数日後。
その日は、まるで世界の始まりを祝福するかのように、一点の曇りもない、どこまでも突き抜けるような紺碧の青空が王都の上に広がっていた。 王都の中央、巨大な円形闘技場の上空には、それ自体が高度な魔法技術の結晶であり、一つの芸術品とさえ称されるべき、いくつもの巨大な“魔導結晶”が、まるで天空の星座のように魔法の力で静かに浮かんでいる。 それらは、これからこの闘技場内で繰り広げられるであろう数々の激闘のハイライトや、出場する選手たちの勇姿を、様々な角度からリアルタイムで鮮明に映し出し、闘技場の外にいる人々にもその熱狂を伝えていた。 まるで、未来の出来事までも見通すかのような、魔法仕掛けの巨大な鏡のようだ。 地軸を揺るがし、天を衝くかのような、勇壮極まりないファンファーレが高らかに轟く。 それに呼応するように、闘技場を埋め尽くした何万という観客席から、まるで堰を切った激流のごとく、割れんばかりの歓声が一斉に沸き上がった。 熱狂の渦が、古の巨人を思わせる巨大な競技場全体を揺るがし、包み込み、そこにいる全ての者の魂を震わせている。 「さあ皆さま!! 長らく、長らくお待たせいたしました! 王都が一年で最も熱く燃え上がり、興奮に染まるこの季節がついにやって参りました! 栄光と誇りを賭けた魔法の祭典、魔法闘技――ただいまより、いよいよ華々しく開幕でございます!!」 闘技場の一角に特設された、まるで鳥の巣のような実況席から、この国で知らぬ者はいないほど有名な司会者の、魔力によって増幅された張りのある声が、闘技場の隅々にまで、まるで神の啓示のように響き渡る。 「出場する栄えある選手たちへ、そしてこれから紡がれるであろう新たなる伝説へ、熱き魂のこもった声援を送る準備は、果たしてできているかーーーッ!!?」 「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!」 観客席から、もはやそれは声援というよりも、一つの巨大な生き物が咆哮しているかのような、腹の底から絞り出す地鳴りのような声が、天に向かって力強く湧き上がった。 ビリビリと、足元から空気そのものが震えているのが肌で感じられるほどだ。 私はそのころ、これから戦いに赴く選手たちが慌ただしく準備をする受付ブースの、さらにその奥まった一角に設けられた、貴賓用の小さな控室にいた。外界の喧騒が嘘のように、そこだけは奇妙なほどに静かな空間だった。 「エレナ君……そろそろ、時間だ。心の準備は良いかな」 落ち着いた、それでいてどこか全てを見通しているかのような、深く優しい声。 声をかけてくれたのは、私たちが日頃から何かと世話になり、そして深く信頼を寄せている、王都大教会の司祭様だった。 この方だけは、私たちエレナとエレンが、この世でも稀有な“二人でひとつ”の存在であることを知り、そして静かに見守ってくれている、数少ない貴重な理解者の一人だ。 「……はい、わかりました。今から、エレンと交代しますね。司祭様、いつもご迷惑をおかけして申し訳ありません」 私は静かに一礼すると、司祭様に優しく促されるまま、受付所のさらに奥まった、他の選手たちの目も届かない、人気のない一室へと向かった。そこが、私たちが意識を交換するための、ささやかな聖域だった。 *** 重厚な木の扉を開けて部屋に入り、静かにそれを閉める。外界の爆発するような喧騒が嘘のように遠のき、まるで時が止まったかのような、あるいは深海に一人取り残されたかのような、絶対的な静寂が訪れた。 私はゆっくりと目を閉じる。意識を、自分の内側の、さらに奥深くへと静かに、丁寧に沈めていく。 (エレン、準備は大丈夫? 緊張は……してないと思うけど、一応聞いておくね) (ああ、問題ない。むしろ、こうして人間相手に、しかも衆人環視の中で真剣勝負をするなど、一体いつ以来だろうな。……ふっ、少しだけだが、確かにこの腕が鳴るというものだ) 彼の声は、いつになく楽しげで、どこか高揚しているように感じられた。その声には、戦いを前にした武人の純粋な喜びが満ちている。 (だからって、くれぐれも、くれっぐれも、やりすぎないでよ……! 相手は魔物じゃないんだからね!) (“くれぐれも”、善処はしよう。だが、手加減を期待するようなら、それはお門違いというものだぞ、エレナ) その、どこか楽しげで、それでいて絶対的な自信に満ちた言葉を最後に、エレナの意識は優しい微睡みの中へと静かに沈んでいき、身体の主導権は完全に“私”へと移った。 そして――こうして、 “魔法を使わぬ王国最強の剣士”エレンの、ベルノ王国の歴史においても前代未聞となるであろう戦いが、 いま、始まろうとしていた。 ふわりと、束ねていた白銀の髪が解かれ、月光を練り込んだかのように肩先で揺れる。閉じていた瞼がゆっくりと開かれると、そこには夜の闇よりも深い、けれどどこか妖しい光を湛えた深紅の瞳が静かに輝いていた。 *** ――そこは、ベルノ王国が世界に誇る中央闘技場。古の英雄たちがその技を競い合ったという伝説の地。 天空にまで届きそうなほどの壮大な高壁に四方を囲まれたその巨大な舞台は、かつて古代の闘技建築を参考に、当代最高の魔導技術と建築技術を結集して建造されたとされる、壮麗なる“円形闘技城”だ。 外周を取り囲む壁は、聖都から切り出されたという純白の磨き石を基調にした、息を呑むほどに荘厳な造り。 しかし、ただ古いだけではない。その純白の壁面の至る所には、古代ルーン文字を模した複雑怪奇な魔導細工によって、幾何学的な紋様が緻密に刻まれている。それは装飾であると同時に、闘技場全体を保護し、魔力を安定させるための高度な術式でもある。 そして、夜になると、その紋様一つ一つが淡く、幻想的な光を灯し、闘技場全体をまるで星空のように照らし出すのだという。 私はまだ見たことはないが、想像するだけで壮観だろう。 そして――今、私がこれからその身を投じることになる“試合の舞台”。 そこは、希少な魔導石を惜しげもなく練り込み、魔法的な衝撃や物理的な攻撃にも耐えうるように特別に強化された床石が敷き詰められた、闘技場の中心、地面に直接設置された広大な円形の戦闘フィールド。 赤茶色に焼かれた硬質なレンガが、寸分の隙間もなくびっしりと敷き詰められており、その光景はまるで、古代の剣士たちが血と誇りを賭けて舞った“戦いの祭壇”そのもののようだった。 何万人もの観客がひしめく観客席からは、その神聖なる舞台全体を、まるで神が天上から見下ろすかのように設計されており、選手の一挙手一投足、どんな小さな剣の動き、どんな微かな呼吸の乱れも――その全てが、何万という熱狂的な視線に容赦なく晒されることになる。 剣が硬いレンガの床を擦る、シャリ、という乾いた音さえ、観客たちの高鳴る心臓の鼓動と共鳴し、この広大な空間全体に不気味なほどクリアに響き渡るだろう。 まさに、“見られる戦い”。そして、“魅せる戦い”が求められる場所。 それが、このベルノ王国中央闘技場だ。 「ふふ……どうやら、さっそく私の出番らしいな…初戦から注目されているというのは、悪くない気分だ」 手にした組み合わせ表に記された、私の初戦の相手は、炎系統の魔法を得意とする騎士見習いの少年・グレン。肩書きこそ“見習い”とはなっているが、この魔法闘技の本戦に出場してくる時点で、その実力は折り紙付きと見て間違いない。 いかなる相手であろうと、油断はしない。それが私の信条だ。 私は闘技場の選手入場ゲートから、ゆっくりと、しかし確かな足取りで、太陽の光が燦々と降り注ぐ闘技場の中央へと歩み出た。その瞬間、割れんばかりの歓声と、好奇の視線が一斉に私に突き刺さるのを感じた。 *** 「さぁさぁ! これから始まる熱き戦いを前に、改めてこの魔法闘技の基本ルールを説明するぞぉぉ!! 初めて観戦する方も、毎年来てくださっている常連の方も、よーっく聞いてくれよな!!」 先ほどの実況の声が、再び闘技場全体を震わせるように高らかに響き渡る。 その声には、聞く者全てを興奮させる不思議な魔力が込められているかのようだ。 「まず! 選手には全員、魔法研究所が開発した特製の“透明化する祝福の鎧”を装備してもらう! この鎧は一定以上のダメージを受けると破壊され、その時点で勝負あり! もちろん、闘技場の円形舞台から場外に落ちたり、弾き飛ばされたりした場合も、即・敗北となるぞ!」 「だが心配ご無用! たとえ相手の強力な魔法や剣技でぶった斬られたとしても大丈夫だ! この鎧には高位の治癒の祝福が付与されており、致命傷になるような大怪我は最小限に抑えられる! 安心していけーっ!」 「さらに! 当然ながら、気絶させられた場合も即負けだ! 以上ッ! ルールは至ってシンプル! あとは選手たちの純粋な実力と魂のぶつかり合いを、思う存分楽しんでくれェェ!!」 その説明が終わると同時に、観客席が再び大きく揺れる。万雷の拍手、期待を込めた歓声、力強い足踏み、そして爆ぜるような興奮の叫び。 まるで大地そのものが、これから始まる戦いに向けて喜び、沸き立っているかのようだった。 以前の私であれば、このような見世物じみた興行には、おそらく何の興味も示さなかっただろう。 だが、今の私は違う。エレナと共に生き、様々な経験を積んだ今の私は、純粋に思う。 “未知なる強者と、この剣を心ゆくまで交えることができる”――ただそれだけで、私の心の奥底で眠っていた何かが疼き、胸が高鳴るのを感じる。 *** 闘技場の反対側のゲートから、一人の青年が姿を現した。私の初戦の相手だ。彼はまっすぐこちらを見据え、堂々とした足取りで近づいてくる。 天に向かって逆立つ黄金色の髪が、降り注ぐ太陽の光を反射して、まるで本物の炎のようにきらきらと輝いている。その短く切り揃えられた前髪の下から覗く、燃えるようなオレンジがかった瞳が、獲物を見つけた肉食獣のようにギラリと鋭く光った。 身に纏っているのは、白を基調としながらも、情熱的な赤いラインがアクセントとして随所に走る、王道の騎士服。 しかし、よく見れば、肩や脇腹の部分には動きやすさを重視したスリットが大胆に入っており、実戦を想定した機能的な設計であることが窺える。その出で立ちは、まさに彼自身が持つ“燃えるような情熱”と“揺るぎない正義感”を、そのまま形にして纏ったかのようだった。 「アンタが、噂の“S級剣士”エレン……ってやつか? まさか、これほどの使い手とはな」彼の声は若々しく、自信に満ち溢れている。 「ああ。エレンだ。よろしく頼む、グレン」 私は静かに応じる。 「へえ……女だったとはな。まあ、ギルドの資料には性別不明とあったが……けど、相手が女だろうと、S級だろうと、俺は一切容赦はしねぇぞ?」 それは一見、軽口のようにも聞こえるが、その目に宿るのは侮りや油断の色ではない。むしろ、私の力量を慎重に“見極め”ようとする、真剣な探求の視線だ。 「ふふ。おうとも。遠慮はいらない。全力で来い。」 「……へぇ。どうやら、俺の炎の噂は、あんまり耳に入ってねぇみたいだな? 後悔するなよ?」 彼が腰に佩いた、鍔広の騎士剣の柄に手をかけた、その瞬間。 私もまた、音もなく静かに、腰の愛剣の冷たい柄を握り、鞘から滑るように刃を引き抜いた。磨き上げられた白銀の刀身が、太陽光を浴びてまばゆい光を放つ。 互いの視線が、まるで交差する刃のように鋭く交差し、火花が散るかのような緊張感が、二人の間に張り詰める。 ──ゴォォォーーン!!── その時、王国の平和を告げるはずの荘厳な鐘の音が、闘技場に高らかに鳴り響いた。 それが、“開戦”の合図。 私は迷いなく、一瞬にして地を蹴った。 躊躇も、探り合いも不要。 瞬きする間に間合いを詰め、狙うはがら空きの胴へ… 雷光の如く鋭く一突き――! 「っ……うぉっ!? なんだその速さ……!」 咄嗟に、彼は驚愕の声を上げながらも、反射的に剣を盾にするようにして私の突きを防いだ。 だが、その防御は完全ではない。 私の剣先は、彼の剣の側面を滑り、浅くではあるが脇腹の鎧を捉える。 火花が激しく弾け、甲高い金属音が澄み切った青空に鋭く響き渡る。 ガキィィン!! 「ちっ……やるじゃねぇか……! 少しは楽しめそうだぜ! なら、こっちの番だ!!」 グレンの体勢がわずかに崩れたのを見逃さず、私は即座に追撃を仕掛けようとしたが、彼はそれを許さない。 体勢を立て直しながら、その右手の剣に、まるで彼の怒りが具現化したかのように、瞬時に紅蓮の炎が灯る。 燃え盛る魔力が渦を巻きながら刃に収束し、剣全体が灼熱の炎の塊と化す。彼はそれを、力任せに、しかし正確に私めがけて振り下ろす――! 私はその一撃を冷静に見極め、最小限の動きで一歩、左に跳んで回避し、着地とほぼ同時に、流れるような動きで剣を横薙ぎに振り抜いた。 「ぐっ……! 速い、だけじゃねえのかよ……!」 私の放った鋭い斬撃が、彼の騎士服の肩口、祝福の鎧がわずかに薄い部分を正確に斬り裂く。パキン、と硬質な破壊音が響く。 その衝撃で、彼の体勢が大きく崩れたその瞬間 ――好機、逸すべからず。 私は再び踏み込んで、一切の迷いなく、がら空きになった彼の胴体へと、体重を乗せた鋭い蹴りを叩き込む。 ドガッ! という鈍い衝撃音。 「……ッ! がはっ……!」 短い悲鳴と共に、まるでボールのように身体が弾かれ、グレンは為す術もなく闘技場の硬い床に尻もちをつく。 そのまま地面に両手をつき、信じられないものを見たかのように、驚愕と混乱に染まった表情で、呆然とこちらを見上げていた。 「ま、まじかよ……。これが……S級の、剣……?体術まで使うとは…」 ほんの数合、刃を交えた一瞬で、攻撃の主導権を完全に奪われ、赤子のようにあしらわれたという衝撃。その計り知れない力量差に対する動揺が、彼の全身から隠しようもなくにじみ出ていた。 そして――その瞬間を待っていたかのように。 「エレン!! エレン!! エレン!! エレン!!」 観客席から、先ほどまでの比ではない、まさに地鳴りのような大歓声が、エレンの名を呼ぶチャントとなって湧き上がる。 純粋な驚きと、興奮と、そして圧倒的な強さに対する惜しみない賞賛の声が、巨大な波のように闘技場全体に押し寄せてきた。 私はその喧騒を背に受けながら、静かに、だが確かな手応えを感じながら、再び剣を中段に構え直す。 (……まだだ。まだ、私の満足には程遠い。) 真に燃え上がるのは、熱狂するこの会場の雰囲気ではない。 この、剣を通じて相手の魂と触れ合うかのような、ヒリつくような“剣の感覚”――それこそが、この私を、今もなお熱くさせる唯一のものなのだ。シイナが私の一撃を、常人離れした体捌きで辛うじて防いでみせた。 その反応速度、危機的状況での冷静な判断力…。 この男、シイナ。 彼は単なる魔法研究所の研究員という仮面の下に、恐るべき戦士の素養を隠し持っている。 「まさか、初手から本気で首を獲りに来るとは……。あなたの戦い方は、本当に予測がつきませんね」 額に滲んだ汗を手の甲で拭いながらも、シイナの瞳からは先ほどまでの驚愕の色が薄れ、 代わりにどこか挑戦的な、それでいてこの状況を楽しんでいるかのような獰猛な光が宿っていた。 焦りの色は見て取れる。 それは、純粋に、力量差に対する焦りだ。 私はその言葉に答えず、ただ静かに、抜き放った剣の冷たい切っ先を揺らぎなく彼に向けた。 「さあ、次の一手はどう出る? 私を驚かせてみろ」 「はは……言ってくれるじゃないですか。ならば遠慮なく、これで行きますよ!」 先ほどまでの構えから一転、 シイナの両の手に瞬時に魔力が奔流のように集中し、金属質の重々しい輝きと共に二振りの細身の剣をその場で練成する。 そして、風を裂く青白い軌跡を描きながら、|一気呵成《いっきかせい》に私へと斬り込んできた。 鉄属性による武器生成、そして流れるような双剣術。見事な練度だ。 ――速い。 そして、一撃一撃は軽いと見せかけて、その実、的確に人体の急所を抉らんと迫る。 だが、その太刀筋は、今の私にとっては手に取るように、いや、その先の先まで手に取るように読める。 ギィンッ! ガンッ! カキィィン!! 小気味良い金属音が連続して闘技場に木霊する。 彼の繰り出す無数の斬撃は、一切の無駄がなく、剃刀のように鋭利だ
渾身の力を込めた私の回し蹴りが、寸分の狂いもなくシオンの顎を捉え、その衝撃で彼の意識を刈り取った。鍛え上げられた彼の身体は、力なく闘技場の硬い床へと崩れ落ちる。──そして、数瞬の静寂の後、どれだけ待っても彼が再び起き上がってくる気配はない。『しょ、勝者ぁぁぁぁ!!!! エレンゥゥゥ!!!! またしても圧勝! 魔法なき剣士、その強さ、底が知れなぁぁい!!!!』実況の絶叫にも似たシャウトが闘技場に木霊したその瞬間、先ほどまでの静寂が嘘であったかのように、会場全体が地鳴りのような割れんばかりの大歓声に包まれた。それはもはや称賛というよりも、畏怖と熱狂が入り混じった、人間離れした者への賛歌のようだった。数秒後、白い制服に身を包んだ治療班らしきスタッフたちが、慌ただしく担架を持って舞台下から駆けつけてくる。「おい、意識確認! 大丈夫か!?」「すぐに動かすぞ! 肩を貸せ!」「ああ、いくぞ、せーのっ!」しかし、屈強そうに見えるスタッフ2人がかりでシオンの身体を運ぼうとしたが、その見た目からは想像もつかない重みに、彼らの顔が明らかに苦悶に歪む。「……お、おもっっ!?!?!? なんだこれ、鉄塊でも抱えてるみたいだぞ!?」「だ、ダメだ、これじゃ運べん! もっと人を呼べ! 一体なんなんだ、この人の異常な重さは……!」……それは、さすがに口に出して言ってやるな、と私は内心で苦笑する。恐らく、彼のあの流麗かつパワフルなトンファー捌きを可能にしていたのは、この異常なまでに高められた筋肉の密度なのだろう。それはもはや、常人のそれとは比べ物にならないレベルに達しているに違いない。私自身、先ほどの攻防で彼の攻撃を柔の構えで受け流したつもりだったが、いまだに手のひらがジンジンと痺れている。あの細身のどこに、あれほどの質量が隠されているというのか。結局、屈強なスタッフがもう一人加わり、三人がかりでようやく担架に乗せられ、完全に白目をむいたシオンが、まるで戦場から運び出される傷病兵のように運ばれていった。その姿に、観客席からは労いの拍手が送られている。私はその光景を静かに見送ると、ただ静かに闘技場の舞台を後にする。(エレン、今日も本当に素敵だったよ! ハラハラしたけど、最後はやっぱり圧巻だったね!)控室へ向かう通路を歩いていると、エレナが心の底から嬉しそうに、そして少し
私は、あの独特の喧騒と期待感が渦巻く円形の舞台に、再びその身を置いていた。今日の対戦相手は――“風薙ぎの傭兵”と異名を取る、風使いのシオン。資料によれば、風の魔法を巧みに用いた“トンファー”術の使い手で、魔法使いでありながら、本人の近接戦闘における肉体の練度も相当に高いらしい。一筋縄ではいかない相手だろう。先のグレンという若き騎士との戦いもそうだったが……この魔法闘技という舞台、存外、私の渇きを癒してくれるのかもしれない。強者との真剣勝負は、いつだって私の心を昂らせる。(エレン、今日も油断しないで、頑張ってね。応援してるから)エレナの、いつもと変わらぬ優しくも真剣な声援が、意識の奥でそっと響く。(おうとも。この私に抜かりはない。君は安心して見ていてくれ)私は短く、しかし絶対的な自信を込めて応じた。『さあさあ、レディースアンドジェントルメーン! 本日もやってまいりました、魔法闘技! 現在、人気・実力ともに最注目の剣士、エレン選手の登場だァァァ! そしてそのエレン選手を迎え撃つは、神出鬼没の風の傭兵、シオン選手の入場だァァ!!』闘技場全体を震わせる実況者の声が、まるで開戦の号砲のように高らかに響き渡る中、闘技場の反対側のゲートから、私の対戦相手が静かに、しかし確かな存在感を放ちながら姿を現した。息を呑むほどの、中性的な美貌。すらりとした長身で、しなやかな肢体。整いすぎた顔立ちは、一見しただけでは男か女か、判別がつかないほどに中性的で、どこか人間離れした、近寄りがたいほどの美しさを湛えている。艶やかな濡羽色の髪は、耳元までの長さに切り揃えられており、その一部が左目を隠すように、ミステリアスに流れている。身に纏うのは、濃紺色の地に銀糸で風の紋様が刺繍されたロングチュニック。それは肩から裾へかけて、まるで風の流れを体現するかのように緩やかで優美なラインを描き、対照的に袖は肩口から大胆に切り落とされたノースリーブ仕様で、鍛えられた白い両腕が惜しげもなく晒されている。その静かな立ち姿は、どこか捉えどころのない風そのもののようで、その深淵は容易には読めない。彼は私の方へゆっくりと歩み寄り、優雅な仕草で一礼すると、鈴を転がすような、性別を感じさせない透き通った声で名乗ってきた。「初めまして、エレン殿。私はシオンと申します。ご覧の通り、風属性の魔法使い…
『勝者は――エレンだァァァ!! 圧倒的! 魔法を使わぬ剣士、初陣を見事勝利で飾りましたァァァ!!』割れんばかりの大歓声と、実況の興奮しきった声が、巨大な闘技場全体を揺るがし、私の鼓膜を激しく震わせる。先ほどまでの剣戟の金属音はもう聞こえない。ただ、熱狂だけがそこにあった。(……ふぅ。エレン、お疲れ様。すごい戦いだったね。ちゃんと満足できた?)エレナが、試合の興奮冷めやらぬ私の意識の奥で、労うように静かに問いかけてきた。その声には、安堵が混じっているような気がする。(ああ。初戦の相手としては申し分なかった。久々に血が騒ぐ感覚を味わえたよ。実に楽しかった。)私は内心の満足感を隠すことなく答える。(なんだか……最後の方、ちょっと師匠みたいだったよ? グレンさんのこと、すごく見定めるような目で見てたから)エレナが、くすくすと楽しそうに笑う気配が伝わってくる。ふっと、私自身も思わず笑みがこぼれてしまう。確かに、あの若き騎士グレンの、荒削りながらも非凡な才能と、何よりあの燃えるような闘争心を感じた瞬間――私は無意識のうちに、弟子を導いていた時のような目で彼を見ていたのかもしれない。磨けば光る原石、というやつか。(……さて、エレナ。名残惜しいが、そろそろ代わろうか。長居は無用だろう)(うん。わかった。ありがとう、エレン)私はゆっくりと意識の主導権を手放し、身体の感覚がエレナへと戻っていくのを感じながら、意識の表層へと浮上していく。白銀の髪が陽光を吸い込み、再び柔らかな金色へと変わっていく。深紅の瞳は、澄んだ碧空の色を映す。金の髪に、碧の瞳――私、エレナとしての姿に、完全に切り替わった。闘技場の喧騒が、少しだけ遠くに感じられる。(ねえ、エレン。せっかくだから、他の選手の試合も少し観ていかない? 面白そうな魔法を使う人がいるかもしれないし)(ふむ、それも一興だが……確か君は今日、昼過ぎから教会で大切な用事があったはずだが? 忘れたわけではあるまいな?)エレンの、少し呆れたような、それでいて冷静な声が響く。――そうだった!! すっかり、綺麗さっぱり忘れてしまっていた!!エレンのあまりにも楽しそうな試合運びと、闘技場の熱気に当てられて、今日の午後に予定していた「祈りの時間」のことが、頭から完全に抜け落ちていたのだ!(わぁぁ! ありがとう、エレン
土埃が舞い、観客たちの熱狂的な声援がドーム状の闘技場に反響していた。先程までの激しい攻防で抉れた地面に、グレンはゆっくりと、しかし確かな意志を込めて立ち上がった。その肩は大きく上下し、額からは汗が滝のように流れ落ちている。「アンタ……とんでもない動きするな……!まるで疾風だ」掠れた声でグレンが絞り出す。その瞳には、驚愕と、それ以上に強い闘志が宿っていた。「ふふ。あいにく魔法は使えなくてね。その代わり――肉体の動きやしなやかさ、反応速度、それらを誰よりも研ぎ澄ませてきたのさ」私は、鞘に収めるにはまだ早いと判断し、剣の切っ先をわずかに下げただけの構えを解かずに微笑む。観客席からの興奮した声が、耳に届いていた。「へへっ……なにが“魔法が使えない”だよ。あんたの動き、どう見ても魔法で肉体強化してなきゃ無理なレベルだぜ。そうでなきゃ、俺の剣をあんな紙一重で避け続けられるもんか」グレンの声はまだ震えている。しかし、それは恐怖から来るものではない。強者と対峙した武人としての本能が、彼の全身を高揚させているのだ。いわゆる武者震い――いい目をしている。「ならば、“肉体魔法”とでも呼ぼうか。私が編み出し、私だけが使える、至高の魔法だ」軽口を叩きながらも、私はグレンの一挙手一投足を見逃さない。彼の指先が微かに動いた。次に来るのは――「……さっきは不覚を取っちまったが! 今度こそ俺の番だァ!!」グレンが吠えると同時に、その両の手のひらに揺らめく炎が宿った。直径30センチほどの炎の塊が、周囲の空気を歪ませる。私にいきなり飛びかからず、まずは魔法で牽制、あるいは足止めするつもりか。構えを見るに、騎士道を重んじる実直な男なのだろう。好感が持てる。私は、意識を集中させた。次の瞬間、グレンが右腕を振り抜き、灼熱の火球を放ってくる。ゴウッ、と空気を焦がす音を立てて迫るそれに対し、私は地を強く蹴った。火球の軌道を冷静に見極めながら、最短距離でそれをすり抜けるように右へと疾走する。「なんだその速度……!?目で追うのがやっとだ……!でも、まだだァァァ!!」彼は私の動きを捉えようと懸命に視線を動かし、そして見事に次の行動を予測してみせた。私の移動先を塞ぐように、時間差で放たれた第二の火球が、的確に私の正面へと飛んでくる。だが、その程度で私の歩みを止められると思う
数日後。その日は、まるで世界の始まりを祝福するかのように、一点の曇りもない、どこまでも突き抜けるような紺碧の青空が王都の上に広がっていた。王都の中央、巨大な円形闘技場の上空には、それ自体が高度な魔法技術の結晶であり、一つの芸術品とさえ称されるべき、いくつもの巨大な“魔導結晶”が、まるで天空の星座のように魔法の力で静かに浮かんでいる。それらは、これからこの闘技場内で繰り広げられるであろう数々の激闘のハイライトや、出場する選手たちの勇姿を、様々な角度からリアルタイムで鮮明に映し出し、闘技場の外にいる人々にもその熱狂を伝えていた。まるで、未来の出来事までも見通すかのような、魔法仕掛けの巨大な鏡のようだ。地軸を揺るがし、天を衝くかのような、勇壮極まりないファンファーレが高らかに轟く。それに呼応するように、闘技場を埋め尽くした何万という観客席から、まるで堰を切った激流のごとく、割れんばかりの歓声が一斉に沸き上がった。熱狂の渦が、古の巨人を思わせる巨大な競技場全体を揺るがし、包み込み、そこにいる全ての者の魂を震わせている。「さあ皆さま!! 長らく、長らくお待たせいたしました! 王都が一年で最も熱く燃え上がり、興奮に染まるこの季節がついにやって参りました!栄光と誇りを賭けた魔法の祭典、魔法闘技――ただいまより、いよいよ華々しく開幕でございます!!」闘技場の一角に特設された、まるで鳥の巣のような実況席から、この国で知らぬ者はいないほど有名な司会者の、魔力によって増幅された張りのある声が、闘技場の隅々にまで、まるで神の啓示のように響き渡る。「出場する栄えある選手たちへ、そしてこれから紡がれるであろう新たなる伝説へ、熱き魂のこもった声援を送る準備は、果たしてできているかーーーッ!!?」「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!」観客席から、もはやそれは声援というよりも、一つの巨大な生き物が咆哮しているかのような、腹の底から絞り出す地鳴りのような声が、天に向かって力強く湧き上がった。ビリビリと、足元から空気そのものが震えているのが肌で感じられるほどだ。私はそのころ、これから戦いに赴く選手たちが慌ただしく準備をする受付ブースの、さらにその奥まった一角に設けられた、貴賓用の小さな控室にいた。外界の喧騒が嘘のように、そこだけは奇妙なほどに静か
「本当に……本当に、ありがとうございました! エレナさん、そしてエレンさんにも、どうかよろしくお伝えください!」ギルドの受付カウンターで、いつもの快活な受付嬢が、カウンターから身を乗り出すようにして深々と頭を下げてきた。その声には、心からの感謝と安堵が滲んでいる。「依頼を受けたのは主にエレンですから……次に本人がギルドへ顔を出したとき、直接たくさんお礼を伝えてあげてくださいね。」私はにっこりと微笑みながら、安心させるようにそっと言葉を添える。「今日のこの感謝の気持ちはしっかりエレンに伝えておきますから。きっと喜びますよ」「もちろんです! ぜひお願いします! それにしても……今回の特殊個体のグール、ギルドに所属する他のSランクの冒険者の方々でも、単独での討伐はかなり難しかっただろうって、討伐後の調査チームから報告が上がってきているんですよ」その言葉に、私は思わず小さく息を呑んだ。──S級冒険者それは、単なる腕利きの冒険者という範疇を超え、一国の“戦略的戦力”とさえ呼べるほどの絶対的な実力者たちの総称。その、選ばれし彼らでさえ容易には打ち破れないほどの魔物だったというのだろうか。「そ、そんなに……手強い個体だったんですね……? 」受付嬢は私の驚きに、こくりと静かに、しかし重々しく頷いた。「ええ、尋常ではありませんでした。異常個体のグール……討伐現場に残されていたわずかな血痕や体組織を魔法研究所で詳しく分析してもらったのですが、あきらかに通常の魔物の組成とは異なる、未知の反応を多数示していたそうですよ。まるで、何かの実験で生み出されたかのような……」「それに――」受付嬢はそこで一度言葉を切り、周囲に人がいないことを確認するように声を潜めながら続けた。その瞳には、畏敬と興奮が入り混じったような複雑な色が浮かんでいる。「その規格外のグールをほぼ完璧な形で倒せたのは、皮肉なことに、“魔法が一切使えない”エレンさんだったからこそ……というのが、ギルド上層部の正式な見解なんです」「もし、他の魔法を得意とする冒険者の方だったら、もしかすると“たかがグールの一種”と、どこかで油断してしまっていたかもしれませんし、既存の魔法体系での対処に固執してしまった可能性も否定できませんから……」……その言葉に、私はハッとする。胸の奥を、鋭い何かで突かれたような衝
夜の闇に慣れた深紅の瞳が、前方に立ちはだかる異形の影を正確に捉える。私は、右手に握る馴染んだ長剣と、左手に逆手で持った短剣の二刀を、水が流れるように静かに構えた。目の前に立ちはだかるのは、先ほどまでの雑魚とは比較にならぬほどの瘴気を放つ特異個体のグール。その醜悪な巨体からは、低い獣のような唸り声が絶え間なく漏れ、再びこちらへ突進せんと全身の筋肉を不気味に|蠢《うごめ》かせている。 「……来い。その首を刎ねてやる」私の挑発に応じるかのように、咆哮とともに振り下ろされるのは、岩をも砕きそうな太く鋭い獣のような爪。それは風を切り、死の宣告のように私へと迫る。しかし、私はその攻撃を予測していたかのように、最小限の動きで体をひねって紙一重でそれを回避する。巨腕が空を薙ぎ、私のすぐ横の壁に叩きつけられ、石片が砕け散る音を立てた。着地とほぼ同時に、私は体重を乗せた鋭い突きを繰り出す。グシャッ――!右手に握る長剣の切っ先が、狙いすましたその巨大な右目に、まるで吸い込まれるように深く突き刺さった。肉を抉る鈍い感触が、柄を通じて私の手に伝わる。「カァァァァァァガアアアアアアッ!!」眼球を破壊された激痛に、巨体が大きく仰け反り、耳をつんざくような絶叫が下水道の狭い通路に反響し、壁をびりびりと震わせる。血飛沫と、おそらくは眼球の破片らしきものが周囲に飛び散った。間髪入れず、今度はその左腕が、まるで巨大な鉄槌のように横薙ぎに振り上げられるのを見た瞬間、私は即座に後方ではなく、あえて横へと大きく跳躍する。空中でしなやかに身体をひねり、勢いを殺すことなく、そのまま右目に突き刺さったままの長剣の柄を強く握り、──力任せに引き抜く。ブシュウウウッ――!噴水のように、粘度の高い紫色の血が大量の飛沫を描いて闇に散る。眼窩からは、もはや原型を留めぬ何かが溢れ出していた。「……次だ」私は一瞬たりとも攻撃の手を緩めない。即座に構えを切り替え、左手に逆手で持っていた短剣を順手に持ち直し、標的を定める。一瞬の溜めもなく、残された左の眼窩めがけて、投擲ではなく直接、渾身の力を込めて突きを放つ――ザクッ!短く鋭い刃が、抵抗も少なく眼窩の奥深くを正確に貫き、おそらくは脳の一部にまで到達したかのような重い手応えと共に、肉の奥深くまで沈み込んだ。両目の視界を完全に失ったグールが、もは
(エレン……大丈夫? 数が多いけど……) エレナの、隠しようもない不安を滲ませた声が、意識の奥深く、まるで水面に広がる波紋のように静かに響いた。 私は夜の静寂に紛れるほど小さな声で、しかし絶対的な自信を込めて、短く返す。 (……私を誰だと思っている。この程度の数、ウォーミングアップにもならん) 前方、薄暗い通路の先には、先ほど右腕を斬り飛ばされたグールが、未だ夥しい量の血を滴らせながらも、濁った眼でこちらを睨みつけ、低い唸り声を上げ続けている。その執念深さだけは評価に値するかもしれない。 「……さて、狩りの時間だ」 私はフードの端をわずかに引き下げ、その深紅の瞳に宿る光をさらに鋭くした。 そのまま、予備動作なく跳躍。石畳を強く蹴った身体が、まるで放たれた矢のように夜空を裂き、濃密な殺気を纏って滑り出す。目指すは、ただ一体の敵。 先頭に立ちはだかる一体へ――最短距離で踏み込み、腰の愛剣を流れるような動きで袈裟懸けに斬り上げる。 ズバァッ、と肉を断つ鈍い音と、骨が砕ける乾いた音が混じり合った。 巨大な胴が上下に裂ける。噴水のように鮮血が横薙ぎに吹き出し、おびただしい量の臓物が、ぬちゃりとした音を立てて石床に無残に散らばった。 だが、私の動きは止まらない。その勢いを殺すことなく、手首の返しだけで剣を右へと反転させる。 ──ザシュッ。 右隣にいた個体の首が、まるで熟れた果実のように宙を舞う。胴体は一瞬遅れて、崩れ落ちるように膝をついた。 銀色の刃が描く軌道は、まるで意思を持っているかのように止まらず、身体全体のしなやかなひねりと共に左へと流れる。 シュバッ―― 左翼にいた最後のグールも、先の二体と全く同じように、抵抗する間もなく斬首される。 鮮血が闇夜に三日月の軌跡を描き、夜闇を反射して赤く妖しく輝く私の瞳が、その血煙の中に静かに沈んでいった。 数瞬前までの喧騒が嘘のように、動きが――ぴたり、と止まる。 残る二体のグールは、仲間たちが一瞬にして肉塊へと変わる様を目の当たりにし、完全に戦意を喪失したようだった。ぜえぜえと荒い息を繰り返しながら、じりじりと後退を始める。その濁った瞳には、先ほどまでの凶暴性はなく、ただ原始的な恐怖だけが浮かんでいた。 逃げる。その選択は、生物として正しいのかもしれない。 だが、私はその背中に向けて、氷