真夜中に帰るなんて危ないだろ。俺は男だから平気だけどな」「……」喉まで出かかった言葉を、星乃は飲み込んだ。もうすぐ離婚するというのに、こんな夜中に「男女の外泊の違い」なんてどうでもいい話をする意味もない。「それで、何の用?」悠真もその話題を引っ張るつもりはなかった。「八日後、おばあちゃんの七十歳の祝いがある。両親から、俺が寿宴の司会を任された」その時点で、星乃は彼の意図を察した。以前、冬川家の宴で、悠真はわざと別の女を連れて現れた。妻である彼女は、ただ人々の好奇の目に晒されるしかなかった。最初のうちは周囲の視線や噂を堪えていたが、ある
一方で、星乃は智央のオフィスを出たあと、美優のもとを訪ねた。だが美優は、書類は誰にも見せていないと頑なに言い張った。その口調は強く、嘘をついているようには見えなかった。やがて美優の疑いの目は、逆に星乃へと向けられる。「悠真はあなたの夫でしょ?しかもあなたは今回のプロジェクトの内容にも詳しい。だったら、わざと情報を漏らして私に罪を着せたって、疑ってもおかしくないじゃない!」美優は怒りを隠そうともせず、星乃を睨みつけた。星乃はそれ以上、何も聞き出せないと悟り、時間の無駄遣いをやめた。――いずれ真相は明らかになる。今やるべきことは、発表会までに新製品を完成させることだ。星乃はそのまま実験室に戻り、夜遅くまで作業を続けた。パソコンの画面には、試作してはボツにしたデータがいくつも並んでいる。途中、遥生がいつの間にかやって来て、夜食を差し入れてくれた。星乃は手早く食べ終えると、すぐにまた席へ戻る。遥生は何も言わず、ただ黙ってそばにいた。時おり星乃が行き詰まると、静かにヒントを与えてくれる。その空気に、星乃はふと大学時代を思い出した。あの頃も、二人で徹夜しながらプロジェクトを仕上げたっけ。けれど今回は、どれだけ頑張っても成果が出ない。目の焦点が合わなくなってきて、視界が二重にぶれている。もうひと月近くもこんな生活が続き、頭はぼんやりとしていた。こめかみを押さえていると、遥生が静かに言った。「もう帰ろう」星乃は無理に逆らわなかった。二人で幸の里に戻る。借りている部屋の前に着いたとき、星乃はふと立ち止まって口を開いた。「……遥生」ちょうど鍵を開けていた遥生が、顔を上げて振り返る。「ん?どうした?」星乃は二歩ほど近づいて、唇を軽く噛んだ。「私……悠真を愛していた。しかも、私たちはまだ夫婦。少なくとも今は」遥生は何も言わず、続きを待った。「だから聞きたいの。今回のプロジェクトの資料を、私が悠真に渡したって……少しも疑わなかった?」美優の言葉が頭をよぎる。考えまいとしても、疑念は消えない。ほかの人は二人の関係を知らない。けれど、遥生だけは全部知っている。彼の中にわだかまりがあったとしても、不思議じゃない。遥生はその意図を悟ると、小さく笑い、きっぱりと言った。「ないよ」そして、続け
悠真はこのところ、登世の誕生日祝いの準備で忙しくしていた。ネット上で話題が盛り上がるようになってからようやく、冬川グループの新しい知能ロボット開発プロジェクトが初期段階の成功を収めたと知った。社内の幹部たちは、結衣と悠真の関係を耳にしてからというもの、次々と彼の周りに集まり、口々に持ち上げた。「結衣さん、本当にすごい方ですね。あんな短期間でこれだけの成果を出すなんて、まるで天才ですよ」「さすが悠真さん、見る目がありますね。結衣さんのような人がそばにいれば、冬川グループはますます成長していきますよ」「まったく、UMEは先が見えてない。当初はあれだけ威張ってたのに、今じゃ結衣さんが先に新製品の情報を発表して話題をさらってるじゃないか。さて、彼らはまだ余裕ぶっていられるかな」「……」悠真は、調子のいい連中を冷ややかに見やった。あの時、新プロジェクトを結衣に任せると決めたとき、彼らは誰ひとり賛同せず、内心では失敗を待ち構えていたくせに。今になって急に活発になりやがって。彼は何も言わず、ドアの方に視線を向けて軽く手を振った。この人たちは、かつて雅信とともに冬川家を支えてきた古参たちだ。年齢的には悠真より上の「叔父世代」だったが、悠真に退室を命じられると、誰も逆らえず、苦笑いを浮かべながら部屋を出ていった。悠真は静まり返ったオフィスで、指先でデスクを軽く叩きながら眉を寄せた。数分後、誠司が書類を手にドアを開けて入ってきた。「社長、ロボットの専門検査の結果が出ました。すべてのテストを問題なくクリアしています。それに加えて、結衣さんが開発した新機能は、業界内で大きな反響を呼ぶ可能性が高いそうです」そう報告しながら、誠司は思わず感嘆した。結衣が優秀なことは知っていたが、ここまでとは思わなかった。これはもう、才能というより天才の領域だ。ただ、彼女のそんな才能が今まで誰にも見抜かれていなかったことが、不思議でならなかった。あまりにも惜しい話だ。誠司は、悠真もさぞ誇らしいだろうと思っていた。だが悠真の口から出たのは意外な言葉だった。「聞いたところによると、UMEも同じ日に新しい発表をするらしい。向こうの製品はどんなものなんだ?」誠司は首を振った。「まだ詳しい情報は出ていません」悠真は顎に指を添え、眉をひそめ
彼は焦りで落ち着かず、部屋の中をぐるぐる回ったあと、何かを思いついたように星乃へ向かって言った。「弁護士を探して、冬川グループを訴える準備をしよう」「無駄です」星乃は静かに答えた。「冬川グループがこんなことを仕掛けてくるってことは、もうすべての準備を終えているはずです。今訴えても、こちらに得はありません。それに、冬川さんの瑞原市での影響力は誰もが知っています。逆に反撃される可能性のほうが高いです。そうなったら、UMEの立場はもっと厳しくなりますよ」智央は焦りのせいで冷静さを失っていたが、星乃の言葉を聞いてようやく我に返った。冬川グループのことは詳しく知らないが、海外にいた頃からその手腕については何度も耳にしている。これまで冬川グループが誰かに出し抜かれたなんて話は、一度も聞いたことがなかった。だが、まさか今になって、こんな露骨で卑怯な手を使ってくるとは思ってもいなかった。星乃は続けた。「今、知能ロボットのハード部分はすでに完成してる。アルゴリズムと技術を変更すれば……七日あれば、間に合うかもしれない」「七日で間に合うのか?」智央は呆れたように笑った。「星乃、アルゴリズムと技術を変えるってどういうことか、わかって言ってるのか?」彼は彼女があまりに楽観的すぎると思った。自分と遥生が組んで、まったく手がかりのないアルゴリズムを改良したときでさえ、不眠不休で二週間はかかったのだ。それをたった七日で?本気で言っているのか。――やれやれ、遥生に少し助けてもらっただけで、自分にも同じことができると思っているのか。智央は皮肉めいた笑みを浮かべた。「もう帰れ。俺は広報に言って、発表会の延期を伝えてくる」それが今のところ、唯一の現実的な手だった。星乃はその言葉に、彼が自分を信じていないことを感じ取った。彼が出ていこうとするのを見て、慌てて立ちふさがる。「ダメです。UMEが帰国してから、これが初めての発表会なんです。理由もなく延期したら、UMEの信頼を失ってしまいます」「もし発表会で何かトラブルが起きたら、海外で築いた信頼をもっと失われるだろうな」智央は冷ややかに言い返した。星乃は歯を食いしばる。「七日以内に必ず仕上げます。問題は絶対に起こしません。もし失敗したら、その責任は全部私が負います」智央は鼻で笑
エレベーターの外から足音が近づいてくるのを聞いたとき、千佳は資料を元に戻し、手に持った。そして再び、先ほどまでの苦しそうな表情を作る。美優が飴を差し出し、心配そうに言った。「すごく汗かいてるよ?よかったら、近くの病院に送っていこうか?」「大丈夫、もうだいぶ楽になったから」千佳は飴を口に放り込み、ぎこちなく笑った。「本当は、下のカフェに行こうと思ってたのに……今日は無理そうね」美優は特に疑うこともなく、すぐに言った。「気にしないで。あとで私が買って持ってくるから」千佳は礼を言って、エレベーターを出た。ドアが閉まると、彼女はさっきまで「ゆっくり休んでね」と気遣ってくれた美優の顔を思い出し、胸の奥がざらついた。卒業して間もない女の子なんて、ほんとに騙しやすい。少しばかり罪悪感が湧き、胸がチクリと痛む。けれど、すぐに思い浮かんだのは、まもなく拓真が手にする冬川グループのプロジェクトリーダーのポスト、そして去年ふたりで見に行ったあのマンションだった。千佳は結局、迷いを振り切り、情報を拓真に送った。その夜、知能ロボット業界では二つの大きなニュースが駆け巡った。ひとつは、海外で大きな注目を集めていた「UME」が、国内に拠点を移してからわずか一か月で新製品の予告を発表し、一週間後に新作発表会を開くと告知したこと。もうひとつは、同業界に最近参入し、莫大な資金を投入している冬川グループが、UMEと同じ日に――しかも一時間早く新型ロボットの発表を予告したというものだった。冬川グループの公式サイトにはすでに製品の詳細が掲載され、三日後に発表会を開くとの情報も。つまり、UMEより数日も早い。その知らせは、UMEの社内にも大きな衝撃をもたらした。なぜなら冬川グループの発表した新型ロボットは、つい最近、星乃が開発したばかりのモデルと同じものだったからだ。技術部は一気に騒然となった。星乃は七日後の発表会で使うスピーチ原稿を練っていたが、そのニュースを見た瞬間、考える暇もなく智央に呼び出された。ドアを開けるなり、智央は一枚の書類を彼女の顔めがけて叩きつける。星乃は避けきれず、鋭い紙の端が目尻をかすめた。「どういうことだ、星乃!説明してくれ!なんで冬川グループの新製品が、うちで開発したものと同じなんだ?しかも、うち
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