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肩越しの会話

作者: 中岡 始
last update 最終更新日: 2025-08-05 09:55:01

煙草の煙が、夜のガラス窓に滲んでいく。

二人の間には、まだ沈黙が続いていた。

だが、その沈黙は昼間ほど重くはなかった。

湯浅は視線を正面に向けたまま、口を開いた。

「今日、疲れたか?」

声は、淡々としていた。特別な意味を込めたわけでもなく、深く踏み込むわけでもなく、ただ隣にいる相手に投げかけるだけの声だった。

藤並は、すぐには答えなかった。

煙草を唇から離し、煙を細く吐き出す。喉の奥で軽く咳きそうになったが、飲み込んだ。

「まあ、いつも通りです」

少しだけ間を空けて、そう答えた。

その声は、昼間よりも少し低い。営業トーンから外れた、自分でも気づかぬほどの素の声だった。

湯浅は、その声色の変化に気づいていた。

「いつも通り」

その言葉の裏には、「本当は違う」が隠れている。

それは、聞き取った言葉よりも、声の奥にあるものだった。

けれど、湯浅はそれ以上は何も聞かなかった。

あえて詮索しない。あえて沈黙を選ぶ。それが今は正解だと感じた。

湯浅は、視線を窓の外に向けたまま、煙草をくゆらせる。

「俺もそうだ」

小さく、そう返した。

その言葉に、特別な重さはなかった。けれど、藤並の肩越しに落ちたその一言は、不思議と胸に染みた。

「そうですか」

藤並は、また煙を吐き出した。

唇からこぼれる煙は、昼間よりも柔らかい。指先も震えていない。

「湯浅さんも、疲れてるんですね」

それはただの返事だった。けれど、心のどこかで「誰かも疲れている」と思えたことが、少しだけ救いだった。

「営業は、疲れるからな」

湯浅が、また静かに言った。

声には、無理やりな励ましも、同情もなかった。ただ、事実としての言葉だった。

藤並は、目を細めた。煙を見つめながら、胸の奥で何かが溶けていく感覚があった。

「いつも通り」

それが、どれだけ苦しい言葉なのか、自分でも分かっている。

だけど、それを言
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