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3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた
3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた
Author: 冷凍梨

第1話

Author: 冷凍梨
ケーキを分けている時に、学部の後輩ちゃんは最初の1切れを会場に来たばかりで、ギリギリ間に合った紀戸八雲(きど やくも)に渡した。

まるで初めて顔を合わせたように、八雲はこの妻である私の存在ですら気付かなかった。

周りはざわざわとしてきた。面白がる人は冗談半分に話しかけた。「葵、ここまで来て、もう隠す気もないんだな?」

可愛らしいお団子ヘアをしている女の子は、少し照れているような顔で横の男を見て、もごもごと「紀戸先輩はわざわざ遠くから来てくれたから、きっと大変だろうって思って」と言った。

細くて優しい口調に、そのキュートな笑顔。どの男でも心が惹かれるような可愛い女の子だった。

しかし、その娘の言ったことは間違ってはいない。東市協和病院から医学部まで車で来ても、1時間以上はかかる。それに、八雲はしっかりとスーツに着替えて、首元に付けているネクタイまできちんと整えた。見れば、ちゃんと準備をしてから来たと分かった。

2時間前まで、手術室にいたはずなのに。

ケーキを渡された時、男は紳士的に受け取って、立ち居振る舞いから、溢れ出すほどの上品さを感じた。その整った目鼻立ちは天井から差してきた電気の光に照らされて、普段厳しくて近寄りがたい目つきは今、少し柔らかく見えた。

「ありがとう。ちょうどお腹が空いたところだよ」

八雲は松島葵(まつしま あおい)の顔を見つめながら、低いけど、温かい声で話した。

普段いつも冷たい顔をしているあの紀戸先生とは、まるで別人のようだった。

女の子の顔はいきなり赤くなって、小声で八雲に呟いた。「紀戸先輩、みんな見てますよ」

八雲は小幅に顔を上げて、人混みを見渡した。最後に、斜め向かいにいる私の顔に目を留めて、落ち着いた声で「見知らぬ顔だな」と言った。

私は少し指を丸くして、「もう結婚してから3年目なのに、相変わらず演技が上手だね」と思った。

そうだよね。私たちは元から契約上の婚姻関係だった。結婚証明書まで紀戸家の運転手が代わりに受け取ってくれた。名ばかりの婚姻関係と名ばかりの妻を公表したくないのも、仕方のないことだ。

私も八雲の芝居に乗った。「先月は学院祭の時に会ったでしょう?」

その時、葵もいた。葵は何人かの後輩と接待係の仕事を学部長に任せられた。そして、接待する対象は、八雲などの優れた先輩方だった。

今思い返せば、葵と八雲はたぶんあの時に知り合ったのだ。

ということは、知り合ってからたった1ヶ月。

八雲は私の話に全く興味がなさそうで、返事もしなかった。まるで全然覚えていないようだった。

それを見た葵は、すぐに私の顔を立てているように言った。「紀戸先輩、知らなかったのですか?水辺(みずべ)先輩は学部でも人気な美人優等生ですよ。特別入試に受かったらしいです。すごい方ですよ」

「特別入試」という言葉を聞いて、私の胸元は急に疼くなってきた。

8年前、私は八雲の一言で、迷いもせずに八雲と同じく医学専門を選んだ。まさか、今まで続いてきたとは思わなかった。

しかし8年後、私たちは一番お互いのことを良く知っている無関係者となった。

八雲は軽蔑しているように「ふふ」と笑った。その温度もない声が私の耳に入った。「いくらすごくても、お前の紀戸先輩のほうがもっとすごいだろ?」

「お前の」という言葉を言う時に、アクセントを付けた。

軽そうな口調だったが、世間万物を見下しているような傲慢が潜んでいた。

傲慢だと言っても、自分を過大評価しているわけではない。八雲は元から天才的な優等生で、まだ若いのに、すでに人材が集まっている東市協和病院でトップクラスの存在となって、後輩たちの憧れにもなった。

私のような努力家は、当然敵わない存在だ。

葵もそれを思い出したか、子ウサギのようなきゅるんとした目でちらっと私のほうを見てから、八雲のほうを向いた。そして怯えているような口調で口を開いた。「紀戸先輩、私、なんか変なことを......」

まだ話の途中で、男は突然人差し指で、女の子の頭に被っているバースデーハットに軽い叩いた。

その目には、優しさが溢れ出ていた。

パーティーの会場でまたざわざわと騒ぎ出した。この個室は、騒がしくて賑やかな雰囲気に包まれていた。それに反して、私の心は海の底に沈んだように重かった。

8年前からずっと好きだったこの男は、私の夫は、そんなふうに笑えるとは知らなかった。

今日は彼女の誕生日だと覚えているから、彼は寒い初冬の日にも関わらず、遠くからやってきた。しかし、1つだけ忘れている。それは、今日は自分の妻、つまり私の誕生日でもあるということだ。
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    証拠?私は少し呆然として、また視線を八雲の手にある薬に落とした。それで、ついにその言葉の意味が分かった。私に警告しているのだ。少し嫌な気持ちになった私は、皮肉な言葉を並べた。「それは残念ね。地下駐車場で会った時、紀戸先生はスマホを取り出して、写真を残すべきだったね」驚いたことに、自分もこのからかうような言い方ができるとは。八雲の瞳から一瞬の動揺が見えた。明らかに八雲も私がこのような皮肉な言葉で返すとは思っていないようで、表情まで固くなった感じがした。八雲がぼんやりしているうちに、私はもう一度手を伸ばして、薬を取り戻して、八雲の前で開けた。火傷したのは事実だし、八雲の機嫌がちょっと斜めだからって、自分のことを大切にしないわけにもいかないだろう?ここ3年間、私はあんなに色々我慢してきたのに、この男は振り向きもしなかった。だから今は、自分のことを優先したいのだ。そう思って、私は薬を指に乗せて、じっくりと火傷のところに塗り始めた。しかし後ろ首は自分ではよく見えないから、私は鏡を見ながら2回塗っても、上手く火傷したところに広げられなかった。少しまごまごしている時、腰からいきなり誰からに抱かれた感じがして、足も床から離れた。私は八雲に洗面台に持ち上げられた。驚いた目で眉を上げたら、次の瞬間、首から冷たい感覚が伝わった。薄いタコのできている指先が私の肌に走り回って、馴染のあるような、ないような感触に私はゾクッとした。まさか八雲が私に薬を塗ってくれているとは。私は思わず指が震えた。そっと目を逸らしたが、情けないことに、ほっぺたはまだ燃やされているように熱かった。この男は一体何がしたいか分からないが、この狭い洗面台に完全に固定されて、私は薄めな不快感がした。私たちの距離は近すぎた。その吐息に薄々感じられるほど、ちょっとだけ見上げたら男の襟ぐりから男らしい胸筋が薄々見えるほど近かった。脳内にとっさに浮かんだのは、激しく絡まり合う画面だった。この瞬間、私は呼吸も荒くなった。「あ......ありがとう、紀戸先生」八雲の指先を避けた途端、私は平気そうなふりをした。しかし喉から声が出た瞬間、このガラガラで優しい声で、私の動揺がバレてしまった。もやもやした気分で、私は目を閉じて、まつ毛もびくびくと震えていた。そこ

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    4人が一箇所に固まった時、なんか最近みんなとバッタリ会いすぎないって思った。特に向こうのその紀戸先生、結婚証明書に載っている夫と。前回会ったのは、まだ1時間前のことだったのに。このような頻度では、さすがに、すぐには慣れないのだ。もちろん、同じくらいこの場にいづらいのは、隣に立っている藤原浩賢だ。その顔に気まずそうな目が見えた。しかし女の子の思考は単純で、それに気付かずに、ただ私の手にある薬を見つめながら、言った。「水辺先輩は怪我しましたの?藤原先生がわざわざお薬を用意してあげましたのね?」話題に出さなかったらまだいいが、これでは、全員の視線が私の右手にある火傷用の薬に集まってしまった。浩賢はすぐに答えた。「1本多く用意したから、ちょうど水辺先生が火傷したみたいで、あげたんだ」噛み噛みに説明した後、またちらっと八雲のほうに視線を向けた。しかし八雲は何も反応がなかった。逆にそのそばにいる葵は何度も私に目を走らせて、困惑した目で問いかけた。「水辺先輩はどこを怪我しちゃったの?」私は軽く襟を引っ張って、平気そうな口調で言った。「大丈夫。大した怪我じゃないよ」でもその子は思ったよりも賢かった。私の細かい仕草から火傷したところを察したみたいだ。それで、「藤原先生は先輩に優しいね」と感心した。それを聞いた浩賢は一瞬ぼんやりして、緊張感に満ちた目でちらっと私を見てから、八雲のほうを見つめて言った。「紀戸先生、何か言ってよ」かなり焦っているような声だった。明らかに八雲に誤解されることを怖がっていたのだ。だけど八雲は相変わらずその波の立たないような様子で、しばらく経ったら、ようやくゆるりと口を開いた。「藤原先生と水辺先生とのことだろう、俺が口を出すことじゃないだろ?」浩賢と私のこと?私は驚いて、思わず眉を上げた。自分の聞き間違いではないかと疑うところだった。それなのにそのようなことを言い出した男は、今はただ紳士のような振る舞いでいた。はっ、それが私の夫だ。戸籍法で、私たちは一蓮托生で、互恵関係であるべきだった。しかし今、その人はそばにいる女の子に忠誠を誓うために、戸籍に載っている自分の妻を他の男に投げるなんてことまでするとは。すごい忠誠だね。私は拳を握りしめたが、仕方がないと思った。何か返そ

  • 3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた   第35話

    気持ちを整理できたら、私はまた相談室に戻った。八雲はもう去っていって、豊鬼先生と何人かのスタッフしか残っていなかった。「今日は紀戸先生がいらっしゃったおかげで助かったんだ」豊鬼先生はまるで災難から幸い生き残ったように、ニヤニヤしながら私の顔に目を走らせた。「次にあの方に会ったら、ちゃんとお礼を言うんだぞ」お礼。私はこの言葉を噛み締めて、それから松島葵たちがお手洗いでの会話を思い返して、この瞬間、思わず鼻で笑った。八雲は葵のために助けに来たし、この場にいた他の人は、どう見ても濡れ衣を着せようとしたし、感謝することなど、できないわ。「水辺さんも今日麻酔科の役に立ったな」豊鬼先生は黙っている私を見て、態度はさっきよりは明らかに柔らかくなった。「俺は水辺さんの痛い気持ちが分かるよ。でもな、麻酔科医はみんなそれを乗り越えてきたんだ。いい意味では、経験を積んだし」その意味深い口調を聞くと、なんか本当に私のことを思っているように聞こえた。もしかして、私の考えすぎだった?「その子はたぶんちょっとショックを受けたから」他のスタッフも相槌を打った。「もうすぐ退勤時間だし、早めに帰らせて休ませよう?」豊鬼先生はちらっと私のほうに目を向けて、頷きながらその意見に賛成した。「分かった。じゃあ時間通りに退勤していいよ」この件はこれで完全に解決した。ただその茶湯にかけられた感覚の余韻は確かに凄まじいものだった。エレベーターがいつの間にか、地下1階に着いたことにすら気付かなかった。偶然のことに、隣のエレベーターから、藤原浩賢もちょうど出てきた。目と目が合った瞬間、ほっぺたが少し膨らんでいる男は少し驚いて、そして早足で私に向かって歩いてきた。茶色のコーデュロイジャケットに、ベージュ系の丸首ウールシャツ。白衣を脱いだ浩賢は今、カジュアルで、シティボーイ系のように見えた。「奇遇だね、水辺先生」浩賢は優しく話しかけてくれた。その穏やかな目を私の体に軽く走らせたら、聞いた。「もしかして退勤した?」私は曇った顔で頷いた。医者にとって残業はいつものことだから、時間通りに退勤できるのは、濡れ衣を着せられた補償みたいなものだった。結構情けないから言いづらかった。「そういえば、麻酔科にちょっとしたトラブルが

  • 3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた   第34話

    「訴える権利があります」という一言で、この場にいる全員も震え上がって、息を殺した。調停委員たちも驚きのあまり目を丸くした。そう。八雲は変わらずあの何に対しても無関心な八雲だったが、今日の医療トラブルに対処している時は、理性的で強気で、一歩も譲らなかった。たった二言三言で、さっきのようなとんでもない大騒ぎを鎮めた。中年女性も「訴える」という言葉を聞いた瞬間、信じられないような顔をした。口が何度か動いたけど、結局何も言わなかった。この時、豊鬼先生は前に出て、この騒ぎに終止符を打った。「あの、田中さん、紀戸先生の話もお聞きになったのでしょう?この方は当院の若い医師で一番優秀な外科専門家でございます。なので、どうかご安心ください。ね?」そう言って、豊鬼先生は調停委員に目で合図した。それで、調停委員たちは中年女性を支えながら床から起こした。「紀戸先生がそう言ったのなら、もう少し状況を見ておくわ」中年女性は自分で自分の面子を立てながら、外に行こうとした。それを見たみんなは安心したが、八雲だけが不満そうに眉を顰めて、いきなり「待ってください」と足を止めさせた。ここにいるみんなは困惑した目を八雲に向けた。そしてその鋭い目つきは私に向けられた。男の黒い瞳には少し不快な感情が混ざった。「人を傷つけたのに、謝りもしないですか?」謝る?八雲が、患者の家族に私に謝らせるなんて?さっきあの中年女性はどれほどの大騒ぎを起こしたか見なかったの?このような時に、他のみんなは一刻も早くこの厄介者に帰ってもらおうとしているのに、八雲はまさか彼女を私に謝らせるとは?かなりの変化球を打ったね。しかしなぜか、少しキュンとした。患者の家族はもちろん私に謝る気なんてないのだ。ほら、今はただドアの前で足を止めて、じっと私を見つめているだけだ。八雲もその人の考えが分かっている。「もし医者が患者の治療をして命を救ってあげたのに、敬意を持たれないのなら、これからは誰が患者たちに責任を取るのですか?」理屈のある言葉に、中年女性は数秒間迷っていたら、私に目を走らせて、軽く「ごめん」と言った。なんとか一件落着か。茶湯に汚された汚れもまだ残っているし、1コップに入っていたお茶にそのままかけられて、服ももうびしょびしょだ。中年女性がドアから出た

  • 3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた   第33話

    「それって大事か?」私の不満を聞いて、豊鬼先生ははっきりと答えてくれなかった。ただこう言った。「手術は、元々2科で協力して取り組んでこそ成功したものだ。東市協和病院の一員として、今はお前に患者の家族と話し合いに行かせるんだから、光栄に思え」光栄?今、濡れ衣を着せられても光栄に思わなきゃいけないの?直感だが、そう簡単なことではない気がする。私が何も返事しないのを見て、豊鬼先生は言い続けた。「それに、患者の家族の言った後遺症は、全部麻酔の後の正常反応なんだ。回復するにも時間が必要だ。お前は、その回復期間のことを患者の家族にちゃんと説明すればいいんだ」それを聞いた私は、困惑した顔で豊鬼先生の顔を見ていた。「患者の家族に説明するだけ?」「ああ。つまり患者の家族に豆知識を教えるってことだ」豊鬼先生は即答した。「このようなトラブルは我々診療科では珍しいことじゃないんだ。インターン生のお前は、そういう経験をするのもいずれのことだ。お前らの面接で『対応力』も聞かれただろ?今こそそれを鍛える時だ」そう言ったら、また私を急かした。豊鬼先生の言葉にも一理あるし、私もすぐに追いついていった。15分後、私は豊鬼先生と一緒に相談室に着いた。見上げたら、地味な格好をしていて憂鬱な目をしている中年女性がすぐそこに座っていた。その顔から薄々怒りを感じた。見れば患者の家族だと分かった。豊鬼先生はすぐにそのほうに向かって、誠意を持ってその女性に頭を下げた。「田中さん、大変お待たせいたしました。インターン生を連れてお詫びに参りました」言い終わった途端、私に目配せした。私もすぐに豊鬼先生の合図が分かって、早足でその女性の前まで来て、挨拶をした。中年女性はただ険しい目つきで私を睨んで、何も言わなかった。患者の家族の気持ちは分かるので、私もできるだけ怒らせないように穏やかな口調で口を開いた。「田中さんでございますよね。田中さんのお怒りはごもっともです。旦那さんのことがご心配の気持ちは承知しておりますが、その、気管カニューレを用いた麻酔の後はですね、確かに嗄声などの症状が起こると存じます。ですがそこはご安心くだ......」「またそれ?」中年女性はいきなり私の話を中断させた。そして声のトーンも上げて、周りに視線を走らせ

  • 3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた   第32話

    病院の食堂は、元から人混みで、八雲自身もどこまで行っても注目されるような人気者なのに、このような時にいきなり「目立たがり屋」とか言って、私のプライドを踏み潰した。この瞬間、私は気まずくてたまらなくなった。ただ指導先生に出された宿題を終わらせただけなのに、どこが目立たがり屋なの?もしかして葵の言った動画と関係しているの?困惑しているうちに、葵はまた私の顔を立てようとした。「八雲先輩は知らないかもしれないけど、水辺先生は医学部の時から上位に入れるくらい手際がいいのよ。同僚たちに褒められるのも、当然だと思いますわ」言い終わったら、私のほうに視線を向けた。そのきゅるんとした目から、少し気まずさが感じられた。この子は到底甘かった。八雲は知らないかもしれないって?知れ渡ったあの首席執刀医、紀戸先生がスタンフォード大学に行く前に、私たちは医学部で会うことも少なくなかった。医学部で開催された医学生技術大会だけでも、何回かライバルとして勝負してきた。私の実力、八雲ははっきり分かっているはずだ。なのに、わざと私を人の前で恥をかかせた。そう思って、どこかからの怒りが胸元に湧き上がってきて、正気を失ってしまうほどイライラしてきた。「手際がいいから何だ?」男の際立つ声がまた食堂で響いた。八雲は厳しい顔で私を睨んで、批判し続けた。「医者のやるべきことは人の命を救うことだ。手際を自慢することじゃない。水辺先生はどうやら昨日自分が手術室あわあわしている姿を忘れたようだね」軽蔑な口調に、その人を見下している態度。八雲の言っている一字一句にも、心が刺さられたように、ヒリヒリと疼いた。私たち、敵なの?そうでもないよね?「夫婦は二世」という言葉があるが、八雲が葵のことを大切にしているみたいに、私のことも大切にしてほしいとは望んでいないけど、そこまで私に嫌がらせをしなくてもいいだろう。そんなに私のことが嫌いなの?こんなに大勢の前で私に恥をかかさないと気持ちよくならないの?そうだよね。紀戸八雲だから、みんなの前でこのようなちっぽけなインターン生を叱る時、私の味方になってくれる人などいないのだ。まるで胸元が石で詰まっているように、胸苦しかった。私は顔を上げて、恐れずに八雲と視線を合わせて、口を開いた。「紀戸先生はどこから私が

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