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心が追いつくまで

心が追いつくまで

Par:  ハリネズミちゃんComplété
Langue: Japanese
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彼に自分の臓器を提供するまで、あと十日。 蘆田風鈴は心の中で、その日をひっそりと数えていた。 あと十日さえ耐えれば、彼は健康な身体を手に入れ、鬱陶しい替え玉である私は、きっときれいさっぱり捨てられるだろう。 そのあと、好きな人と幸せになった彼は、私のことを思い出してくれるだろうか。 ……きっと、ないよね。

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Chapitre 1

第1話

「本当に決めたの?臓器提供は簡単なことじゃないよ。腎臓を一つ譲れば、その後の一生に影響が残るんだ。だから、どうか慎重に考えてほしい」

電話の向こうで教授の声が重く響く。

蘆田風鈴(あしだ ふうりん)は一瞬だけ黙り込み、それから静かに、しかし揺るぎない声音で答えた。

「もう決めています。私が決めたこと、簡単には変わらないって先生が一番ご存じでしょう?」

受話器越しに深いため息が落ちる。

「……そうか。それが君の意思なら、俺は尊重するよ」

「ありがとうございます、先生」

小さく礼を言ったあと、風鈴は声を落とした。

「……できれば、このことは誰にも言わないでください」

「もちろんだ」

通話が切れたあとも、風鈴はしばらく受話器を握ったまま、ぼんやりとテレビ画面を見つめていた。

【先月、神崎グループの後継者である神崎和哉(かんざき かずや)氏が突然倒れ、入院しました――

同グループは「病気ではあるものの、日常生活に支障はない」と発表しており、神崎氏は現在も引き続き会社で活躍しています】

画面の中、和哉の隣には秘書であり初恋相手でもある櫻井凜(さくらい りん)の姿が寄り添うように映されていた。

「病気のとき、そばにリンがいてくれて本当に助かった」

恋愛ドラマさながらのその眼差しに、世間は感動し、正妻である風鈴は「冷たい妻」と叩かれた。

記者ですら言い放つ。

「神崎社長みたいな素晴らしい方を奥さんは大事にせず、病気のときに見捨てるなんて……幸い、櫻井さんがいて良かった。櫻井さんこそふさわしいお相手です」

――ほら、世の中の誰もが二人を「お似合い」だと思っている。

風鈴は小さく息を吐き、リモコンでテレビを消した。ソファに腰を下ろそうとした、その時――

ガチャ、と玄関の扉が開き、和哉が入ってきた。隣には凜。

しっかりと手を繋ぎ、その目元には柔らかな優しさが宿っている。

「……君、まだいたのか?」

風鈴を見た途端、その表情にはっきりした不機嫌が滲む。

「風鈴さんがいるなら、今日は帰るわ。和哉、無理しないでね。……奥さんがちゃんと看病してくれるはずだから」

凜は優しく微笑み、わざとらしくそう言った。

和哉は鼻で笑った。

「看病?彼女が?俺が倒れていた時、彼女が何をしてくれた?電話の一本さえ寄こさなかったじゃないか」

そう吐き捨てるように言い、凜の手を引いて家の中へ促す。

「……これからは、ここが君の家だ」

そう言うと、和哉は膝をつき、丁寧に凜の足元にスリッパを揃えてやった。

まるで――ここが本当に「ふたりの家」であるかのように。

風鈴は、その場に立ち尽くすしかなかった。

――ここは、自分の「家」のはずなのに。

思い出すのは、病室で見た光景。

和哉はベッドで凜の手を握り、寄り添う二人は誰が見ても夫婦そのものだった。

差し伸べかけた自分の手は、そっと降ろすしかなかった。

彼は、自分の命の恩人だ。

無理をしてでも嫁いだのは、自分。

いつかは愛されると信じていた。

けれど、その想いが届かないのなら……もう、いい。

せめてこの手で、彼のためにできる最後のひとつだけを残してあげよう。

「リンは海外から戻ったばかりで知り合いもいない。しばらく家に住んでもらうことにした。油っこいものもパクチーも苦手だから、食事を作る時は配慮してくれ」

まるで家政婦への指示のような冷たい口調だった。

「風鈴さん、誤解しないでくださいね。私は本当に和哉の体が心配なだけで……ほかに何かあるわけじゃありません」

おずおずと凜が言った。

「こんなふうに突然押しかけてしまって……迷惑じゃないですか?」

その言葉に合わせて和哉が風鈴へ視線を向ける。

あからさまな「嫌悪」が、その奥底で静かに滲んでいた。

結婚して数年。愛されていないことは分かっていた。でも、こんな露骨な目で見られるのは……初めてだった。

しばらく沈黙が流れたあと、風鈴は静かに言った。

「……ええ。好きにして」

机の上の書類を取り、和哉へ差し出す。

「朝、あなたの秘書が持ってきたわ。署名が必要だそうよ」

和哉は苛立ったように目を通し、次々と署名していく。

すべてに書き終えると、乱暴に突き返した。

「……持っていけ」

だが、凜の方へ向き直った瞬間、声も表情も優しく変わる。

「リン、上で休もう」

「うん、手、貸してあげるわ」

二人は肩を寄せ合い、階段を上がっていった。

取り残された風鈴は、まるで捨てられた人形のようにリビングに立ち尽くす。

スカートの裾を握り締めた指が震え、噛みしめた唇から、かすかに鉄の味が滲んだ。

――この数年間、彼の口から何度も聞こえた「リン」という名。

あれは、本当に自分のことだったのだろうか。

考えることさえ怖かった。

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岩本澄佳
岩本澄佳
読んでいてどうなるのかドキドキして面白いです
2025-10-19 13:19:16
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fyy
fyy
短編には珍しいラストです! もっとこういうお話増やして欲しいです
2025-10-13 08:14:22
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mogo
mogo
和哉が、プライドを捨てて素直に過ちを認めて、行動できる人だったから復縁できたんだろうな。 よくあるパターンは、騙した相手だけに罪をなすりつけたりする。それなのにヒロインにすがって、すごく情けなく見える。 そこが違いかもしれん。
2025-09-23 11:44:11
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しむちぇみん
しむちぇみん
こういう終わり方すきです
2025-09-15 19:51:52
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saika423
saika423
こういう終わり方好きです。 もちろんよくあるパターンも好きですが。
2025-08-31 19:33:55
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第1話
「本当に決めたの?臓器提供は簡単なことじゃないよ。腎臓を一つ譲れば、その後の一生に影響が残るんだ。だから、どうか慎重に考えてほしい」電話の向こうで教授の声が重く響く。蘆田風鈴(あしだ ふうりん)は一瞬だけ黙り込み、それから静かに、しかし揺るぎない声音で答えた。「もう決めています。私が決めたこと、簡単には変わらないって先生が一番ご存じでしょう?」受話器越しに深いため息が落ちる。「……そうか。それが君の意思なら、俺は尊重するよ」「ありがとうございます、先生」小さく礼を言ったあと、風鈴は声を落とした。「……できれば、このことは誰にも言わないでください」「もちろんだ」通話が切れたあとも、風鈴はしばらく受話器を握ったまま、ぼんやりとテレビ画面を見つめていた。【先月、神崎グループの後継者である神崎和哉(かんざき かずや)氏が突然倒れ、入院しました――同グループは「病気ではあるものの、日常生活に支障はない」と発表しており、神崎氏は現在も引き続き会社で活躍しています】画面の中、和哉の隣には秘書であり初恋相手でもある櫻井凜(さくらい りん)の姿が寄り添うように映されていた。「病気のとき、そばにリンがいてくれて本当に助かった」恋愛ドラマさながらのその眼差しに、世間は感動し、正妻である風鈴は「冷たい妻」と叩かれた。記者ですら言い放つ。「神崎社長みたいな素晴らしい方を奥さんは大事にせず、病気のときに見捨てるなんて……幸い、櫻井さんがいて良かった。櫻井さんこそふさわしいお相手です」――ほら、世の中の誰もが二人を「お似合い」だと思っている。風鈴は小さく息を吐き、リモコンでテレビを消した。ソファに腰を下ろそうとした、その時――ガチャ、と玄関の扉が開き、和哉が入ってきた。隣には凜。しっかりと手を繋ぎ、その目元には柔らかな優しさが宿っている。「……君、まだいたのか?」風鈴を見た途端、その表情にはっきりした不機嫌が滲む。「風鈴さんがいるなら、今日は帰るわ。和哉、無理しないでね。……奥さんがちゃんと看病してくれるはずだから」凜は優しく微笑み、わざとらしくそう言った。和哉は鼻で笑った。「看病?彼女が?俺が倒れていた時、彼女が何をしてくれた?電話の一本さえ寄こさなかったじゃないか」そう吐き捨てるよ
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第4話
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第5話
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第6話
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第7話
風鈴が目を覚ましたとき、そこはもう手術室ではなかった。目に入ったのは、清田唯(きよだゆい)の安堵に満ちた笑顔。「風鈴!よかった…起きた!」風鈴は反射的に身を起こそうとした。「ちょ、ちょっと!ダメダメダメ!風鈴、まだ動いちゃだめ!」唯は慌てて肩を押さえる。下腹部に鋭い痛み、風鈴はようやく自分が手術を受けたことを思い出した。仕方なく、再びベッドに身を横たえる。「とりあえず水飲んで、はい。少しだけね。喉、乾いてるでしょ」唯はストローを差し出し、風鈴は少しだけ水を口に含む。そのまま彼女を見上げた瞬間、唯が小さくため息をつく。風鈴の胸が一気に締めつけられた。「……どうしたの、唯?」まさか――和哉の手術が失敗したのでは。不安が胸を刺し、顔に焦りが滲む。「違うわ。神崎の手術は、問題なく成功した」その言葉に、風鈴は大きく息を吐いた。――よかった。本当に、よかった。「でもね、あんたのほうが心配なのよ。見てみなさい、ボロボロじゃない」軽く叱るように言い、唯は続けた。「とにかく休んで。もうすぐ救急車が来るから、回復期リハビリテーション病院へ移すわ」風鈴は静かに頷き、安心した途端、そのまま深い眠りへと落ちていった。*同じ頃。和哉もまた、手術から目を覚ました。瞼を開けると、白い天井。喉はガラスを砕いたように痛み、咳が止まらない。激しい咳に気づき、ソファでスマホをいじっていた凜が跳ね起きる。「和哉!目を覚ましたのね!」涙を滲ませ、彼の手に縋りつく。和哉は水を求めるように顎を動かす。「でも、先生は食べ物も水もダメって……どうしよう」困った顔で言う凜に、和哉はかすれ声で「大丈夫だ」と返す。「そうだ、先生に知らせなくちゃ!」凜は駆け出していった。和哉はその背中を見送り、苦笑を浮かべる。間もなく教授と凜が戻ってきた。簡単な診察を済ませた教授は安心したように言った。「経過は良好です。これからは服薬をきちんと守れば、拒絶反応も問題なく乗り越えられるでしょう」和哉は礼を言おうとして、ふいに咳き込み、少ししてから「ありがとうございます」と続けた。「少量であれば水分を摂ってもかまいませんよ」と教授が凜に言うと、「はいっ」と元気よく返事をして水を汲みに
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第9話
池内は理解できないという顔で和哉を見た。「これって……」凜は和哉の険しい言葉から状況を察したらしい。手にした弁当を置き、彼の隣に寄り添い、腕にそっと触れる。「怒らないで。風鈴さんも何か事情があってのことよ。許してあげて?」和哉は冷笑した。――許す?こんな稚拙なやり方で自分を揺さぶるつもりなのか。絶対に、甘やかしたりはしない。凜は内心で風鈴を罵りつつ、和哉がこれほどまで彼女を気にすることに、鋭い警戒を覚えた。「それなら、私が風鈴さんを探してくる?会わせたほうがいいんじゃない?」甘えるように胸に手を置いて言う。「必要ない。余計なことはするな」和哉の声は冷たく、怒りを隠そうともしなかった。凜は小さく唇を尖らせる。「……分かったわ」顔を伏せたその口元に、かすかな笑み。――このまま永遠に姿を消してくれればいい。*その後の日々、風鈴は本当に姿を見せなかった。別荘にも戻ることなく。和哉の怒りは次第に落ち着いていき、凜は密かに彼の様子を観察していた。――もう、風鈴を気にしていない。心の底から得意げになる。所詮、あの女は自分の代わりにすぎない。和哉のあの苛立ちは、ただ長年飼っていた犬が急にいなくなったようなもの。情はあるが、それ以上ではない。凜は上機嫌で和哉の腕に絡みつき、共に病院を後にした。*別荘へ戻ると、家の中はひっそりと冷え切っていた。「……誰もいないな」和哉が低く呟く。凜は「うん」と小さく頷いたあと、少し不安そうな顔で和哉を見つめた。「和哉……風鈴さん、この数日、すごく忙しいみたいで……」だが実際には。数日前、凜が風鈴の部屋をそっと覗いた時には――すでに荷物の影も形もなくなっていた。まるで、最初からそこに彼女なんて存在していなかったかのように。――きっと、和哉に離婚を告げられて、風鈴が空気を読んで荷物を運び出したのだろう。凜は、そう思っていた。和哉は無言で二階へ向かい、凜も慌てて付き従う。彼は自分の部屋ではなく、風鈴が住んでいた部屋へ直行した。ドアを押し開けた瞬間、和哉の足が止まった。――そこには、何もなかった。ベッドはマットレスだけ。机は新品のように整然。クローゼットは空っぽで、ハンガーだけが
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第10話
和哉が手にしているのは、以前風鈴に渡した簡単な離婚届とは違い、この「離婚協議書」は初めて目にするものだった。彼はしばらく黙り込み、ゆっくりとページを開いた。内容は驚くほどシンプル。――風鈴が自ら、婚姻中の共有財産をすべて放棄するというもの。そこには、二人が共同で経営してきた会社さえ含まれていた。つまり、すべてを彼に残すということ。末尾には、彼女の端正な署名と押印。見慣れた筆跡。和哉の頭の中に、かつての記憶が鮮やかに蘇る。婚姻届を出しに行ったあの日。自分は走り書きで済ませたが、彼女は丁寧に記し、印を押した。――その姿が、ふっと目に浮かんだ。胸の奥で怒りが渦を巻く。だが吐き出す場所はなく、息苦しさだけが募る。「……風鈴さん、結局サインしたのね」凜の声。だが違う。彼女は自分の渡した離婚届にはサインしていない。和哉の内心に激しい苛立ちが広がる。なぜ、こんな形で。――黙って消えたことへの怒りか。――それとも、自分の出した離婚届を無視して、勝手に「ほぼ全財産を手放す」内容の協議書を作ったことに腹が立つのか。彼女は一体、何を考えているのだろう?――自分を卑劣だと思わせたいのか?和哉は無意識に協議書を握りしめた。「和哉!破っちゃダメ!」凜が慌てて奪い取り、皺の寄った紙を必死に伸ばす。――これが無効になれば、風鈴を探し出して再度署名させる必要がある。だが彼女はもう行方知れず。見つけられる保証はない。仮に見つけても、反故にされたらどうする?凜の胸に焦りが渦巻く。――これ以上、神崎家の正妻の座を遠ざけられては困る。彼女が安堵している間、和哉の視線は別のものに向けられていた。分厚い封筒。手に取ると、中には三十枚ほどの写真の束。そして、それに引きずられるように一枚の薄紙が床へ落ちた。和哉は写真に目をやる前に、その紙を拾い上げる。そこには、風鈴の文字。【和哉。これが最初で最後、あなたをこう呼びます。離婚協議書は見たでしょう。だから、余計な言葉はいらないと思います。長い間、私なんかに合わせてくれてありがとう。もう無理をする必要はありません。どうか櫻井さんと幸せに。末永くお幸せに。私は二度とあなたの前に現れないし、邪魔をすることもありま
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