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自分の性癖が異常なものだと分かっている。これはどんなに隠しても醜く滲み出てしまうものなんだ。
『一架。……もしかして見てた?』
遠い記憶。あの人の声が反響している。
『俺達が“してる”ところを……』
本当は思い出したくない。“あれ”は消し去りたい記憶だ。
まだ小学生のとき、他人がセックスしている姿を目撃した。それを機に自分の異常な性癖に気付てしまった。
驚きや嫌悪より興奮の方が遥かに勝っている。
俺は他人のセックスを視ることでしか欲情できない人間だった。
◇
崔本一架《さいもといちか》、十七歳。私立の男子校に通う高校二年生。
中学まで子役として芸能事務所に所属していたが、今は引退してごく普通の高校生活を送っている。
「一架、おはよ!」
「おはよう」
学校では基本真面目な優等生を演じ、大人しく過ごしている。
学校は好きでも嫌いでもない。常に成績上位の為テスト前は必ずクラスメイトに引っ張りだこだ。
頼りにされるのは素直に気持ちが良い。だから断ることもせず、優しい微笑みを貼り付けている。
「ごめん崔本、この問題がどうしても分かんないんだけど……」
「どれどれ……あぁ、これはここをこうして……」
教えて、それで喜んでくれるならいくらでも力になってやりたいぐらいだ。
「なるほど、サンキュー! やっぱお前すげーな!」
一生懸命なクラスメイトといると癒される、というか心が洗われる。
俺とは違って本当に純粋なんだな、と思う。
「勉強もスポーツもできて、クラス一面倒見がいい! 一架は最強のイケメンだよ!」
「ははっ、褒めすぎだよ。決して間違いではないけど」
そうそう、俺が子役のオーディションに合格したのも、この容姿と全くの無関係とは言いきれない。俺はどうも一部の人を惹き付けてしまう美貌の持ち主らしい。
「はぁ、イケメンで勉強もできるなんて不公平だよな。外でお前のことガン見してる女子とか見つけると、マジで羨ましいわ~」
「褒めすぎだね、間違いではないけど。……でも俺は俺で不安な時があるんだ。俺のルックスに嫉妬した男子諸君が襲って来ないかって」
「大丈夫だよ。お前ほど完璧な奴だと逆に手が出せないって」
「そうかな……。それならいいんだけど……」
学校に限らず、俺はどこを歩いても見られている。
それを自信過剰と呼ぶ友達もいれば、自意識過剰と呼ぶ友達もいる。
「あ、崔本だ。今日も爽やかだなぁ」
「な。あそこだけマイナスイオン漂ってそう」
でも一歩廊下に出ると知らない生徒からもヒソヒソと囁かれるぐらいだから、決して心配症なわけじゃないと思う。
注目されるのはもう慣れているし。とにかく、早く夜になってくれればいい。
「一架くん、おかえりなさい!」
「ただいま帰りました。響子《きょうこ》さん、父さんは?」
「あら、電話ありませんでしたか? 急に大阪に出張になったみたいで……明後日まで帰ってこられないから、なにかあったら連絡してほしいと今朝仰ってましたよ」
父は記者で、仕事の為よく家を空ける。しかも突然。
家事をするのが困難だからと家政婦を雇って良しとしてる、奔放なひとだ。
三年前に母さんと離婚してから今まで以上に仕事第一になったような気がする。
夕食を食べ終え、一架はスマホと財布だけ持って玄関へ向かった。
「こんな時間に大丈夫? 最近は物騒だから気をつけてくださいね」
「わかってます、心配いりませんよ。響子さんは戸締りお願いします。じゃ」
夜、彼女には買い物と称してある場所へ向かった。
そこは何の変哲もないビジネスホテル。こんな時間に高校生が来ると目立って仕方ないが、知人が経営しているので簡単に入ることができた。
────ここでは、本当の俺になれる。
最上階の、一番奥の部屋に鍵を開けて入った。
「お待たせ、皆」
そこでは、誰にも言えない密かなパーティが開いていた。
「う……っ……あ、あぁ……っ!」
鼓膜を揺さぶる艶めかしい声。
水音が絡んだぶつかり合う肌の音。
甘ったるい独特のにおい。その全部が、俺の情欲を掻き立てる。
「あれ、もう始めてたの?」
部屋には十人程度の男性が全裸で抱き合っていた。
これだけで、この空間の異常性が感じられる。
「待てができない悪い子達はお仕置きが必要かな」
軽く吐き捨てると、彼らは慌てて一架の元に駆け寄った。
「一架、それなら俺から……!」
「いや、俺からお願いします!」
皆我が先に擦り寄ってくる。そのさまを眺めるのが本当に楽しかった。彼は心の中では既に高笑いをしていた。
「心配しなくても全員お仕置きしてあげるよ。分かってるだろうけど、最後には俺を満足させてね?」
甘く、淫蕩な囁きは邪な考えがあるからこそ響くものだと思う。これは全て俺だけの、俺の為の秘密のパーティだから。
芸能界を退いても熱狂的なファンは少なからず残る。ここには現役時代から俺を追いかける、俺の言うことだけを聞くファンが集まっていた。
「じゃあ、俺の前でシて」
一等席でショーを楽しむが好きだ。
……異常なまでに。
ここで俺が望むことはただ一つ。男同士のセックスを見る。ただそれだけ。
「は……はい……」
最初に目をつけたのは、大学生とサラリーマンの青年だ。名前は大学生が春木さん、サラリーマンが柄屋さん。どちらも俺に一目惚れしたという。その俺にこうしてセックスを見られるのはどんな気分なんだろう。
好きでもない相手とのセックスを、好きな人間に視られる。変な感じだけど、それはそれで面白い。
「……ぅあっ!」
下着をズボンごと下ろされ、春木さんは恥ずかしそうに顔を逸らした。柄屋さんの目には、春木さんの下半身が晒される。
「あれ、もう勃ってんね。興奮してるの?」
「はっ……い……」
柄屋さんがそこを擦ると、春木さんは声を抑えることもできず、激しく腰を振った。
「ひゃ……っ」
その最中も容赦なく彼の奥に指を這わせ、キツく閉じた部分をこじ開けていく。硬くなった性器が当てられ、長い愛撫の末に挿入された。
「うあぁっ!」
春木さんは苦しそうに顔を歪めたが、反対に柄屋さんは心底嬉しそうな顔をしていた。
全く、どうしようもない変態だ。それを強要している俺は彼を遥かに越える変態だけど。
「いっ、あっ、あぁっ!」
柄屋さんが激しく腰を振れば、それだけ春木さんも激しく全身を震わせた。飛び散る汗と体液が二人を汚していく。それだけでもう絶頂の気分だ。
二人が必死に腰を打ちつけ合ってる姿を見ると、たまらなく下半身が疼いた。
「あぁっ……イきたい、一架……っ」
春木さんは、俺に許しを求めてきた。でも。
「だーめ。柄屋さん、もっと気持ちよくしてあげて」
「は、はい」
一架の言葉を受け、柄屋はさらに激しく彼の中を突いた。
良い。
苦痛と快楽が混ざり合い泣き叫ぶ彼を見て、俺も自身の性器を取り出して自慰を始めた。
この支配感。他人の生セックス鑑賞は何よりも興奮する。欲望を掻き立てる。
「ん……っ」
その快感は、この為に生まれてきたんじゃないかと思わせるほどの満足感。
彼らがイクのに合わせ、一架も自身のものを強く扱いて射精した。
「はっ……あ、あぁ……さいこう……っ」
密室に立ち込める狂気の熱。気付けば二人ともあられもない姿で果てていた。
俺も全て出し切ったからどうでもよくなって、ソファの上で身体を放り出す。
「一架、イッたの?」
「あっ!?」
しかし後ろから手を回され、イッたばかりの性器をまた扱かれた。ここまでくるともはや苦しいだけで、倦怠感から掠れた悲鳴を上げた。
「ふふ、可愛い声」
「朝間さん……や、やだ……」
優しく抱き寄せてきたのは、朝間というまだ若い青年だった。彼は一架のファンとしてかなり長い。また、一番一架に執着しているかもしれず、そこは油断ならなかった。
「一架のここ、まだビクビクしてる。物足りないのかな」
「ふっ……て……」
先端のくぼみを指で押し潰され、居心地の悪さに身を捩る。
「朝間さん、待って………!」
抵抗するものの、朝間の手は止まることなく濡れたそこを虐める。クチュクチュと淫らな音を立て、白い蜜を搾り取ろうとする。
快感が、理性を上回る。
いや……駄目だ。
気持ちわるい。
自分のそんなところを他人に触られるなんて。
「やめろ、ホントに……っ!」
彼の手を払い除け、できる限り睨んだ。
「俺は触られんの嫌いだって言ったよね」
「そうだったね。ごめんごめん!」
決して冗談ではなく、怒りを込めて言った。しかし彼は悪びれることなく、明るい笑顔で両手を合わせる。
「一架があんまり可愛いから我慢できなかったんだ。……ね。何でもするから許して?」
物腰は穏やかだが、常に飄々としている彼は得体の知れない不気味さがある。
一架に強く執着しているが、かといって心酔しているわけでもない。食えない態度は昔から気に入らなかったが、「何でも」という言葉に弱かった。
「じゃあ誰か抱いてるところを見せてよ」
「うん。一架が見たいって言うなら、いくらでも席を用意するよ」
朝間は一架の頬に音の鳴るキスをした。
日中は同僚や後輩の前でできる社員を演じているだろうに。今は新たなパートナーを見つけて、行為に耽っている。
滑稽で、醜悪で、こんなに最高な催しはない。
見るのって何でこんなに楽しいんだろう。
彼らのセックスをいつまでも見ていたい。
醒めない夢として、永遠にこの特等席を陣取っていたい。
(────自分がその輪に入るのは死んでもごめんだけど。)
視姦趣味を持つ、支配欲にまみれの高校生。
これが人に言えない、本当の自分だ。
全ての男性は俺の性的欲求を満たす為に存在する。それぐらい傲慢な考えを持っていた方が人生楽しい。
さ、今日も真面目に学校行くか。
朝、ネクタイをしっかりしめて伊達メガネを掛ける。昨日の俺の面影は残らない。俺が可愛がってるファンもこの姿に気付くかどうかは微妙だ。
「響子さん、行ってきます」
「はーい、行ってらっしゃい」
電車一本で二十分ほどの場所に、俺が通う高校がある。
「一架先輩、おはようございまーす」
「おはよう!」
かなりのおぼっちゃま校だからか、真面目な人種が多い。もちろん俺もその輪の中にいる。
「おはよう一架! すまん、一生のお願い! 写真撮らせて! 知り合いの女子にクラスにイケメンがいるって言ったら撮ってこいって聞かなくてさ」
「えぇ、困ったな。魂抜けるから写真は苦手なんだけど」
「本当に頼むよ!! 一枚だけ!!」
「やれやれ」
知り合いの知り合いとか友達の友達とか色々あるけど、実は学校にも現役時代のファンが意外と居て、写真を求めてくる生徒がいた。
だけど、作り笑いするまでもなく笑ってしまう。写真に写る俺なんて、九割俺じゃないのに。
見た目が全てだと思ってるのは俺か、それとも周りか……実際のところは分からない。
「一架、ちょっといい?」
「ん?」
朝のホームルームが始まる前に、隣のクラスの男子A君(仮)に呼ばれてトイレへ向かった。
「突然ごめん。お願いがあるんだけど、写真撮らせてくれない? ……言いにくいんだけど……裸の。お、お金払うから……」
朝からデンジャラスな依頼だった。
こんな事を言える勇気がすごいし、そう言わしめる俺の美貌もすごい。
「ほ、本当にごめん。気持ち悪いよね」
気持ち悪くない、と言えば嘘になる。けど俺の方が数百倍気持ち悪い性癖を持っている。
「……いいよ。その代わり、俺のお願いを聴いてくれれば」
「ほんとう!? 何!?」
彼は目を輝かせて飛びつく。でもその直後に告げた、俺の“お願い”に青ざめて固まった。
「俺の前で、男とセックスして?」
彼は予想通りの反応でかぶりを振った。
「む、無理だよ、そんなの!」
「そ。だよね、じゃあ俺も無理ってことでごめんね」
「えぇー!」
えぇー、じゃない。どこの世界に無償で裸を見せるアホがいるんだ。
「ギブアンドテイクだよ。俺が君の言うことを聴く義理はないし」
「でも、お金は欲しいだけ払うから……」
「いらないって」
これ以上は時間の無駄だ。振り切るようにトイレから出ようとしたけど。
「……わ、わかった。セックスすればいいんだね?」
なんという事だろう。A君は折れた。
「あれ、ほんとに? 度胸あるなぁ」
……やった!
久しぶりに高校生のセックスが見られるぞ。
内気そうな少年だった為正直かなり驚いたが、最近おじさんばっかり相手にしていたから最高だ。すっかり機嫌を良くして、彼に近付いた。
「誰かアテはいるの?」
「い、今は何とも言えないけど。必ず誰か見つけてエッチするから」
彼がそう言った時、背後で靴音が響いた。
「君達、何してるんだ?」
低いが、自分達の前の壁までよく通る声。生徒じゃない。大人だと悟り、慌てて振り返る。
誰だ?
見たことない顔だけど、教師だろうか。トイレの入口には若い青年がいた。
「もうホームルーム始まるよ」
「あっ、ハイ、すいません!」
一瞬の不意をつき、A君は俺を残し猛ダッシュでトイレから走り去った。なんて奴だ。切り替え早ッ。
「すいません、じゃあ僕も!」
顔覚えられる前に行かないと。愛想笑いを浮かべながら、彼の横を通り抜けようとした。
「あ、ちょっと待って」
ところが、それは叶わなかった。
静止の声に従ったわけじゃない。
大きな音が目の前で響いてビックリした為だ。
逃げたくても逃げられない。俺の顔面スレスレで彼は壁に手をつき、見事に通せんぼをしていた。
「さっきの彼と何の話してたの。……崔本一架君」
「えっ」
フルネームで呼ばれて、今度は恐怖ではなく驚きに支配される。後ろに一歩引き、相対する青年を見上げた。
「何で知ってるんだって顔だな。逆に訊きたいんだけど、俺のこと分からない?」
「……っ?」
彼は、誰から見ても整った顔をしている。俺ほどではないにしろ、イケメンだ。
言われてみれば……見覚えがあるような……。
だから真剣に凝視するけど、やっぱり分からなかった。
「柊先輩って悩みとかないんですか?」「うん?」いつもと変わらない夕刻、隣で動物の動画を見ている彼に問い掛けた。柚と柊は互いの顔を見合わせる。柚はドーナツ型のクッションを抱き締めて、寝転がった。今日も学校帰りに柊の家に邪魔して、二人で過ごしている。それが習慣化してる為、下手したら自分の家よりもリラックスしている。先輩の匂いに包まれてると安心するんだよな……。「悩み~? 今は、特にないけど」「嫌なことも? 柊先輩って本当にすごいですね。人の悪口言ってるのも聞いたことない」「はは、そんなことないよ? それに嫌なことならある。柚に会えないときは、すごい嫌」先輩は俺からクッションを奪い取り、意味ありげに笑った。先輩はフローリングの上に座り、後ろのベットに背中を預けている。でも俺の背に手を回し、わずかに抱き起こした。それだけなのに、何だか嬉しくて震えそうだった。「お前はどう? 俺に会えなくても意外と平気?」「へ、平気じゃありません。俺だって柊先輩がいなきゃ嫌だ……ていうか、もう生きてけません」俺の世界を変えたのは、他でもない柊先輩だ。彼がいない毎日なんて考えられないし、考えたくない。叶うことならいつも一緒にいたい。でもそれは無理だから、こうして過ごせる一瞬を大切にしたいんだ。「わ!?」照れくさいのを我慢してると、突然押し倒されてしまった。ちょっと不安になる。でも先輩の顔が迫ったとき、思わず目を瞑ってしまった。……キス、される気がする。「おーい、柚? 目開けろよ、キスしちゃうぞ」「えっ」どきっとしてすぐに目を見開く。すると先輩は可笑しそうに首を傾げた。「お前ってほんと素直だなー。やっぱりキスするわ」弾んだ笑い声が聞こえた後、頬に優しい口付けが落とされた。それもビクっとしてしまい、恥ずかしい気持ちになる。もう何回もキスしてもらってるのに、未だに慣れない。先輩の視線、手の動き、どれも意識して過剰に反応してしまう。ウブな奴だと思われてしまう。実際はそんなことないのに。「お前、俺に従順すぎるよ。嫌なことは嫌って言っていいんだからな。何でも話せて、我儘も言える。それが恋人だから」柊先輩は俺に馬乗りになって、シャツの中に手を入れてきた。「例えば、こういうこと。気が乗らない時はきっぱり断っていいんだぞ? 断ったら嫌われるかもー、とか思
崔本一架、十七歳。ここ最近のことを振り返る。たった一年の間に本当に色々あったからだ。もはや色々ありすぎてあまり覚えてない。きっと皆も同じ気持ちだと思う。男の担任教師と付き合ったり、男の後輩と男の幼なじみがくっついたり、世の中怖いことだらけだ。ただそういう世界に産み落とされてしまった以上嘆いても仕方ないから、目の前のアイスティーを一気に飲み干した。「俺は比較的まともな感性を持って生まれたけど、変態ばかりいたら性犯罪は増えてく一方だよね。警察はもっと取り締まった方がいいよ。ほんと恐ろしいね、継美さん」「そうだな。俺もお前みたいな奴が溢れかえったらこの世は終わりだと思うよ」最近できた恋人兼恩師、継美さんは笑顔で答える。今は久しぶりのデートで、仲良く彼と食事をしている。人目を気にしながらディープな会話をするのはもう慣れた。「一架、視姦趣味は完璧にやめることできた?」「もちろん、マニアックな趣味からは完全に足を洗ったよ。視姦が俺を求めることはあっても俺が視姦を求めることはないから安心して」「良かった。じゃあもし視姦趣味の奴が目の前にいたら止めようと思うか?」「いや、人の趣味を奪う権利は誰にもないから俺は止めない。もし誘われたら誠意をもってお受けするのがマナーだと思ってるよ」「はぁ……視姦もそうだし、お前のナルシストはいつ治るんだろうなぁ。まぁまだいいけど、社会人になる前には治す努力をしろよ」「うん! でも大丈夫、何も問題ないよ」「問題あるから言ってるんだよ」食事を終えてレストランを出た。街は人工の光で彩られ、夜の闇を感じさせない。人の数だけ輝きを増していくようだ。「継美さん、あと最低でも一万回はデートしようね」「ほー……三十年毎日デートすれば可能かな。でもお前だって大学行ったら忙しくなるし、就職したらもっと時間がなくなる。大変だぞ」人気のない並木道へ着いて、彼は振り返った。背後で、七色の光が幾重にも浮かんでいる。「時間は有限だからな。好きな人と同じぐらい大切にしなきゃいけない。わかるだろ?」「ん……っ」道の真ん中で、二人で立ち止まる。継美さんの問い掛けには反応できなかった。それよりも先に、唇を優しく塞がれてしまったから。柔らかいけど、硬い。硬いけど柔らかい。どう形容したらいいんだ……。「どうした。キスしてやったのに微妙な顔
そうは言っても、子どもみたいに泣きじゃくる柚を見るとため息しか出てこない。本当にしょうがない奴だ。最後まで。柊とアイコンタクトした後、柚のことを強く抱き締めた。「分かったから泣くな。初めて、俺から抱いてやってんだから」普通に恥ずかしかったけど、柊がうんうん頷いてるから我慢する。とりあえずこいつを泣き止ませないことには帰れない。柚には散々振り回されたし、本気で忘れたい思い出ばかりだ。それでも、「会わなきゃよかった」とは思わない。多分俺達は目に見えない腐れ縁で繋がっている。似たもの同士に違いない。柚の頭をぐしゃぐしゃ撫でて瞼を伏せた。「いいか、これからは俺を見習って真っ当な人間になれ。後どんなに辛くても人前で泣くな。満員電車で痴漢扱いされた時以外、男は泣いちゃいけないんだよ」「そういうときこそ泣いちゃいけない気がするけどな……」後ろで柊が何か言ってるけど、聞こえない。ハンカチで柚の目元を強引に拭いた。「じゃあな。基本、柊の言うことを聞いて、プロテイン摂取して、夜道に気をつけて。……危ない真似はすんなよ」「……はい」ようやく泣き止んだことを確認して、もう一度彼の頭を撫でた。「崔本ー、これから打ち上げ行くだろ?」「あ、うん」他の友人から声を掛けられ、慌てて返事する。柊と柚を振り返ると、彼らは笑って頷いた。「行ってらっしゃい、一架先輩」「一架、ちょくちょく生存報告しろよ!」不思議なことに、笑顔は本当に人を安心させる。……前に進む勇気をもらえる。だから俺も、笑って二人に手を振った。「サンキュ。またな!」きっと想像もつかないようなことが、これからも待ち受けている。理不尽なこともたくさんあるけど、弱音を吐きたくなったら今までのことを思い出そう。楽しかったことも悲しかったことも、それを越えて生きてきたんだから……きっと自信に繋がって、勇気が出る。「はー、嫌だけどもうお開きか。崔本も気をつけて帰れよ」「うん。じゃ、みんな元気でね」クラスの打ち上げを終え、カラオケを出た。名残惜しくはあるものの、真っ暗な空は一日の終わりを告げるようでソワソワする。と同時にワクワクする。スマホで時間を確認して、ため息を飲み込んだ。もう少し、もう少し……。友人達と別れた後、不安を振り切るように軽く走った。忘れたいことがある。忘れたくないことがある
卒業生の入場、校長先生の挨拶、卒業証書授与。全てリハーサル通り、順調に進んでいく。エスカレーターにでも乗ってるかのように。体育館の大きな丸時計を眺めながら、式の終了予定時刻ばかり考えていた。中には泣いてる生徒もいた。なのに終わる時間ばかり考えてる自分はかなり冷めてるというか、薄情かもしれない。でもとんとん拍子で進み過ぎて悲しむ間もない。自分が今いる場所すら不確かで、ボロボロの吊り橋の上にいる感覚だ。舞台の端で並んでいる先生達を一瞥すると、真剣な顔で佇む継美さんがいた。気付かないかと思ったけど、ふと目が合う。すると彼は片目を瞑って顎を引いた。多分、式に集中しろと言ってるんだろう。真面目にやるか。彼の注意を受け、そのあとは舞台から目を離さなかった。冷たいパイプ椅子に深く腰掛け、卒業生退場の合図がかかるまで……両手を強く握り締めた。「あぁー、卒業したくないよー!」「みんな、こいつ昨日はさっさと卒業したいって喚き散らしてたぞ! 信じるな!」教室で最後のホームルームを終えた。見送りに来ていた二年生はほとんど下校し、校門前に集まっているのは三年生とその保護者ばかり。それぞれ写真を撮り合い、別れの挨拶を交わしている。担任の先生には花束を渡して、俺も握手した。何かこれだけだと、本当に健全な高校生活を送っていたみたいだ。終わりよければ全てよし、有終の美を飾るという言葉がしっくりくる。「あれ、どうしたの。ボーッとして」「延岡!」まだ蕾の多い桜の木を眺めてると、延岡が笑顔でやってきた。彼は周りの友人から逃げてきたみたいだ。乱れた襟を直して隣に並ぶ。一年前とは別人のように元気になっている。それが内心嬉しかった。「卒業式となると崔本でも感傷に浸るんだな」「あったりまえだろ。俺は元々善良だし、今や誰もが認める秀才だからな。卒業生代表は、優しいから他の奴に譲ったんだよ」「視姦はやめてもナルシストは治らなかったか……」自信満々で答えたのに、延岡は心配そうに零していた。でも俺だって、彼には心配な点がいくつもある。「お前も大学行くんだよな。これからも、朝間さんと会うの?」「うん。心配ならたまーに連絡するよ。何か生存報告みたいだけど」彼は悪戯っぽく笑う。こっちとしてはあまり笑えないけど、明るくなった彼を見たら何も言えなかった。「崔本、元気でね」「あぁ
目線も随分変わったもんだ。小学生のときは中学生が怖かったし、中学生のときは高校生が立派な大人に見えた。でもいざ高校生になってみると、そうでもない。まだまだバカもやるし、社会のルールも理解してない。電車に乗って遠くへ行っても、仕事で必死に頭を下げても、大人になった実感は湧かないまま。“大人”になるって言うのはそういうことじゃないみたいだ。カレンダーをめくって、月日の流れを確認しても同じこと。歳をとってるのは確かなのに、おかしな話。恋人ができてもう一年。長かった高校生活も終わろうとしている。まだ冷える早朝、着信と同時に部屋のカーテンを開けた。『一架、忘れ物はないな? ちゃんと最後に確認して、寝癖がついてないか鏡でも確認するんだぞ』「はあい……」スマホを耳に当てながら、寝ぼけ眼で洗面所へ向かう。口をゆすぎ、爆発した髪の毛を手ぐしで直した。シャツを羽織ながら台所へ向かい、パンを焼く。ボーッとしながら朝のニュースを見て、父の声に耳を傾けていた。電話を無視するわけにもいかず、一応出たものの……先程から些細な注意ばかりでうんざりしている。『帰りが遅くなってもいいけど、戸締りは忘れないこと。それと、あと……』「父さん、今色々言われても頭に入んないよ。寝起きだもん」『仕方ないだろ、卒業式なんだから! 今日みっともない失敗をしたら十年後まで後悔するぞ!』「いいやしない。絶対忘れる」即答すると、電話の先からまた一段大きな声が聞こえた。鼓膜が破れそうだったからスマホを耳から離す。軽く謝った後、焼けたパンにジャムをぬって頬張った。確かに、今日だけは父からモーニングコールが掛かっても仕方ない。“高校生”として登校するのは今日が最後だからだ。いつもより少し早い登校時間。持っていくものを確認して、家の鍵を手に取った。余裕かまして寛いでいたら案外ギリギリなことに気づき、急いで玄関へ向かう。『……ごめんな。本当は見に行ってやりたかったけど、どうしても大事な仕事が入って』「いつものことじゃん。それより遅刻しそうだから切るよ!」『あ、あぁ……。気をつけて』靴を履いて、鏡の前に立つ。自分の制服姿もこれで見納めだ。……結局、父さんにもあまり見せられなかったな。「行ってきます。……これから大学の入学式もあるし、気にしなくていいから。じゃ、仕事頑張って」通話
街灯が一斉に点いて辺りを照らす。夜が来た。急がないと。もう時間だ。一架は慌てて電車を降り、改札口を抜けた。待ち合わせの時間を過ぎている為、人混みを掻き分けて目的の店へ向かう。思いの外時間がかかってしまった。病院を出たあと、特に寄り道もしなかったのに……通り雨に降られたのもツイてなかった。「継美さん、ごめん! 待った?」「全然待ってないよ。……って、言っといた方が株が上がるかな」「ははは。ごめんて、俺も全力疾走はできないからさ」待ち合わせしていたレストラン、その窓際のテーブルで待っていた人物に両手を合わせる。今夜は予定の空いていた継美と食事の約束をしていた。「走らなくていい、むしろ走ったら怒るぞ。お前もまだ全快じゃないんだから」彼からメニュー表を受け取り、食べたい洋食を注文した。待ってる間に、学校では絶対できない話を切り出す。「うん、でも俺、意外と丈夫なんだよね。……それとさっき延岡に会ってきた。思ったより元気そうだったよ」「そうか……良かった。一ヶ月の休学をとったとしても、彼の出席日数なら進級も問題ないからな」継美はアイスティーを口にし、軽く肩を竦めた。「……とは言え、久しぶりの学校は色々不安だろう。戻ってきたら、ちょっと気にしてやれよ」「ああ。友達だからね」最後の一言はかなり小声で言った。ちょうど頼んだ料理が二人分きたから、食べる方を優先する。……ん?継美さんは中々料理に手を付けない。頬杖をついて、じっとこちらを見つめてる。何だ。何か食べづらいぞ。「どうしたの? ご飯冷めるよ?」「いや、ちょっと感動してるんだ。お前は度量だけはあるよな。自分のことより延岡の心配ばっかしてるんだから」「そりゃ、俺はもうピンピンしてるし」軽く返したけど、継美さんがしおらしい理由はわかっていた。「大丈夫だと思うよ……あの二人。もちろん、心配なところは心配だけどさ」「ふう。……だと良いな」朝間さんにされたことも、彼は全部知っている。それを許し、且つ平然と学校生活を楽しんでいる自分に感心しているんだろう。俺は俺で、単純に深く考えない性質なだけだ。だって死ぬわけじゃないし、何かあれば常にやり返してやるつもりでいる。「朝間さんは……相当お前に執着してたからな。まだしばらくは様子見しないといけないけど」継美さんは小さなため息をつく。彼の言







