LOGIN「……こんな場所あったんだ」このホテルはたまに家族で食事などで使用することもあったが、隠しフロアのような場所に、静かに上昇するエレベーターの中、私はぽつりと呟いた。豪華なインテリア、ふかふかのソファ、煌めくシャンデリア、そして、窓の外には都会の夜景が広がっている。こんな場所に、二人きり。ただそれだけのことなのに、どうしてこんなにも鼓動がうるさいのだろう。「ここで食事でもしろってことですか?」 なんとなく気を紛らわせたくて、冗談めかしてそう言った。「陸翔兄さまには、たくさん迷惑をかけたから……」そこまで言ったところで、ふいに—— 体が温かさに包まれる。——陸翔兄さまに、抱きしめられて……る?「……陸翔兄さま?」驚いて声を出そうとしたが、それがちゃんと音になったかどうかもわからない。ドレスのせいで露出していた肩に、彼の温もりがダイレクトに伝わる。彼の体温がじかに感じられて、思考が追いつかなくなる。「沙織」 「……はい」「すべてが片付いたら言いたいことがあった」 そこまで言うと、陸翔兄さまは言葉を止めた。この状況で何を言われるか想像もつかず、心臓がバクバクと音を立てる。「ずっと沙織が好きだ。兄としてじゃなく」 え_?耳に届いたはずなのに、全く意味が理解できなくてただ動けない。「沙織が俺のことを兄としてしか思えないこともわかっていて、こんなことを言うのもルール違反だと思ってる。でも、もう、後悔をしたくない全力でこれから俺は沙織を口説くから」——陸翔兄さまが、私を?彼の腕の中で固まったまま、パニック寸前の私は、何と答えていいのかわからなかった。「沙織から電話をもらった日、あの時の傷ついた沙織を見て、俺はどれだけ後悔したか。あの時、沙織の幸せだと信じて、身を引いた自分をどれだけ呪ったか」「……でも、でも、陸翔兄さまは明日香さんが……」「明日香?」「明日香さんと恋人だったでしょう?」私がそう言うと、陸翔兄さまは少し考え込んだような表情を浮かべた。「明日香とは、そういう関係だったことはない」「でも結婚を……」「俺はずっと沙織が好きだった。沙織が早くに結婚をして、少しやけになった。明日香からのビジネス婚の頼みを断らずに受けてしまった」陸翔兄さまの言葉に、息が詰まる。私があきらめてしまったあの日。彼の気持ちを知ろうともせ
「沙織が……神田グループの令嬢……?」芳也、美咲さん、そして芳也の母親——三人の顔から血の気が引いていく。現実を受け入れられないのか、虚ろな目で立ち尽くし、やがて廃人のようにその場へと崩れ落ちた。「そんな、そんなはずない……!」美咲さんが呆然と呟くが、もはや誰も耳を貸す者はいない。その時——「俺は神田社長の命令で、彼女を保護したに過ぎない」陸翔兄さまの低く響く声が、会場の静寂を切り裂いた。「それを不倫だなどと騒ぎ立て、彼女を侮辱したこと——許されると思うな!!」鋭い怒声が響き渡る。誰もが息を呑み、誰一人としてその言葉を否定できる者はいなかった。「……連れていけ」静かに告げられた陸翔兄さまの言葉とともに、会場に控えていた警備が動き出す。青ざめた三人は、もはや抵抗する力もなく、そのまま引きずられるように会場を後にした。そして——「皆様、お騒がせして申し訳ありません」壇上に戻った父が、会場全体へと向けて穏やかに言葉を投げかける。「余興はこれまでにして——さあ、パーティーをお楽しみください」父の堂々たる宣言とともに、会場には再び穏やかなざわめきが戻った。「今日は本当にありがとうございました。そして、お騒がせしたことをお詫びします」父の落ち着いた声が、広い会場に静かに響いた。私は壇上に立つ父を見つめながら、ようやく——本当にすべてが終わったのだと、心の底から実感した。「これからの神田グループをよろしくお願いします。今後、娘の沙織が継ぐのか、ここにいる秋元が継ぐのか、それはまだ分かりません。しかし——」父はゆっくりと私と陸翔兄さまに視線を向ける。「いずれにせよ、我がグループは今後もさらなる発展に向けて精進してまいります」力強い言葉で締めくくると、会場からは盛大な拍手が巻き起こった。——しかし、父は再び口を開く。「ただ……父としての発言をお許しください」前置きをしてから、父は私と陸翔兄さまに視線を向けた。「娘を全力で守ってくれた秋元、そして、私の娘がともにこの会社を支えてくれる——そんな未来を、今回の出来事を通して思い描きました。これは父としての勝手な願望ですが」その言葉に、私は驚いて目を見開いた。しかし、次の瞬間、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。慌てて私は頭を下げる。隣に立つ陸翔兄さまの表情をそっと横目でうかが
「あなたには、沙織嬢への暴行容疑で送検させていただきます」「な、なにを……?」芳也が唖然とした顔で固まる。「あなたがしたことは、すべて警察へと報告しています」陸翔兄さまは容赦なく続ける。「元妻へのストーカー容疑、そして暴行未遂——」「そんな、そんなこと……!」芳也はしどろもどろになりながら、必死に言い訳しようとするが、その場にいる誰もが彼を軽蔑の目で見つめていた。「そして、美咲さん」陸翔兄さまの冷たい声が、美咲さんを射抜く。怯えながら後ずさる彼女を、兄さまは容赦のない視線で見下ろした。「あなたにも沙織嬢の名誉毀損にあたる嘘偽りを会社で流した罪を償ってもらいます」「ち、違う! それは——あの女が私にそそのかしたのよ!」突然、美咲さんが震える手で誰かを指さした。私たちの視線が、その先の人物へと向けられる。——そこにいたのは、一人の蒼白な女性。彼女は自分が指名されたことを理解した瞬間、唇を震わせ、恐怖に駆られたように会場の出口へと駆け出した。しかし——「彼女も捕まえろ」陸翔兄さまの静かな指示が飛ぶと、会場の警備がすぐに動く。逃げようとする彼女は、出口の手前であっさりと取り押さえられた。——後にわかったことだが、彼女は真紀という女性で、陸翔兄さまのストーカーだったらしい。「なんで……どうして……。こんな、こんな底辺の女が!!」美咲さんの顔が悔しさと憎しみで歪み、鬼のような形相で私を睨みつける。「黙れ!!!」壇上から響いたのは、父の怒声だった。これまで冷静に見守っていた父も、とうとう我慢ならなくなったのだろう。——でも、最後にこの幕を引くのは、私の役目だ。私は静かに一歩前へ進み、芳也たちをまっすぐに見据えた。「芳也さん——」会場の空気が張り詰める中、私はゆっくりと口を開いた。「あなたと結婚したことを後悔はしません」芳也がハッと顔を上げ、私を見つめる。「でも——あなたをこんな風にしてしまったのは、私の責任かもしれない。ごめんなさい」静かに、それでもはっきりとそう告げる。コツ、コツとヒールの音が響く中、私は芳也の真正面に立った。「あなたの会社を大きくしたかった。それは本当よ」「……!」芳也の顔が、言葉にならない感情で歪む。「でも、それが過ちだった」はっきりとそう言うと、私は次に芳也の母親へと視線を移
「お前、沙織とグルだったのか? なんだ、ホストじゃなくスパイだったのか?」低俗な発想に、私は思わず口元を押さえ、クスっと笑ってしまった。(どこまでくだらない考え方ができるのか……)「笑うな」そんな私を、少したしなめるように陸翔兄さまが小さく呟く。その直後、壇上の父が静かに口を開いた。「秋元副社長、今回の件の説明を」父の厳かな声が会場に響き渡る。その言葉に、陸翔兄さまは静かに会釈し、堂々と壇上へと向かった。「改めまして、今回の全権を指揮しております、神田グループ副社長の秋元陸翔です」圧倒的な存在感を放ちながら、陸翔兄さまが話し始めると、先ほどまで傲慢に振る舞っていた芳也の体が強張り、なんとか立ってはいるものの、膝がわずかに震えているのが見て取れた。その隣で、美咲さんと芳也の母親もまた、明らかに怯えた様子で体を強張らせている。「今回の件で、サクシードソリューションの佐橋社長は、コードシステム前社長・小林に賄賂を渡し、仕事を得ようとしていたことが明らかになりました。そして、小林には会社の横領の容疑もかかっており、その件については、弊社としても厳粛に対応してまいります。申し訳ありません」陸翔兄さまが頭を下げると同時に、会場がどよめく。そのあと、陸翔兄さまは、淡々と、芳也の会社がどれだけずさんな経営をしていたのか、仕事に穴だらけであったこと、問題が山積みだったことを指摘していく。そして、それが小林社長と結託していたことも伝えた。「そんな、そんなことあるわけがない……! 俺の会社はずっと順調で、俺の力でここまでやってきたんだ!」必死な叫びが会場に響く。芳也の顔は赤く染まり、悔しさと怒りが入り混じったように、壇上の陸翔兄さまを睨みつけていた。しかし——「黙れ!」低く、鋭い怒声が空気を切り裂いた。その瞬間、会場が張り詰めた静寂に包まれる。「お前の会社があるのは、すべて彼女がいたからだろう」陸翔兄さまは、淡々とした口調でそう言い放つと、ゆっくりと私の方へと視線を向けた。その言葉の意味を理解できず、芳也は愕然とした表情のまま立ち尽くす。「は? 沙織が? どうしてこの女が関係するのよ!」先に声を荒げたのは、芳也の母親だった。半ば錯乱したように声を張り上げる彼女の顔には、怒りと混乱が滲んでいた。「この女といえば、主婦のくせにまとも
しかし——さすがに周囲の人々も、この騒ぎに気づき始め、会場の空気が微妙に変わってきたのを感じる。(そろそろ、まずいかもしれない)そう思ったその時だった。視界の端で、一人の男が静かに現れる。黒縁の眼鏡をかけ、やや長めの髪を無造作に下ろしているが、それでも隠しきれない圧倒的な存在感。——陸翔兄さま。彼が現れた瞬間、それまで騒がしかった場が、ピタリと静まり返る。その圧倒的なオーラをまとった彼を前に、先ほどまでの罵倒もどこか空回りしているように感じる。それでも、美咲さんはこれ見よがしに陸翔兄さまに言葉をかけ、必死に何かをアピールしている。だが、陸翔兄さまの目は、全く笑っていなかった。その目の奥に燃える静かな怒りが、今にも爆発してしまいそうなほど張り詰めているのがわかる。そう思ったその瞬間、壇上がライトに照らされ、父の姿が見えた。壇上では、父の挨拶が進み、続いて来賓たちの挨拶が続いていた。美咲さんや芳也は、すっかり私のことなど忘れたかのように楽しげに振る舞っていた。そんな二人の様子を横目に見ながら、私は静かにワイングラスを手に取る。——そして、ついにその瞬間が訪れた。「それでは、ここで一つ発表をいたします。我が神田グループであるコードシステムの新規プロジェクトについての発表に移ります」父の落ち着いた声が会場に響き渡る。その瞬間、芳也たちの態度が一変した。待ち構えていたかのように身を乗り出す芳也は、ワイングラスを持つ手をわずかに強張らせている。隣の美咲さんは期待に満ちた目で壇上を見つめ、どこか誇らしげな表情を浮かべていた。(よほど自信があるのね……)彼らの反応を観察しながら、私は静かにグラスを傾ける。しかし、次に父が発した言葉で、会場の空気は一変した。「その前に、一つお知らせがあります」穏やかながらも、どこか冷ややかさを含んだ父の声が響く。「先月末をもって、社長の小林は退任となっております」一瞬の静寂——。「え?」美咲さんの戸惑い混じりの声が、会場の静けさの中に妙に鮮明に響いた。「小林社長が……退任?」芳也も目を丸くし、美咲さんと顔を見合わせる。彼らだけでなく、周囲の関係者たちも次々とざわめき始めた。(まだ序章にすぎないのに、この反応……)私は静かにグラスを置き、父の次の言葉を待った。——そして、その一言が、
陸翔兄さまは組んでいた足をゆっくり戻し、すっと立ち上がると、近くに控えていたスタッフに静かに何かを指示する。少しして、スタッフが黒いビロードの箱を手にして戻ってきた。「よく似合ってる。あとはアクセサリーがあればいいだろう」穏やかな口調でそう言いながら、陸翔兄さまが視線を向けると、スタッフが箱の蓋を開いた。そこに収められていたのは、繊細なカットが施されたダイヤモンドがちりばめられた、まばゆいばかりのネックレスだった。(こんなもの、私がつけていいの……?)戸惑いがよぎる間に、陸翔兄さまは迷うことなくネックレスを手に取り、私の前へと歩み寄ってきた。そのまま、くるりと肩に手を添え、私の体を鏡の方へと向かせる。「動かないで」低く落ち着いた声に、背筋が自然と伸びる。陸翔兄さまは私の首元へそっと手を伸ばし、丁寧にネックレスをつけてくれる。ひんやりとした宝石が肌に触れ、少しひやりとする。その感覚とは対照的に、陸翔兄さまの指先は温かかった。——心臓の音が、うるさい。鏡越しに陸翔兄さまと視線が交わる。端正な顔立ちの彼が、静かに金具を留める仕草をしているのが、なんだかひどく落ち着かなくて、視線を逸らしたくなる。私は結婚もして、一度は妻としての生活を経験したというのに、こんなことで息が詰まりそうになるなんて。(何をこんなに緊張してるの、私……)ほんの少し、金具を留めるために触れた彼の指先に、意識が集中する。たったそれだけのことなのに、なぜか肌が敏感になったような気がして、鼓動がどんどん速くなっていく。それが、どうしようもなく恥ずかしくて、私はそっと唇を噛んだ。そんな陸翔兄さまが選んでくれたドレスを纏い、私は今日、この会場に来た。父が張り切っただけあり、パーティーの規模は想像以上に大きい。決算報告と達成パーティーという場に、一プロジェクトの発表を入れ込むなど通常ならあり得ない。それに、招待されたのは政界の重鎮や各業界の名だたる社長、役員たち。会場の雰囲気も華やかで、格式の高さを感じさせるものだった。そんな錚々たる顔ぶれの中で挨拶をする予定はまだなかったため、私はVIPが集まるエリアには向かわず、なるべく顔見知りがいない社員たちが集まる場所で芹那と一緒にいた。そんな時だった。会場のざわめきをかき消すように、ひときわ大きな聞き覚えのある声が耳
翌日、私はいろいろなことをしようと思っていたにもかかわらず、ブラインドから差す日差しで目を覚ました。太陽の位置からも、朝という時間ではなく、完全に昼近いことがわかった。寝すぎたな。疲れ?……と自問自答したとき、ズキッと頭が痛んだ。「風邪ひいたかな……」ホテルの部屋のベッドの上で、自分の頭を押さえつつ小さくつぶやく。しかし、それは誰にも届くことはない。さすがに冬の寒空に、薄着で放り出されたせいだということはわかるが、今は責める相手もいない。のそのそとベッドから降りて、リビングへと行くと、すでに朝食の準備がされていた。病院へ行くほどでもなさそうだ。少し食べられるものを食べて、も
陸翔兄さまが連れてきた秋元家の主治医だという先生は、とても穏やかで優しい人だった。年齢は陸翔兄さまと同じくらいか、少し上だろうか。落ち着いた声と柔らかな物腰に、少しだけ気が緩んだ自分がいた。一通り私の診察が終わり、点滴をしてくれている間。戻ってきた陸翔兄さまと先生が、自然に言葉を交わしているのを見て、ふたりの間にある空気にふと気づく。肩の力を抜いたような、どこか懐かしささえ感じる距離感。「陸翔、たぶん疲れもあるだろう。栄養のあるものを食べて、ゆっくり休めばすぐに治ると思う」落ち着いた声でそう言った先生に、陸翔兄さまは短く「わかった」と頷いた。なぜか、当然のように彼に報告してい
「沙織さんが戻ってきたから、様子を見に来ただけだったのに、いきなり叩かれたの。私がいたから怒ってしまって。でも、まだ離婚をしていないんだから、当たり前だよね」そう言いながら、美咲さんは叩かれてもいない頬に手を当て、ぽろぽろと涙をこぼす。その姿はあまりにも芝居がかっていて、女優も真っ青だと思った。一瞬、言葉を失ったけれど――もう、どうでもよかった。私は何も言わず、淡々と片付けを再開する。「おい、沙織。お前、何してるんだ?」何も説明しない私に、芳也は苛立ちを隠そうともせず声を荒らげる。「荷物を取りに来ただけ。ここにあるものは処分してくれていいから」「お前、何を勝手なこと言ってる
【とにかく、早く離婚したい】文字を書きながら、自分でも少しだけ胸が痛んだ。 もしかすると、薄情に見えるかもしれない。けれど、これ以上心を削られるのはもう嫌だった。その文字を見た陸翔兄さまは、一瞬だけ複雑そうな顔をした。 けれど、すぐに表情を整えて、静かに頷いた。「……わかった。伝えておくよ」その声がやけに優しくて、心の奥がじんわりと温かくなる。私は小さく頷き、ベッドに身体を沈める。 重力に身を委ねるように、まぶたが自然と閉じていく――「……ありがとう」声にならないその言葉だけ、胸の内でそっとつぶやいた。良く寝た……。一番に思ったのは、それだった。ここ数か月、不眠とまで