しかし、喜びや幸せの裏には常に深い孤独感がつきまとっていた。
別荘には家政婦や執事もいて日々の生活に不自由はない。家政婦や執事は、みな優しく小さなことでも気がつき親切にしてくれる。しかし、立場上、心から思ったことを対話出来る関係ではない。
親しい友人もいなければ、連絡を取れる相手もいない。そんな時、世間から隔絶され『私』という存在が消えて透明になってしまったような気分だった。
東京での華やかな生活は、遠い昔の夢のようだ。あの頃の私は友人に囲まれ、最新のファッションに身を包み、レストランやカフェでランチをしたり、ショッピングを楽しんでいた。パーティーや華やかな場にもドレスアップして顔を出して多くの人と交流をしていた。夫である瑛斗とも幸せな日々を送り、あの時の華やかな生活を送っていた。まさか、自分がこんな形で社会から切り離されることになるとは夢にも思わなかった。
夜になると孤独感はさらに深まる。
慶と碧が寝息を立てる横で、私は一人眠れずに暗闇の中で天井を見つめる。
そして突然、恐怖と苦悩を味わった日々の光景がフラッシュバックする。瑛斗に突きつけられた離婚協議書。私を嘲るように笑っていた玲の顔。そして、私の命を狙っているかのように猛スピードで過ぎ去る車。DNA鑑定の結果を言い渡された時の事務的で冷たい女性の声。
体中に恐怖が蘇り心臓がバクバクと音を立てる。目を閉じても眠ることが出来ず、意識がぼやけてくる中で朝の日の光を感じて身体を起こす日々だった。
「あ、これ華が好きだった花だ。」車で移動中、信号待ちをしているとフラワーギフトを取り扱っている花屋が目に留まった。華はダリアの花が好きでよくリビングに飾っていた。華には言わなかったが、ダリアの優しい色合いと華やかで気品ある佇まいが華にピッタリだと思っていた。「少し止めてくれないか。すぐに戻ってくる」運転手に車を止めるように指示して、花屋に向かいダリアの花束を作ってもらった。「おかえりなさいませ、瑛斗お坊ちゃま。あら、綺麗なお花ですこと。」「ああ、取引先からもらってね。生けて玄関に飾ってくれないか」「かしこまりました」買ってきた花束を家政婦に渡し、玄関に飾ってもらうことにした。毎日通るこの玄関で少しでも華の存在を感じたかった。★「あら、この花……。」「玲さま、おはようございます。綺麗ですよね。昨夜、瑛斗おぼっちゃまが持って帰ってきて下ったんですよ」「瑛斗が、ねえ」
そしてしばらくしてから社員たちが大量離職していった。特に女性社員の離職率が高く、中には子どもが産まれ家を建てたばかりで金銭的にも働き盛りの女性や管理職になったばかりの30-40代の男性社員が会社を離れていくこともあった。次々に辞めていくのには理由があると思い社内全体を注意深く見るようにした。秘書に頼み、離職していく社員の部門や年齢・性別などを一覧でまとめてもらうと離職者にある傾向があることが分かった。それは普段の業務で副社長、つまり玲と直接かかわることのある部門の責任者や担当者が多いということだった。内部調査の結果、玲は気に入らない社員には陰湿な嫌がらせを行い些細なミスでも厳しく叱責した。玲の横暴な振る舞いに多くの社員が疲弊している状態だった。すぐに玲を呼び出して状況の確認を行った。「玲、ここ数年社内の離職率が急に上がったんだが何か君に心当たりはないか?」「さあ、数年でしょ。どんなにいい会社でも人は辞めていくわ。それぞれの事情があるし、私が関与できることではないもの。」「家庭の事情ならそうだな。しかし、俺は今、退職理由が社内の人間関係やコンプライアンスの可能性はないか?と聞いている」「何が言いたいって言うの?私は副社長よ。社員の相談窓口じゃない。」「そうか、それならもういい。ただ君は『女性が活躍する社会』とホワイトカラーのPRのために副社長にさせてくれと父に言ったはずだ。だが、最近は女性の離職率が多くてね。個人的な事情は介入できないが、それでは父との約束を果たせないどころか逆の結果になっていることが気になっただけだ」「……ッ!分かったわ。注意してみてみる」そう言うと、玲は明らかに不機嫌そうにカツカツとヒールの音を立てて乱暴に扉をしめて出ていってしまった。
玲は、俺の両親の前で「華が裏切り別の男の子どもを身ごもっていたこと」「本当は一条家の跡取りを望んでいなかったこと」と言いふらした。そして、「自分はそんなことは絶対にしない。瑛斗さんの幸せだけを考える」と涙ながらに語り聞かせていた。その言葉に、両親は華への不信感を決定的なものにしていったようだった。俺自身も玲の言葉を信じていたからこそ、華を深く傷つけ追い出してしまった。しかし、華がいなくなり玲が俺の会社の副社長に就任してからすぐに行った空の左遷が未だに忘れられない。空とはビジネスパートナーでもあり親友だった。公私混同と言われれば否定は出来ないが、場をわきまえビジネスとプライベートは分けていた。そして、そんなお互いを知った仲だからこそ立場を気にせず意見を言い合えた。今の会社の成長は空の力もあってこそだった。「瑛斗、会社は利益を追求するものだから、利益確保が難しいなら社員を切り捨てましょう。」「待ってくれ。人件費は確かに割合は高いが人材があってこそだ。社員がいなくなったら売上自体があがらなくなる。それに削る部分は他にもたくさんあるはずだ。」「それなら社員はこのままにして派遣を切ればいい。中間手数料が無駄だわ。」そんなことも平然と言うようになっていた。玲の横暴な発言が繰り返されるたび、俺は次第に彼女の人間性を疑い始めた。俺の知っている玲は、さりげない気遣いの出来て相手のことを思いやる子だったはずだ。それが今では利益のためなら社員を切
「はあ?今月の営業利益、全然達成してないじゃない。何やってたの、あんたたち!」一条グループの副社長室に、玲の甲高い声が響き渡った。デスクの向こうで報告書を抱えた男性社員が怯えたように肩をすくめる。「す、すみません……予算が昨年比の二倍に上がったことと、貿易問題で輸入が遅れている関係で商品が届かなくて……売上を上げようにも納品できるものがない状態でして……」「そこをどうにかするのがあなたたちの仕事でしょ。商品がこないなら、あるものの単価引き上げるとか、完了前の案件の単価見直しとか、何としても達成させなさいよ!」玲は苛立ちを隠さず高いヒールで床を苛立たしげに鳴らした。艶やかな髪が揺れ、その美貌の裏に潜む冷酷さが顕わになる。「こちらも値上げはしたのですが、過剰な値上げは今後の取引にも影響しますし……」「甘ったれたこと言ってるんじゃないわよ、この役立たずが!」玲の罵声が再び部屋に響き渡る。男性社員は、ただ頭を下げるしかなかった。華がいなくなってからすでに2年の月日が流れていた。玲は瑛斗と結婚し一条家の人間となっていた。そして、その影響力は瑛斗の会社にまで及んでいた。玲は今や一条グループの副社長の座についていたのだ。
辞令:相原 空 N子会社役員 に任命する時期外れの突然の辞令に、社内は騒然となった。「玲!?これはどういうことだ。」俺は、玲のいる副社長室の扉をノックもせずに勢いよく開けて中に入った。「ここは会社よ。社長であるあなたも社員に示しをつけるためにノックくらいして欲しいわ。」「……すまない。それにしても、あの辞令は何だ。俺は聞いていないぞ」「あら、人事の決定権は社長じゃなくても出来るんでしょ?」「そうだが、なんで空が子会社の役員なんだ?空の実績と今の状況からすれば異動なんておかしいじゃないか!」ビジネスパートナーでもあった空に急な辞令が出たのは、玲が副社長になってすぐのことだった。役員と言っても会社の規模はグループ内でも小さく事実上の左遷だった。「そうやって昔からの親友をかばうのは良くないと思ったの。公私混同を控えるためにも空くんとは離れた方がいいと思って。」玲が、空に対していい印象を持っていないのは明らかだった。DNA鑑定の時も玲が
華が長野の別荘で双子との新しい生活を始める一方で、東京の一条邸では、玲の存在感が日増しに強まっていた。華が去った後、正式に玲と結婚し玲は一条家の人間となった。驚くことに玲は俺と二人で新しい家を構えることはせず、両親たちの屋敷で一緒に暮らすことを選んだのだ。玲は、一条グループの現会長である俺の父に献身的に尽くした。朝は誰よりも早く起きて家政婦たちと一緒に朝食の準備を手伝っていたし、夜は遅くまで両親の話し相手になっていた。いつも笑顔を絶やさず細やかな気配りをする玲は、あっという間に両親の信頼を勝ち取っていった。「玲さん、あなたが来てくれて本当に助かるわ」母が心底から安堵したように玲に話しかける声が聞こえてきた。「お義母様、ありがとうございます。私は瑛斗さんや一条家の皆さまのお役に立てるように、これからも頑張ります」玲の返答はいつも完璧だった。その巧妙な立ち回りにより、父も母もすっかり玲を信頼しきっていた。両親は、俺と華の関係が破綻した後も一条家と神宮寺家の関係が維持できているのは、玲のおかげだと本気で信じ込んでいた。玲の献身的な行動が両親の心を完全に捉えていた。父たちの信頼を得たところで玲は次の手を打った。