「騒ぎを起こしに来たわけじゃないわ。ただ、あなたに話したいことがあるだけ」冬城おばあさんは体面を保とうとしながらも、目の前の真奈にはまだどこかおびえている様子があった。「そうですか。それならいいんですけど……次にまた大奥様が会社で騒ぎを起こされるようなら、今度は容赦しませんよ」真奈の冷ややかな一言に、冬城おばあさんは激怒した。「真奈!私はあなたにとっておばあさまにあたるのよ!まさか、私に手を上げようっていうの?」「まさか。手なんて上げませんよ。ただ――大奥様の借用証書は、今も私の手元にありますから。もし強制執行になったら……その金額、すぐに用意できるとは思えませんけど?」「あなた……」冬城おばあさんは怒りで言葉を詰まらせたが、何もできなかった。証文という弱みを真奈に握られている今、彼女にできることは、ただ黙って耐えることだけだった。「どうやら、大奥様もこれ以上騒ぎを大きくしたくないご様子ですね。では、さっき私が言ったこと――よく覚えておいてください。私の限界を、試さないでくださいね」そう言って、真奈は静かにエレベーターの再起動ボタンを押した。冬城おばあさんはどれほど不満があっても、今はもう何も言えなかった。ふたりはそのまま真奈のオフィスへと入った。室内を見回した冬城おばあさんは、じっと眺めたのちに口を開いた。「最上社長は、あなたをずいぶん気に入っているみたいね」「用件をどうぞ」真奈がソファに腰を下ろすと、冬城おばあさんも遠慮なくその正面に腰を下ろし、開口一番に言った。「今日は、あなたに司のためにMグループの内部情報を探ってほしくて来たのよ」「ほう?」それを聞いて、真奈は思わず笑った。「大奥様、どうしてそんなことを?」冬城おばあさんは平然と続けた。「ご存知の通り、最近冬城家はかなりの損失を出してるわ。あなたに言われたあと、私は家の帳簿を調べて、何人かの取締役にも確認したの。株価が大きく下がった原因は、すべてMグループが裏で手を回したせいよ。あなたの上司の最上道央なんてろくでもない男よ。表立っては司に敵わないから、陰で卑怯な真似をしてる」「やめてください」真奈ははっきりとした口調で冬城おばあさんの言葉を遮った。「余計な話はもういいです。私にどうしてほしいのか、はっきりおっしゃってください」「あなたと
真奈は机の書類を軽く整理しながら言った。「最近の私の仕事は、あなたに少し多めに見ておいてもらうことになるわ。特に難しいことはないから、いつも通りで構わない。商業面の判断は黒澤と伊藤に相談して。いちばん大事なのは、出雲をしっかり見張っておくこと。出雲家の動きはすべて、私に報告して」「かしこまりました」大塚がちょうど仕事の報告を終えたところで、オフィスの電話が鳴った。真奈が受話器を取ると、受付の声が響いてきた。「社長、冬城家の大奥様がどうしてもお会いになりたいとおっしゃっていて、私たちでは止められませんでした」「……何の用か、言ってた?」「それが……特にはおっしゃってませんでした」「上に上げないで。私がすぐに下りるわ」「かしこまりました」受付が電話を切ったあと、目の前でキラキラと宝石をまとった冬城おばあさんに向かって、丁寧にお茶を淹れた。「大奥様、社長はすぐにお越しになるそうです」「私はあの子の姑だよ。迎えに来るのは当然だろう」冬城おばあさんはゆったりと腰かけ、湯飲みに口をつけたが、一口飲んだところで眉をしかめた。「これはいったい何の茶だい?こんな質の悪いお茶を、Mグループはお客様に平気で出してるのかい?」冬城おばあさんの意図的な嫌味に、受付は無理に笑みを浮かべただけで、それ以上何も言えなかった。ちょうどその時、真奈が階段を降りてきた。清潔感のあるスタイリッシュなビジネススーツに身を包み、その一歩一歩が、自信と実力を兼ね備えた女性エリートそのものだった。冬城おばあさんは、真奈を頭からつま先まで一瞥すると、その目には露骨な不満が浮かんでいた。「遅すぎるわよ。うちの冬城家のしきたりでは、私が着く前に、玄関先で出迎えているのが孫嫁というものよ」その口調には、遠慮も配慮も一切なかった。だが、真奈も遠慮しなかった。無言で冬城おばあさんの手から湯飲みを取り上げ、受付の女性に差し出して言った。「大奥様は、こういうお茶がお口に合わないそうです。これからいらっしゃっても、お茶はお出ししなくて大丈夫です」「かしこまりました」その言葉を聞いて、冬城おばあさんは眉をひそめた。「真奈、それはどういうつもりかしら?」「別に深い意味はありませんよ。今日は突然いらっしゃったので、事前に何のご連絡もありませんでしたし。もしかして
翌朝、Mグループのオフィスで、大塚が契約書を真奈に手渡しながら報告した。「社長のご指示通り、取引のある協力企業はすべて了承しました。彼らから出雲に連絡を入れ、出雲家と契約したいと申し出る予定です。その代わりに、こちらからも十分な報酬をお渡しします」真奈は頷き、協力企業がすでに署名した契約書に目を通しながら、ふっと微笑んだ。「彼らが直接出雲に連絡を取るのは、さすがにあからさま過ぎるわ。出雲家に少しだけ情報を流して、向こうから接触してくるように仕向けて。それでいて、きっちり高値を吹っかけてやればいい。他のことは、彼らが気にする必要はないわ」「でも……出雲が本当にその罠にかかるでしょうか?」「かかるわよ」真奈は淡々と答えた。「理性を失って、軽んじられた人間ほど勝利を渇望するもの。一度火がつけば、後先のことなんて考えずに、金も労力も注ぎ込むようになるわ」その言葉に、大塚も納得した様子で頷いた。「それと、もう一件ございます」「なに?」真奈が茶杯を手に取ってひと口飲もうとしたそのとき、大塚が口を開いた。「今朝、佐藤さんの秘書がいらして、社長のデビューの件についてお伺いを立てられまして……」「プッ——!」真奈はお茶を思いきり噴き出した。大塚はきょとんとした表情で尋ねた。「社長?」「だ、大丈夫!……その話、続けて」「はい。佐藤さんがおっしゃるには、以前お二人の間で契約を交わされているとのことで、社長に一度佐藤プロへ足を運んでいただきたいそうです。グループでのデビューは不要で、ソロで構わないとのことでした。収益は佐藤プロと七対三で分ける形になるそうです」「……まだ、費用の話をするつもり?」大塚は気まずそうに口をすぼめた。「今朝、佐藤さんの秘書がそう仰っておりました」真奈は眉間を押さえて頭を抱えるようにしながら、小さくつぶやいた。「……吸血鬼め……」「何かおっしゃいましたか?」「何でもない」真奈は決して、佐藤茂の悪口を陰で言うような真似はできなかった。彼女はもう、あのデビューの話はとっくに立ち消えになったものと思っていた。だが佐藤茂は、今もなおそれを覚えていたのだ。大塚も続けて言った。「でも社長、実はデビューって悪くないと思うんです。まだ社長の話題性も健在ですし、Mグループにとっても大きな戦力になるかと……」
「私がわざと彼を怒らせているのが、わかった?」「非常に明白です」大塚は真奈がどんな人物かをよく知っていた。理由もなく、相手をわざわざ刺激するようなことをする人間ではない。だが、さっきの言葉はどれも的確に相手の急所を突いていた。出雲は表面上は冷静を装っていたが、内心ではとっくに怒り心頭だったに違いない。「あなたには私がわざと怒らせてるってわかるのに、本人は気づかない」真奈は唇をわずかに持ち上げた。「出雲は八雲を引きずり下ろしたい。でも私と話がつかないなら、他を当たるしかない。だからこっちも一発かまして、焦らせる必要があるのよ」大塚は眉をひそめた。「社長は、彼を罠にはめようとしてるんですか?」「明日、うちの人間を向かわせて。出雲みたいに自尊心の強いタイプは、こんな屈辱には耐えられないはず。そのうち、こっちに対抗するために、同じ目的のやつを探し始めるわよ」「彼はリスクを考えないのですか?」「リスクについては、さっき全部伝えたわ。出雲が本当にリスクを気にするなら、臨城をあんなふうに放っておくわけがない。今の彼は、海城の勢力拡大と八雲を引きずり下ろすことに全神経を注いでいて、ほかのことには手が回らないのよ」おそらく、出雲家の莫大な財産が、出雲に過剰な自信を持たせているのだろう。たとえ赤字になる取引をしたとしても、出雲家には大した打撃にはならない――彼はそう思っているに違いない。だが、彼は忘れている。商売でいちばんやってはいけないのは、相手を侮ることだ。今のように目先しか見えないやり方では、遅かれ早かれ大きな失敗を招く。――ガンッ!個室の中で、出雲はテーブルの上のものを勢いよく払いのけた。その音を聞きつけて、家村が中に入ってくると、すぐに言葉を発した。「出雲総裁、これは……何があったんですか?」「すぐに全リソースを動員しろ!いくらかかろうが、どれだけの広報を投入しようが構わない。一ヶ月以内に、八雲をテレビから完全に消し去れ!」出雲の目が険しく光るのを見て、家村はおそるおそる口を開いた。「出雲総裁、瀬川さんとのお話がうまくいかなかったのでしょうか?改めて、もう一度お話しする機会を設けては……」「話し合い?あいつは最初から交渉するつもりなんてなかった!」先ほどの真奈の冷たい視線が脳裏に甦るたび、出雲の胸中には怒りの炎が激し
真奈が黙っているのを見て、出雲は自分の脅しが効いたと思ったのか、口調を和らげて言った。「よく考えて、改めて返事をもらえませんか」出雲が赤ワインを飲もうとしたそのとき、真奈が淡々と口を開いた。「あなたにはなさらないでしょう」出雲の動きが止まり、その視線が真奈に向けられた。目には危うい光が宿っていた。「今、何とおっしゃいました?」真奈はふっと笑い、もう一度はっきりと言った。「あなたにはなさらないと申し上げました」出雲の目つきがさらに鋭くなる中、真奈は意に介さず言葉を続けた。「もし本当にMグループと対立なさるおつもりでしたら、とっくに手を打たれていたはずです。こんなふうに私と交渉なさることはないでしょう。つまり、相手はMグループだけではございません」「ほう?」「私はMグループの受益者の一人ですし、正式に冬城家の夫人でもあります。私に敵対なさるということは、冬城家に敵対なさるということです。それだけではなく、Mグループの最大の戦略パートナーは佐藤プロです。そして私は黒澤とも親交があります。あなたが動かれるとなれば、黒澤家とも争うことになるでしょう。ちょうど黒澤家と伊藤家は特別なご関係ですし、幸江家は黒澤家のご親族。こうして関係が複雑に絡んでおります……まあ、出雲総裁は海城の名門すべてを敵に回されるおつもりなのですね?」ここまで聞いた出雲は、グラスを握る指の関節が白くなっていた。その様子を見て、真奈はふっと笑みを浮かべ、静かに口を開いた。「出雲総裁、『地元の蛇には龍も勝てぬ』ということわざをご存じでしょう。ここは臨城ではありません。出雲総裁のやり方は、私にはまったく脅威になりませんわ。むしろ、私から一つ忠告を差し上げます。ご自身に何の害もない人間を潰すために、人もリソースも無駄にされるのはおやめになった方がよろしいかと。それでは人を傷つけるだけでなく、ご自身にも害を及ぼします。何一つ得にはなりませんわ」「もういい!」出雲は真奈の言葉を遮った。Mグループと敵対することがどういう意味を持つか、彼が知らぬはずはなかった。だが、それでも八雲が人々の注目を浴びるスターになることだけは、絶対に許すことができなかった。絶対に、だ。「瀬川さん、あなたにはただお答えいただきたい。承諾されますか、されませんか」出雲の詰問に、真奈は眉を少し上げて
「出雲家に連絡して、『了解した。今夜8時、ロイヤルホテルで会おう』と伝えて」「かしこまりました」その夜、ロイヤルホテルでは早くから宴席の準備が整っていた。真奈は黒のロングドレスを纏い、耳元には銀色のダイヤモンドのフリンジを揺らしている。黒く長い髪は一目で人を惹きつけ、見た者を思わず魅了してしまうほどだった。真奈より先に到着していた出雲も、彼女を見た瞬間、一瞬息を呑んだ。真奈は確かに美しかった。特にその瞳は、生まれつき人を惑わすような力を持っているようだった。臨城には美人が多く、彼の周りにも多くの美女がいたが、真奈ほどの存在は他にいなかった。出雲が我に返った時、真奈は既に彼の正面に腰を下ろしていた。その姿を見て、出雲はようやく今回の面会の目的を思い出した。真奈が微笑みかける。「出雲総裁、海城でのご生活はそろそろ慣れましたでしょうか?」「ここにいる人間が付き合いにくい以外は、まあ慣れましたよ」出雲の言葉には明らかな棘があった。真奈は涼やかな笑みを浮かべた。「実はここにいる人たちは皆付き合いやすいんですよ。ただ、相手にもよりますけど」「瀬川さんのような聡明な方なら、無駄な前置きは要らないでしょう」「まあ?出雲総裁、どのようなご用件でしょう?」「共にビジネスの世界に生きる者同士。さっそく本題に入らせていただきます」「本題……」真奈は考え込む様子で、その後こう言った。「私はあくまで一従業員。最上社長に直接お話しされた方が……」「最上社長と直接会えるなら、わざわざ瀬川さんを呼び出す必要もなかったのですが」元来出雲は女性実業家を軽視する傾向にあったが、真奈だけは別格扱いだった。彼女自身の能力というより、彼女を取り巻く男たちの存在が出雲に警戒心を抱かせたのである。「では出雲総裁、お手数ですが取引内容の概要を。最上社長に伝えておきますわ」「八雲を消してください。芸能界から完全にな」その言葉には、一切の妥協を許さぬ冷たさがあった。真奈は静かにグラスを回しながら言った。「八雲は今後の看板タレント候補ですのに……芸能界から消せなんて、そんな無茶なご要望では……」出雲の声に微かな傲慢が滲んだ。「この世に値段のつかないものなどありません。数字を言ってみてください。僕に払えぬ代金はないでしょう」臨城の出雲家の名声