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「んんっ……や、あ……っ!」
青いライトが妖しく光るホテルの一室で、快楽に溺れた声が響いた。
きつい薔薇の香水や悪趣味な部屋の造り、かけっぱなしのラジオならもう慣れた。
そんなものに構ってられない。慣れざるを得ない環境というものが、どうしてもある。
「うっ、あ、あぁ……っ」
例えば、“俺”が今抱いている“少年”にも。
彼は男に抱かれるのは初めてらしい。でも仮にこれから経験を積んでいったとしても、彼がタチになる姿は想像できない。
華奢で抽象的な容姿以上に、柔く脆い心が見え隠れしている。
「ああぁっ!!」
そんな事を考えてる間に少年は射精した。精液の強い匂いが鼻腔をくすぐる。
「はぁ……はぁ……っ」
シーツに突っ伏して放心していた彼は、少ししてからため息混じりに呟いた。
「すみません……こんなキツいなんて、俺甘かったっていうか、ちょっと耐えられないです。この仕事は断らせて下さい」
少年は涙目で訴える。見てるこっちが気の毒に思ってしまうほどの悲壮感を漂わせていた。
「……わかった。じゃあ帰りな。部屋代は俺が持つから」
「あ、ありがとうございます」
彼は身支度を終えると気まずそうに、逃げるように部屋を出て行った。
用済みのラジオを止めたものの、今度は静寂が気持ちが悪い。
シャワーを浴びる前に一服し、窓際に佇んだ。
「ふう……」
男でも女でもいいから、今は人手が欲しい。だがそう簡単に欲しい人材は見つからない。
もっとピンとくる人間がいれば、どんな手を使っても手に入れるのに。
危険な思考に入りかけていることに気付き、自嘲した。
頭の中はグチャグチャなのに、不思議と気持ちはスカッとしてる。
さてと。
灰皿に煙草を押し付けて、部屋の時計を確認する。あまり行きたくないけど、そろそろ仕事に戻らないと。
青年は銀髪を掻き乱し、ハンガーにかかったジャケットを取った。
「警察だらけじゃんか。この辺りも物騒になったよなあ」
「そうか? 元からじゃないか?」
夜の繁華街で、鉛のような会話が交わされる。
といっても、弾んでないと勝手に思ってるだけかもしれない。自分の気持ちが急降下しているのは間違いないから。
いつもならもっと話を盛り上げたり、穿った展開をしたり、とにかく溌剌とした受け答えができる。しかし今日はそんなことをする気力もない。
「気が乗らないって感じだな、クリスト。お前が行ってみたいっていうから連れて来てやったんだぞ」
「あぁ、そうだよな。すまない」
クリストと呼ばれた金髪の男性は、そう返しながらも内心溜息をついた。
だからって今日いきなり行くとは思わなかった。申し訳ないが、できれば事前に予定を立ててくれてからの方が良かった。
周りでは老若男女が人目も気にせず互いに夢中になっている。一組や二組ではない。誰も彼もが現実を忘れ、立場を捨ててここへ来ている。
表向きは合法と謳っている、夜の大人の遊び場。いかがわしい店はもちろん、金持ちの為の賭博場も数えきれない。
街全体が夜になると姿を変える。自分はどちらかというと無縁な世界だったが、突然こんな場所に来ようと思ったのには理由があった。そこは好奇心と、やはり不純な目的で、
「さぁ、クリストの眼に留まる王子様がいるか探しに行かないとな」
「声が大きい」
クリストは隣の青年を睨んだが、笑って流された。
「聞かれても大丈夫だって。珍しくないから」
そういう問題じゃない、と内心文句を言う。
彼はクリストの古い友人だった。そして、自分にとってとても大きな秘密を知っている。
まさか男の恋人を探しに来たなんて……自分自身、信じられない。
クリストは同性愛者だ。しかしそれは友人の彼にしか打ち明けていない。
起業家の父を持ち、急成長した子会社に入社した。今は誰もが羨む七光を受け、専務として働いている。
本当に恵まれた環境に身を置いているし、責任は重いが仕事も充実してる。
だが異性を好きになれない、ということが周りと決定的に違った。
恋愛だけが最大の敵で、コンプレックスで、そして何よりも手に入れたい……金では買えない価値のあるものだと思っている。
いや、もはや恋愛なんて可愛いことを言える歳でもない。仕事第一に生きて、三十代の仲間入りをしてしまった。
縁談は何とかやり過ごしてきたものの、今後はそうもいかないだろう。親や親族から良い人がいると話を持ちかけられる度にウッと思ってしまう日々は精神が擦り切れる。
だからそろそろ生き方を決めたい。同性愛者だとアウティングできなくても、生涯寄り添いたいと思える大切な存在を見つけたい。
その為には今まで敬遠していた場所に足を踏み入れるのも有りだと思えた。
今から向かう場所で、別の道が見つかるかもしれない。淡い期待を抱きつつ、暗く細い道を進んだ。
「でもさ、心配ないよクリスト。第一印象は大事だけど、お前なら大抵の奴は落ちる。顔良し頭良し、金もあって将来有望なんだから」
「将来のことなんて分からないよ。ずっと父の会社にいるとは限らないし」
ただでさえ低いテンションが、会社の話でさらに音を立てて下がった気がする。それを察したのか、友人は背中を叩いて鼓舞してきた。
「まぁまぁ、とにかく楽しもうぜ。今夜のパーティで良い出会いがあるよう祈ってるよ」
何だかんだ言っても友人の励ましは素直に嬉しく、クリストは静かに頷いた。
彼の同伴で訪れたパーティ会場は、ホテルの最上階を全て貸切にしているものだった。煌びやかな装飾に様々な料理が並び、演奏家達が場の雰囲気に合わせた音楽を奏でている。
「金かけてるな。大したもんだ」
「俺達だって参加費出したじゃないか。ちゃんと回収されてるよ」
あぁ。確かに受付で出したけど、それだけで賄える額ではない気がする。太いスポンサーがいるようだ。
「ここは金さえあれば一般人も入れるし、各界の有名人も来たりする。でも下手に知り合いにならない方がいいかもな。もし知り合ったとしても、次会った時は初対面ってことにしとけ」
「わかった」
「じゃ、早速ホールに行くか」
会場は申し分無い広さだった。人の数も凄まじい。一体皆どこからこのパーティの情報を入手したのか、素直に不思議だ。
「ほら、どう見てもカップルっぽい男二人組多いだろ?」
友人が耳打ちしてきたので注視してみると、確かに……そんな雰囲気を醸し出している存在は結構いた。
「それじゃ俺達も解散するか。男二人でいたら近寄り難いだろうし、俺はこれから美人を捜しに行くから」
「ここで一人か。ちょっと拷問だな」
「あのなぁ、出会いが欲しいんだろ? 大丈夫、お前は顔がいいから標識みたいに突っ立ってたとしても向こうから寄ってくるよ。じゃ!」
そう言い残すと、彼は集団の中へ消えて行ってしまった。本当は彼の方が出会いに飢えてるんじゃないか。そう思わせる勢いだ。
だが確かに、タイムリミットがある以上無為に過ごすわけにもいかない。自分から動かないと。
でも女ならともかく、男をどうやって誘うんだ……。
どちらかと言うと誘われる方が多かった為、行き詰まってしまう。憂鬱になっていると、人混みに紛れて印象的な人物が目に留まった。
「……!」
それは一人の青年だった。珍しい銀髪で、白のスーツを見事に着こなしている。
何よりも惹きつけられたのは、誰もが一度は振り返る美貌だ。正確な年齢は分からないが、かなり若い。二十代前半であることは間違いないだろう。
周りの女性は息を飲んで、彼に見蕩れている。
気付けばクリストも、自然と彼の方へ歩みを進めていた。
もっと……、もっと間近で見てみたい。純粋な欲にに支配されていた。ところが。
「あの、良かったらどうぞ」
「!」
その声で、一気に現実に引き戻される。
目の前にはグラスを二つ持った女性がいた。
「こういった席はよく来られるんですか」
「いいえ、初めてです。不慣れなもので……所在がなくて困ってます」
チラッと人混みの方へ目を向けると、もうその青年はいなかった。内心、残念に思ってしまった。
けどあれだけ美形だったら恋人がいるに違いない。
第一ストレートだったら話にならない為、すぐに頭から切り離し、受け取ったワインを口にした。
「そうですか。なら私と一緒」
上品に笑うその女性は、これまた美人だった。
「お話したい方は見つかりました?」
「いえ、まだ……しっかり捜すだけの余裕もなくて」
「ふふ。でも貴方を見てる女性、たくさんいますよ」
彼女の言葉を聞き、クリストは辺りを見回した。確かに、コソコソとこちらを見て話してる女性が多い。
以前友人に突っ立っているだけでも目立つ、と言われたことを思い出し、咳払いした。
「貴女は? どなたか見つかったんですか?」
「えぇ。もちろん貴方……」
目が合い、思わずドキッとする。
「……ではないのよ、ごめんなさい。私は別に狙ってる女の子がいるの」
「そうなんですか。他に……女の子が……」
言ってる途中で、口を噤んだ。まさかとは思うが、
「私男性とはお付き合いできないんです。でも貴方の様子が可愛い女の子を探してる風には見えなくて、つい声を」
「あ……」
彼女も同性愛者。そして自分を同性愛者だと思って近付いて来た。
冷静に考えるとそれだけ挙動不審に見えていたということ。無性に恥ずかしくなり、軽く頬を搔いた。
「それじゃあ、お互い頑張りましょう」
彼女は朗らかな微笑みをたたえ、去っていった。
「……」
不意打ちとはいえ驚いたのは事実だ。ここは本当に、そういう意味での一般人は少ないのかもしれない。
そう思うと少し気が楽ではあるが、意欲に火が灯るほどではない。
それでもやはり、先程の青年だけは脳裏にチラついていた。
その後もひっきりなしに女性から声をかけられたが、適当に逃げ続けた。かといって男に声をかける勇気もなく、右往左往。完全に時間を無駄にしてしまった。
パーティの雰囲気は充分味わったんだし、ひとまず一服して心を落ち着かせよう。
「……っと」
クリストは広場を出た後に、人気の少ない場所を探した。すると天井がガラス張りの中庭があった為、とりあえず中へ入ってみた。
辺りを全て囲むように観葉植物が埋められている。もう少し奥へ進むと、ベンチが一つ置かれてあり、そこには見覚えのある人物が座っていた。
「……!」
さっき広場で見かけた、白いスーツの青年。偶然、彼も一服中みたいだ。
クリストの視線に気付いたのか、彼は少し端に寄った。
「隣どうぞ」
「……どうも」
まさかそんな風に声をかけられると思わず、無機質な声が出た。
とりあえず煙草とライターを取り出して一服する。
「楽しんでます? パーティ」
青年は唐突に、クリストに問いかけた。
「あー……いや、それが……」
クリストは彼に話した。ここへ来た経緯も、結局合わずに抜け出したことも。
初対面だというのに不思議と彼には隠し事をせず、気軽に話せた。彼も丁寧に聞いてくれたから、尚さらだったのかもしれない。
「色々苦労されてるみたいですね。まぁこういう場所は特に、合う合わないがあるし、仕方ないかと」
こうして間近で見ると、やはり彼は驚くほど端麗な顔立ちをしていた。
「でもクリストさんって、真面目な方なんですね」
「それは違いますよ。真面目じゃないからこんな所に来たんだし」
そう。出会いが欲しいなら、他にいくらでも方法がある。
「君はよくこういう場所に来るんだ?」
「いえ、今日はたまたま。開催者が知り合いで、ちょっと呼ばれただけです」
青年は溜息を吐いた。
「正直めんどくさかったぐらい。……でも」
青年は少し置いて、意味ありげな視線をクリストに送った。
「やっぱり来て良かったかな。俺は、貴方みたいな人好きですよ」
「……」
どう反応するべきだろうか。
ほんの僅かだけど、警戒心が生まれる。今会ったばかりの人間に向ける視線や声ではない。
そう思った時だった。
彼の顔が近付き、唇に柔らかい何かが当たったのは。
「なっ……」
ゆっくりと彼の顔が離れていく。
唇の乾いた感触。鼻腔に残る、香水と煙草が混ざった香り。一瞬夢かと思ったが、これは間違いない。
会ったばかりの人間にキス。あまりに唐突で驚愕した。
「あ。男とキスするの、初めてですか?」
「違う……けど……」
「じゃあ大丈夫ですよ」
何が大丈夫だというのか。理解不能だ。
男との経験が全くないわけじゃないが、困惑を通り越して少々癇に障る。
どう返そうか考えていると、青年は立ち上がってクリストの手を引いた。
「キスの御礼にお酒奢りますよ。行きましょう」
「えっ」
勢いよく引っ張られた為に、強制的にクリストも立つ羽目になった。
「ここじゃゆっくり話ができないから、俺が働いてる店にご案内します」
早い誘導についていけない。どうすべきか本当に迷ったが、ここで彼と別れるのも今いち納得できなくて、結局ついて行くことにした。
ホテルを出て、彼の車で目的地へ向かう。その道中、彼はステレオからやたら古い歌を流していた。
「そういえば。俺のことはヴェルムと呼んでください」
「はぁ……」
時折、庭先で知らない車のスモールライトが光る。気にしたことはなかった。家の前は毎日たくさんの車が通り過ぎ、停車し、走り去っていく。それが日常風景……いや、背景だ。だからいつも庭でボール遊びをし、その合間に道路を見るだけだった。気に留めない。親にも話さなかった。ここ最近、黒のワゴンが家の近くに停まっていたことなんて。たくさんあるうちのひとつ。毎日遊んでいるボールだって、本当は見えちゃいなかった。あの頃持っていたのは何色のボールか全く思い出せない。俺は、色が見えない。突然……いや、必然か。両親が出掛けてすぐ、知らない男達が庭に入ってきた。叫ぶ前に口を塞がれた。転がるボール、真っ黒に染まる視界。腕を引っ張られ、どこかへ連れて行かれる。あの時から、俺の世界は色を失くした。◇「ヴェルム。眠れないのか」白光のライトが照らされる。眩さからヴェルムはベッド上で眉を寄せた。隣では恋人のクリストが横たわってこちらを覗いている。一度は明かりを消し二人でベッドに入ったのだが、何度も寝返りを打つヴェルムに気付いたのだろう。クリストは身を起こしてヴェルムの額に手を添えた。「汗すごいぞ。明日は休みだろ、シャワー浴びたらどうだ?」「あぁ。でも……どうせまた汗だくになるよ」どうして、と不思議そうに尋ねるクリストにヴェルムは夢のことを話した。連日の悪夢。幼い頃に誘拐された、あの忌まわしい過去を。全て聴いたクリストは苦しそうな顔をしていた。「何か温かいものでも飲むか」「いや、いい」「そう……」わずかに沈黙が流れる。しかしそれもすぐにかき消された。ヴェルムが被る白いシーツを押しのけ、クリストが微笑む。「じゃあ、気分転換に深夜のドライブに行こう」クリストの提案を聞いたヴェルムは怪訝そうに首を傾げる。寒い、怠い、色々な反応を返した。ところが強引に引っ張られ、ベッドから下ろされてしまう。「面倒だったら車から降りなくていい。それなら服も着替えなくていいしな」「つったって、着替えないと何か不安だっての。ちょっと待ってて」ヴェルムは渋々普段着に着替え、クリストの愛車に乗り込んだ。気分はどちらかというと不機嫌のルートに傾いている。それを前面に出せないのは、分かっているからだ。彼が自分を気遣って外へ連れ出してくれたことを。出掛ける寸前クリストは何かを後部座席に詰めていた
昨夜、ノエルは静かに息を引き取った。まだ若いのに。もっと早くに診てもらっていれば。そんな言葉を腐るほど聞いた。聞けば聞くほどに自分が許せないのと、やっぱり彼は凄かったんだ、とため息をもらした。今から五年前。ノエルは病を患い、余命宣告を受けていた。病魔は彼を蝕み、取り返しのつかないところまで進んでいたらしい。治療はもう意味を成さない。だが彼は病気のことなど一切口にせず、いつも笑って過ごしていた。独りになった家で考える。あの時、ノエルは何で自分を傍に置いたのか。命より大事な店を、自分に託したのか。訊いておけば良かった。そうだ、何でそんな当たり前のことを訊いておかなかったんだろう。気になっても「後」でいいなんて。その「後」は、絶対手の届かない場所にあったのに。ノエルが最後まで守った店はとうとう一つだけになり、俺が引き継いだ。それは彼が初めて開いた店で、絶対に失いたくなかった大事な店だから……そこだけでも存続して本当に良かった。後は続けるだけ。また誰にも頼らない、一人きりの人生が始まる。どんな事をしても、店を守る。視界がぼやける。白すぎて何も見えない。これだと、もう黒と同じだ。眼が、痛い。それでも頑張ろう。それで落ち着いたら、俺も……ちょっと休んでいいかな。それぐらいは許してくれるのかな。今はいない、あの人は。「……おい」冷たい空気が、肌に触れる。「おい、起きろ」その直後に、温かい指先が頬をつねった。「ヴェルム!」「っ!」頭上で掛けられた声に、心臓が止まりそうなほど驚いた。まだ頭の中でうるさいぐらい響き渡ってる気がする。「やっと起きた。家着いたぞ」ヴェルムはまばたきを繰り返した。愛車の中で、隣に座る青年の顔を見てホッとする。そこには、大事な恋人……クリストの存在があった。「悲しい夢でも見てたか?」「え?」「……泣いてる」彼の指が、そっと目元を撫でた。そしてすくいとるような仕草をする。そうか。いやに腑に落ち、頷いた。「すごく長い夢、見てた」自分でも乱暴に目元を擦る。やっぱりというか、袖はぬれてしまった。「なぁ、クリスト」「ん?」「……好きだ」そうだ……まだ休むわけにはいかない。俺の言葉に、予想どおり彼は笑った。「どうした。寝惚けてるのか」外食後、家へ向かってる途中に眠ってしまった。安着したもののク
居心地が悪くなければいくらでも留まれる。今までは居心地が悪い場所を転々として、少しでもマシな方へ逃げていただけだ。初めて、心から居心地が良いと思える場所を見つけた。ヴェルムはノエルの家に居候するようになり、早くも数ヶ月が経とうとしていた。「ヴェルム、卵もう少し火を通したらどう?」「じゃあ自分で焼けば」「冷たっ……! わかった、お前の好きな加減で良いよ」ヴェルムは家事をする代わりに、生活費込みで彼の世話になっていた。完全に打ち解けたわけじゃない。得体の知れない相手。だが彼にとっても、自分はそういう存在だ。素性の知れない者同士、不思議な同居生活を送った。ノエルは何故自分を拾ってくれたのか、それも正直分かってない。本当に、同情心なんだろうか。「いやー、飯はヴェルムが作ってくれるから助かっちゃうなぁ」食事を終えた後、食器を洗ってるとノエルは真横の壁に寄りかかった。「もうすっかりウチのお嫁さんだな」「病院で頭診てもらったら」「はは、怒んなって。でも俺は、その髪色が好きだな。……白って大好きなんだ」ノエルはまだ冗談を言って髪を梳くけど、途端に咳き込む。心なしか、血色も悪い。こちらの髪色云々より、彼の顔の方が青白く見えた。「……なぁ、ちょっと休んでれば」「あぁ、後でちょっと休ませてもらうよ。それより大事な話があってさ」「何」ヴェルムは洗い物を終えて手を拭いた。「もし嫌じゃなかったら……俺の店で働いてみないか?」それは思いがけない誘いだった。「今全っ然笑えない、マジ深刻な人手不足でさあ……! あと俺、お前は結構向いてんじゃないかと思うんだよね」「人手不足? じゃあどっか畳めば良いじゃん。何店も持ってんだろ?」後で知ったことだけど、ノエルはナイトクラブをいくつも経営している、この界隈では有名人だった。「簡単に言うねぇ。あまり大声で薦められる店じゃないのは事実だけど、本当に大事なんだぞ。……俺にとっては」普段見ない真剣な表情に、思わず見とれた。「あっそ。……まぁいいよ。どうせ職無しだしね」ヴェルムがあっさり了承すると、ノエルは笑顔で彼の頭を撫でた。「ホント!? ありがとな! その代わり、できる限り俺が現場ついて教えてやるよ!」「それはいいけど、少し休めよ。何か具合悪そうだし」少し強く言うと、ノエルは複雑そうにかぶりを振った。
名前を呼ばれて鼓動が速まる。身分証明をできるものなんて一つも持ってない。なのに名を知ってるということは、本当に自分から名乗ったようだ。それでも警戒してることが分かったのか、彼はまた困ったような表情で笑った。「一応、昨日のお前は乗り気でウチに来たんだよ? 俺のベッドに横になったらすぐ寝ちゃってさ。まっ、外で夜明かして風邪ひくより良かっただろ?」「……そりゃどーも。ベッド奪って悪かったね」手は、まだ腰をしっかり掴んでいる。「離してくんない? さっさと出てくから」「もう? シャワーぐらい浴びていったらどうだ」その言葉に、さらに警戒心が高まった。親切心で言ってるとは到底思えない。見ず知らずの人間を家に入れて、ここまで無防備にしてるなんて馬鹿のすることだ。もしくは、優しいフリをして拾った人間を食いものにする卑劣野郎か。「軽く泥がついたところは拭いといたけど、洗い流さないと気持ち悪いだろ。覗いたりしないから遠慮せずに入ってきな」……馬鹿の方かもしれない。ヴェルムが眉根を下げて黙ってると、彼はようやく手を離した。「悪い悪い、掴んでたら行けないよな。バスルームはリビング出て右側にあるから」「あのさ……知らない人間なんかさっさと追い出せば。そこまで親切にする義理ないだろ」「んー。確かに知らないけど、義理がないと親切にしちゃいけないのか。厳しいなぁ」思ったことを素直に言っただけなのに、彼は本当に困ったような顔を浮かべた。大体、何が厳しいと言うのか。……そんな顔をされたら、まるでこっちが悪いみたいだ。「じゃあ……本当に良いの?」ため息まじりに訊くと、彼はホッとしたような笑顔で答えた。「もちろん!」嬉しそうに頷く彼に、ヴェルムは首を傾げる。他人に優しくする事がそんなに嬉しいんだろうか。悪いけど一ミリも理解できない。体を綺麗にさせようとしてるのは、後で性交を求められる可能性もある。それでも何故か、強引に出て行こうととは思わなかった。身体が泥臭くて仕方ないので、結局シャワーを借りた。またリビングへ戻ると、彼は冷たい水を持ってきた。「色々とどーも」「どういたしまして。ところでお前っていくつ?」「さぁ。多分十六か、十七か、十八」ヴェルムは水を一口飲む。年齢が曖昧なのはふざけて言ったわけではなくて、本当に分からないからだ。数年前のことが途切れ途
記憶はいつも曖昧で、非力だ。どれほど頑張って手繰り寄せても、それが本当に正しいかどうか答え合わせができない。言語と同じだ。これだけたくさん言葉があるのに、本当の気持ちが伝わらない。人は無数、みんな奪い合って生きてる。─────強くないと。心が弱いと、何をしたって苦しく感じる。「君、こんな所で寝てたら襲われちゃうよ?」味方はいない。生きるために散々手を汚した。血の色、泥の色、たくさんの色に染めてきたんだ。今日だってそう。何人かと喧嘩して財布を持ち去った。結構金が入っていたから、久しぶりに酒を買って酔いしれた。次第に眠くなって、外で寝てしまったけど。「顔赤いから熱でもあるのかと思ったけど、酔ってるだけみたいだね」それはそうと、さっきから一方的に喋ってる奴がいる。声で分かるけど、男だ。起きるのも怠くて壁に寄りかかっていた。顔を上げるのも面倒。夜、じめっとした空気の路地裏で、知らない男の膝から下を眺める。けど一向に起きない俺に痺れを切らしたのか、彼は屈んで覗き込んできた。綺麗な金髪の男だった。彼は俺の顔の前で指を二本、宙に向かって突き立てた。「ひとつ選びな。風邪ひくのと襲われるのと、俺の家に来るの。どれが良い?」「……は?」投げ掛けられた質問は、火照った頭ではすぐに理解できなかった。まったくもって理解に苦しむ。それが俺にナイトクラブを譲ってくれた、ノエルという男の第一印象だった。◇怖い。知らない人。知らない場所。知らない言葉。手脚を硬い紐で縛られている。口にも何かをくわえさせられ、訴えることはできなかった。突然家の庭に入ってきた男達に、強引に車の中に押し込められた。それからずっと暗闇の中だ。どこへ連れて行かれるんだろう。お父さん、お母さん。助けて。────お願いだから、家に帰らせて。「……っ!!」心臓を握り締められた様な苦しさで目が覚めた。「はぁ……っ……はぁ……っ」全身が焼けるように熱い。滝のように流れる汗を乱暴に拭った。悪い夢を見ていたみたいだ。呼吸を整え、落ち着いてから辺りを見回す。知らない部屋のベッドに寝ていた。白い壁、何の変哲もない寝室だ。あるのはベッドとラック、それから壁に取り付けられたテレビ。静か……。音を立てずに部屋を出た。向かったのは、長い廊下を突っ切った先のリビング。とてつもなく大きい
彼と抱き合って、渇いた心が満たされる。渇いたら求めるからエンドレスにも思えるけど、これは多分とても壊れやすいものなんだろう。当たり前だと思っちゃいけないなにか。その正体は、自分にはまだ分からない。「ヴェルム」「……うん?」融けきった頭と身体。あおい部屋とあかい体温。全部俺の世界だ。────白ではない。「愛してる。これからも、ずっと……」そして大事な人の声は、とても心地良く俺の鼓膜へと響いた。愛されてる。何だか不思議な言葉だ。愛してる、とは全然違う。ただ受動的ではいけないもの。それだけは忘れないように、俺もこれから応えないと。「ありがと。俺もアンタのこと……愛してる」そう。忘れかけてたこの熱を忘れない為に。また一眠りする。長い長い夜が明けて、太陽が昇る頃にヴェルムは目を覚ました。「ん……」そしてすぐ、現実に引き戻される。テレビを点けて時間を確認し、なるべく穏やかに、隣で寝ている彼を起こす。「クリスト、もうそろそろ起きた方がいんじゃないか? 七時過ぎてる」「うーん……」身体を揺さぶってみるも、彼はなかなか目を覚まさない。昨日やりすぎたせいだ。でも俺は止めたけど。少しため息をついて、ヴェルムは寝ているクリストの唇を奪った。「起きないと遅刻するぞ」「……」ここでようやく彼は目覚めた。「キスで起こすなんてズルい技だな」クリストは怠そうにシャツを羽織り、身を起こす。「何がズルいんだよ。アンタが遅刻したら困ると思って優しく起こしたんだぞ」「はは……ありがとう」そのお返しというように、今度は彼がヴェルムにキスをした。「シャワー浴びてくる」クリストはベッドから起きて、部屋を出て行った。ヴェルムもそれに合わせて、キッチンへ向かう。自分は今日も昼に出勤だから楽勝だ。クリストはそういうわけにもいかないので、ヴェルムは彼を起こす役割で同じ時間に起きていた。「お、今日も美味そうだな」クリストがシャワーから出ると、テーブルには出来立ての朝食が並べられていた。「もう完璧主夫だな」「俺も働いてるんですけど」ついつい反論してしまうけど、実際のところ彼に作ってやれるのは休日以外だと朝食だけだ。夜が仕事のヴェルムは、基本朝しかクリストと食事ができない。だからこそ守りたい、大事な時間でもあった。「一年か。何だかもっと経ってるような気







