LOGIN私、朝倉咲(あさくら さき)は、結婚式の前日、高瀬直樹(たかせ なおき)との子をひそかに堕ろすため、病院を訪れた。 廊下で顔なじみの女性医師と鉢合わせると、驚いたように声をかけられた。 「朝倉さん?先週は、ウェディングドレスでお腹が目立たないか心配なさっていたのに……どうして急に?高瀬社長は、ご一緒じゃないんですか?」 私はうつむき、わずかに膨らんだお腹を撫でた。心はぽっかりと穴が空いたように虚しかった。 「あの人は忙しいみたいで。下の階で、自分の継母の妊婦健診に付き添ってるんです」
View Moreけれど直樹は、私ではなく、外を虚ろな目で見つめていた。いつの間にか空は暗くなり、大粒の雨が空港のガラス窓を激しく叩いている。降りしきる雨を見ていた彼が、ようやく私に顔を向けた。「咲、また雨だ。俺、傘を持ってないんだ」ふと、5年前を思い出した。あの日も、こんな土砂降りだった。傘を持っていなかった直樹は、大学の校舎の入り口で雨を前に立ち尽くしていた。雨に濡れた横顔に、思わず胸が高鳴ったのを覚えている。私は傘を広げ、「よかったら、次の校舎まで一緒に行かない?」と声をかけた。「ありがとう。俺、高瀬直樹。2年で、金融を専攻してるんだ」あのときは、こういうのを縁と呼ぶのかもしれないと思った。けれど今、目の前のやつれた姿を見ていると、何もかも遠い昔のことに思える。私は旅行バッグのサイドポケットから黒い折り畳み傘を取り出し、直樹の手に押しつけた。「あげる」直樹は呆然と傘を握りしめていた。その指先がかすかに震えているのを見ても、私の心はもう揺れなかった。背を向け、再び悠介の腕に自分の腕を絡める。「私たちはもう別々の道を歩いているのよ。同じ傘に入る理由もないでしょう」そう言い残し、悠介と雨の中へ踏み出した。悠介が差してくれたのは、大きくて頑丈な長傘だった。傘は私の頭上をすっぽりと覆い、背の高い彼の体が、風雨の大半を遮ってくれる。風向きが変わって雨が吹き込むたび、悠介は私に傘を傾けたまま、かばうように体を寄せてくれた。自分の肩が濡れるのも気にせずに。彼に出会って、初めて分かった。恋人と相合い傘をしても、濡れずにいられるのだと。車に乗ってから、最後に一度だけ、ミラー越しに後ろを見た。直樹は外まで追ってきて、土砂降りの中に立っていた。私が渡した折り畳み傘を握りしめているのに、開こうとはせず、全身を雨に打たせている。長く続いた雨も、これで終わる。この雨がやめば、空はすっかり晴れるだろう。けれど直樹だけは、いつまでも抜け出せないのかもしれない。もうやむことのない、あの雨の中から。車が走り出してしばらく経った頃、悠介がそっと私の手に触れた。「咲、見て」優しい声に促されて空を見上げると、雨はいつの間にかやみ、色鮮やかな虹が大きく架かっていた。思わず笑みがこぼれ、私は悠介の手をぎゅっと握り返して、その肩
窓際の席で向かい合っても、直樹は黙り込んだままだ。テーブルの上で両手を組み、何度か口を動かしては、言い出せずにいる。私は腕時計に目を落とし、眉を寄せた。「話があるなら早く言って。このあと、予定があるの」ようやく返ってきた声は、聞き逃しそうなほど小さかった。「ごめん。ずっと連絡してたけど、返事がなかったから……俺を恨んでるよな。当然だよ。俺だって自分が許せない。本当に、最低だった」目の縁を赤くした直樹が顔を上げる。何かを決意したような表情だった。「こんなことになって、やっと分かったんだ。本当に俺を思ってくれていたのは、お前だけだった。どうかしてたよ。あんなに大事にしてもらっていたのに、気づきもしないで……」不意に身を乗り出し、私の手を取ろうと腕を伸ばしてくる。「咲、もう一度やり直せないか。莉奈とはもう二度と会わないし、ほかの女にも目移りしたりしない。これからはお前だけを大切にする。今まで傷つけた分も、ちゃんと償うから」すがるような声だったが、私は反射的に手を引っ込め、触れられるのを避けた。「本当に反省してるのか、頼る相手が私しかいないだけなのか。それを確かめるために、また何年も無駄にしたくないの」コーヒーをひと口飲んでから、私は言葉を継いだ。「正直に言うわね。莉奈さんとのことを知ったとき、怒りより先に、吐き気がするほどの嫌悪感がこみ上げたの。どうしてこんな恥も良心もない男を、5年間も好きでいられたんだろうって」直樹の顔から、血の気が失せていく。「もう、私に会いに来ないで」そう言って、私は近づいてくる男性に目を向けた。「言い忘れていたけど、今回は恋人のご両親に挨拶するために帰ってきたの」背の高い、すらりとした男性が、ちょうどテーブルのそばまで来ていた。彼は自然に私の腰へ手を回し、温かな手のひらでしっかりと支えてくれた。彼は私に優しく微笑むと、直樹に向き直り、堂々と手を差し出した。「はじめまして。三浦悠介(みうら ゆうすけ)です。咲とお付き合いしています。高瀬社長のことは、以前、何度かお見かけしています」直樹は固まったまま、ようやくその手を握り返した。握手を交わした悠介は、穏やかな口調で、直樹の痛いところを突いた。「この数か月、海外ではずっと咲と一緒に過ごしていました。向こうの気候が合うよ
そう告げて電話を切っても、スマホの画面はひっきりなしに明るくなった。直樹が取りつかれたようにメッセージを送ってくる。最初に並んだのは、怒りに任せた言葉ばかりだった。【どうして勝手に堕ろしたんだ?】【咲、正気かよ!そんな大事なこと、どうして俺に相談しなかった!】【俺の子でもあるんだぞ!お前が勝手に決めていいわけないだろ!】ところが、その後の文面は一変した。悔いる言葉と、なりふり構わない懇願が届き始める。【咲、ごめん。さっきはカッとなって、言いすぎた。帰ってきてくれ。本当に反省してるんだ】【子どもなら、また作ればいい。今度こそ、ちゃんとした夫にも父親にもなるって約束する。だからもう喧嘩はやめよう、な?】【父さんが亡くなって、子どももいなくなって、莉奈まで逃げた。俺にはお前しかいないんだ。本当に俺を愛してくれたのは、お前だけだった。咲、帰ってきてくれ。お前まで失いたくない】明滅する画面の光を顔に受けながら、私は下手な茶番でも見るように、その言葉を眺めていた。かつては直樹が少し眉をひそめただけで心配になり、一晩中眠れなかった。それが今は、どの言葉もまとわりつく虫の羽音のように煩わしく、気分が悪くなるばかりだ。返事は1通も送らなかった。莉奈が逃げたと知っても、正直、驚きはしなかった。私より3歳も若い彼女が、死期の近い60歳の男性と結婚したのだ。それを愛のためだなんて、でたらめな小説よりも、よほど馬鹿げた話ではないか。目当ては高瀬家の金と、名家の奥様という肩書き。結婚さえすれば、莫大な財産の半分は手に入るとでも思っていたのだろう。あいにく直樹の父は、それほど甘い相手ではなかった。結局、彼が亡くなるまでに得られたものはたいしてなく、相続した財産も、高瀬グループ全体に比べれば、ほんのわずかだった。ただ、莉奈は抜け目のない女で、男の扱いも心得ている。不幸な身の上を背負った、誰かを傷つけることなどできそうにない女を装うのが、実にうまかった。父親から思うほど金を引き出せなかった分、今度は息子から。それだけのことだ。もともと金目当てで高瀬家の男に近づいたのだから、自分の身と金のためなら、さっさと逃げ出すのも当然だろう。落ちぶれた直樹と苦労を共にする?冗談じゃない。そんなことができるほど、直樹を愛していたわけでもない。私
この騒動は、瞬く間に大きなスキャンダルへと発展した。結婚式当日、花婿と継母の不倫が暴露された。それだけでも十分な話題なのに、高瀬グループは地元でもトップクラスの大企業だ。名家の醜聞に、世間の好奇心はますます煽られていった。本来なら、こんな話は大金を積んででも口を封じ、表に出さないはずだった。勝手に報じた相手には、弁護士を通じて訴えると圧力をかける。それができるだけの力を、高瀬家は持っている。ところが、あの日取材に来た数十社のうち、口止め料を受け取った社はひとつもなかった。報道が収まる気配はなく、記事はSNSで瞬く間に拡散された。トレンドの上位10件のうち、6、7件がこの騒動に関する話題で埋まるほどだった。【#父親の次は息子?高瀬社長と継母のベッド写真が流出!】【#葬儀の裏で密会、結婚式で不倫発覚。高瀬家の騒動に「昼ドラでもありえない」の声】【#高瀬家の若き後妻、莉奈とは何者か。継子との関係、その素顔に迫る】誰も報道を止めようとしなかった理由は、簡単だった。直樹の座を狙う者が、あまりにも多かったのだ。その中には、実の伯父もいた。直樹が実権を握ってから失敗するのを待っていたところへ、本人がこれ以上ない弱みを差し出してきた。不倫、醜聞、モラルの欠如。これだけのことが重なれば、社長を続けるどころか、一族の中にも彼についていこうとする者はいないだろう。年長の親族たちは火消しに動くことなく、陰でさらに騒ぎを煽った。単なる家庭内の揉め事だったはずが、一族を巻き込んだ激しい経営権争いへと変わっていく。結局、直樹は高瀬グループの社長を辞任した。伯父たちから一斉に圧力をかけられ、世間の批判も鎮めなければならず、カメラの前で深く頭を下げるほかなかった。「このたびはお騒がせし、誠に申し訳ございません。一連の出来事につきまして、心よりお詫び申し上げます。亡き父にも、婚約者にも、申し訳ないことをしました。深く反省し、今後は自分の行いを改めてまいります」騒ぎが少し落ち着いた頃、直樹からの電話に、私はようやく出た。「もしもし」「咲、今回のことは、お前がやったんだろ?」私は眉を上げ、否定する代わりに軽く笑った。「ええ、私よ。なに、私を責めるつもり?莉奈さんのお腹の子、あなたの子なんでしょう。でもね、その親子鑑定書を届けてくれたの