マヌルは無言のまま、するりと三階へのハシゴ階段を登っていった。
その背を追いかけて、わたしは二階のテラスに駆け出した。 下には、枝の合間に遠い地面がちらつく。ざっと十五メートルはある。おもわず目がくらみ、足がすくんだ。ヒコさんじゃなくてもこの高さには、目が回った。 風が吹いて、頬に髪が巻きつく。 わたしは三階の小屋につながるハシゴを見、その左右をしっかりと掴む。パンプスを段にかける。スカートの裾が風に持ち上がりそうで気が気じゃないが、そんなこと気にしてる場合じゃない。 なんで、よりによってこんな日に、スカートワンピなんかを着てきたか。 後悔は尽きないけれど、なかなか心を開いてくれないと聞いたマヌルさんが、最もプライベートな空間にわたしを招き入れようとしているのだ。 まとめていない髪が風に舞って、何度も顔を覆う。 下を見れば目が眩む。いっそもう登るしかない。しっかりハシゴを掴んで、集中して、一段ずつ足をかけて登る。 ――だって、マヌルが「見せたい」と言ったんだ。 見なきゃダメだ。今、引き返したら、きっと二度目はない。 わたしは目を上げた。 三階の床面につながる開口部が、手が届きそうなところまで近づく。 その瞬間、パンプスの足裏が滑った。短い声が出た。 でもわたしの手首を、しっかと誰かの手が掴んでいた。 見上げると、マヌルの顔がある。 無表情な彼が何も言わず、ただその瞳で「来い」と言っている。 わたしはうなずき、ハシゴを足で押す。 マヌルも腕に力を込め、わたしを引き上げてくれる。 動悸がすごい。そう。それは昨日のことだ。 絵描きの猫男、マヌルさんの家にわたしは行った。 彼はまるで生きてる宝石みたいに綺麗で、見惚れるほどだった。 無愛想なところはあるけど、ヒコとはまた違ったタイプのイケメンだった。 「……いや、顔は問題じゃないんだった」 思わず髪を掻きむしり、ため息をつく。 「そうじゃなくてね、ハルト。問題はね……わたしがマヌルさんの大切な場所を、奪っちゃったってことなの」 ──なんと説明したらいいのだろうか。 今、わたしが住んでいるこの家は、言ってしまえば、ついこの前、魔王の力でここに生えたばかり。 ところが、この家が生えた場所は、マヌルさんが子供のころからずっと絵を描いていた場所だったらしいのだ。 玄関先に腰掛けて、わたしは物言わぬハルトの銅像を見上げた。 「ヒコさんが教えてくれた。帰り道でね……」 幼馴染のマヌルは、同じ絵を、あそこから描いていたと。 だから、あんなに何枚も、同じアングルから描いた湖の絵があったんだ。 ツリーハウスの最上階、緑の樹海から飛び出したアトリエから見た景色を思い浮かべて、わたしはため息をつく。 当然、ハルトの像は、何も答えない。 道路のほうに向かって右手を差し出し、なにか言いたげな口を、うっすら開けたまま、左手をスーツのおしりポケットに差し入れて、何かを取り出そうとしたまま、固まっている。 でも今は、その何も言わなさが、ありがたい。 わたしは地面の小
──翌日。 うちのスライム、アオは珍しく早起きをした。 ………というか、早朝から起き出して、期待からの興奮がおさまらないのか、まだ空は暗いのに裏庭で体操をしていた。 跳んではねて、転げて、湖に飛びこんで、自作の歌をうたって、縁側で居眠りして朝日が昇った。 そして、大小二人分の弁当箱を頭に乗せて、市場へ出かけていった。 もちろん、スライムのあの足の遅さでは、一日かけたって市場にはつけやしない。 けれどもその点、今日は心配ない。 彼は、犬男のなんでも屋、ヒコさんと馬車で出かけていった。 おかげでわたしも今朝は、弁当作りで、普段より早く起きた。 だからか、なんだかまだ眠い…… その上、何もする気がおきてこない。 ずっとスエット姿に、ちょんまげ髪のまま、縁側のテラスでぼんやりと、裏庭の雑草のかじりあとに目を落として、ため息をついている。 まったく、おしゃれしてマヌルさんの森へ出かけた昨日の気合いは、どこへやら…… である。 湖の水面を、ツバメがかすめて飛んでいく。 そんないつもの景色にですら、今日は目をあげられないでいる。 両手で膝に、頬杖をつく。 ヒコさんは、アオとやたらと気が合うらしい。 馬車で楽しそうに出発していった。 もしかして精神年齢が近いのかもしれない。 あるいは、アオのなかにもヒコさんのようなクラフト魂があるのかもしれない。 そう考えると、ちびスライムの将来が楽しみで、笑みがこみあげてくる。 わたしは、顔をこする。 本
マヌルは無言のまま、するりと三階へのハシゴ階段を登っていった。 その背を追いかけて、わたしは二階のテラスに駆け出した。 下には、枝の合間に遠い地面がちらつく。ざっと十五メートルはある。おもわず目がくらみ、足がすくんだ。ヒコさんじゃなくてもこの高さには、目が回った。 風が吹いて、頬に髪が巻きつく。 わたしは三階の小屋につながるハシゴを見、その左右をしっかりと掴む。パンプスを段にかける。スカートの裾が風に持ち上がりそうで気が気じゃないが、そんなこと気にしてる場合じゃない。 なんで、よりによってこんな日に、スカートワンピなんかを着てきたか。 後悔は尽きないけれど、なかなか心を開いてくれないと聞いたマヌルさんが、最もプライベートな空間にわたしを招き入れようとしているのだ。 まとめていない髪が風に舞って、何度も顔を覆う。 下を見れば目が眩む。いっそもう登るしかない。しっかりハシゴを掴んで、集中して、一段ずつ足をかけて登る。 ――だって、マヌルが「見せたい」と言ったんだ。 見なきゃダメだ。今、引き返したら、きっと二度目はない。 わたしは目を上げた。 三階の床面につながる開口部が、手が届きそうなところまで近づく。 その瞬間、パンプスの足裏が滑った。短い声が出た。 でもわたしの手首を、しっかと誰かの手が掴んでいた。 見上げると、マヌルの顔がある。 無表情な彼が何も言わず、ただその瞳で「来い」と言っている。 わたしはうなずき、ハシゴを足で押す。 マヌルも腕に力を込め、わたしを引き上げてくれる。 動悸がすごい。
今度の梯子は縄ではなく、左右も固定してある。 縄梯子の何倍も登りやすい。 二階床の戸口の取っ手に手をかけて、そっと小屋の中に顔を出す。 さっきまでいた一階とは違って、こちらはずっと静かだった。 室内を見回すと、外から差し込む光に照らされるその空間は、ベッドが一台と、小ぶりの本棚、それから遮光カーテンの閉ざされた窓があるだけの、寝室のような雰囲気がある。 テーブルと一対の椅子があった一階と比べると、よりパーソナルでプライベートな雰囲気だ。 目を凝らし、本棚の品揃えを見た。 画集が並んでいる。 でも、今この部屋で一番目を引くのは、それらではなかった。 開け放たれたテラスの間口―― その陽だまりの中に、マヌルの影が長く落ちていたからだ。 わたしはハシゴ階段を登りきり、部屋にあがった。 そして、陽だまりのような沈黙に向かって、語りかけた。 「──どうしたって姿を見せない気なら、それでも構いません」 デートにも関わらず、あの猫男の画家さんは、わたしを避けるように逃げていくだけだ。 「ただ、あなたに聞きたいことがあって、お邪魔したの」 マヌルの影は、わたしの言葉に応えるでもなく、ただ黙って空を見上げた。 風が、小屋を包む葉影を揺らす。 それでも、だんだんわたしにもわかってきたことがある。 この猫男のマヌルという人は、なにかを言う前に、かならず間を置く。 それは思慮深さのあらわれと言っていいかもしれない。 だから、わたしは問いかけた答えが返って来ることを待った。 そして、その間に、ふと思う。
わたしは縄梯子を両手で掴み、樹上の小屋を見上げる。 はしごの先は、小屋床の開口部へと消えている。 不安定なハシゴと、二階建ての屋根ほどの高さに見える入り口までの距離に、つばをのみこんだ。 パンプスで、横木に土踏まずをかけて、体重をかけていくと、ギシギシと縄がきしむ。 固定されていない縄梯子は、両足を乗せただけで大きく揺れる。 ヒコさんが下から押さえていてくれるとはいえ、平屋でいえば軒先ほどの高さには来ている。揺れも加わり、充分に怖い……。 それでも、小屋の床に開いた戸口は、わたしがひとつ手を伸ばすたびに、一歩ずつ近付いてくる。 戸口の向こうに、取っ手が見えた。 そこまで近づき、掴んで、グイッとわたしは体を引き寄せる。 と、小屋の床から顔が出た。 薄暗さに目を慣らしながら、ゆっくりと小屋の中を見回した。 こじんまりとした、小屋の壁際には、キッチンカウンターがみえた。 床の高さから見上げているかたちだから、中央のテーブルと、一対の椅子も脚と裏側が見えている。 逆の壁際には、天井からタラの干物や、香草の束が吊るされている。 キッチンの壁には大小のフライパンや鍋が整然と引っ掛けてあり、どれもきちんと磨かれて、赤銅の輝きを反射している。 お住まいの方は猫さんは、綺麗好きに違いない。 目の高さを床に移しても、埃のひとつ、落ちていない。 と、そのとき。 サッ、っと、わたしの背後を、何かが駆け抜けていった。 「えっ?!」 ベランダの方に視線を走らせる。
ヒコさんの馬車に揺られて、マヌルさんのツリーハウスまで着いた。 わたしはその足もとから、小屋が縦に螺旋を描きながら三つ、空に向かって大木の幹に並んでいる様子をながめた。 「おもしろー……」 ワンピースでこれを登るのは、ちょっとおてんばになる気がするけれど、ワクワクする気持ちが抑えられない。 バッグの中で、チャリンとアプリが鳴る音がした。 森のそこそこ深く。うっそうと茂る木々の中、そのツリーハウスは、さも自分がオオメタセコイアの大木の一部のような顔をしている。 その根元に、ヒコが馬車を停め、上を見上げて声をはった。 「おーい、マヌルー!」 幹は、彼が言うにはオオメタセコイア。魔界最大の針葉樹らしい。 見た限り、大人10人で手をつなぎ合って、やっと抱えきれるかどうかの太さだ。 わたしもその大木を見上げる。 樹冠内側のどの枝も太い。重たげな葉を束のように茂らせている。 だけど、よく目を凝らすと、空を分け合うように枝葉同士があいだをあけて揺れている。 ——そんな枝ぶりに合間に三つ、小屋のお腹が見えている。 よくもまあこんな楽しい建築を思いつくものね、と、つい笑顔になる。 下から順に、螺旋を描きながら縦に並んでいる小屋は、わずかに陽射しをずらし合い、ジグザグな配置と床のかたちをしていて、床面が言わば玄関なのか底蓋のような戸口が開いたまま、ハシゴの階段を飲み込んでいる。 わたしは見上げる首の疲れも忘れ、すっかり見惚れてしまった。 「……ふはは、面白いなあ」 こんな家に住む猫男。しかも画家。 マヌルさんという方に、やっぱり会いにきてよかった。