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雪舞い散る頃、愛は終わりを告げる

雪舞い散る頃、愛は終わりを告げる

作家:  雲居の月完了
言語: Japanese
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望月和也(もちずき かずや)と神崎千幸(かんざき ちゆき)は、かつてX市の人々から羨望の眼差しで見られるお似合いのカップルだった。婚約も済ませ、誰もが二人の結婚は間近だと思っていた。 しかし、6年の歳月が流れ、婚約は延期に次ぐ延期。そして、千幸を待ち受けていたのは、和也が別の女性を連れて帰国するという現実に加え、その女性のために自分を傷つけ続ける和也の姿だけだった。 祖母が危篤になり、千幸は仕方なく、急いで結婚することにした。 市役所で婚姻届を提出し、外に出た時、千幸はふと思った。 結婚って、こんなに簡単なことだったんだ……相手が和也じゃない限りは。

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第1話

第1話

人と結婚するのに、たった10分しかかからないなんて。

市役所で婚姻届を提出し、外に出た時、神崎千幸(かんざき ちゆき)はふと思った。

本当に結婚してしまった。しかも相手は婚約者だった望月和也(もちずき かずや)ではなく、知り合って1週間も経たない男の人とだった。

「すまない、神崎先生。今回の任務は急だったんだ。俺たちの結婚式は1ヶ月後でも大丈夫かな?」

隣から聞こえてきた低く謝罪の色を含んだ声に、千幸は彼へと視線を移した。

夕日に照らされ、男の端正な顔立ちはより一層鋭く見え、褐色の肌はより男らしさを際立たせていた。

背筋は真っすぐ、静かなときは落ち着き払っているが、ひとたび動けばまるで鋭い刃が鞘から抜けるように、その勢いは誰にも止められない。これぞ軍人の姿だ。

これが自分の新婚の夫、高橋彰(たかばし あきら)だ。

「大丈夫よ」千幸は理解を示すように頷いた。「任務を優先して」

彰は少し微笑み、千幸を軽く抱きしめた。「じゃあ、約束通り1ヶ月後にH市で結婚式を挙げよう。任務が終わったら迎えに行くからな」

それはほんの一瞬の抱擁だった。千幸が反応するまもなく、彼は早足で去っていった。

1分ほどかけて結婚した事実を受け止め、千幸は、迷うことなくタクシーで帰宅した。

家には相変わらず誰もいない。千幸は特に気にも留めず、寝室に入って荷造りを始めた。

もともと和也とは幼い頃から婚約関係にあったため、彼の家に住んでいるのも不自然ではなかった。しかし、今は他の人と結婚したのだから、早くここを出るべきだろう。

スーツケースを準備したその時、玄関から声が聞こえた。

「どこへ行くんだ?」

千幸が顔を上げると、半月ぶりに帰宅した和也が玄関に立っていた。スーツの上着を腕にかけ、眉間を揉むその整った顔には疲労の色が濃く出ている。

「千幸、俺は最近忙しいんだ。家出みたいな馬鹿げた真似はやめてくれ。相手にする暇はない」

まただ。いつも自分と話をする時は不愉快さを全面に出してくる。まるで時間を割いて自分を慰めてやっているとでも言うように。

本当に出て行くというのに、彼は自分がふざけていると思っている。

千幸は多くを説明する気になれず、目を伏せながら服を畳んだ。「病院からB市への出張を頼まれたから、その準備をしているの」

自分が誤解していたことに気づき、和也は眉間を揉んでいた手を少し止めた。表情が少し和らぎ、彼は言った。「B市はここより寒いから、厚着をするようにな」

「ええ」

クローゼットで服を探す千幸を見て、和也は言おうかどうしようか迷ったが、やはり口を開いた。「千幸、絵里と茜ちゃんをここに呼び寄せようと思っている。彼女たちはH国に頼る人もいないし、それに俺には恩があるんだ……」

最後まで言わせず、千幸は振り返って彼の言葉を遮った。「いいわよ。呼んでも構わない」

自分はもうすぐここを出て行くのだ。この家に誰が住もう関係ないし、もう関わりたくもない。

佐藤絵里(さとう えり)と佐藤茜(さとう あかね)親子は、和也の命の恩人だった。それどころか望月グループ全体にとっても恩人と言える存在なのだ。

半年前、和也はA国に出張した際に、不幸にもテロ攻撃に巻き込まれ、行方が分からなくなってしまった。

そして1ヶ月前、和也の祖母の望月美香(もちずき みか)の70歳の誕生日祝いに、彼は突然姿を現し、その時、一緒に現れたのが絵里親子だった。

X市の名家が一堂に会したその日、自分の婚約者は見知らぬ女性の腰を抱き、皆に彼女を改って正式に紹介したのだ。

その日、未来の望月家の嫁である自分は、X市中の笑いものになった。

その後、和也は千幸に説明した。絵里に対しては、彼女が勇気と機転を利かせ自分を救ってくれた上に、会社の機密文書を守ってくれたことへの感謝の気持ちしかない、と。

でも、彼が絵里を見る目は、決して純粋な感謝の気持ちだけではない。そこには紛れもない愛情が込められていたことを、千幸ははっきりと見ていた。

以前なら、雌ライオンのように自分の縄張りを守るために、絵里がここに来るのを阻止しただろう。

でも、今はもうそんなことはしない。

和也は千幸が同意するとは全く予想しておらず、目にわずかな驚きを浮かべた。

彼女の譲歩に少し喜ぶとともに、和也はより優しい態度で言った。「千幸、安心しろ。絵里がH国に慣れて仕事を見つけたら、すぐにここから出ていくから」

千幸は絵里のことは特に気にならず、話を変えた。「私たちの婚約は……」

しかし、和也はその話を聞きたがらず、言葉を遮った。「最近は会社が忙しいんだ。結婚のことはまた今度話そう」

千幸は説明しようとした。「私が言いたいのは――」

しかし、言い終わる前に和也のポケットの電話が鳴り響いた。電話に出た瞬間、彼の目は優しくなった。

「絵里、どうした?茜ちゃんが俺に会いたがっているのか。わかった、すぐに行くよ」

そう言って彼は急いで外へ向かった。玄関に着いた時、ようやく千幸のことを思い出したかのように、一言言い残した。

「千幸、明日までに客間を片付けておいてくれ。絵里たちが引っ越してくる」

そして、玄関のドアがカチッと音を立てて閉まり、部屋の静寂と千幸を閉じ込めた。

千幸は目を伏せ、引っ込め忘れた手を見つめると、口元を歪ませた。

「私が言いたかったのは、結婚のことじゃなくて、婚約破棄のことだったのに」

一体いつから、和也は自分の話を聞いてくれなくなったのだろう。

彼はいつもイラついた目で自分を見て、自分と話すことさえ嫌がっているようだった。

昔の彼は、こんな風じゃなかったのに……
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コメント

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蘇枋美郷
ちゃんと結婚式は終わったのよね?クズ和也はあのまま大人しく引き下がったのか?あの後の話も読みたかった〜!!
2025-07-07 22:12:23
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27 チャプター
第1話
人と結婚するのに、たった10分しかかからないなんて。市役所で婚姻届を提出し、外に出た時、神崎千幸(かんざき ちゆき)はふと思った。本当に結婚してしまった。しかも相手は婚約者だった望月和也(もちずき かずや)ではなく、知り合って1週間も経たない男の人とだった。「すまない、神崎先生。今回の任務は急だったんだ。俺たちの結婚式は1ヶ月後でも大丈夫かな?」隣から聞こえてきた低く謝罪の色を含んだ声に、千幸は彼へと視線を移した。夕日に照らされ、男の端正な顔立ちはより一層鋭く見え、褐色の肌はより男らしさを際立たせていた。背筋は真っすぐ、静かなときは落ち着き払っているが、ひとたび動けばまるで鋭い刃が鞘から抜けるように、その勢いは誰にも止められない。これぞ軍人の姿だ。これが自分の新婚の夫、高橋彰(たかばし あきら)だ。「大丈夫よ」千幸は理解を示すように頷いた。「任務を優先して」彰は少し微笑み、千幸を軽く抱きしめた。「じゃあ、約束通り1ヶ月後にH市で結婚式を挙げよう。任務が終わったら迎えに行くからな」それはほんの一瞬の抱擁だった。千幸が反応するまもなく、彼は早足で去っていった。1分ほどかけて結婚した事実を受け止め、千幸は、迷うことなくタクシーで帰宅した。家には相変わらず誰もいない。千幸は特に気にも留めず、寝室に入って荷造りを始めた。もともと和也とは幼い頃から婚約関係にあったため、彼の家に住んでいるのも不自然ではなかった。しかし、今は他の人と結婚したのだから、早くここを出るべきだろう。スーツケースを準備したその時、玄関から声が聞こえた。「どこへ行くんだ?」千幸が顔を上げると、半月ぶりに帰宅した和也が玄関に立っていた。スーツの上着を腕にかけ、眉間を揉むその整った顔には疲労の色が濃く出ている。「千幸、俺は最近忙しいんだ。家出みたいな馬鹿げた真似はやめてくれ。相手にする暇はない」まただ。いつも自分と話をする時は不愉快さを全面に出してくる。まるで時間を割いて自分を慰めてやっているとでも言うように。本当に出て行くというのに、彼は自分がふざけていると思っている。千幸は多くを説明する気になれず、目を伏せながら服を畳んだ。「病院からB市への出張を頼まれたから、その準備をしているの」自分が誤解していたことに気づき、和也は眉間
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第2話
神崎家と望月家は代々親交があり、千幸と和也は幼馴染だった。二人は婚約もしており、X市の名家の中ではお似合いのカップルとして評判だった。一緒に育ち、互いに気持ちを言葉にしたことは一度もなかったが、彼女が振り返ると、彼はいつもそこにいた。彼は守護神のように彼女を守り、支えていた。彼女が結婚できる年齢になれば、二人は当然のように結婚するはずだった。しかし、千幸が16歳の時、両親が交通事故で亡くなり、事態は一変した。神崎家の財産は、恥知らずな伯父伯母に根こそぎ持っていかれ、さらには当然のように神崎家の別荘に住み着き、彼女を使用人のように扱い、虐待さえした。しかし、そんなどん底の中、和也が彼女を守ってくれ、家に引き取り面倒を見てくれたおかげで、彼女は無事に学校を卒業し、医師になることができた。大学卒業後、千幸は和也と本当に結婚し、彼との家庭を持ちたいと思っていた。しかし、彼が家業を継いでからはますます忙しくなり、いつも「もう少し待ってくれ」と言われていた。彼女は6年間待ち続けた。最初の頃は和也も忍耐強く優しい態度で接していてくれたのだが、結婚の話になると次第に眉をひそめるようになった。千幸は彼が疲れているのだと思い、自分はもっと大人しくして、彼にあまりプレッシャーをかけないようにすべきだと考えた。彼に愛されているなら、もう少し待つことくらい、どうってことない。しかし絵里の出現によって、千幸の幻想はすべて打ち砕かれた。和也という人は、生活の些細なことまで一つひとつ気にかけ、煩わしさなど気にも留めない人だった。そして毎日欠かさず、相手の暮らしぶりを尋ねては、ほんの少しの無理さえもさせまいと思える人だったのだ。和也はこんなこと、千幸には一度もしてくれなかった。突然の着信音でハッと我に返り、急に胸が締め付けられるように痛んだ。千幸は天井を見上げ、涙をこぼさないようにした。「神崎主任、救急で肝血管腫破裂の患者が運び込まれました。手術経験のある医師は今、全て手術中なので、もし手が空いていたら、引き受けていただけますか?」手術室からの電話だった。千幸はすぐに立ち上がった。「準備をお願いします。すぐに向かいます」病院に着いたのは夜の9時だった。患者の容態が緊急を要するため、千幸はすぐに半肝切除手術を行った。そして、手術室
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第3話
「茜、何をしているの?!」少女の手から額縁を奪い取った。美しい油絵は、黒のマジックで塗り潰されていた。千幸の目の前は真っ暗になり、手の震えが止まらなかった……これは、亡くなった母の唯一の形見だった。長い間、自分を支えてくれたこの絵が、まさかこんな風に壊されてしまうなんて。千幸は怒りでどうにかなりそうになり、隣の茜を睨みつけた。しかし、彼女が何かを問いただすよりも先に、少女は泣き叫び始めた。「うわぁぁぁん……神崎おばさん、怖いよ!ママ、早く来て。神崎おばさんが私を叩こうとしてる!怖いよ!」次の瞬間、絵里が駆け込んできて、娘を抱きしめなだめた。「どうしたの、茜?」少しの間娘をあやした後、彼女はようやく背後にいる千幸に気づき、嫌味ったらしく言った。「神崎先生、茜はまだ子供よ。何か悪いことをしたり、何かを壊したりしても、私が弁償するから。そんなに怒るなんて大人げないわ」絵里はA国籍のH国人で、金色のウェーブヘアを揺らし、華やかな顔立ちをしていた。彼女は心から謝罪するつもりはないらしく、挑発的な視線を向けてきた。千幸のこめかみがズキズキと痛んだ。額縁を持ち上げ、鋭く問い詰めた。「誰の許可を得て、私の部屋に入って、私の物を勝手に触ったわけ?弁償するですって?一体どうやって弁償してくれるっていうの!」茜は絵里の後ろに隠れ、まるで飼い主に守られた子犬のように、不服そうに吠えた。「ただの下手くそな絵じゃない!望月おじさんに弁償してもらえばいいでしょ!ケチな意地悪女!」千幸は目を真っ赤にして、茜を叱ろうと手を伸ばした。絵里はちらりと横目を向け、眉をひそめると、自分の娘を強く押した。娘はナイトテーブルに頭をぶつけた。「ああ!ママ、痛い!血が出てる!」幼い悲鳴が響き渡った。茜は床に座り込み、泣き止まなかった。額には大きな傷ができ、血が頬を伝って流れ落ちて、かなりひどい状態に見えた。絵里はすぐに娘を抱き上げ、千幸に言った。「神崎先生、たとえ茜があなたを怒らせたとしても、こんな小さな子供に手を上げるなんて酷いじゃない?私が謝るから」千幸は、絵里が娘を押したのをはっきりと見ていたため、彼女の言葉に眉をひそめた。一体何を企んでいるのか分からなかった。しかし次の瞬間、千幸は理解した。「茜ちゃん!」和也が急いで外から駆け込んで
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第4話
その言葉は鋭利な刃物のように千幸の心臓に突き刺さり、彼女の体を大きく揺らした。部外者?こんなに長い間、自分は彼にとってただの部外者だったというの?本当に馬鹿げている。絵里は和也の言葉を聞いて内心喜んだが、顔には心配そうな表情を浮かべながら言った。「部屋のことは急がないけど、茜の傷がひどいから、和也、病院に連れて行って手当してもらえないかしら?」和也は何も言わず、すぐに茜を抱き上げ、彼らは外へ出ようとした。千幸は彼を呼び止め、無表情で言った。「和也、私たちの婚約は破棄しよう」和也は彼女の言葉を全く真に受けることもなく、ただ駆け引きをしていると思い、振り返りもせずに言った。「もういい、くだらない真似はやめて、家で反省してろ!」そう言うと、和也は絵里親子を連れて急いで出て行った。ドアが閉まった瞬間、千幸の全身から力が抜けた。彼女は油絵を抱きしめ、ゆっくりとしゃがみ込んだ。まるで自分の小さな世界を守るかのように。こみ上げてくる熱いものが目頭を熱くし、胸を締め付け、息苦しく、目の前を真っ暗にした。どれくらいそこに座っていたのだろう。ポケットの中のスマホが振動した。絵里からの友達申請だった。千幸は承認したが、相手からはメッセージは来なかった。その時、同僚からのメッセージが届いた。【神崎主任、インスタで『いいね!』が必要な投稿があるんですけど、いいねしてもらえますか?お願いします!】千幸はメッセージ画面を閉じ、インスタの投稿をスクロールしてその投稿を探していると、絵里が新しく投稿した写真に目が留まった。それは何枚かの写真で、病院のベッドに座った和也が茜のためにリンゴの皮をむいている様子が写っていた。【彼に出会わせてくれた神様に感謝】というコメント付きで。千幸が写真を開くと、それはライブフォトで、音声が入ったままで、絵里と和也の会話がはっきりと録音されていた。絵里は少し心配そうに言った。「和也、神崎先生の方は大丈夫かしら?荷物をまとめていたみたいだけど、怒って出て行ってしまうんじゃないかしら?」和也は気にも留めていない様子で、少し見下すような口調で言った。「彼女は孤児だ、どこに行くっていうんだ?せいぜい地方で手術でもしているんだろう、そんな手はもう見飽きた」千幸はスマホの電源を切り、目を閉じて苦笑し
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第5話
「千幸、忙しいかい?」電話の向こうから聞こえてくる老人の声は優しく、千幸も思わず声を和らげた。「忙しくないよ。ちょうど手術が終わったところなの」美香は千幸が小さい頃から見守り、実の孫のように可愛がってくれていた。千幸もこの年長者を頼りにしており、彼女にとって祖母と美香は、どちらも自分を一番に思ってくれる存在だった。千幸の声に疲れを聞き取った美香は、「あまり無理しちゃだめよ」と一言付け加えてから、本題を切り出した。「千幸、あなたと和也のことは聞いているわ。安心しなさい。絵里という女のことは、私が片付けてやったわ。ボディーガードに命じて、彼女の荷物を全部和也の家から放り出して追い出したのよ!望月家の嫁は、最初から最後まで、千幸だけよ」耳に入ってくる声を聞きながら、千幸はハッとして、思わず目の前で跪いている絵里を見た。美香が人を遣って彼女を追い出したのだ。心の中では感動と温かい気持ちが溢れたが、口の中には苦味が広がった。千幸は携帯を握りしめ、しばらく何も言えなかった。沈黙の中で美香はため息をつき、どこか懇願するような口調で言った。「千幸、和也が最近ひどいことをしているのは分かっている。でも、もう一度だけ彼にチャンスをあげてほしいの。彼はあの女に惑わされているだけよ。二人が結婚すれば、きっと落ち着くはず。私が来月、二人の結婚式を挙げるように手配しようか?」鼻の奥がツンと痛くなり、千幸は何となく理由をつけて電話を切った。画面が暗くなった瞬間、オフィスのドアが再び開いた。和也が勢いよく入ってきて、絵里親子が跪いているのを見ると、慌てて彼女たちを助け起こした。そして千幸の方を振り返ると、冷たい目で言った。「千幸、いい大人だろう。告げ口なんてみっともない真似をするな。これで俺と結婚できる。満足か?そんなにずる賢いお前が、本当に嫌なんだ」そう言い捨てると、彼は千幸をもう見向きもせず、絵里親子をかばうようにして、ドアをバタンと閉めて出て行った。千幸は自嘲気味に笑って、目を閉じて椅子に深くもたれかかった。これでいい。どうせもうすぐここを去るのだから。千幸は、ここを去るまで和也と絵里に会うことはないだろうと思っていた。しかし、その夜、血まみれになった茜が、和也と絵里に抱えられて救急搬送されてきた。3
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第6話
千幸は目の前の人を睨みつけ、冷たく尋ねた。「茜の病歴を隠してたでしょ?」絵里の目に一瞬何かが走ったが、彼女すぐさま声を張り上げて弁解した。「病歴を隠すって?私は茜の母親よ、どうしてそんなことをするっていうの?」数日前、茜が絵里に突き飛ばされ、頭を打ち付けて血を流していたことを思い出し、千幸は自分の推測が正しい可能性が高いと感じた。これ以上話しても無駄だ。検査結果が出れば全て明らかになる。千幸は看護師に直接言った。「採血してください」絵里は歯を食いしばり、止めに入ろうとした。「ダメ、採血なんてさせない!私が子供の保護者よ、採血は許可しない!」千幸が絵里を抑えている間に、若い看護師は素早く採血を終え、血液サンプルを届けに走って出て行った。看護師が出て行った後、千幸は絵里を放そうとしたが、絵里は突然後ずさりし、自ら床に倒れ込んだ。次の瞬間、千幸は強い力で突き飛ばされた。「絵里!」和也は慌てて絵里の傍に駆け寄り、彼女を支えながら言った。「大丈夫か?」そして千幸の方を振り返ると、怒りに満ちた目で彼女を見据えた。「千幸、ここは病院だ。お前は医者だろう。患者の家族に何をしているんだ?プロ意識はどこにやったんだ?」千幸が口を開くよりも早く、絵里は和也の袖を掴み、泣きながら訴えた。「和也、茜を助けて!彼女……観察期間を過ぎてもまだ目を覚まさないの。これは明らかに手術ミスよ!茜はもう二度と目を覚まさないってことなの?神崎先生はさっき原因を突き止めるために採血するって言って、責任を取りたくないみたい。じゃあ、茜はこのまま目を覚まさないままなの?」千幸はこの言葉に怒りを通り越して呆れ、弁解しようとした。「検査結果が出れば分かるでしょ――」「もういい!」和也は大声で遮り、失望に満ちた目で彼女を見た。「千幸、まさかお前がわざとそんなことをするだなんて思わなかった。一体いつからそんなに酷くなったんだ?小さな子供に手を出した上に、また手術させるなんて、そんなの人を傷つけるのと同じことだ!医者なんて辞めちまえ!」千幸は信じられないという思いで和也を見た。「一体何をするつもりなの?」和也は絵里を強く抱きしめ、ドアの外に向かって声を上げた。「誠!」中村誠(なかむら まこと)はすぐに部屋に入り、和也は指示を出した。「彼女を碧水山荘
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第7話
心臓が奈落の底へ突き落とされたように感じ、目の奥が熱く痛み、千幸は携帯を握りしめたまま床に崩れ落ちた。祖母はどうなるの?最期の顔も見られないなんて……あんなに自分を愛してくれた人なのに。千幸は這い上がり、扉へと駆け出そうとした。すると、ボディーガードたちが慌てて阻止した。「神崎さん、行っちゃダメです!」「離して!お祖母さんに会いにいくの!離して!」別荘の玄関は大混乱になった。その時、門の外で突然車が停まる音がした。涙でかすむ視界の中、千幸は美香の姿を見つけた。彼女はもう我慢できず、泣き崩れた。「美香おばあさん、お願い、お祖母さんに会わせて!もう、お別れなの!」……道中、望月家の車は限界までスピードを出した。しかし、Q市療養院に着いたのは、40分後のことだった。千幸は焦りに駆られながら病室へ駆け込むと、看護師が祖母の顔に白い布をかけようとしている場面を目にした。彼女は立ち止まり、信じられないといった様子で笑った。「何してるの?そんな上にかけちゃダメでしょ。お祖母さん、息ができなくなっちゃうじゃない」そう言って、彼女はゆっくりと歩み寄り、白い布を引っ張って外した。祖母の顔が現れた。相変わらず優しく愛らしい顔だった。しかし、いつも温かかったその手は冷たくなり、身体は硬直していた。医者として、人の生理的兆候には精通している。千幸は、祖母が亡くなったことをはっきりと理解した。でも、信じられなかったし、信じたくもなかった……千幸は祖母の手に触れ、自分の頬に当てた。まるで、そうすれば祖母の身体が温まるかのように。彼女は優しく言った。「お祖母さん、会いに来たよ!どうして目を開けてくれないの?」しかし、彼女に返ってきたのは、部屋いっぱいに広がる静寂だけだった。優しい声はもう二度と聞こえない。若い看護師は、そんな千幸の姿を見て、慰めの言葉をかけた。「あなたのおばあさん30分前に亡くなりました。ここまで急いで来られたことは分かっています。でも、これはもう仕方のないことだったんです。亡くなる直前、一言だけおっしゃっていました。『私の可愛い千幸が、ずっと幸せでありますように』だそうです」看護師はその言葉を言い終えると、千幸に一人きりになる時間を与えた。しばらくして、病室から悲痛な叫び声が聞
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第8話
「いやあ、望月社長、今回の入札は本当に順調でしたね。これも社長のおかげですよ!一杯お酌します」「山下社長、お気遣いなく」仕方なく取引先と乾杯し、グラスを空けると、和也は苛立ちを覚え、ネクタイを緩めた。スマホの画面に目をやると、もう午後3時半。千幸はL国に着いたはずだ。なぜ連絡をくれないんだ?無事だと知らせてくれてもいいのに……まだ怒ってるのか?和也は落ち着かない。その時、ラインの着信音が鳴った。見ると、絵里からだ。【和也、仕事とはいえ飲み過ぎないでね。体を大切にね】和也は口元に浮かべていた笑みを消し、珍しく返信しなかった。トイレに行くと言って席を立ち、廊下に出た。千幸に電話をかけようとしたその時、知人にばったり出会った。「和也、こんなところで食事かい?」和也は顔を上げ、相手が千幸の上司の恵だと気づき、丁寧に頭を下げた。「鈴木院長」恵は先日千幸に言われた言葉を思い出し、満面の笑みで和也に言った。「最近会えなくて言えてなかったけど、千幸と結婚おめでとう!あなたたち二人は小さい頃から色々あったけど、ついに結ばれたのね。本当に良かった」和也は笑って返事をしようとしたが、何かがおかしいと感じた。結婚?おかしい。千幸との結婚式はまだだ。和也はなぜか不安になり、作り笑いをして尋ねた。「鈴木院長、何か勘違いしているのではないでしょうか?俺と千幸はまだ結婚していませんよ」恵は驚いた。「まさか!半月ほど前、千幸から結婚したから退職するって聞いたんだけど……」そう言いながら、彼女はハッとしたように笑った。「ああ、私が勘違いしたのかも。きっと結婚式の準備を始めるつもりだったんでしょうね」しかし、和也はこの説明で安心するどころか、さらに不安になった。半月前?千幸に結婚を承諾した覚えはない。なぜ結婚したと言ったんだ?誰と結婚したんだ?なぜ退職する?どこに行くつもりだ?いくつもの疑問が湧き上がり、和也の心臓は奈落の底に突き落とされたように感じた。動揺を抑えきれず、彼は急いで尋ねた。「鈴木院長、千幸は一体何を……」言葉を言い終わらないうちに、隣の個室から人が出てきた。「あら、鈴木院長、トイレに随分長い時間いたね。早く!みんな待ってるわよ!」そう言いながら、その人は恵を個室に引っ張って
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第9話
周りの寒さが一瞬で吹き飛んだように、千幸は顔を上げると、目に飛び込んできたのは鮮やかな赤い薔薇の花束だった。彰は笑顔で薔薇を差し出した。「どんな花が好きかわからなくて、薔薇にしたんだけど、ありきたりだったかな?」冷たい風が運ぶ冬の空気の中に、薔薇のいい香りが漂う。そして、目の前の男もこの薔薇のように清々しかった。心の奥が優しく揺さぶられるのを感じた。千幸は首を横に振り、花束をぎゅっと抱きしめた。「とても気に入った」彰ははにかみ、自然な動作で千幸のスーツケースを受け取ると、彼女の肩を抱いて歩き出した。「車に乗って。暖房を入れてるから、そんなに寒くないと思う」車に乗り込み、暖房の風に当たって初めて、千幸は頬が凍えて少し痺れていることに気づいた。少し落ち着いてから、彼女は隣に座る彰に感謝の言葉を伝えた。「迎えに来てくれて、ありがとう」飛行機に乗る前、千幸は彰にラインで今日H市に着くことを伝えていた。本当は、1ヶ月後に彼がX市に迎えに来る予定になっていたのだ。予定より早くH市に着くことを伝えておかないと、彼が無駄足になってしまうかもしれないと思ったのだ。しかし、ラインを送って数分も経たないうちに、彰から電話がかかってきた。彼は着陸時間を詳しく尋ね、迎えに来ると言った。彰に迷惑をかけ、長い時間待たせてしまったことを申し訳なく思い、千幸は罪悪感に駆られて言った。「今日の便は遅延してしまって、長い時間待たせてしまったわね。ごめんなさい、時間を無駄にしてしまって」しかし、彰は気にせず笑った。「自分の妻を待つのに、時間の無駄なんてないよ。それに車の中で待ってたから、寒くもなかったし」彼は黒いタートルネックのセーターを着て、左手をハンドルに添え、長い指で軽く叩いていた。こちらを振り向いた時の顔は、とても素敵で優しい表情だった。千幸は少しの間呆然とし、慌てて彼の視線を避け、白い耳を赤く染めた。妻、妻って、結婚したとはいえ、呼び方が馴れ馴れしすぎじゃない?彰は彼女の表情を面白そうに眺め、それ以上からかうことはせず、エンジンをかけた。「お腹空いただろ?先にご飯を食べに行ってから、家に向かおう」千幸が何を食べたいかわからなかったので、彰はX市の郷土料理が味わえるレストランを選んだ。注文を終え、二人は向かい合って座っ
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第10話
「千幸!」和也の声には喜びが滲んでいたが、すぐに低く沈んだ。「どこに行ってたんだ?なぜ電話に出なかった?それに、さっきの男は誰だ?あんなにラインを送ったのに返事してくれない。一体何がしたいんだ?」問い詰める声は、最後には怒鳴り声へと変わっていた。電話越しでも、千幸には和也の苛立った表情が目に浮かぶようだった。きっとまた、貴重な時間を無駄にした、仕事の邪魔をしたとでも思っているのだろう。心の中にふと浮かんだのは、かすかな皮肉。ただそれだけで、もはや心を揺らすこともない、静かな感覚だった。千幸は静かに口を開いた。「和也、私、結婚したの。さっき電話に出たのは、私の夫よ」和也は彼女の言葉を全く信じず、ふざけていると思った。「千幸、冗談はやめてくれ。今日お前を置いて行ったことで怒っているのは分かっている。でも、絵里とは本当に何もない。ただの恩人として感謝しているだけだ。望月家の嫁になる人間が、その程度の器量もないのか?」「冗談じゃない。和也、私は今、夫と新婚旅行中なの。もう電話してこないで」和也は我慢の限界に達し、再び声を荒げた。「千幸!まさか、こんな駆け引きで俺の気を引こうとしてるんじゃないだろうな?」その時、電話の向こうから誠の声が聞こえてきた。「望月社長、神崎さんのフライト情報が分かりました」紙をめくる音が聞こえる中、和也は逆に冷静さを取り戻した。「今H市にいるのか?なら、俺がそっちへ行く。直接話そう!」千幸が自分の気を引こうとしているのだと確信したのか、彼はまた説教じみた口調になった。「千幸、いつもこんなことをするから、俺も疲れるんだ。それに、鈴木院長と組んで結婚を口実に退職するなんて、本当に幼稚だぞ。まさか、お前が他の男と結婚したなんて、俺が信じると思うのか?お前は孤児だ。俺以外に誰がお前を娶るっていうんだ……」
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