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3年の背伸びはもう終わり、彼の世界には入らない

3年の背伸びはもう終わり、彼の世界には入らない

By:  桑の月便りCompleted
Language: Japanese
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半年かけて内装を整えた新居は、そこで暮らすはずの私を、隅々まで拒んでいた。 身長160センチの私が洗面台の前に立つと、水はねが鎖骨にまで届く。ウォークインクローゼットのハンガーパイプは、精いっぱい跳び上がっても端に触れるのがやっとだ。 ところが、175センチある藤野玲奈(ふじの れな)がドアを開けて入ってくると、まるで自分の家に帰ってきたようだった。 玄関のいちばん上のフックにひょいとバッグを掛け、アイランドキッチンにゆったりともたれかかる。 「この高さ、やっぱりいいね。野菜を切るのも果物を洗うのも、腰が疲れない」 私の婚約者・相沢航平(あいざわ こうへい)はどこか得意そうに目を輝かせ、笑った。 「そりゃそうだよ。寸法は全部、玲奈に合わせて決めたんだから」 私の顔から血の気が引いたのを見て、航平はようやく申し訳程度の説明をした。 「あのときはデザイナーに急かされて、君は残業中だったし。それで、玲奈の寸法を使っただけだよ。ね、あとで踏み台をいくつか作ってあげるから」 貯金を使い果たして築いた、私の心安らげる場所。それが、別の女のための愛の巣になっていた。 私は苦く笑った。 それなら、この家には住まない。 この婚約者も、もういらない。

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Chapter 1

第1話

蛇口の水は、まだ出しっぱなしだった。

つま先立ちでレバーに手を伸ばすと、袖口がカウンターに触れ、冷たい水が手首を伝って袖の中へ入り込んできた。胸に残っていた最後の期待まで、洗い流すように。

航平は入り口に立ち、苛立った声を出した。

「たかが数センチ違うだけで、そんな顔することないだろ」

「15センチよ」

水を止めてかかとを下ろす。ふくらはぎは、だるさで震えていた。

「図面では洗面台は80センチだった。今は95センチ。クローゼットも吊り戸棚も、玄関のフックも、全部高くなってる」

航平が顔を上げた。

「そこまで測ったの?」

「私が住む家だから」

最初のプランは、十数晩も夜更かしして、少しずつ練り直したものだった。80センチにしたくてショールームを7か所も回り、タイルも間接照明も収納も、表にして1つずつ確かめた。

工事の終盤だけは、費用を捻出しようと残業続きになり、現場の確認を航平に任せていた。工事のグループチャットには一部分の写真しか送られてこない。赤ペンで丸をつけた寸法がすべて変えられていたと、今日初めて知った。

「これからは僕が取ってあげればいいだろ?」

あまりにも当たり前のように言うので、ふと3年前のことが浮かんだ。

当時住んでいた古いアパートも、カウンターが高すぎた。航平は工具を借り、一晩かけてキッチン収納の棚板を全部低くし、机の脚まで短く切ってくれた。

いつか2人の家ができたら、何もかも私に合わせる。背伸びして我慢させるようなことは、絶対にしない。そう言っていた。

なのに今、手を洗うにも服を掛けるにも踏み台を運ばなければならない家を、私に差し出している。そのうえで、ときどきは手伝ってあげると言う。

「航平、自分の家で物を取るたびに、人に頼むような暮らしは嫌なの」

「踏み台をいくつか作るだけだよ。そんなにお金もかからないだろ」

答えになっていなかった。

窓の外はもう日が落ちたのに、リビングのセンサーライトはつかない。私は部屋の中央へ進み、スマートスピーカーに話しかけた。

「リビングの照明をつけて」

「認識できませんでした。もう一度お話しください」

無機質な電子音が、暗闇に冷たく響く。

もう一度言っても、結果は同じだった。

玲奈が軽く咳払いをした。

「リビングの照明をつけて」

家中の間接照明が順にともり、カーテンまで左右にすっと開いた。夕暮れの光が差し込み、照明の真下に立つ玲奈は、この家の主として迎え入れられていた。

「玲奈、おかえりなさい」

機械の女性音声が流れた瞬間、部屋が静まり返った。航平を見ると、目をそらされた。

玲奈は潤んだ目をぱちぱちさせ、何も悪いことなどしていないという顔で私を見た。

「沙穂(さほ)、変に考えないでね。一昨日、航平に頼まれてシステムの調整を手伝ったの。登録を消し忘れただけだから……

航平、私の登録、早く消して。沙穂がまた不機嫌になっちゃう」

航平が私の手を取ろうとした。

「せっかくみんなが集まるんだし、こんなことで雰囲気を悪くしないで。沙穂の声紋は今夜登録するから」

私はその手を避けた。

「家具は作り直して。彼女の登録を消してから、私の声を登録して」

途端に、航平の眉間にしわが寄った。

「もういい加減にしてくれないか?オーダー家具は全部取り付け済みなんだ。撤去して作り直したら、少なくとも200万円以上かかる!」

「でも、最初に払った工事代の大半は私のお金よ」

「お金を出したのは沙穂でも、僕と玲奈は時間を使った。少し不便だからって、家中全部やり直すわけにはいかないだろ」

目の前にいる人が急に知らない人に見えた。真夏なのに、体の芯が冷えていく。

玄関の外で足音がして、新居を見に来た友人たちがお祝いのお酒を提げて入ってきた。

「広々としてて、いいデザインだね。玲奈が載せてた写真、すごく高級感があった」

「この高い吊り戸棚なんて、背の高い人によく似合うよね」

私の胸元がびしょ濡れなのに気づき、誰かが鼻で笑った。

「奥さん、蛇口に届かないなら無理しなくていいのに。明日、子ども用の踏み台を贈ってあげるよ!」

航平は私を脇へ引き寄せ、声を落とした。

「悪気はないんだよ。玲奈の顔をつぶさないで。何度も足を運んでくれたんだから」

気にかけるのは、いつも仲のいい女友達のことばかり。私のことは、何ひとつ考えてくれない。

「航平、この電動カーテン、どうやって開けるの?教えて!」

「今行く!」

航平は背を向け、そのまま行ってしまった。

玄関の棚に置いてあった鍵を手に取り、ためらっていたとき、あの声がまた流れた。

「玲奈、おかえりなさい」

私はドアを開け、別の誰かのために作られた家を後にした。

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松坂 美枝
松坂 美枝
新居に住むのに主人公に金出させておいて背丈合わせないキッチン作るわ声紋登録もないわクソ男の幼馴染女に全部合わせましたってそら別れて金取り返すよね 何故か脳内に当たり前体操の歌が流れたわ
2026-09-28 10:52:24
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10 Chapters
第1話
蛇口の水は、まだ出しっぱなしだった。つま先立ちでレバーに手を伸ばすと、袖口がカウンターに触れ、冷たい水が手首を伝って袖の中へ入り込んできた。胸に残っていた最後の期待まで、洗い流すように。航平は入り口に立ち、苛立った声を出した。「たかが数センチ違うだけで、そんな顔することないだろ」「15センチよ」水を止めてかかとを下ろす。ふくらはぎは、だるさで震えていた。「図面では洗面台は80センチだった。今は95センチ。クローゼットも吊り戸棚も、玄関のフックも、全部高くなってる」航平が顔を上げた。「そこまで測ったの?」「私が住む家だから」最初のプランは、十数晩も夜更かしして、少しずつ練り直したものだった。80センチにしたくてショールームを7か所も回り、タイルも間接照明も収納も、表にして1つずつ確かめた。工事の終盤だけは、費用を捻出しようと残業続きになり、現場の確認を航平に任せていた。工事のグループチャットには一部分の写真しか送られてこない。赤ペンで丸をつけた寸法がすべて変えられていたと、今日初めて知った。「これからは僕が取ってあげればいいだろ?」あまりにも当たり前のように言うので、ふと3年前のことが浮かんだ。当時住んでいた古いアパートも、カウンターが高すぎた。航平は工具を借り、一晩かけてキッチン収納の棚板を全部低くし、机の脚まで短く切ってくれた。いつか2人の家ができたら、何もかも私に合わせる。背伸びして我慢させるようなことは、絶対にしない。そう言っていた。なのに今、手を洗うにも服を掛けるにも踏み台を運ばなければならない家を、私に差し出している。そのうえで、ときどきは手伝ってあげると言う。「航平、自分の家で物を取るたびに、人に頼むような暮らしは嫌なの」「踏み台をいくつか作るだけだよ。そんなにお金もかからないだろ」答えになっていなかった。窓の外はもう日が落ちたのに、リビングのセンサーライトはつかない。私は部屋の中央へ進み、スマートスピーカーに話しかけた。「リビングの照明をつけて」「認識できませんでした。もう一度お話しください」無機質な電子音が、暗闇に冷たく響く。もう一度言っても、結果は同じだった。玲奈が軽く咳払いをした。「リビングの照明をつけて」家中の間接照明が順にともり、カーテ
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第2話
借りている部屋に戻ると、微熱が出た。航平から電話が来たのは、翌朝になってからだった。出てみると自分でも驚くほど声がかすれていたのに、彼は気づかず、問い詰めるように言った。「昨日は新居の確認もうまくいってたのに、どうして急に帰ったの?」「服が濡れて、熱が出たの」電話の向こうが一瞬静かになり、航平の声が和らいだ。「声紋はもう登録してもらったよ。家具はいったんそのままにして、結婚してしばらく暮らしてから、不便なところを一緒に直そう」初めて彼が譲ってくれたと言える言葉だった。スマホの画面には、婚約の解消について調べていたページが開いている。けれど、それ以上指を動かすことはできなかった。3年、一緒にいた。結婚式の招待状も出してしまった。私は、やり直す機会をもう一度だけ彼に与えることにした。午後、解熱剤を飲んでドレスショップへ向かった。そこには玲奈もいた。ロングワンピースを着てソファでカタログをめくっていた彼女は、私が入るとすぐに立ち上がった。「沙穂、誤解しないでね。航平はドレスのことがわからないから、選ぶのを手伝ってって頼まれたの」私は相手にせず、航平を見た。彼は近づいて私の額に触れ、眉をひそめる。「こんなに熱いじゃないか」慣れ親しんだ手のぬくもりに、泣きそうになった。大学時代、40度の熱を出した私の枕元で、彼は一晩中付き添い、30分おきに冷たいタオルを替えてくれた。けれど、次の瞬間にはもう手が離れた。「熱があるのに出歩くから。試着が済んだら早く帰って。予定に支障が出ると困るし」ちゃんと愛してくれたこともあった。ただ今は、私に向けるはずの気遣いも、辛抱強く向き合う気持ちもなくなっていた。予約していたドレスを、スタッフが運んできた。長いトレーンに、びっしりと並ぶビジュー。私が選んだシンプルなドレスではない。私はスタッフに視線を向けた。「最初に選んだものを試着したいんです」スタッフは困った顔をした。「先日、相沢様が藤野様といらして、ご注文を変更されたんです。こちらは藤野様がご試着なさったサンプルと同じ型で、サイズも藤野様に合わせて確定するよう承り、代金も全額頂戴しております。元のデザインへ戻す場合は、あらためて製作の順番をお待ちいただくことになります」玲奈が近づき、裾に指先を触
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第3話
ドレスを脱ごうとしたとき、玲奈のヒールがトレーンをしっかり踏みつけていた。私は前につんのめり、試着室の鏡の鋭い縁に肘をぶつけた。激痛が走るのとほぼ同時に、航平が手を伸ばした。けれど、つかんだのは玲奈の腕だった。「大丈夫か?」玲奈は彼の腕に寄り添い、胸元を軽く叩いていた。「沙穂がよろけるから、びっくりした」航平は私に向き直り、眉を寄せた。「着替えるときくらい落ち着いて。いちいちそんなに慌てるなよ」私の肘はみるみる赤く腫れていた。スタッフが氷の入った袋を持ってきた。航平はちらりと見て、受け取ろうとしたようだったが、そのとき玲奈が小さく息をのんだ。ドレスのスパンコールで、玲奈の手の甲に薄い引っかき傷ができていた。航平はすぐに顔を伏せて、その手を確かめる。私は自分で袋を受け取り、肘に当てた。結局、ドレスは注文し直されなかった。航平は、とりあえず予定を押さえておくからと店にお直しを止めさせ、3日考えていいと言った。まるで、十分な選択の余地をくれたかのように。店を出て、私は助手席のドアを開けた。シートはずいぶん後ろに下がり、背もたれも半ば寝かされていた。腰を下ろすとつま先がフロアマットに届かず、ベルトが首に食い込む。シートの調整ボタンを押すと、画面に確認が出た。【玲奈専用の設定を上書きしますか?】その文字を見つめていると、反対側から乗り込んだ航平が、画面を見て何気なく言った。「上書きしないで。玲奈は脚が長いから、毎回戻すのは面倒なんだ」私は画面の「専用」を指さした。自分でも驚くほど、静かな声だった。「航平、結婚式で使うこの車まで、助手席は彼女専用なの?結婚する相手は私だって、まだ覚えてる?」航平は冷たい目で私を見た。「ただのシート設定だよ。気にしすぎだって。そんな小さなことにこだわって、何になる?」言いすぎたと思ったのか、今度は身を寄せてベルトを緩めてくれた。「2番に沙穂の設定を入れるから。乗るときに切り替えればいい」近づいてくる彼を見ていた。車を買ったばかりの頃には、おなじみだった姿。ミラーを合わせ、シートを少しずつ前に出してくれた。脚が短いなと笑いながら、助手席は私だけの場所だと言っていた。あの頃の設定名は「沙穂ちゃん」だった。今は、1番しか登録されていない。その
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第4話
スマホの画面が光った。玲奈がSNSに新しい写真を載せていた。助手席で脚を伸ばす彼女。添えられた言葉は、ひと言だけ。【大事にされてると、シートまで体に合わせた位置を覚えてくれる】航平がバックミラー越しに私を見た。「今夜、一緒に食事しよう。お詫びに」「どこで?」彼はほっとしたように、すぐに店の名を挙げた。玲奈の好きな寿司店だった。私はスマホをバッグに戻した。「2人で行って」車が道端に止まり、私はドアを開けて降りた。バッグを取ろうとかがんだとき、後部座席の隙間から紙切れが半分のぞいているのが見えた。何気なく引き抜き、手の中に握り込んだ。ドアを閉めてから、ようやくそれが何か確かめた。陶芸体験のカップルプランの半券。写真も添えられていた。日付は先月の17日だった。あの日、航平は現場の検査で夜11時まで忙しいと言い、私の誕生日の食事にも間に合わなかった。私は店で、1人きりで2時間待っていた。ようやく現れた彼は埃まみれだった。大変だったのだろうと彼を気遣い、私は温めておいたうどんを出してあげたのに。写真には、ろくろの前で肩を並べる航平と玲奈が写っていた。粘土のついた2人の手が重なり、1つのカップを支えている。隅に記された時刻は、午後7時40分。私の誕生日のろうそくが、半分まで燃えていた頃だった。……スマホが震え、航平からメッセージが届いた。【席は取ってあるから。機嫌を直して、こっちでドレスと残りの支払いのことを決めよう】しばらく見つめたあと、私は共通の親族や友人が入っているグループチャットを開いた。話題は結婚式の引き出物だった。航平の母がオーダー品の見本をいくつか投稿し、私ではなく玲奈に呼びかけていた。【玲奈ちゃん、どれがいいか見てくれる?あなたが好きなアロマも入れたのよ】すぐに玲奈が返事をした。【おばさん、2番目のピンクがかわいい。航平も、高級感があるって言ってました】そのアロマに含まれるシダーウッドに、私が重いアレルギーを持っていること。ピンクが何より嫌いな色であること。誰ひとり、思い出しもしなかった。グループには何も返さず、画面を切り替えて航平に送った。【残りのお金は払いません。式は、いったん取りやめます】すぐに電話がかかってきた。「沙穂、今度は何なの?」
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第5話
翌日の午前、航平が朝食を持って私の部屋に来た。私が生姜を食べないことも、風邪をひいたときには温かい雑炊がいいことも、覚えていた。紙袋には解熱剤まで入っていて、飲む量と時間も書いてあった。ドアが開くなり、彼はいつものように額へ手を伸ばした。私が半歩下がると、その手が宙に止まった。「熱は下がった?」「下がった」朝食は受け取らず、靴箱の上から新居の鍵を取り、用意しておいた封筒に入れた。私のその動きに、航平の顔色が少しずつ変わる。「昨日の夜、玲奈にはきちんと話した。もう工事には関わらせない。助手席の設定も消したよ」「私の代わりにサインした件は?」「業者も、確認書はいったん無効にして、もう一度確認するって」「陶芸のことは?」彼の喉が動いた。「あの日は玲奈が落ち込んでたから、1時間付き合っただけだよ。写真は店員が撮ったんだ。手を重ねたのだって、陶芸をするのに必要だったからだよ」「私の誕生日だったのに」航平はそれ以上言わなかった。1階の軽食店から、油の匂いが階段を伝って上がってきた。雑炊はまだ温かく、プラスチックの蓋には水滴がついている。彼はそれを、もう少し私に近づけた。「誕生日に間に合わなかったのは悪かったよ。式は1か月延ばそう。ドレスも、あらためて一緒に選ぶ。家具だって沙穂に合わせて直すから」危うく、手を伸ばしかけた。彼は私をどう世話すればいいか、よく知っている。どんな約束をすれば私の気持ちが揺らぐかも。「玲奈は、もう来ないの?」「工事には関わらせないよ」「聞いてるのは、これからも私たちの生活に関わってくるのかってこと」航平は眉を寄せた。「子どもの頃から一緒で、家同士の付き合いもあるんだ。完全に連絡を断つなんて無理だよ。沙穂、僕だってずいぶん譲ってる。友達と縁を切れなんて言わないで」雑炊の容器が、私たちの間に差し出されたまま止まっていた。結局、私は受け取らなかった。「謝りに来たんじゃないんだね。ただ、結婚式を取りやめたくないだけ」「何が違うの?家を直すし、お金も使う。誕生日だってやり直す。それじゃ足りない?」「物は何でも直すくせに、彼女との距離だけは変えたくないんだね」航平は朝食を靴箱の上に置いた。「玲奈とは、沙穂を裏切るようなことは何もしてない」私は親
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第6話
両親は、親族や友人のグループチャットで婚約解消を知った。電話をかけてきた母は、ずっと声を震わせていた。式はどうするのかとも、親戚に笑われるのではないかとも聞かず、ただ帰っておいでと言った。私は床に座り、ベッドにもたれて、最初から最後まで話した。電話の向こうが長い間静まり、やがて父に代わった。「その家では、物を取るのにいちいち椅子に乗らなきゃいけないのか?」「うん」「だったら、もう行くな」父の声はくぐもっていた。「うちの娘は、誰かの暮らしに背伸びして合わせるために生まれてきたんじゃない」泣きそうになりながら、私は膝を見つめた。「工事のお金は、すぐには戻ってこないかもしれない。式の予約金も、少しは戻らなくなる」「お金はまた稼げばいい。そんなところに、自分を閉じ込めるな」電話を切り、結婚式のやることリストに1つずつ線を引いた。ホテル、撮影、司会、配るお菓子。ドレスの欄で、手が長く止まった。3年前、航平は紙を折った指輪でプロポーズしてくれた。お金が貯まったら、誰の結婚式も羨ましくならないくらいの式を挙げようと言っていた。あの紙の指輪は、ずっと大事なカードなどを入れている書類ケースに挟んである。それでも、捨てなかった。キャンセルの合意書と一緒に、ケースのいちばん奥へしまい直した。昔、大切にしてくれたのは本当だ。今、傷つけられているのも本当だ。3年前の航平を根拠に、今の彼との未来を信じることはできない。その日の午後、ブライダル会社でキャンセルの手続きをした。予約金は半分しか戻らない。確認書に署名するとき、ペン先を下ろした手がかすかに震えた。航平がブライダル会社の入る建物の前まで追いかけてきた。花はなく、家具の改修図面の束を抱えていた。「デザイナーに頼んだんだ。洗面台は80センチに下げる。ハンガーパイプは昇降式にして、キッチンの吊り戸棚も作り直す。ドレスも、もう一度仕立てるお金を払ってきた」彼は最後のページを開いた。「システムに残す声紋は沙穂のだけ。助手席の設定名も戻したよ」あの頃は何度も頼まなければならなかったものが、今はすべて目の前にあった。「沙穂、一度でいいから、一緒に見に戻ろう」図面の洗面台の高さを見て、紙の上を指でなぞった。80センチ。私に、ちょうどいい高さ。
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第7話
「キッチンのカウンターは、どの高さにしますか?」「80センチで」「通常は85センチです。低くすると、あとで売るときに困るかもしれませんよ」私は何もないキッチンを見た。「まずは、私が使いやすいようにしてください」婚約を解消してから初めて、自分に合うかどうかだけで、家のことを決めた。小さな部屋は50平米余り。クローゼットのパイプは165センチにし、玄関のフックは上下2段に分けた。声紋の登録をしていたスタッフに、家族も追加するかと聞かれ、私は少し間を置いた。「今は、私だけで」婚約を解消したからといって、暮らしがすぐ楽になるわけではない。払った工事代はまだ戻らず、今度の改装にもお金がかかる。予算を組み直して、買うつもりだったソファを諦め、何晩も折り畳みベッドで寝た。一度、水道管が破裂したことがあった。無意識に航平のアイコンを開いていた。以前なら、ひと言【相沢親方、助けて!】と送れば、どんなに遅くても工具箱を持って駆けつけてくれた。途中まで打ちかけた文字を、消した。30分後、管理会社の修理業者が来た。安くはなかったが、きちんと直してくれた。誰かに頼り切らなくても、片づく問題はある。必要なのは、はっきりした対価を払うことだけだった。1週間後、弁護士から追加工事の内容を確認しに行くよう連絡があり、新居へ向かった。工事業者も航平も玲奈も来ていた。私が着いたとき、リビングでは激しい言い争いになっていた。担当者は契約書を手に、署名した航平が572万円の残金を払うべきだと主張していた。航平は追加工事の明細を1枚、玲奈の前に押し出した。「輸入品の跳ね上げ式金具も、浴室の鏡も、バーカウンターを高くするのも、全部玲奈が頼んだことだろ。せめて、この分は払ってよ」玲奈の顔がこわばった。「私の名義でもない家に、どうして私がお金を出すの?」「完了確認書にサインしたのは玲奈だろ」「サインしてって頼んだのは航平じゃない。沙穂は仕事で忙しいし、どうせ最後は納得するからって」私に気づき、2人が同時に口を閉じた。玲奈はすぐに怒りを隠した。「沙穂、本当に知ってると思ってたの。航平が、2人の間ではそこまで細かく分けてないって言うから」答えずに、私は弁護士に設計変更の元の記録を確認してもらった。担当
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第8話
2か月後、私の小さな部屋の改装が終わった。引っ越した日、私は新しいキッチンで初めて料理をした。蛇口は、ちょうどいい高さにある。つま先立ちをしなくてもいいし、水が鎖骨に跳ねることもない。手を伸ばせば吊り戸棚の食器が取れる。玄関の鍵をひょいと掛けると、目の高さにぴたりと収まった。スマートスピーカーが声を発した。「沙穂、おかえりなさい」私は玄関に立ち尽くし、しばらく動けなかった。ありふれたひと言だった。それでも、自分のための空間で、私が私として迎えられたのは初めてだった。そのとき、インターホンが鳴った。画面に航平が映っていた。花も贈り物もなく、タブレットと書類袋だけを持っている。私はドアを開けず、画面越しに尋ねた。「何の用?」「工事代の返済合意書、サインしてきた」書類をカメラに向けて掲げた。「それと、見てほしい動画がある」「弁護士に送って」「沙穂、2分だけでいいから」低い声だった。以前のように、いきなり開けてくれとは言わなかった。少しためらってから、私は階下へ降りた。航平は少し痩せて、目の下に濃い隈ができていた。彼が差し出したタブレットを受け取る。動画には、新居の高いカウンターが撤去され、クローゼットも吊り戸棚もバーカウンターも、いったん取り払われた様子が映っていた。新しい洗面台は80センチ。ウォークインクローゼットのパイプも、私の部屋のものと同じ高さに直されている。システムからは、玲奈の利用権限が完全に削除されていた。映像の中で航平が「おかえりなさい」と言っても、何も起こらない。続いて、以前の私の声を再生すると、家中の照明がついた。「昔の音声を探して、声紋を登録し直したんだ」指先に、ぐっと力が入った。「私の許可、取ってないよね」航平がきょとんとした。「ただ、家を直したところを見てほしくて」「私の声だよ」「3年も付き合ってたんだ。スマホに音声が残ってるくらい、普通だろ」そこですぐに言葉を切った。何がおかしいのか、自分でも気づいたのだろう。「ごめん。消せるから」彼は目の前で管理画面を開き、声紋のデータを削除した。作り直された家よりも、その動作のほうに、私は一瞬心をとめた。少なくとも今度は、私の「嫌だ」を聞いてくれた。航平は書類袋から返済の合
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第9話
航平が返済の合意書を持ってきてから1か月後、私たちは正式な調停に臨んだ。彼は工事代640万円の返還と、結婚式の損失や関連費用の負担に同意した。ただ、手元の資金が足りないため、先に半分を払い、残りは家が売れてから清算したいという。弁護士に、それでよいかと聞かれた。私はテーブルの向こうを見た。航平は、昔私が買った濃い色のシャツを着ている。袖口が少し擦り切れていた。以前は古い服を嫌がっていた。それでも今は、袖のほつれたシャツを着ている。「家は、どうしても売らなきゃいけないの?」別れてから、自分のほうから彼の個人的な決断について尋ねたのは、これが初めてだった。航平が顔を上げ、目にぱっと光が差した。「オーダー家具の残金も、やり直した工事代もあるから。売るのがいちばんいいんだ」彼は少し間を置いた。「沙穂が残したいなら、家を沙穂の名義にしてもいい。ローンは僕が払い続ける」弁護士が口を挟んだ。「その場合は、所有権と債務について、新たな取り決めが必要になります」「わかっています」航平は私を見た。「沙穂だって、あの家のためにいろいろしてくれたんだから。そうしたいなら」「私は、いらない」彼の目から光が消えた。まだ家を使って私とのつながりを残そうとしているのか、確かめたかっただけだ。わかれば、それでよかった。調停での合意を書面にして署名を済ませると、弁護士が先に席を立った。私が書類をまとめている間も、航平は座ったままだった。「沙穂」呼ばれて、手を止めた。「あの頃、どうして何もかも大したことじゃないと思ってたのか。ずっと考えてた」彼は合意書の端を指で押さえ、私には近づかなかった。「誕生日を1回一緒に過ごせなくても、沙穂は離れていかない。座る場所が違ったくらいで、式をやめたりしない。何があっても自分で解決してくれるから、僕はいつも、ほかの人にばかり譲ってた」私は目を伏せた。「前は、それだけ私を信じてくれてるんだと思ってた」「違う」ひどくかすれた声だった。「僕と別れられないって、そこにつけ込んでたんだ」忙しさにも、玲奈にも、工事業者にも責任を押しつけなかったのは、初めてだった。署名した合意書を書類袋に入れようとしたとき、書類ケースに挟んだ紙の指輪が滑り落ち、テーブルの上に転
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第10話
半年後、私は自分の車を買った。高い車ではない。でも、色は大好きな、くすんだブルー。納車の日、スタッフに手伝ってもらってシートを合わせた。座席を前へ出し、背もたれを起こす。ベルトは肩の真ん中を通り、もう首に食い込まなかった。運転席の設定を保存するかと表示され、私は自分の名前を入力した。助手席の設定は、空欄のまま。ずっと空けておくべき場所だからじゃない。次に誰がそこに座るかは、私が決めることだから。マンションの下には専用の駐車場所がなかったので、管理会社を通じて月極の区画を借りた。車のナンバーを登録する日、駐車場を使える人を何人登録するかと聞かれた。「1人です」ゲートのバーが上がり、画面に文字が出た。【おかえりなさい】白線の中に車を止めた。初めて、誰かが私の居場所を決めてくれるのを、車内で待たずに済んだ。夜、キッチンでスープを煮ていた。調味料を取ろうと手を伸ばすと、指先がちょうど戸棚の取っ手に触れる。キッチンのシンクの水もまっすぐ流れ落ち、服には1滴も跳ねなかった。スマホが鳴った。弁護士から、新居だった家が売れ、残金と利息がすべて振り込まれたと連絡が来ていた。続けて、知らない番号からメッセージが届いた。【これで全額返したよ。家は思ったほどの値段では売れなかったけど、その代償は僕が払うべきだから。紙の指輪は、そのまま沙穂の手元にあってもいいと思う。あれに思い出させてもらわなきゃいけないのは、沙穂じゃなくて僕だ。何を約束して、何を失くしたのか、忘れない。沙穂、ごめん】読み終えても、返事はしなかった。削除もしなかった。鍋が小さな音を立てたので、火を止め、スープを1杯よそった。バルコニーには1人掛けの椅子があり、その隣は少し空けてある。いつか花を置いてもいいし、椅子をもう1つ増やしてもいい。急いで決めなくていい。スマートスピーカーが、音楽をかけるかと尋ねた。「私の好きな曲をかけて」明かりがゆっくりともる。この家が聞き分けるのは、私の声だけだ。家具はどれも、手を伸ばせば届くところにある。水温も、照明も、座席も、鍵も。誰かの基準に合わせようと、背伸びする必要はもうない。私はスープを持って、バルコニーの椅子に座った。吹き込む夜風が、優しかった。昔は、人を愛するとは、自分を少しずつ変
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