……静寂。
どこまでも深く、冷たく、暗い闇の中を漂っていた。 終わりのない落下のような感覚。体も意識も溶けていくかのような虚無――。 けれど――不意に、微かな光が差し込んだ。 遠くで鳥のさえずりが聞こえ始める。朝の始まりを告げるような、穏やかな囀り。 「……ぁ……」 ルクレツィアの唇が微かに動いた。まぶたが重くゆっくりと開かれる。差し込む朝の日差しが眩しくて、一瞬、思わず目を細めた。 そこに映ったのは、見慣れた天井――白亜の装飾、繊細な彫刻が施されたドーム型の天井。金の縁取りと淡いクリーム色の壁が朝の光に柔らかく照らされている。 (……ここは……私の部屋?) 首をゆっくりと巡らせる。刺すような痛みも、焼けつく苦しみもない。昨夜のあの焼けるような毒の苦痛も、冷たい床の感触も、全く存在しない。ただ、静かに、柔らかな朝が広がっていた。 (……生きてる? でも、どうして?) 戸惑いを抱えたまま、ルクレツィアはベッドを抜け出し、大きな姿見の前へと足を運んだ。 鏡の中に映る自分の姿――艶やかなブロンドの髪、整った顔立ち、健康的な血色。そこには確かにルクレツィア・アルモンドが立っていた。けれど、どこか違和感が胸の奥をざわつかせる。 (……何かが、おかしい) 違和感の正体がすぐには掴めず、しばらく鏡の中の自分を見つめ続けた。 その時だった。 コン、コン、コン―― 軽やかなノックの音が静寂を破った。 「お嬢様、朝食のご用意が整っております」 リリーの、馴染み深い声が扉の向こうから届いた。 「えぇ……。いえ、入ってきてリリー」 返事をしながらも、ルクレツィアの心はさらに混乱を深めていく。まるで、現実感が薄れていくようだった。 扉が開き、リリーが静かに部屋に入ってくる。相変わらず柔らかな微笑みを浮かべた、幼い頃から仕える侍女だ。 「いかが致しましたか、お嬢様? 少しお顔色が優れないようにお見受けしますが……」 「……リリー、私が昨夜倒れてからどうなったの? それに……そろそろ私は屋敷を出なきゃいけないはずよね?」 自分でも震えそうになる声を無理やり抑え込み、ルクレツィアは尋ねた。リリーは一瞬目を瞬かせ、首を傾げた。 「昨夜……? 倒れられた、とは? いいえ、お嬢様は昨夜も変わりなくお休みになられておりましたよ? それに今日のご予定は夜の舞踏会だけでございます。なにかお急ぎの用事でもございましたか?」 ルクレツィアの心臓がドクリ、と跳ねた。 信じられない、いや、信じたくない感覚が全身を駆け巡る。 (どういうこと? あの審問も、爵位剥奪も、追放も――まるで、すべてがなかったかのように……) 頭の奥がじんじんと痛み出す。けれど、嫌でも理解せざるを得なかった。 (――私は、あの夜を超えて……また、戻ってきた?) 「ごめんなさい。今日って何年かしら」 そして、不思議そうに首を傾げるリリーから告げられたのは――あの婚約破棄劇から遡ること三年前。 ちょうど、ルクレツィアが前世の記憶を思い出し、この物語が静かに動き始めた“運命の日”だった。 (……間違いないわ。私は――戻ってきた) 動揺を隠しきれぬまま、ルクレツィアはゆっくりと息を整えた。 「……朝食は後にしてちょうだい。今は少し、一人になりたいの」 「かしこまりました」 リリーは静かに一礼し、そっと部屋を後にした。 リリーが出て行った扉が静かに閉まる音が、やけに遠くに感じられた。 部屋には、再び静寂が満ちる。 (落ち着いて……落ち着かなきゃ) ルクレツィアは重たい足取りで窓際のソファに腰を下ろした。指先がかすかに震えている。胸の奥がざわつき、思考がまとまらない。 (婚約破棄も、爵位剥奪も、追放も、毒殺も……すべて終わったはずだったのに。なのに、私は……) 指先でこめかみを押さえ、深く息を吸い込む。 窓の外では、まるで何事もなかったかのように、小鳥たちがさえずり、庭師たちが丹念に植え込みを手入れしていた。 (……確かに私は、一度死んだ。あの甘ったるいワインの味、焼け付くような痛み、倒れた床の冷たさ――全部、鮮明に覚えている) 背筋に冷たい汗が滲む。けれど、ここにいる自分は確かに息をしている。 (これは……やり直し? それとも、神の悪戯?) じっと自分の手を見つめた。透き通るような白い指先――まだ何の汚名も着せられていない、過去の自分の手。 (理由なんて、今は分からない。けれど、チャンスが与えられたのなら――) ぎゅっと手を握りしめる。 (今度こそ、同じ結末にはさせない) 静かに、しかし確かな決意が、ルクレツィアの胸の奥に芽生えはじめていた。 (……そのためにはい冷静になって整理しましょう) ルクレツィアは背もたれに身を預け、ゆっくりと目を閉じた。 (前回――私は、できる限り穏便に破滅を受け入れる道を選んだ。ソフィア様をいじめることなく、騒ぎも起こさず、目立たぬよう、慎重に立ち回った) 自ら厨房に立ち、新たな事業の足掛かりを作り、爵位を失った後の生計の準備も着々と進めていた。 ベルント・レンツに商会を任せ、名も顔も出さず、商売は順調に立ち上がっていた――途中までは。 (けれど、その慎重さが仇になったのかもしれない) あの商会への横槍。取引先を奪われ、じわじわと商売の基盤が崩されていった。 (誰かが私の裏の動きを嗅ぎつけ、計画的に潰しにきた。けれど、それでも私は気付くのが遅すぎた) 眉間に指を当てる。 (証言という形で仕組まれた陰湿な嫌がらせの冤罪。私は最低限しかし王宮にも、他の貴族の誰とも関わらず、ずっと屋敷で商会との計画を続けていたせいで、逆に証拠を作りやすい状況に陥っていたようね) 証言だけなら、裏で手を回せばいくらでも作り上げられる。 誰とも関わらず、ルクレツィアが悪事を働いていないという証拠を作る人物がいなかった分、「表面上は穏やかな悪女」という都合の良い物語が完成してしまったのだ。 (それに――) ルクレツィアの瞳が鋭く細められる。 (王太子殿下。私はてっきり、殿下は正式にソフィア様を妃にするために、自然に婚約破棄を切り出すと思っていたわ。でも、実際は違った) あの審問。まさか悪役令嬢というレッテルを貼られて、爵位まで剥奪されるとは思わなかった。 (でもゲームの設定的にアズライルはそんな卑怯なことをする人じゃないはず。つまりはその背後にいる誰か――聖女ソフィアの支持者や派閥――が、私を単なる婚約破棄では済ませたくなかった。完全に潰す必要があったのね) 思い返せば、あの毒もそうだ。爵位剥奪だけでは終わらず、命までも奪いに来た。 (――アルモンド公爵家の血筋を断ちたかった? それとも、狙いは私?) 息を吐く。まだ全ては見えてこない。だが、少なくとも分かったのは、 (私はただ静かに身を引こうとするだけでは、潰される運命だった) 静かに目を開く。 (それなら、今度こそこちらから行動を移さねばならない) 自らの破滅をただ静かに受け入れるつもりなど、もはや毛頭ない。何者かが仕組んだ陰謀――その全てを暴き、打ち砕くのだ。 だが、まさにその時だった。控えめなノック音が鳴り響く。 「……どうぞ」 「も、申し訳ありません、お嬢様」 小走りに部屋へ入ってきたリリーが、やや息を切らしながら頭を下げた。 「客人がお嬢様にどうしてもお会いしたいと屋敷を訪れていまして」 「客人?」 ルクレツィアは思わず眉をひそめた。このタイミングで、屋敷に客が来るなど不自然だ。死に戻る前のこの日――たしかに、誰一人として客など訪れていなかったはずだ。 「どなた?」 「エリアス・モンルージュ様という方だそうです。どうなさいますか?お帰りいただきますか?」 (エリアス・モンルージュ……?) その名には全く聞き覚えがない。貴族の名前はある程度は把握しているルクレツィアですらその家名すら聞いたことがなかった。 ルクレツィアは一瞬だけ考え込み、やがてゆっくりと口を開いた。 「ええ、そうね……今は気分じゃないわ――」 そう言いかけて、ふと胸に違和感が走る。今までと違うこの展開を、ここで無視してよいのだろうか? (死に戻る前には現れなかった客人……。偶然だとは思えない) 「――いいえ、やはりお通しして。客室でお待ちいただいて」 「かしこまりました、お嬢様」 リリーは慌てて一礼し、足早に部屋を後にした。 (エリアス・モンルージュ――あなたは一体何者なのかしら?) ルクレツィアは静かに椅子から立ち上がり、胸の内のざわめきを抑え込む。気を抜けば思考が渦を巻いてしまいそうだった。 そのままベルを鳴らすと、控えていた侍女たちがすぐに部屋へ入ってきた。現れたのは、身支度係の侍女クララだ。 「お呼びでしょうか、お嬢様」 「ええ。客人を迎えるわ。支度を整えてちょうだい」 「かしこまりました」 クララは手早く準備を始める。ルクレツィアの髪を丁寧に整え、上品ながらも落ち着きのあるドレスを選び出していく。その手つきは慣れたものだが、ルクレツィアの内心は穏やかではなかった。 (前の人生との違いの正体を探るには、まず彼と話してみなければならないわね) やがて身支度は整い、ルクレツィアは鏡の中の自分をひと目確認すると、静かに頷いた。 「ありがとう、クララ」 「お気をつけて、お嬢様」 控えめに頭を下げるクララを後に、ルクレツィアはゆっくりと客間へ向かった――。テオドールと別れた後も、胸の内に違和感を抱えたままルクレツィアは歩き続けていた。(次は――) 自然と足が、舞踏会場の奥、人気の少ないテラスへと向かう。 柔らかな夜風がレースの袖を揺らし、月明かりが静かに白い大理石の床を照らしている。(前回の舞踏会でも、ここで彼に出会ったのよね……) 思い返せば、あの夜の会話が彼との最初の接点だった。 ルーク・グレイヴン。裏社会に精通し、商人として成り上がり伯爵となった男。 ダークワインレッドの髪と深緑の瞳を持ち、物腰は柔らかく穏やかだが、その本心は決して他人に悟らせない。 そして――「こんばんは、アルモンド公爵令嬢」 月光の下、すでに彼はそこにいた。 石造りの欄干に片肘をつきながら、穏やかな微笑みを浮かべている。(……やっぱりいたわ) 内心、僅かに息を吐く。 ルクレツィアはドレスの裾を静かに持ち上げ、彼に向き直った。「こんばんは、グレイヴン伯爵。今宵は月が綺麗ですわね」「ええ、月も星も、貴女のドレスに映えてより一層輝いて見えます」 相変わらず流れるように巧みな口ぶりだ。 だが、前回と全く同じ言葉ではなかった。(――ここも違う) それでも、ルクレツィアは笑顔を崩さずに返す。「お上手ですこと」「商売柄、口先だけは少し自信がありまして」 ルークは軽く肩をすくめてみせた。その仕草もまた、どこか計算されているようでいて、自然だ。「このような華やかな場所では、どうにも落ち着かなくてね。つい、こうして人の少ない場所に逃げてしまうのです」「わかりますわ。私も時折、こうして風にあたりたくなりますもの」「……お互い似た者同士、というところでしょうか」 その言葉に、ルクレツィアの心がわずかに揺れた。 前回の周回で、この男がこんな風に距離を縮めてきたことはなかった。む
夜の帳が下り、王宮は一層の華やかさに包まれていた。 クリスタルのシャンデリアが幾重にも輝き、まるで星々が天井に降りてきたかのようだ。貴族たちの宝石が光を受けて煌めき、豪奢なドレスと燕尾服が舞踏会の広間を彩っている。 ルクレツィアは、公爵令嬢としての完璧な微笑みを浮かべながら入場した。 今日のドレスは淡いローズピンクのシルクに繊細なレースが重ねられ、煌びやかすぎず、品のある華やかさを演出している。背筋を伸ばし、静かに視線を巡らせると、見慣れた顔ぶれが次々と目に入った。(ここが始まりの舞踏会……) ここからすべてが動き出す。聖女ソフィアの登場も、そして攻略対象たちの物語も――。 遠くに王太子アズライルの姿が見えた。漆黒の髪に深紅の瞳。その鋭い眼差しは今日も氷のように冷たい。 その隣には騎士アシュレイが控え、ダークブラウンの髪にスチールグレーの瞳を光らせながら、厳かに警戒を怠らない。 王太子アズライルは、ふとルクレツィアの姿に気づいたのだろう。遠くからその深紅の瞳がわずかに細められた。 いつもなら近づいても形ばかりの挨拶しか交わさない彼が、自ら数歩を踏み出してルクレツィアの前に現れる。「ルクレツィア・アルモンド」 低く響く声。 冷ややかさは変わらぬものの、どこか妙に柔らかい。 いつものように距離を取るわけでも、無関心を装うわけでもなく、彼はわざわざルクレツィアの目の前で足を止めた。「アズライル殿下。今宵もご機嫌麗しゅうございます」 完璧な所作で礼を取るルクレツィア。 だが、その内心はわずかに困惑していた。――これは、今までにない展開だ。(……前回この舞踏会で私はアズライルに挨拶したかしら?) アズライルは彼女の礼にゆるやかに頷くと、視線を絡めたまま口を開く。「随分と控えめな装いだな。だが――よく似合っている」 一瞬、胸の奥がざわつく。 褒め言葉。しかもこの王太子の口から――。 冷徹で人を称えるなど滅多にしない彼が、だ。
客間の扉の前で、ルクレツィアは深く息を吸い込み、ゆっくりとノブに手をかけた。「失礼いたします」 静かに扉を開けると、柔らかな陽光が差し込む室内に、一人の見慣れぬ男性が静かに腰掛けていた。彼は肩にかかるほどの長さの、スモーキーアッシュの髪を自然なウェーブで揺らしながら、ゆったりとした所作で立ち上がる。髪はセンターよりややずれた分け目で、落ち着いた印象を与える。淡い青色の瞳は春の空のように澄んでおり、その視線は静かな安心感をもたらした。整った顔立ちは儚げな優雅さを漂わせつつも、その奥に鋭い知性が宿っていた。 その眼差しを、ルクレツィアはどこかで知っているような気がした。 身に纏う衣服は控えめながら上質な布地で仕立てられており、動きやすさを意識したシンプルなデザインが彼の落ち着いた人柄を引き立てている。 彼は礼儀正しく一礼して、柔らかな微笑みを浮かべた。「初めまして、ルクレツィア・アルモンド公爵令嬢。噂に違わぬ美しさだね」「はじめまして、エリアス・モンルージュ殿。あなたのことは存じ上げませんが、どのようなご用件でしょうか?」「俺は、ただの放浪者さ」 ルクレツィアの問いに、彼は静かに微笑みながら答えた。「『聖なる光と堕ちた神』……この言葉を聞いたことはあるかな?」 その言葉を耳にした瞬間、ルクレツィアの眉がわずかにひそめられた。(その名は……) それは、この世界の土台となっている乙女ゲームのタイトルだった。彼女が前世で何度も遊んだゲーム、そしてこの世界の運命を知る唯一の拠り所でもある。それを、この男が――。(この世界に生きる人間が、知るはずのない言葉……どうして?) 胸の奥に冷たいざわめきが広がる。状況を飲み込みきれないまま、まずはこの場を整理する必要があると判断した。 控えていた侍女に、ルクレツィアは静かに目線を送り、落ち着いた声で命じる。「リリー、少し席を外してちょうだい。」「かしこまりました、お嬢様。」
……静寂。 どこまでも深く、冷たく、暗い闇の中を漂っていた。 終わりのない落下のような感覚。体も意識も溶けていくかのような虚無――。 けれど――不意に、微かな光が差し込んだ。 遠くで鳥のさえずりが聞こえ始める。朝の始まりを告げるような、穏やかな囀り。「……ぁ……」 ルクレツィアの唇が微かに動いた。まぶたが重くゆっくりと開かれる。差し込む朝の日差しが眩しくて、一瞬、思わず目を細めた。 そこに映ったのは、見慣れた天井――白亜の装飾、繊細な彫刻が施されたドーム型の天井。金の縁取りと淡いクリーム色の壁が朝の光に柔らかく照らされている。(……ここは……私の部屋?) 首をゆっくりと巡らせる。刺すような痛みも、焼けつく苦しみもない。昨夜のあの焼けるような毒の苦痛も、冷たい床の感触も、全く存在しない。ただ、静かに、柔らかな朝が広がっていた。(……生きてる? でも、どうして?) 戸惑いを抱えたまま、ルクレツィアはベッドを抜け出し、大きな姿見の前へと足を運んだ。 鏡の中に映る自分の姿――艶やかなブロンドの髪、整った顔立ち、健康的な血色。そこには確かにルクレツィア・アルモンドが立っていた。けれど、どこか違和感が胸の奥をざわつかせる。(……何かが、おかしい) 違和感の正体がすぐには掴めず、しばらく鏡の中の自分を見つめ続けた。 その時だった。 コン、コン、コン―― 軽やかなノックの音が静寂を破った。「お嬢様、朝食のご用意が整っております」 リリーの、馴染み深い声が扉の向こうから届いた。「えぇ……。いえ、入ってきてリリー」 返事をしながらも、ルクレツィアの心はさらに混乱を深めていく。まるで、現実感が薄れていくようだった。 扉が開き、リリーが静かに部屋に入ってくる。相変わらず柔らかな微笑みを浮かべた、幼い頃から仕える侍女だ。「いかが致しましたか、お嬢様? 少しお顔色
朝、ルクレツィアが執務室で書類に目を通していると、慌ただしくノックの音が響いた。「お嬢様、大変です!」 扉の向こうからリリーの切迫した声がする。その緊迫感に、ルクレツィアは胸騒ぎを覚えた。「入りなさい」 扉を開けて飛び込んできたリリーは、青ざめた顔で一枚の書簡を差し出した。「これが……王宮からの正式な通達です」 王宮の封蝋が押されたそれを受け取り、ルクレツィアはそっと封を切った。視線を走らせた瞬間、思わず喉の奥が固まる。(……やられた) そこに記されていたのは、『アルモンド公爵令嬢ルクレツィアが、聖女ソフィア殿下に対し陰湿な嫌がらせを継続的に行っていた疑いが浮上。証言者複数名による証言が確認されており、事実確認のため速やかに王宮への出頭を命ずる』 という文面だった。「嫌がらせ、ですって……?」 ルクレツィアは低く呟いた。もちろん、そんな事実は一切ない。だが、証言者が「複数名」いると書かれている。(証言者……。つまり、証拠は作られた。周到に、計画的に。) 手の込んだ罠だった。証拠となる物証ではなく、証言。誰かに口裏を合わせさせるだけで、それは容易に成立する。そして「聖女を虐げる悪役令嬢」という筋書きは、世間にも受け入れられやすい。「……誰が動いたの?」「お嬢様……まさか、王太子殿下が……?」 リリーが恐る恐る口にする。だがルクレツィアはゆっくりと首を振った。「王太子殿下本人が、こんな露骨な手は使わないでしょう。でも――殿下を取り巻く誰か、でしょうね。ソフィア様の背後にいる派閥……あるいは、もっと別の誰かが」(私はてっきり、王太子殿下は正式に聖女様を妃に迎えるとともに、穏やかに婚約を解消するつもりだと思っていたのに……まさか、こんな露骨な悪役令嬢の筋書きを使うなんて) そう考えれば、先日のベルントの報告とも繋がる。商会への圧力も、計画の一部だったのだ。ベルントの報告によ
あれから、気付けば丸二年が経っていた。 王太子との婚約破棄まで、いよいよ残りわずか数ヶ月。 ルクレツィアは屋敷のバルコニーから静かに庭を眺めながら、内心で状況を整理していた。(商会の準備は整ったわ。名も顔も出さず、すべては信頼できる商人ベルント様に任せている。あとはこのまま静かに破滅を待つだけ――) 自ら厨房に立つことも、今ではもうない。 若手の新興商人ベルント・レンツと出会ってから、多額の出資を行い、新たにレンツ商会を立ち上げさせた。以後は商会の運営をすべて彼に一任している。 最初の試作品はすでに高い評価を得ており、生産も安定して供給体制が整った。商人たちは着実に取引の幅を広げ、地方貴族の間では「新興の珍味商会」として徐々に名を知られるまでになっている。 だが、その商会がルクレツィア・アルモンド公爵令嬢と繋がっている事実は、いまだ誰の耳にも入っていない。すべては周到に、慎重に、慎重に進めてきたのだ。「お嬢様、今日の予定でございます」 侍女リリーが手帳を差し出す。ルクレツィアは静かに頷いた。「ありがとう、リリー」 予定表には今日の社交行事が記されている。王宮主催の茶会。主賓はもちろん――聖女ソフィア。(ソフィアは……完全に王道ルートに入ったわね) 王宮の公式な行事にソフィアが頻繁に同席するようになって、すでに一年以上が経っていた。今や彼女はすっかり「未来の王太子妃」として周囲の扱いも変わってきている。もちろん、ルクレツィアとアズライルの婚約は未だ正式に解消されていないが、それも時間の問題だろう。 王太子は、ここ最近ルクレツィアにほとんど会おうともしない。公務以外では、必要最低限の形式的な会話のみ。代わりに、隣には常にソフィアの姿があった。(これで、私がソフィアに何かしていれば即婚約破棄になったけれど……今回はそうはいかない。あくまで自然に、殿下の意志で破棄を切り出してもらうのを待つしかないわ) 本来の乙女ゲームなら、悪役令嬢ルクレツィアが聖女に陰湿な嫌がらせを繰り返し、それ