(まだ2ヶ月残ってる……されど、たった2ヶ月でもあるのね)
教会からの帰り道、馬車の中でルクレツィアは静かに瞼を閉じながら思索に耽っていた。車輪の音と馬蹄のリズムが心を微かに落ち着けてくれる。 「何か……ございましたか?」 隣に座るリリーが、心配そうにルクレツィアの顔を覗き込んでくる。 「……いいえ、何も。大丈夫よ」 小さく微笑んでみせたが、その言葉の奥にある動揺をリリーが見抜いていないはずがない。けれど彼女は、それ以上何も聞かなかった。信頼がそこにあった。 あれから、ルクレツィアが一人で奥から戻ってきたとき、リリーとアシュレイが無言で迎えに来てくれた。そしてリリーとルクレツィアはそのまま黙って馬車に乗り込んだ。 (アシュレイにはほとんど出番がなかったわね……少し悪いことをしたかしら) そんなことを思いながらも、心の中には別の人物の姿が強く焼き付いて離れなかった。 (……イザヤ。あの男の本心、やっぱりまだ掴めない) 乙女ゲームの中では決して語られなかった彼の過去。 それを探っていることをイザヤは知っていて、そのうえで彼はなぜか「嬉しい」と微笑んだ。 あの言葉に偽りはなかった。けれど、それと同時に――。 (あの瞳……あれは、狂気。なのに、壊れそうなくらい脆くて) 確かに見たことがある気がする。ゲームの中で、何度かソフィアにだけ見せたことのある顔だ。 けれど記憶は曖昧で、霞がかかったように思い出せない。 (そう……少しずつ、前世の記憶が揺らいできている) 転生してから、死に戻る前も合わせてもう3年以上経っている。おまけに、ルクレツィアとしての人生での記憶の方がやはり前世の記憶より勝っているようで、乙女ゲームの筋書きだった記憶がところどころ曖昧だ。登場人物たちのセリフ、彼らの表情、エンディングの条件――すべてが少しずつ、ぼやけてきていた。 (それでも……この道を進むしかない) ゲームの記憶が曖昧でも、今の彼らは生きていて、彼らの運命は確かにここにある。そして、ルクレツィア自身もまた、ただのプレイヤーではない。 これは、自分自身の物語だ。 たとえ、結末がゲームと違っていても。 ルクレツィアはふっと息を吐き、馬車の窓越しに見える夕暮れの空を見上げた。 一筋の光が雲間から差し込み、遠くの教会の尖塔を照らしている。 (イザヤ・サンクティス。あなたが何を抱えているのか、私は知りたい。すべてを知って――そして、あなたを救いたい) 馬車は静かに、街路を進んでいった。「イザヤ!」 ――私の声が、風より先に花野を駆け抜けた。 その名を呼んだ瞬間、男はゆっくりと振り返った。 白銀の髪が風に揺れ、淡く金の光をたたえた瞳が、静かにこちらを捉える。 その視線の先には、一人の少女が立っていた。 そこにいたのは、私だった。 けれど、それは今の私でも、過去の私でもない――私も知らない私。 聖女の装束を身に纏い、柔らかな桃色の瞳に歓喜の色を宿したその少女は、まるで愛する者に再会したかのように、純粋な笑みを浮かべた。 そして、迷いも躊躇もなく、彼女は駆け出す。 足元の花々を踏まず、風とともに舞うように。 イザヤはその姿を、ただ黙って見つめていた。 まるで、愛する娘の成長を見守る父のような、穏やかな眼差しで。 赦しと慈しみと、深い親愛が交錯した、その眼差し。 その光景は、美しく、安らかだった。 そう、ほんのひととき――夢のように。 だが、夢は長くは続かない。 彼女の走る背後から、世界が音を立てて崩れていく。 一輪、また一輪と花が萎れ、色彩が失われていく。 空が砕け、陽が沈み、光が黒に染まっていく。 音が消え、風が止み、命の匂いすら薄れていく。 世界そのものが、皮膚のように剥がれ、崩れ落ちていった。 やがて視界には、ただの虚無が広がっていた。 私の足元さえも、朧げになっていく。 崩壊はやがて、全体を飲み込み――そして、 次の瞬間、私は“そこ”にいた。 冷たい石床。湿り気を帯びた空気。鉄と錆の匂いが、肌にまとわりつく。 天井も窓もない。四方は鉄格子で囲まれた、牢獄のような空間。 否、これは――まるで、地下に繋がれた獣の檻だった。 その奥に、気配があった。 闇に滲むようにして壁際に蹲っていたのは、一人の少女。……いや、少年だ。中性的な顔立ちと、その長い髪でどちらか一瞬分
「……質問に答えていただきたいのです、イザヤ大司教」 静かに凛とした声で話しかける。 背筋を真っ直ぐに伸ばしたその姿は、動じる様子を見せぬように見えたが、内心では全神経を尖らせていた。「ええ、もちろん。貴女の問いなら、何であれ」 イザヤは相変わらず優雅な微笑を浮かべていた。金の瞳は油のような鈍い光を湛え、ルクレツィアの顔をじっと見つめている。「ベルント・レンツに下された異端の断罪――その根拠を、教えてください」 イザヤの微笑が、ほんの少し深まった。だが、それは決して喜びの微笑ではなかった。「なるほど。貴女は“正義”を求めてここへ来たのですね」「私が求めているのは、“真実”です」 ルクレツィアははっきりと言い放つ。その声は静かだったが、明確な意志を帯びていた。 イザヤは椅子にもたれ、組んだ指先を顎の前で組み直した。「……ふむ、そうですか。正直に答えると、異端審問というのは私の直接の職掌ではありません。ですが、関係書類にはすべて目を通しております。要するに、彼は教会に対して踏み込みすぎた。そういうわけです」「たったそれだけ?」 ルクレツィアの声に、怒気はなかった。少し拍子抜けしたような、思わず漏れ出たような、そんな声。「えぇ、それだけ」 イザヤは涼やかに笑った。まるで、その一言で事足りると確信しているかのように。 その姿を見て、ルクレツィアは悟った。この男は何もかもを知っている。だが、それをルクレツィアに語る気は毛頭ないらしい。 これ以上ベルントのことを問うても、核心には届かない。むしろ、無意味に消耗するだけだ。「……あなたは一体、どうして私に執着するの?」 ルクレツィアが静かにそう問いかけると、イザヤの指がぴたりと止まった。 驚いたように、彼は彼女の顔を見つめる。戸惑い、揺らぎ、どこか痛ましいものすら浮かんだその表情は、ほんの一瞬の出来事だった。 すぐに、彼はいつもの微笑みを取り
気がつけば、教会を訪れてから一週間が過ぎていた。 とある朝、執務室に入ってきた侍女のリリーは、手にした書状を胸元に抱えたまま、沈痛な面持ちでルクレツィアの前に立った。「お嬢様……異端審問が活発になっていた件ですが……」 リリーは一拍、言葉を飲み込むように息を吸い、慎重に口を開いた。「……先日、ついに初の処刑者が出たそうです」 ルクレツィアは、その報せに驚きも動揺も見せず、まるでそれを予期していたかのように小さく頷いた。「そう」 遅かれ早かれ、犠牲は避けられないと覚悟していた。あの不気味な沈黙の裏に、確かに粛清の波が忍び寄っていた。 それは、乙女ゲームのシナリオ通り。それ以上でも、以下でもない。 だが、リリーが次に発した名が、その冷静を鋭く打ち砕いた。「……その異端者の名は、ベルント・レンツ。……ベルント様でございます」「……っ!」 反射的に顔を上げたルクレツィアの瞳に、動揺の色が浮かぶ。胸の奥で、心臓がひときわ大きな音を立てて脈打った。「ベルントが……処刑されたですって……?」「はい。詳細は伏せられておりますが、教会内部で異端認定が下された後、即日、極秘裏に処刑が執行されたとのことです」 リリーは唇を固く結び、視線を伏せながら続けた。「今のところ、お嬢様とベルント様との関係は露見しておりません。ただ、彼の周囲を洗う動きはすでに始まっているようです。今後、どこまで広がるかは……」 リリーの報告に、ルクレツィアの指がわずかに震えた。だが彼女は何も言わず、椅子を押しのけて静かに立ち上がる。「……馬車の手配を。すぐに」「お嬢様……?」「教会へ向かうわ。……イザヤに、会わなければならない」 その声は低く抑えられていたが、かえってその奥に潜む焦りと痛みが滲み出ていた。張り詰めた糸のような声音に、リリーの顔が強ばる。 驚きと戸惑いが入り混じった表情の
(まだ2ヶ月残ってる……されど、たった2ヶ月でもあるのね) 教会からの帰り道、馬車の中でルクレツィアは静かに瞼を閉じながら思索に耽っていた。車輪の音と馬蹄のリズムが心を微かに落ち着けてくれる。「何か……ございましたか?」 隣に座るリリーが、心配そうにルクレツィアの顔を覗き込んでくる。「……いいえ、何も。大丈夫よ」 小さく微笑んでみせたが、その言葉の奥にある動揺をリリーが見抜いていないはずがない。けれど彼女は、それ以上何も聞かなかった。信頼がそこにあった。 あれから、ルクレツィアが一人で奥から戻ってきたとき、リリーとアシュレイが無言で迎えに来てくれた。そしてリリーとルクレツィアはそのまま黙って馬車に乗り込んだ。(アシュレイにはほとんど出番がなかったわね……少し悪いことをしたかしら) そんなことを思いながらも、心の中には別の人物の姿が強く焼き付いて離れなかった。(……イザヤ。あの男の本心、やっぱりまだ掴めない) 乙女ゲームの中では決して語られなかった彼の過去。 それを探っていることをイザヤは知っていて、そのうえで彼はなぜか「嬉しい」と微笑んだ。 あの言葉に偽りはなかった。けれど、それと同時に――。(あの瞳……あれは、狂気。なのに、壊れそうなくらい脆くて) 確かに見たことがある気がする。ゲームの中で、何度かソフィアにだけ見せたことのある顔だ。 けれど記憶は曖昧で、霞がかかったように思い出せない。(そう……少しずつ、前世の記憶が揺らいできている) 転生してから、死に戻る前も合わせてもう3年以上経っている。おまけに、ルクレツィアとしての人生での記憶の方がやはり前世の記憶より勝っているようで、乙女ゲームの筋書きだった記憶がところどころ曖昧だ。登場人物たちのセリフ、彼らの表情、エンディングの条件――すべてが少しずつ、ぼやけてきていた。(それでも……この道を進むしかない) ゲームの記憶が曖昧でも、今の彼らは生きていて、彼らの運命は確
乙女ゲームのヒロイン、聖女と称えられる少女の姿が、目の前にあった。 ルクレツィアは静かに歩み寄る。「こんにちは」 優しく声をかけると、少女はビクッと小さく肩を震わせた。驚いたように顔を上げて、慌てて立ち上がる。「っ……こんにちは」 緊張にこわばった表情で、か細い声を返すソフィア。 その様子を見て、ルクレツィアは微笑んだ。まるで壊れやすいガラス細工でも扱うように、やわらかな声を向ける。「そんなに緊張しなくていいのよ。聖女ソフィア様」「い、いえ……。アルモンド令嬢とお話しするだなんて、私なんか……」 伏し目がちにおどおどと答えるソフィアに、ルクレツィアは心の中で小さく息を吐く。(うーん……。ゲームの中では主人公だったからあまり気にならなかったけど、思っていたよりずっと気が小さいのね) できるだけ威圧感を与えないように、柔らかな微笑みを浮かべながら優しく声をかける。「あなたとお話してみたかったの。どうかしら、少しの間、お時間をいただけないかしら?」 おずおずとソフィアは小さく頷いた。まるで怯えた小鳥のようだ。「……はい」(よし、とりあえず、第一歩は踏み出せたわね) ルクレツィアは内心で安堵しつつ、自然な会話を心がける。「シュトラウス子爵領は王都から少し離れているわよね? 急にこんな賑やかな場所に出てきて、不安なことは無いかしら?」 乙女ゲームの知識をフル活用する。確かソフィアは17歳になるまでずっと地方の子爵領で何不自由なく育てられた箱入り娘だった。 それがある日突然、「あなたこそが聖女だ」と神殿の使者に告げられ、王都に呼び寄せられたのだ。その後、簡単な儀式と説明を受けただけで、お披露目舞踏会――つまり、ゲーム本編が始まった。 ソフィアは胸の前で指を絡めながら、小さく答えた。「そ、その……皆さんとても親切にしてくださるのですが、やっぱりまだ慣れなくて……」
教会へ向かう馬車の中。 柔らかな陽光がレースのカーテンを透かして差し込み、ルクレツィアの膝上のドレスを金糸のように照らしていた。車輪の心地よい揺れが、かすかに彼女の身体を揺らす。春先の空気はまだ少し冷たいが、窓越しの日差しは穏やかで、どこか現実感の薄い静けさがあった。(まずはこの世界について、改めて整理しておきましょう) ここは乙女ゲーム『聖なる光と堕ちた神』の世界だ。 “聖なる光”は聖女ソフィアを意味し、物語は彼女が五人の攻略対象たちを救い、そのうちの一人と結ばれて、そして世界を救うまでを描いている。 何も干渉しなければ、物語は王太子ルートへ自然に流れていく。そのため、プレイヤーの間ではこれを「王道ルート」と呼んでいた。 事件が起こる順番は決まっている。 最初がイザヤ、次いでアシュレイ、テオドール、アズライル、そして最後にルーク――。 ソフィアはそれぞれの心の闇に寄り添い、救い、そのうちの誰かと恋愛関係に発展していく。 だが、事件で救えなかった場合、その対象者のルートへ進もうとするとバッドエンドが発生する仕様だ。 そして、悪役令嬢・ルクレツィアはと言えば――ほとんどモブのような存在だった。 たまに王太子の正式な婚約者として登場しては、周囲に聖女として持て囃されるソフィアに嫉妬し、嫌がらせを仕掛けたり、攻略対象たちとのイベントを邪魔したりする。 それが、彼女の役割の全て。(私の出番なんて、最初から限られていたのよね) そして必ず訪れる婚約破棄―― それはどのルートでも、各事件がすべて解決した物語の中盤に用意されていた。 このゲームが他の乙女ゲームと一線を画していたのは、攻略対象たちとの「救い」が序盤で完結する点だろう。 では後半は何を描くのか? それは堕ちた神を浄化し、世界を救う聖女としての戦いだ。 ここで、序盤に救った攻略対象たちが再び重要な役割を担う。 誰を救い、誰を救えなかったのか――その選択が神の浄化の難易度やストーリー展開そのものを大きく左右していく。