LOGIN半年かけて内装を整えた新居は、そこで暮らすはずの私を、隅々まで拒んでいた。 身長160センチの私が洗面台の前に立つと、水はねが鎖骨にまで届く。ウォークインクローゼットのハンガーパイプは、精いっぱい跳び上がっても端に触れるのがやっとだ。 ところが、175センチある藤野玲奈(ふじの れな)がドアを開けて入ってくると、まるで自分の家に帰ってきたようだった。 玄関のいちばん上のフックにひょいとバッグを掛け、アイランドキッチンにゆったりともたれかかる。 「この高さ、やっぱりいいね。野菜を切るのも果物を洗うのも、腰が疲れない」 私の婚約者・相沢航平(あいざわ こうへい)はどこか得意そうに目を輝かせ、笑った。 「そりゃそうだよ。寸法は全部、玲奈に合わせて決めたんだから」 私の顔から血の気が引いたのを見て、航平はようやく申し訳程度の説明をした。 「あのときはデザイナーに急かされて、君は残業中だったし。それで、玲奈の寸法を使っただけだよ。ね、あとで踏み台をいくつか作ってあげるから」 貯金を使い果たして築いた、私の心安らげる場所。それが、別の女のための愛の巣になっていた。 私は苦く笑った。 それなら、この家には住まない。 この婚約者も、もういらない。
View More半年後、私は自分の車を買った。高い車ではない。でも、色は大好きな、くすんだブルー。納車の日、スタッフに手伝ってもらってシートを合わせた。座席を前へ出し、背もたれを起こす。ベルトは肩の真ん中を通り、もう首に食い込まなかった。運転席の設定を保存するかと表示され、私は自分の名前を入力した。助手席の設定は、空欄のまま。ずっと空けておくべき場所だからじゃない。次に誰がそこに座るかは、私が決めることだから。マンションの下には専用の駐車場所がなかったので、管理会社を通じて月極の区画を借りた。車のナンバーを登録する日、駐車場を使える人を何人登録するかと聞かれた。「1人です」ゲートのバーが上がり、画面に文字が出た。【おかえりなさい】白線の中に車を止めた。初めて、誰かが私の居場所を決めてくれるのを、車内で待たずに済んだ。夜、キッチンでスープを煮ていた。調味料を取ろうと手を伸ばすと、指先がちょうど戸棚の取っ手に触れる。キッチンのシンクの水もまっすぐ流れ落ち、服には1滴も跳ねなかった。スマホが鳴った。弁護士から、新居だった家が売れ、残金と利息がすべて振り込まれたと連絡が来ていた。続けて、知らない番号からメッセージが届いた。【これで全額返したよ。家は思ったほどの値段では売れなかったけど、その代償は僕が払うべきだから。紙の指輪は、そのまま沙穂の手元にあってもいいと思う。あれに思い出させてもらわなきゃいけないのは、沙穂じゃなくて僕だ。何を約束して、何を失くしたのか、忘れない。沙穂、ごめん】読み終えても、返事はしなかった。削除もしなかった。鍋が小さな音を立てたので、火を止め、スープを1杯よそった。バルコニーには1人掛けの椅子があり、その隣は少し空けてある。いつか花を置いてもいいし、椅子をもう1つ増やしてもいい。急いで決めなくていい。スマートスピーカーが、音楽をかけるかと尋ねた。「私の好きな曲をかけて」明かりがゆっくりともる。この家が聞き分けるのは、私の声だけだ。家具はどれも、手を伸ばせば届くところにある。水温も、照明も、座席も、鍵も。誰かの基準に合わせようと、背伸びする必要はもうない。私はスープを持って、バルコニーの椅子に座った。吹き込む夜風が、優しかった。昔は、人を愛するとは、自分を少しずつ変
航平が返済の合意書を持ってきてから1か月後、私たちは正式な調停に臨んだ。彼は工事代640万円の返還と、結婚式の損失や関連費用の負担に同意した。ただ、手元の資金が足りないため、先に半分を払い、残りは家が売れてから清算したいという。弁護士に、それでよいかと聞かれた。私はテーブルの向こうを見た。航平は、昔私が買った濃い色のシャツを着ている。袖口が少し擦り切れていた。以前は古い服を嫌がっていた。それでも今は、袖のほつれたシャツを着ている。「家は、どうしても売らなきゃいけないの?」別れてから、自分のほうから彼の個人的な決断について尋ねたのは、これが初めてだった。航平が顔を上げ、目にぱっと光が差した。「オーダー家具の残金も、やり直した工事代もあるから。売るのがいちばんいいんだ」彼は少し間を置いた。「沙穂が残したいなら、家を沙穂の名義にしてもいい。ローンは僕が払い続ける」弁護士が口を挟んだ。「その場合は、所有権と債務について、新たな取り決めが必要になります」「わかっています」航平は私を見た。「沙穂だって、あの家のためにいろいろしてくれたんだから。そうしたいなら」「私は、いらない」彼の目から光が消えた。まだ家を使って私とのつながりを残そうとしているのか、確かめたかっただけだ。わかれば、それでよかった。調停での合意を書面にして署名を済ませると、弁護士が先に席を立った。私が書類をまとめている間も、航平は座ったままだった。「沙穂」呼ばれて、手を止めた。「あの頃、どうして何もかも大したことじゃないと思ってたのか。ずっと考えてた」彼は合意書の端を指で押さえ、私には近づかなかった。「誕生日を1回一緒に過ごせなくても、沙穂は離れていかない。座る場所が違ったくらいで、式をやめたりしない。何があっても自分で解決してくれるから、僕はいつも、ほかの人にばかり譲ってた」私は目を伏せた。「前は、それだけ私を信じてくれてるんだと思ってた」「違う」ひどくかすれた声だった。「僕と別れられないって、そこにつけ込んでたんだ」忙しさにも、玲奈にも、工事業者にも責任を押しつけなかったのは、初めてだった。署名した合意書を書類袋に入れようとしたとき、書類ケースに挟んだ紙の指輪が滑り落ち、テーブルの上に転
2か月後、私の小さな部屋の改装が終わった。引っ越した日、私は新しいキッチンで初めて料理をした。蛇口は、ちょうどいい高さにある。つま先立ちをしなくてもいいし、水が鎖骨に跳ねることもない。手を伸ばせば吊り戸棚の食器が取れる。玄関の鍵をひょいと掛けると、目の高さにぴたりと収まった。スマートスピーカーが声を発した。「沙穂、おかえりなさい」私は玄関に立ち尽くし、しばらく動けなかった。ありふれたひと言だった。それでも、自分のための空間で、私が私として迎えられたのは初めてだった。そのとき、インターホンが鳴った。画面に航平が映っていた。花も贈り物もなく、タブレットと書類袋だけを持っている。私はドアを開けず、画面越しに尋ねた。「何の用?」「工事代の返済合意書、サインしてきた」書類をカメラに向けて掲げた。「それと、見てほしい動画がある」「弁護士に送って」「沙穂、2分だけでいいから」低い声だった。以前のように、いきなり開けてくれとは言わなかった。少しためらってから、私は階下へ降りた。航平は少し痩せて、目の下に濃い隈ができていた。彼が差し出したタブレットを受け取る。動画には、新居の高いカウンターが撤去され、クローゼットも吊り戸棚もバーカウンターも、いったん取り払われた様子が映っていた。新しい洗面台は80センチ。ウォークインクローゼットのパイプも、私の部屋のものと同じ高さに直されている。システムからは、玲奈の利用権限が完全に削除されていた。映像の中で航平が「おかえりなさい」と言っても、何も起こらない。続いて、以前の私の声を再生すると、家中の照明がついた。「昔の音声を探して、声紋を登録し直したんだ」指先に、ぐっと力が入った。「私の許可、取ってないよね」航平がきょとんとした。「ただ、家を直したところを見てほしくて」「私の声だよ」「3年も付き合ってたんだ。スマホに音声が残ってるくらい、普通だろ」そこですぐに言葉を切った。何がおかしいのか、自分でも気づいたのだろう。「ごめん。消せるから」彼は目の前で管理画面を開き、声紋のデータを削除した。作り直された家よりも、その動作のほうに、私は一瞬心をとめた。少なくとも今度は、私の「嫌だ」を聞いてくれた。航平は書類袋から返済の合
「キッチンのカウンターは、どの高さにしますか?」「80センチで」「通常は85センチです。低くすると、あとで売るときに困るかもしれませんよ」私は何もないキッチンを見た。「まずは、私が使いやすいようにしてください」婚約を解消してから初めて、自分に合うかどうかだけで、家のことを決めた。小さな部屋は50平米余り。クローゼットのパイプは165センチにし、玄関のフックは上下2段に分けた。声紋の登録をしていたスタッフに、家族も追加するかと聞かれ、私は少し間を置いた。「今は、私だけで」婚約を解消したからといって、暮らしがすぐ楽になるわけではない。払った工事代はまだ戻らず、今度の改装にもお金がかかる。予算を組み直して、買うつもりだったソファを諦め、何晩も折り畳みベッドで寝た。一度、水道管が破裂したことがあった。無意識に航平のアイコンを開いていた。以前なら、ひと言【相沢親方、助けて!】と送れば、どんなに遅くても工具箱を持って駆けつけてくれた。途中まで打ちかけた文字を、消した。30分後、管理会社の修理業者が来た。安くはなかったが、きちんと直してくれた。誰かに頼り切らなくても、片づく問題はある。必要なのは、はっきりした対価を払うことだけだった。1週間後、弁護士から追加工事の内容を確認しに行くよう連絡があり、新居へ向かった。工事業者も航平も玲奈も来ていた。私が着いたとき、リビングでは激しい言い争いになっていた。担当者は契約書を手に、署名した航平が572万円の残金を払うべきだと主張していた。航平は追加工事の明細を1枚、玲奈の前に押し出した。「輸入品の跳ね上げ式金具も、浴室の鏡も、バーカウンターを高くするのも、全部玲奈が頼んだことだろ。せめて、この分は払ってよ」玲奈の顔がこわばった。「私の名義でもない家に、どうして私がお金を出すの?」「完了確認書にサインしたのは玲奈だろ」「サインしてって頼んだのは航平じゃない。沙穂は仕事で忙しいし、どうせ最後は納得するからって」私に気づき、2人が同時に口を閉じた。玲奈はすぐに怒りを隠した。「沙穂、本当に知ってると思ってたの。航平が、2人の間ではそこまで細かく分けてないって言うから」答えずに、私は弁護士に設計変更の元の記録を確認してもらった。担当
reviews