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#37:透ける街の、優しい夜

作者: 渡瀬藍兵
last update 公開日: 2025-06-19 19:29:30

 やがて、夜の帳がすっかり街を包み込んだ。昼のあいだは静まり返っていた通りにも、いつのまにか人影が増えている。行き交う住人たちを見て、エレナは思わず何度も目を向けた。

「うそ……! これって……」

『やはりな。昼は静かなのも納得だ』

 街を歩く者たちの身体は、淡く透けていた。輪郭は人のままそこにあるのに、足元は夜気に溶けるように曖昧で、地面の石畳さえ向こう側に見えている。幽霊《ゴースト》。それがこの街が夜の街と呼ばれる理由であり、昼の静けさは、彼らが眠る時間だからこそのものだった。

「……!!」

 その光景を前に、エレナの肩がびくりと跳ねる。指先はぎこちなく縮こまり、足取りも目に見えて鈍くなった。聖属性を宿す彼女は、アンデッドに対して絶対的な優位を持つ。それでも、こうした存在そのものに苦手意識があることだけは、どうにもならないらしい。

 その時、ふいにやわらかな手がエレナの肩に触れた。

「エレナ様、大丈夫ですよ」

「ミ、ミストさん……」

 振り返った先で、ミストはいつもの勢いを少しだけ引っ込めた声で続ける。

「彼らは、確かにゴーストです。ですが、この街を見てわかる通り、彼らに敵意はありません。きっと誰かを呪おうとすることも」

 ミストはそう言って、賑わい始めた夜の通りへ視線を向けた。

「ここでの彼らは、私たちとは別の派生へ進化した、新しい生命体と定義づけた方がよいかもしれませんね」

「で、でも……!」

 エレナが言いかけた、その背後から、しわがれた声がそっと落ちた。

「こんにちは……」

 いつのまにか、老婆の霊がすぐ後ろに立っていた。エレナは小さく跳ねるように身を浮かせ、そのまま凄まじい勢いで後方へ飛び退く。

『今、すごい動きをしたな……』

「ふふふ……。大丈夫だよ……。なにも取って食おうだとか、そんなつもりはないからね……」

「エレナ、大丈夫だぜ。オレは何度かここへ来てるんだが、ここで暮らす人たちはみんないい人たちばかりだ」

 グレンが肩越しにそう言うと、老婆はゆっくりと目を細めた。

「怖がらせてごめんよ……。ゆっくりしていっておくれ……」

 そう言い残し、老婆の霊は足音もなく滑るように通りを去っていく。

「エレナ様、行きましょう?」

「……え、ええ」

「とりあえず、宿だな。宿へ行こう」

 ✦ ━━━━━━━━━━━━━━ ✦

 一行は無事に宿を取り、それぞれ荷物を置いたあと、シイナの部屋に集まっていた。

 小ぶりな円卓の上には、宿の主人が置いていった水差しと素焼きの杯が並んでいる。窓の外では夜の街の喧騒がまだ続いており、遠くの楽の音が薄い布を隔てるように部屋の中まで届いていた。卓上のランプの芯が一度、小さく揺れる。

「ということで、今日はこの宿に泊まる。ここは名前の通り夜の街だ。ここを明日の朝に発って、記憶都市メモリスへ向かう」

「なるほど、ここはあくまで通り道と」

「ああ。夜の街からメモリスへ向かった方が効率がいい。道は整備されているし、魔物の危険性もないからな」

 シイナは集まった面々を見回し、そのまま言葉を継いだ。グレンは寝台の端に腰を下ろし、ミストはその隣で小さく踵を揺らしている。エレナは部屋の中央寄りに置かれた椅子に座り、ローブの裾をきちんと膝の上へ整えていた。

「俺たちは東にある禁足地へ向かわなければならない。それは確かに重要な使命だ」

 部屋の中がわずかに静まる。窓の外から流れ込む楽の音だけが、夜風に乗って細く通り抜けていった。シイナはその空気を崩しすぎないよう、少しだけ声音を和らげる。

「とはいえ、なにも観光するなと言われたわけじゃない。道は長いし、まだ時間もかかる。それに禁足地へ着いたら、そんなことも言っていられないくらい忙しくなるはずだ。せめて道中くらいは、各々リラックスしながら観光でもしていこう」

「お、そりゃ助かるな」

 グレンが軽く口笛を鳴らす。その横でミストの目がぱっと輝き、シオンも伏せがちな目元にごく薄い笑みを浮かべた。

 エレナはその輪の中で、胸の前にあった力を少しだけ抜いた。

『シイナさん、すごく上に立つ人の素質を感じるね……』

『そうだな。事実上、奴がこのパーティのリーダーだ。無能なリーダーは、メンバーに無駄な労力を使わせて能力の大半を潰す』

『だが、奴の言葉はメンバーの精神に余裕を与え、本来の力を引き出せる。そういう意味では、なかなか稀有な資質だな』

 シイナは壁から背を離し、円卓の縁に片手を置いた。その指先が、そのままエレナの方へ軽く向く。

「幸い、ここは特殊な街ですからね。観光先には困らないでしょう。……エレナ様、どうしたいですか?」

「えっ……」

 急に話を振られ、エレナの肩が小さく揺れた。視線が一瞬だけ宙をさまよう。

「エレナ様は、ゴーストが苦手でしょう?」

「や、やっぱり……さっき知られてしまいましたか……?」

 声がだんだん小さくなっていく。エレナの指先が、膝の上でローブの布をきゅっと摘んだ。シイナは軽く咳払いをひとつ挟み、続ける。

「コホン……。これはあくまで噂だったのですが、エレナ様がそういう類のものを苦手にしていると」

「っ〜!!」

 その一言で、エレナの頬が一気に赤くなる。伏せた睫毛の先まで熱を持ったように染まり、肩もぎゅっと縮こまった。

 聖女でありながら、そういうものを怖がっている。そのことだけでも十分に気恥ずかしいのに、それが噂として広まっていたのだと思えば、なおさらだった。

(あ、穴があったら入りたい……!)

 身を小さくしたまま、エレナはそろそろと顔を上げる。シイナ、グレン、シオン、ミスト。順に視線を向けていっても、そこにあったのは笑いではなかった。苦笑はあっても、向けられる目はどれもやわらかい。ランプの灯りの下で、からかいだけがきれいに抜け落ちていた。

「あ、あの……。笑わないんですか……?」

 最初に口を開いたのはグレンだった。逆立った赤髪を片手でがしがしと掻きながら、あっけらかんと笑う。

「いくら聖女とはいえ、苦手なもんは苦手だろ?」

 その横で、ミストがこくこくと大きく頷いた。さっきまでの竜巻みたいな勢いを少しだけ抑えた声で、言葉を選ぶように口を開く。

「そうですね。聖女だからといって、それだけで全部平気でいなくちゃいけないわけではありませんよ」

 最後に、シイナが円卓から身を起こし、エレナの目線の高さまで軽く腰を落とした。膝の上に置かれた手からは、普段の硬質な印象が少し遠のいて見える。

「ああ、みんなの言う通りだ。いくらあなたがゴーストを苦手でも、人には苦手なものの一つや二つある。だから、何もおかしいことじゃありませんよ」

 エレナの肩から、ゆっくりと力が抜けていく。摘んでいたローブの布地も、手の中で少しずつほどけた。俯いていた顔が、ほんのわずかに持ち上がる。

「皆さん……」

(みんながそう言ってくれるなら……この街で観光も……悪くないのかな……)

 エレナは膝の上で重ねていた手をそっとほどき、顔を上げた。円卓を囲む仲間たちの視線は、急かすことも、からかうこともなく静かに向けられている。その空気を受け止めたあと、エレナは小さく息を吸った。

「観光……してみたいです」

「……決定ですね。皆はどうする?」

 シイナが周囲へ目を向けると、最初に口を開いたのはグレンだった。寝台に腰かけたまま片膝に肘を乗せ、気軽な調子で答える。

「んー、そうだなぁ。いくら安全が担保されてるとしても、何が起こるかわからないって考えたら、護衛は少しでも多い方がいいだろ?」

「そうだな……。夜は昼間と違って、冒険者の姿も多くなるはずだ」

「人が増えればその分だけ、おかしな人との遭遇率も上がりますからね〜」

 ミストがそう言って自分でうんうんと頷いたところで、シオンが静かに視線を向ける。

「……自己紹介ですか?」

「んなぁ!? 失礼な!!」

 語気を強めるミストに、シイナが呆れたように肩をすくめた。

「はいはい。普段から奇行ばかりしてるお前が悪い。そのせいで、出会ったばかりだってのに皆からそう思われてるんだからな」

「うぅ……!! 私の味方はいないんですか!! 異議ありです!!」

 部屋の中にまた賑やかな声が広がる。そのやり取りの中で、シイナは立ち上がると、エレナの座る椅子の横へ回った。

「ほら、行くぞ。さあ、エレナ様、こちらへ」

 そう言って差し出された手つきは、どこか芝居がかったほど丁寧だった。エレナは目をぱちりと瞬かせたあと、おずおずとその手に応じる。

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  • Soul Link ─見習い聖女と最強戦士─   第115話:立ちはだかる二人

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