LOGIN「お前のせいだぞ。分かってるよな?」
目の前で食欲をそそる匂いを漂わせているのは、大盛の牛丼である。
「俺、別に悪く無いですよね?」
隣に座る後輩の前にも同じように大盛の牛丼が鎮座している状態で。彼素早く箸を取ると、備え付けの紅生姜に手を伸ばしながら言われた言葉に反論を返してきた。
「お前が気になること言うから、作業が全然進まなかったんだよ」
自分が理不尽なことを言っているのは分かっていた。それでも愚痴を零してしまうのは単純に、蓄積した疲労と解決しない悩みが残り続けているからだろう。
「そんなこと言ったって、勝手に気にして作業出来なくなったのは先輩じゃないですかぁ」
頂きますの言葉を合図に始まる遅めの夕食。どうせお互い帰宅しても家に一人きりなのだ。食事を作る気力も無いのだからと向かったのが駅前にあるチェーン店で。普段は無い大盛無料を謳ったのぼりがあるなと思ったら、どうやらこの場所に店舗を開設して今月で一周年になるらしく、店頭で宣伝しているとおり『今だけお肉増量中』といった抗いがたい誘惑に負けたことで、気が付けば二人とも食券が手に握られていたというわけだ。
「俺だって被害者ですよ」
口を尖らせながら刻まれた真っ赤な薬味を掴んで行ったり来たり。薬味トングで掴む量は決して少ないものではないのに、どんぶりに放り込まれていく量は自分の手元の物よりも明らかに多く乾いた笑いが零れてしまう。
それから暫くは、特に会話も無く黙々と食事を続けていく。確かに美味いと感じているはずなのに何となく感じる例えようのないえぐみ。噛み砕いた食べ物が喉を通る度、身体がそれを受け入れる事を嫌がり拒絶を示す。
「母さんの作ったもん、久し振りに食べてぇなぁ……」
「ホームシックですか?」
「まぁ、多分?」
自ら腕を振るわなければ味わえない故郷の味を思い出し、無意識に出たのはそんな一言で。どれだけ色んな料理を食しても、結局落ち着くものは慣れ親しんだ味なのだと言うことを思い知らされ気持ちが落ちていく。
「お店とかじゃ駄目なんですよね?」
先に完食してしまった後輩は暢気にお茶を啜り一息吐いたところで、こちらの食事が終わるのを待っている状態だ。
「店に行っても結局、味付けはこっちに合わせてるだろうからやっぱり違うんだよな」
今年は有給を使って、一度地元に戻るかなんて。
「な、なぁ……」
「何ですか?」
「紅生姜、多くね?」
次々と口の中へ放り込まれていく食べ物たち。勢いよく咀嚼し水で流すように飲み込んでから、後輩は言葉を続ける。
「疲れているとき紅生姜が食べたくなるのは、身体が求めている自然な反応なんです」
「そうなの?」
「はい」
何故そうなるのかのメカニズムについて説明を始めてしまった後輩はいつも以上に饒舌で、珍しくずっと喋り続けている。
「生姜煮は胃腸の働きを活性化させる機能があって、疲労回復には最適なんですよ」
「うん?」
「紅生姜ってほら、辛かったり酸っぱかったりするじゃないですか」
「確かに辛いね」
「その酸味ってクエン酸とか酢酸だったりするんですけど、これって疲労物質の乳酸を分解してエネルギーの循環をよくしてくれるんですよね」
「へぇ」
「それに生姜独特の香り成分……シオネールって言うんですけどね。これは胃腸の働きを活発にして食欲増進させる効果があります。それ以外でも塩はミネラル摂取に繋がるし、何よりも普通においしいし」
そう言われてみると、確かに疲れているときの紅生姜は美味しいように感じられる気がしてくる。
「いや! でも、その量は多すぎだって!」
まるで操られたように肉の上に乗せられた紅生姜を口の中へと誘った瞬間襲い来る辛み。若干の甘さを期待していたせいで、裏切られたような気がして正気に戻ると、改めて山盛りになった真っ赤などんぶりを見ながら避難の声を上げた。
「そもそも紅生姜には塩分が結構あるだろ? 食べたくなるのは良いけど、食べ過ぎは論外だろうが」
「そこは個人の嗜好の問題なので、先輩が気にする所じゃありませーん」
自らの健康を顧みない態度に感じる苛立ち。普段から不健康な生活を続けているのだから、せめて食生活だけでも改善してくれと文句を言おうと口を開くが、考えてみれば自分も大差は無い訳で。紅生姜の量こそ違いはあるが、同じように遅い時間からこの量の飯を食べている時点で何も言えないと思い直し口を噤む。
「疲れてるときにジャンクフードが食べたくなるのと一緒ですよ」
気が付いたら後輩のどんぶりの中身は、既に半分が胃袋の中へと消えた後で。
「そう言われると、何となくそんな気がしてきたわ」
「そういうもんです」
それから暫くは、特に会話も無く黙々と食事を続けていく。確かに美味いと感じているはずなのに何となく感じる例えようのないえぐみ。噛み砕いた食べ物が喉を通る度、身体がそれを受け入れる事を嫌がり拒絶を示す。
「母さんの作ったもん、久し振りに食べてぇなぁ……」
「ホームシックですか?」
「まぁ、多分?」
自ら腕を振るわなければ味わえない故郷の味を思い出し、無意識に出たのはそんな一言で。どれだけ色んな料理を食しても、結局落ち着くものは慣れ親しんだ味なのだと言うことを思い知らされ気持ちが落ちていく。
「お店とかじゃ駄目なんですよね?」
先に完食してしまった後輩は暢気にお茶を啜り一息吐いたところで、こちらの食事が終わるのを待っている状態だ。
「店に行っても結局、味付けはこっちに合わせてるだろうからやっぱり違うんだよな」
今年は有給を使って、一度地元に戻るかなんて。脳裏に浮かぶ懐かしい顔を思い出し込み上げるものを必死に飲み込んでいく。
「先輩にもそんなナイーヴな一面があるんですねぇ」
意外だと言葉にしつつそれをからかうことはしない。そんな狡い優しさで気を遣われると、小っ恥ずかしくて顔が赤く染まってしまう。
「煩せぇ! どうせ、柄じゃねぇよ!」
「別にー。良いんじゃないんですか? そういう気持ちになるのも」
店の外には、未だ煌めくのをやめる気配がない光の洪水。これからこの町は昼とは異なる顔を見せていくのだろう。
「実家が近い自分でも、偶には返りたくなることありますしね」
「そうだな」
一口分だけ残った米と肉切れ。それを一気に掻き込むと温くなったお茶で気持ちを切り替え、ゆっくりと息を吐き出したのだった。
◆
「それじゃあ、俺、こっちなんで」
食事が終われば解散の時間は直ぐにやってきてしまう。
「お疲れー」
「お疲れさまでーす」
これだけ親しく付き合っているのに、別れは実に淡泊だ。互いに引き留めることをせず、シンプルな言葉を最後にそれぞれの帰路に就く。
「家が近いって、良いよなぁ」
去って行く後ろ姿が小さくなり完全に見えなくなった瞬間、上げた手を下げ駅の中へと足を進める。
終電まではもう少し時間があるため、この時間でもそれなりに利用客はいるらしい。人の合間を抜けるように移動し目的のホームへ着くと、欠伸をしながら待つ電車。各駅停車の車両は発車案内板に表示された時刻通りにホームへ滑り込み、小さな音を立ててドアを開いた。
家に着くまではまだ距離があり、最寄りの駅に着くまで電車に揺られることになるため、もう少しだけ頑張らなければならないのは仕方が無いだろう。
「ふぅ」
運良く座ることが出来たシート越しに感じるのは、レールの上を移動する度に生じる微弱な振動。一定のリズムで伝わるその感覚は、程よい眠気を連れてくる。
(やばい……寝落ちしそう……)
電車の運行時間を考えると、乗り過ごした時点で帰宅することは困難になってしまうだろう。
(寝ないように気をつけないと拙いよなぁ……)
それでも段々と大きくなるのは己の呼吸音だ。意識を失わないように定期的に瞼を開くが、次第に薄れていく意識。電車の揺れに併せて揺れる身体は、気が付けば手摺りに頭を預ける形で動きを止める。
「そんな……」 信じられない。そう思いはしても、手に入れた情報は男の言葉が真実であると言う事を指し示している。「死者からの依頼だなんて、そう簡単に信じられる訳がないじゃ無いか!!」 常識が邪魔をする。信じたくないと本能が警鐘を鳴らす。明らかな異常から目を背けるのはきっと、危険を回避したいと強く願う防衛本能が働くからだろう。「信じたくないと言っても、これが今起こって居る現実だろう? 自分の目で見ても信じられないって言いたいのか?」 突きつけられる事実が現実だと言われた途端、酷く頭が混乱した。「でも……確かに聞いたんだ。電話で、住んでる人達の声を……」「電話の向こう側に本当に【生きている人間】が存在していたと思うのか?」「え?」「電話から聞こえてくる音ってのはな、人の耳に聞こえるように【調整された作られた音】なんだ。その音が本物かどうかなんて、どうやって確かめるんだよ?」「それは……」 モニターの中で四つの顔がこちらを見ている。その眼窩は酷く落ち込み、本来瞳がある場所には真っ黒な空洞があるのみ。「この黒電話ですら周波数を調整して通話の相手に音が伝わっているんだ。顔を見たことの無い相手の声が、俺達と同じ場所から発信されているものかどうかなんて、誰にも分かりはしないんだよ」「っっ……」 頭では分かっている。それを認めてしまった方が楽になるのだと言う事は。「でも、俺は生きているし、今までそんな事に遭遇した事なんて無いんだよ。そうだよななんて、そう簡単に信じられる訳無いだろう……ん」 それでも常識がそれに歯止めをかける。認めてしまうと後戻りが出来なくなる事を感じて居るのだから。「いずれにせよ、毎正時の電話は対応しないといけない」 相変わらず監視モニターの中で此方を見る住人はそこに居続けている。「そうしないとこの場所に捕らわれ、最終的には俺達もこうなる可能性が高いからな」 目の前のガラスの向こうには存在していない彼等の姿が。「悪いが俺はこうはなりたくない」 彼らを睨む男の目には強い決意が宿っていた。「何としてでも、この建物から出る方法を探してやる」 その姿は初めて会ったときの不気味で情けないものではなく、どうしようもな状況を打破するために戦う事を選んだ戦士のような頼もしさを漂わせているもので。「残り時間はあと一日と数時間……」
「逃げるぞ」 緊迫した空気の中、震える彼の声が廊下に響く。「逃げるぞ!!」 言い終わった瞬間、彼は一目散に階段を目指し走り出した。「お、おい! 待てよっっっっ!!」 慌てて彼の後を追い、自らも階段へと急ぐ。背後からはエレベーターの扉が開く気配。それを確かめたいと思いながらも、彼の見せる異様な焦りに引っ張られるようにして、振り返ることなく急いで階段を駆け下りる。 三階、二階、一階……と階を移動し辿りついた管理人事務室。捲し立てられるようにして鍵を開けさせられると、彼に肩を掴まれ無理矢理部屋の中へと押し込まれる。 続けて彼自身が部屋の中に飛び込み扉を閉め鍵をかけた瞬間、管理人事務室の窓が激しく動き、大量の手形がガラス一面を覆い尽くした。「ひぃっ!?」 何かが居る。姿は見えないが確かにそれがガラスの向こう側に居る事ははっきりと分かる。「……はぁ……はぁ……」 男は以前にも同じ事を経験しているのだろうか。遭遇している現象に怯えている自分とは異なり、比較的落ち着いた様子で目の前のガラスを睨み付けているところを見ると、その可能性は高そうである。「思ったよりも早い」 窓ガラスを叩く音は激しさを増し、いつか枠から外れて割れるのでは無いかとすら思えて、ますます震えが止まらない。いつ終わるかも分からない恐怖体験は、朝が来るまで続くのだろうか。 壁に掛けられた時計の数字を確認すると、時刻は一時四十六分。朝が来るまであと五時間以上も残っている状態。「この状況って、一体何なんだよ!?」 耐えられずそう叫ぶと、その声に反応するかのように窓ガラスを叩く音がピタリと止んだ。「…………え?」 先程までは耳を塞いでも音が止む気配は無かったのに、今は耳が痛い程の静寂がガラスの向こうに広がっている。「……何……が……」 ガラスに残された無数の手形。ただ、それらは時間の経過と共に一つずつ視界から消えていく。「消え、た」 最後の手形が消えた瞬間、一気に疲れが押し寄せその場に崩れ落ちる。漸く不可解な現象から解放されたという安心感のせいか、膝が笑って力が入らない。情けなく笑い終わったんだよなと男に声をかけると、男は一瞬だけ此方を見た後でモニターをのぞき込み渋い表情を見せた。「集まってきた」「…………え?」 集まってきたとはどういうことなのだろう。「何を言ってる
異様に静かな廊下には、生暖かく湿った空気が漂っている。 玄関の硝子の向こう側で激しく降り続ける雨が止む気配は無く、耳障りな雨音が途切れること無く続いている。雨脚が強いため外の様子は分からない。ただ、ぼんやりとした灯りが見えることから、今日は正常に電気が来ているらしいことだけは分かった。「あれ?」 エレベーターの前でシンジゲーターを確認すると、そこに表示されている数字は【一】となっており、昇降機自体もそこに存在している事に驚いてしまう。「なぁ。エレベーターが動く音って聞こえたか?」 エレベーターが始め、何階で止まっていたのかは分からない。ただ、シンジゲーターの数字を信じるのであれば、この機械は本来、四階に止まっていないとおかしいことになる。現在のフロアに機械を下ろすのであれば必ず、何かしらの音が聞こえるはずなのに、今までそのような音は一度も聞いていない。そのことを隣に立つ男に尋ねるのだが、男自身も不思議に思っているらしく、小さく首を振って「いや」とだけ言葉を返してくる。「動いている音は聞こえなかったし、モニターを見ている限りでは動く気配すら無かったぞ」「それじゃあ、何故……」 考えられる可能性は、始めからエレベーターは動いていなかったというもの。だとしたら、あの映像は一体なんだったのだろうか。 改めてシンジゲーターに表示されている数字を確認するのだが、その数は一のままで変化する気配は全く感じられない。方向ボタンを押して中に入り操作盤を確認してみても、ボタンの数は三階までのものしかないため、四階のフロアが存在しているという事実はなさそうである。試しに一番上のボタンを押しフロアを移動してみるが、到着したのは三階で、これ以上、上のフロアに移動することは無かった。「よく……分からないな」 それでも、確かに表示されていた四と言う数字を見たのは事実だ。今確認したことと、先程画面越しに見た情報。大きな矛盾が目の前に突きつけられ、頭が混乱してしまう。無意識に階段へと視線を向けるが、上がった先にあるのは朝に見たのと同じ金属の扉で、そこを開けると屋上に繋がっていて住居スペースは存在しない。 三以上の住居スペースが無い以上、モニター側の不具合である可能性が高くなってきた。「映像が差し替えられている可能性とかあったりするんかなぁ?」 一番
その口ぶりから受ける印象は、完全なる消失を意味しているだろうということだ。「俺の目の前で消えたんだ。まるで、始めからその人が存在していなかったかのようにぱっとな」 この言葉を聞いて感じる怖気。本来ならば訳の分からない場所から解放されたことを喜ぶべきなのだろうが、この話はそんなに単純な事では無い気がして落ち着かない。「まぁ、元の場所に戻ったから、もうここには居る必要がなくなったって感じなんだろうけど、なんて言うかなぁ……もう二度と会えなくなるのかと思うと、なんとも言えない気持ちにはなるよなぁ」 男の言う元の場所とは、どこを指しているのだろう。現実なのか、夢なのか。それともこことは別の雨月マンションの中なのか。残念ながら、その答えを知る前任者は、もう既にこの建物の中から居なくなってしまっている。「まるで、ゲームみたいだ」 現実味の無い生活。思った通りに進むことが無い時間。自由の無い空間の中で、決められたタスクを淡々とこなす。日によって行う任務の内容は変わるが、その行動自体はいつもと同じ。 確かに現実世界でも、日々の生活において繰り返しの行動が無い訳では無い。そでもこんな風に、やらなければ取り返しがつかない妙な義務感というものは、そう頻繁に起こる事では無いだろう。「なぁ……聞いても良いか?」 いつの間にか監視モニターを覗き込んでいる男に向かって声をかける。「もしさ。この世界がゲームの世界だとしたら、無事に生きて出られると思うか?」 自分でも馬鹿な事を聞いているという自覚はある。しかし、どうしてもその言葉を口に出さずには居られない。「俺には良く分からないけど、生きて出る事は可能なんじゃないかな?」 相変わらず男は此方に目を向けることも無く、目の前のモニターをコツ、コツと叩いているだけ。「依頼を達成出来なくても死ぬことは無かったから、怪我をすることはあっても、条件を設定している奴らに殺されるってことは無いと思う」 まるで何かを探すように、映し出される空間を行き来する視線。「まぁ、…………………………。って感じではあるけどな」「……………………」 どうしてこうなったのだろう。改めて、今まで自分の身に起こったことを振り返りながらそんなことを考える。「…………ダメだ。わかんねぇ……」
「このエレベーターってさぁ、今、一体、どこにあるんだろうな?」 画面に映る数字は相変わらず、存在するはずの無い四つ目のフロアを示したまま動く気配が無かった。「…………ひょうじ……エラーじゃ……ねぇの……?」 きっと、機械の不具合でインジケーターに不具合が出ているだけだろう。何も不思議なことなんて無いと強く否定するのに、男は意味深に笑いながらこちらの言葉を否定してくるのは何故だろう。「どうなんだろうなぁ?」 男の指が画面をゆっくりと撫でる。「本当かどうかを確かめるなら、エレベーターを呼び出してみれば良いんじゃないか?」 さも当たり前のようにそう言われて思わず言葉に詰まってしまう。「そう……だけど……」 頭では分かっている。男の言った通り、異常を見せるエレベーターを直接見て確認することが、何よりも簡単で確実な方法だという事は。 ただ、それを躊躇っているのは単純に、何が起こるのか分からないという怖さを感じて居るせいである。 幾ら人が増えたとは言え、この男のことを心から信用出来るほど付き合いが長い訳では無い。余りにも気楽に話せていたせいで忘れて居たが、彼との出会いは最悪な状態からのスタートなのだ。身元どころか、未だに分からない事が多すぎるのに、男の言葉を信じて行動が出来るほど強い精神力は持ち合わせて居ない。「何なら、一緒に確認しに行ってやろうか?」 いつまでも行動を起こさない此方に痺れを切らしたのだろうか。机の上に置いてあった懐中電灯を手に取ると、男はそれを差し出しながらどうするのかと尋ねてきた。「一人で行く訳じゃないし、距離だってそんなに遠くない。ほんの数メートル移動するだけじゃ無いか。何をそんなにビビってんだよ?」「……それは……」 エレベーターと管理人事務室までの距離はそれほど離れている訳では無い。だから、何かあっても直ぐに管理人事務室に引き返すことは可能である。ただ、それでも向かうのを躊躇ってしまうのは、未だに窓ガラスに残されたままの手形が気になって仕方ないからだ。「でも、この部屋の外には何かが居るんじゃ…………」 大きな音が聞こえたとき、手形を付けたものの正体までは見えなかった。ガラス越しに廊下の様子ははっき見えていたはずなのに、姿無き者が残した奇妙な痕跡。もしかしたらその正体が分からない何かは、未だ
「じゃあさ、フレンドにならねぇか?」 思った以上にゲームの話題で盛り上がれたことで気分が大分良くなっていたからだろう。せっかく出しフレンド登録をしないかと誘ってみると、相手は直ぐにその提案に乗ってきた。「やったぜ!」 互いにユーザーIDを調べるため携帯端末の電源を入れて画面を操作し始める。自分の端末は直ぐにアプリのロードが終わりホーム画面が表示されたのに、相手の端末はアップデートをこれから行うため、中々アプリが起動出来ない。「あ」 極めつけに表示されたのは【アップデートに失敗しました。データ容量を確保してください】というアラートで、端末の中を整理しない限りはアップデートを終わらせるのは難しい状況になってしまった。「うわぁ……マジかよぉ……」 差し出された画面を見て、思った以上に落胆している自分に気が付き自分でも驚く。「せっかく一緒にプレイ出来ると思ったのに」 そう言うと、相手は申し訳なさそうに「ごめん」と謝り、画面を見て悩み始めてしまった。「どうしたんだよ?」「いやぁ……何か、消せるアプリが無いかなぁと思ってさぁ」 こちらの落胆に申し訳なさを感じてくれたのかも知れない。男は真剣に端末の中のアプリと睨めっこを始め、次々に不要と判断したアプリを削除していく。それでも中々確保出来ない空き容量に、次第に諦めの気配が漂い始め、遂にはお手上げだとギブアップを宣言してしまった。「スマン。なんとか空き容量を確保しようと頑張ったんだけど、今すぐには無理そうだ」 聞いてみるとクラウドにバックアップ出来ていないデータも端末に入れっぱなしにしているとのことで、それらのアップロードが終わらないと、ゲームのアップデートが進められないようだ。こればかりはどうしよう無いことなので、アップデートが終わった時に改めてフレンド登録をしようということにし、一端は諦めることになった。「それにしても……未だ二時にもなっていない、のかぁ……」 あれから随分と話し込んだと思っていたが、時計を見ると針は未だに一時台を指したままだ。「時計が止まった後は、時間の進み方が異様に遅くなるんだよ」 相変わらず携帯と睨めっこを続けながら、男はさも当たり前だと言うように答える。「正確には時計の進でいる速度は昼と大して変わらないんだろうけど、体感的には昼間よりも何倍も遅く時間が進んでいる感覚に