彼に自分の臓器を提供するまで、あと十日。 蘆田風鈴は心の中で、その日をひっそりと数えていた。 あと十日さえ耐えれば、彼は健康な身体を手に入れ、鬱陶しい替え玉である私は、きっときれいさっぱり捨てられるだろう。 そのあと、好きな人と幸せになった彼は、私のことを思い出してくれるだろうか。 ……きっと、ないよね。
Lihat lebih banyakこの数日、唯は和哉の言動をずっと見てきた。最初は大嫌いだった。だって、彼は風鈴を裏切った男だから。けれど、時間が経つにつれて気づいた。風鈴の視線も、表情も――もう、最初の頃みたいに拒絶していない。むしろ、時折ふとした瞬間に、考え込むように和哉を見つめている。長年の親友だから分かる。風鈴の心には、まだ和哉が残っている。だったら、前に進むべきだ。立ち止まって苦しむより、勇気を出して。唯の言葉に、風鈴の胸の中で何かがほどけた。――そうよ。これ以上、悪くなりようがある?まだ愛しているのなら……一度くらい、もう一度だけ試してみてもいいじゃない。今度こそ、本物の幸せを掴めるかもしれない。和哉は息を詰めて、風鈴の返事を待った。やがて彼女は小さく頷く。「……いいわ。あなたに、もう一度チャンスをあげる」その瞬間、和哉の顔に喜びが弾け、思わず彼女を強く抱きしめた。「ありがとう、風鈴……!俺にもう一度、チャンスをくれて……!」声は震えて、涙すらにじんでいた。懐かしい香水の匂いに包まれて、風鈴の口元がふっと緩む。――和哉。今度こそ、手を取り合って、生きていけますように。数日後。空港で、和哉は風鈴の手を引き、唯と泉に向き直った。「心配しないで、店は任せときな!」唯は涙ぐみながら笑う。「ええ、もちろん信じてるわ」風鈴はぎゅっと彼女の手を握った。そして唯の視線は鋭く和哉へ。「神崎!もしまた風鈴を泣かせたら、私、飛行機でぶっ飛んで行って殴り倒すからね!」「俺もだ」泉も手を挙げ、わざとらしく怖い顔を作る。「復縁できたからって安心するなよ。風鈴、忘れるな。俺は君の『ノルヂア予備』だから。アイツを捨てたくなったら、即電話くれ。秒速で駆けつける」「ふふっ……分かったわ」風鈴は吹き出す。「いや、分からなくていい!」和哉が眉を吊り上げた。「安心しろ、絶対そんな機会は与えない。お前はここに残ってろ!」「へぇ?なら死ぬ気で頑張れよ」泉が鼻で笑う。和哉は風鈴を抱き寄せ、真剣に言い切った。「頑張るさ。風鈴を幸せにするために」友人たちの前で抱きしめられるのは、まだ慣れない。風鈴がもぞっと抜け出そうとすると、耳元に低い声が落ちた。「俺が君を幸せにする」その言葉に、風鈴の唇
「俺は神崎グループの後継者として育った。幼い頃から、大人たちの裏切りや駆け引きばかりを見てきた」和哉の声は低く、けれどどこか自嘲を含んでいた。「どんな策略にも耐えられるつもりだった。なのに、身近な人の嘘にだけは簡単に惑わされた。風鈴の気持ちすら見抜けず、見下して……」「だから今こうなったのは、俺への報いだ。受け入れるしかない」泉が冷静に肩を竦める。「なら潔く諦めるのも男の度量ってもんだろ」「……本気で愛した人を、どうやって手放せっていうんだ?」和哉はかすかに笑った。「遅すぎたけど、気づいたんだ。俺はずっと、風鈴を愛してた。だから、俺には無理だ」その時、風鈴のアパートの扉が開いた。ゆったりしたセーターに髪をざっくりまとめた姿で、彼女が現れる。和哉の心臓が一瞬止まる。――そうだ。結婚してからの彼女は、ずっと窮屈そうだった。今の風鈴は、結婚前の自由で自然な姿に戻っている。それを奪ったのは、間違いなく自分だ。「泉、ごめん。夕食、別の日にしよ」風鈴が静かに言うと、泉は柔らかく笑った。「もちろん、気にしないよ」泉が去ると、風鈴は視線を横に移した。壁にもたれて、サンドイッチを握りしめたままの和哉。「ノルヂアに長居しすぎじゃない?」淡々と投げかけられた言葉に、和哉は背筋を伸ばし、サンドイッチをくるんでポケットに押し込む。「会社はどうしたの?」「もちろん大事だ」和哉の瞳が輝く。「でも……君と一緒に帰って、二人でやっていきたい」風鈴は小さくため息をついた。彼が「追いかけ直す」と宣言してから、もう十五日。毎日店を手伝い、子犬のように後をついてくる姿。無視しようとするほど、目が離せなくなる。――時間が傷を癒してくれると思っていた。でも、違った。再び彼を目にした瞬間、分かった。強がれると思ったのは、ただの思い込み。……やっぱり、自分はいまだに彼を愛している。だからこそ怖い。また同じ痛みを味わうことが。「風鈴……一緒に帰ろう。やり直したい」和哉の声は真摯で、どこまでも真っ直ぐ。「同情はいらないわ」風鈴は静かに告げる。「違う!」彼は即座に否定した。外套の上から、手を腰にあてる。「俺も考えた。たとえ君の腎臓をもらわなくて
風鈴は、和哉の言葉を聞きながら、どこか現実味を失った感覚に襲われていた。――いや、その感覚は、和哉が店の入り口に現れた瞬間からずっと続いている。だが今こうして彼の「愛の宣言」を耳にして、不確かさは頂点に達した。本当に、この人は和哉なのだろうか?そう疑いたくなるほど。「もちろん、君が俺を嫌ってることくらい分かってる」彼はまっすぐな瞳で続ける。「それでもいい。君が俺を愛してなくても、俺が愛してれば十分だ」「過去がどうであれ、これから新しい思い出を作ればいい」泉が横で鼻で笑った。「ずいぶん勝手な独り相撲だな」驚くことに、和哉は素直にうなずいた。「そうだ、俺は勝手だ。でも、風鈴を取り戻すためなら、どんなことだってする」そして、彼は一語一語かみしめるように言った。「風鈴……俺は君を、もう一度口説き直す」その宣言通り、翌日から和哉は店に毎日現れるようになった。追い返そうとしても、彼は一言も反論せず、ただ黙々と手を動かす。花が届けば、誰よりも早く駆け出して箱を抱え込む。飲み物の配達が来れば、袖をまくって運び込む。風鈴は客の髪を編みながら、つい横目でその姿を追ってしまう。視線が交わると、和哉は小さく笑ってみせる。慌てて彼女は目を逸らした。手が空けば、店の隅に静かに座り、風鈴と唯が忙しく働く姿を黙って見守る。昼休みになると、二人が店をスタッフに任せて部屋に戻るのに、和哉も当然のように後をつける。もちろん中には入れない。だが焦りも怒りもせず、あらかじめ用意していたサンドイッチを取り出し、ドア前でかじるのだ。泉が店にやって来た時も、やっぱりそこに和哉はいた。「また来てるのか……」思わず眉間に皺が寄る。こいつは風鈴のいる場所なら、影のように必ず現れる。デートに誘っても、和哉は平然と尾行。食事に誘えば、隣のテーブルに陣取り、ビール一杯でじっとこちらを見張る。――いやいや、見るなら風鈴だろ!? なんで俺を凝視してんだよ!?展覧会に行っても同じ。これでは告白のチャンスなんて一生来ない。「風鈴に会いに?」和哉が柔らかい声で頷く。泉は呆れ果てた目で彼を睨みつけ、ドアを叩く前に吐き捨てる。「今さら毎日こうやって来るくらいなら、どうして最初から彼女を大事にし
和哉の胸に、鋭い刃が突き立つ。風鈴の冷ややかな言葉――「どうでもいい」――それは彼が想定したどんな罵倒よりも深く、容赦なく突き刺さった。血が流れ出すような痛みに、口が震える。何かを言おうとするのに、声が出ない。隣で聞いていた泉が、わざとらしく鼻で笑った。「男としての品格って大事だよな?風鈴が君と他の女のことなんか気にしてないって言ってんのに、今さら何を騒いでるわけ?」風鈴は小さくうなずき、淡々と付け加える。「それに、私があなたにしたことは、ただ私がそうしたかったから。感謝も謝罪もいらないわ」和哉の心臓が、さらにひび割れる。――そうか。自分が凜と見せつけていた「幸福」を、彼女はずっとこんな気持ちで見ていたのか。胸を抉られる痛み。息が詰まるほどの窒息感。「……風鈴」和哉の声が弱くなる。「俺はずっと愚かだった。誰を愛してるかすら見失って……俺は――」「神崎さん」風鈴が冷たく遮る。「離して。痛いの」その一言で、和哉はまるで迷子の子供のように慌てて手を放した。自由を取り戻した風鈴は、赤くなった手首をそっと擦る。「大丈夫か?」泉が駆け寄り、悔しそうに眉を寄せる。「……俺が守れなかった。最初から一発で殴り倒してれば、こんな目に遭わせなかったのに」「何言ってんの、泉さん」風鈴は笑みを見せ、首を振る。「あなたのせいじゃないわ」「いや、俺のせいだ」泉の視線は鋭く和哉へ。「次は容赦しない」二人の男の視線が、火花を散らすようにぶつかり合う。和哉はその炎を無視するように、ただ風鈴の手首を見つめ、声を震わせる。「……ごめん。本当に、ごめん」「何度も謝らないで」風鈴の眉間に皺が寄る。「あなたって、そんなにしつこい人だったかしら?……正直、気持ち悪い」その冷ややかな一撃に、和哉は思わず息を呑む。拳を握りしめ、唇を噛んだ。「風鈴……お前、まだ俺を愛してるのか?」「は?」泉が冷笑する。「よくそんなこと聞けるな」和哉は苛立ちに泉を睨む。「黙れよ!」「黙る必要ないでしょ」風鈴がきっぱり言う。「泉さんは私の友達。あなたに口を封じる資格なんてない」「俺にはある!」和哉の声が震える。「俺が君を愛してるから。……俺はまだ君の夫だから!」
「離して!」風鈴の悲鳴が夜道に響いた。和哉の口元から血が滲む。それでも彼は風鈴の腕を決して放さない。――もう二度と、手を離せば彼女が消えてしまう。そんな恐怖が胸を締めつけていた。「神崎!」風鈴が眉をひそめて睨む。だが、和哉は逆に笑った。泉はもう我慢ならなかった。好きな女が無理やり掴まれているのに、黙って見ていられるはずがない。「おい、いい加減にしろ!」拳を握り直し、低く唸る。「言ったよな、放せって!」「……いや、もう放さない」和哉の瞳は風鈴に釘付けだった。「一度は手放した。だが二度目は――絶対にない」その言葉に、風鈴の胸に淡い哀しみがよぎる。もし、これは彼女がまだ離婚していなかった頃の話なら……きっと心が揺れていた。けだが半年の時を経て、彼女の心境は変わった。目の前の男の瞳に、かつての嫌悪も拒絶もない。それは、ずっと求め続けて叶わなかった光景だったのに。「……神崎さん。私たちはもう終わったの。こんな真似、軽蔑するわ」その一言は、氷の矢のように和哉の心臓へ突き刺さる。彼の力が、一瞬だけ緩んだ。風鈴はすぐさま腕を振り解こうとした。だが和哉は再び強く握りしめる。「そうだな。君に軽蔑されて当然だ」唇に苦笑を浮かべながら続ける。「盲目に憎んで、傷つけて……もう君がどんな罵りを浴びせても、俺は受け入れる」「……何を言ってるんだ君は」泉が苛立ち、和哉の手を掴み上から力を込める。「彼女を放せ!」和哉は顔をしかめ、痛みに耐える。それでも指一本、緩めはしなかった。「風鈴……俺は間違ってた」声は掠れ、それでも懇願のように重ねられる。「凜を信じて……君を傷つけた。あの時、俺は何も見えていなかった」風鈴は視線を逸らした。「もう……そんな昔の話、聞きたくない」「違う。これは昔話じゃない。俺の本心だ」和哉は必死に言葉を重ねる。「凜とはもう終わった。あいつのやったことも、全部知っている」「君はあいつの代わりなんかじゃない。最初から、ずっと……唯一無二の存在だった」その真っ直ぐな声に、風鈴の胸が小さく揺れる。――自分は、彼女の替え玉なんかじゃなかった。目を伏せる。だが今さら知ったところで、何になるというのだろう。心の湖面に
風鈴は客の髪を編むことに集中していて、唯の顔色の変化には気づかなかった。泉が怪訝そうに唯の視線を追うと、店の外に一人の黒髪の男が立っていた。長いコートを纏い、複雑な表情で店を見つめている――悲しげであり、喜びも滲むような。泉はすぐに悟った。その男が見ているのは、風鈴だ。胸の奥に、嫌な警鐘が鳴り響く。やがて男はゆっくりと店の中へ入ってきた。唯が即座に立ちはだかり、鋭い声を放つ。「……何しに来たの?」その声音に、風鈴も思わず顔を上げた。次の瞬間、彼女の手が止まる。――半年もの間、自分を探し続けた男。神崎和哉。「風鈴……」和哉は彼女を見つめるが、言葉が出てこない。「お客様、簪をお求めですか?」その視線を遮るように、泉の背が立ちはだかった。にこやかな笑みを浮かべながら。和哉は眉をひそめる。最初はただの客だと思っていたが、この男――あたかも店の「主人」のように振る舞っている。「君は誰だ?」和哉の声は低く鋭い。泉は笑顔のまま問い返す。「それはこっちのセリフですよ。あなたこそ、どなたです?」「俺は……風鈴の夫だ」和哉は視線を逸らさず、彼女の方へ一歩にじり寄る。泉は一瞬言葉を失った。「……今、なんて?」そして、風鈴へ振り返る。風鈴の指がかすかに震え、簪を落としそうになる。唯が呆れたように割って入った。「ちょっと、神崎。いい加減にして。風鈴とあなたはもう離婚したでしょ?」だが和哉は答えない。ただ、風鈴を見つめ続ける。彼女の口から答えを聞きたかった。やがて風鈴は、黙って客の仕上げを終え、見送ってから振り返る。「……何の用?私たちはもう関係ないわ」和哉は微笑みさえ浮かべた。「風鈴、ずっと探してた。やっと見つけた。」風鈴の胸がわずかに揺れる。だがすぐに顔を硬くした。「何のために?私たちはもう離婚してるんだから。」「離婚したからって、探しちゃいけないのか?」和哉の問いに、泉が間に割って入る。「彼女が関係ないって言ってるんです。君の態度、ちょっと失礼ですよ」彼は守るように風鈴の前へ立つ。「行こう」風鈴は泉を見上げ、静かに言った。「うん」泉はにっこりと笑い、腕を差し出す。唯がバッグを手渡し、風鈴はその腕を取って店を出た
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