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#38:未熟だからこそ、進む夜

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2025-06-29 19:20:12

 夜の街へ足を踏み入れた一行を、無数のランタンが柔らかな灯りで迎えた。通りの両脇には淡い光が連なり、石畳の上に揺れる橙色の明かりが、行き交う影をやさしく照らしていく。

「いらっしゃい……。これを食べていかないかい……?」

 道端の屋台から、年配の男が湯気の立つ包みを差し出した。

「寒いだろう……。これを羽織りなさい……」

 別の店先では、老婆が厚手の上着を両手に掲げて声をかける。

「やすいよー……やすいよー……。商品を買うなら、ぜひ寄っていってね……」

 通りの向こうからは、女の張る声が夜気を撫でるように届いた。

 街のあちこちから向けられるのは、警戒でも不気味さでもない。どれも、冷えた身体を気遣うような、穏やかな声音ばかりだった。

 エレナは足を止めこそしなかったが、肩に入っていた力は、歩くうちに少しずつほどけていく。差し出された品々へ視線を向け、ぎこちなくも小さく会釈を返す横顔から、先ほどまでの強張りが薄れていた。

(みんな……優しい)

 夜の街と聞いたとき、胸に浮かんだのは冷えた空気と、人を寄せつけない静けさだった。まして、ここが|幽霊《ゴースト》の街だと知った直後ならなおさらだ。

 だが、実際にこの街へ出てから触れるものは、そのどれとも違っていた。

(夜の街……かぁ……。|幽霊《ゴースト》の街って聞いたから、冷たいものだって勝手に思い込んでたけど……。全然、違うんだ……)

 通りに灯る明かりを見上げたあと、エレナは少しだけ視線を落とした。自分の抱いていた印象を辿り直すように、まつげがわずかに伏せられる。

 苦手なものが、たった一度で消えるわけではない。それでも、街へ向けていた身構えの内側に、別のぬくもりが静かに入り込んでいた。

「エレナ様、どうですか?」

 隣を歩いていたシイナが、歩調を緩めて声をかけた。

「えっ……?」

 呼ばれて顔を上げたエレナへ、シイナはいつもの落ち着いた調子で続ける。

「どうやら、緊張もだいぶ抜けたみたいなので」

「そう……ですね……」

 エレナは通りを見回し、やがて自分の胸元に手を添えた。

「私の認識とは、たしかに違いました。この街の人々は暖かくて、思いやりに満ちています。でも、私はそんな彼らを……」

 言葉はそこで細くなり、続きは夜気の中へ溶けていく。

「それは仕方ありませんよ」

 横から軽やかに割って入ったのは、ミストだった。明るい声色のまま、人差し指をぴんと立てる。

「苦手が簡単に克服できたら、人間の進化は止まっていたはずです」

「え? 克服できたら、進化するんじゃないのですか??」

 エレナがぱちりと目を瞬かせる。ミストは「あはは」と笑い、肩を揺らした。

「そこは科学者によって意見が分かれますね。でも、私はそう考えてるんです」

 そう言って、ミストは前を向いたまま口元を緩める。

「人間は進化するために、未熟なまま生まれてくる。私は、そう思ってますから」

「ということで〜!! エレナ様、あちらをご覧くださいっ!」

 ミストが勢いよく腕を伸ばした。エレナがその指先を追って視線を向けると、通りの端に、ひときわ怪しげな屋台が据えられている。布で覆われた簡素な造りの横には、大きな看板が一本、これ見よがしに立てられていた。

 ──『霊の身体を体験っ!! 君も一夜のゴースト気分!』

「……幽霊体験?」

 看板を読み上げたエレナの声に、ミストはぱっと顔を輝かせる。

「ええ! 恐怖を感じるのは、きっと未知だからです!! ならば!! 知ってしまえば自ずと恐怖はなくなる! そうは思いませんか!?」

「は、はぁ……」

 勢いに押されるまま返したエレナの横で、シイナが小さく肩をすくめた。

「ミスト、それはお前の持論だろう?」

「むっ!? それはそうですけど!! 実際に知った後と知る前では、大きく違うじゃありませんか!!」

「まぁ、でも言おうとしてることはわかるぜ!!」

 グレンが腕を組み、うんうんと大きく頷く。

「要するに、教官がいて、めちゃくちゃこえーけど、よく知ったらめちゃくちゃいい人だった、みたいなことだよな!?」

「うぅん……!! そうなんですケド……! なんかもう少し大きい例えにしてほしいですね!!」

 ミストはそう言いながらも、あからさまに顔をしかめることはなく、むしろ勢いのまま両手を振ってみせた。

『言わんとしていることは伝わったが……。それを踏まえても、人それぞれだろう。知ったところで怖いものは怖い。それが感情だ。そう簡単にすべてを切り分けられるとは思えんがな』

「まぁ、とにもかくにも! 一度アレを体験してみませんか!?」

 ミストは話を前へ押し出した。

「ちなみに、私はもちろん、初めてこの街を訪れた時に体験済みです!」

「お前、嬉々として体験しに行ったもんな」

 シイナが即座に返すと、ミストは得意げに胸を張る。

「ふっふっふ。やはり人生は体験ですからね! ということで、エレナ様、いかがですか!?」

 勧められたエレナは、看板と屋台を見比べたまま、すぐには答えなかった。通りの灯りが横顔を照らし、視線だけがわずかに揺れる。

(う、うーん……。せっかくのお誘いだし、受けてみたいけど……、ちょっと怖いなぁ……)

『躊躇っているな』

『うん……』

『こいつの言葉を借りるのは癪だが、人生とは体験。うむ、いいことを言ったものだ。君はまだ人生経験が浅く、多くのことを知らない。故に、学びにはなるだろう』

 屋台へ向けていたエレナの視線が、少しだけ落ちる。

『それこそ、この者たちとの出会いの中で同行するようになった旅。これだって、君は少し恐怖を感じていたはずだ』

『うん……怖かった』

『では、今はどうだ?』

『あっ……』

 エレナの目が小さく見開かれる。

『そういうことだ。君は確かに、あの時から一歩進んだ。話の規模は違うが、体験を通して君の視線はより深くなる』

『……そっか。そうだよね。何に対してもビクビクしていたら、成長するタイミングを逃しちゃう』

『……』

 その沈黙のあと、エレナはふっと口元を緩めた。迷いを残していた視線が、今度はまっすぐ屋台へ向く。

「……ええ。体験してみましょう」​​​​​​​​​​​​​​​​

「その意気です! ところで〜……」

 勢いよく頷いたミストが、そこでわざとらしく言葉を切った。嫌な予感でもしたのか、シイナが半眼になるより早く、ミストはくるりと振り返る。

「もちろん皆さんも、体験しますよね?」

「圧を飛ばすな、圧を……」

 シイナが額に手を当てる。その横で、シオンは屋台の方へ一瞥を向けたあと、静かに首を横へ振った。

「私は……遠慮しておきます。そんな得体の知れないものを飲んで、何かあったら嫌ですから」

「んー、俺も別にいいかなぁ」

 グレンも気のない声で続き、屋台よりも通りの別の露店へ興味を移している。

「皆さん、釣れないですねぇ……」

 ミストは唇を尖らせたあと、すぐに標的を変えた。

「シイナ君は、まさか体験しますよね? だって科学者ですもん」

「勘弁してくれ……」

 向けられた視線に、シイナは露骨に顔をしかめる。

「勘弁してくれ……。俺はあの感覚が苦手でな。接地しているはずなのに、空間認識だけがずれていくようで落ち着かないんだ」

「えー……」

 不満をにじませるミストの声に、エレナが小さく苦笑してから口を開いた。

「ミストさん、皆さん遠慮するようですし、私たちだけで行きましょう」

「エレナ様、私たちはここで待ってます」

 シイナが手をひらひらと振って見せる。

「ぜひ、ふたりで体験してきてください」

 その言葉にエレナが頷く。隣のミストもすぐに機嫌を直し、ぱっと表情を明るくした。

 二人は並んで向きを変え、通りの端に出ていた怪しい屋台へと歩き出した。ランタンの灯りがその背中を追い、ざわめく夜の街の中へ、二つの影が溶け込んでいく。

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