LOGIN大学に通い始めると准は車での送迎になり、格段に快適な登下校をしていた。
「いっちぇらっさ〜い」
その日も、玄関先まで見送りに来てくれた芽衣に、准は朝から癒されて車に乗り込んだ。
聖人の家族は彼らが仕事をそれぞれ持っている為、なかなか芽衣にきちんと向き合ってやれないことがあるかもしれないと、怜士たちと同居していた。
同居とはいっても真田邸はとても広く、ほとんど別に住んでいるのと変わらない環境だった。
だが邸の中は当然繋がっているのでお互い好きに行き来できるし、准のことが大好きな芽衣は、毎日目が覚めると一目散に彼の下へと行ってしまうのだった。
それを見て父親の聖人は苦笑交じりに「嫁に出した覚えはないんだけどなぁ…」と呟き、尚に呆れられていた。
「じゅんちゃ、いった」
芽衣は、一緒に見送りをしていた執事の井上を見上げて、そう報告した。
彼はそれに微笑んで頷き、「上手にお見送りできましたね」と頭を撫でてやった。
芽衣は嬉しそうに笑うと朝ごはんの続きに戻っていき、ダイニングテーブルでコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた怜士にも、同じように報告した。
「じゅんちゃ、いった」
「ああ、ご苦労さん」
怜士はその得意気な顔に目元を緩めると、彼女の好きな苺をひと粒取ってやった。
「あいあとー」
彼女はそれを受け取ってお礼を言うと、美味しそうに口に入れた。
尚はその場面をたまたま目撃し、幸せに目を細めたのだった。
*
「ねぇねぇ、ちょっと聞いたんだけど、この学年にすごい人がいるの、知ってた!?」
入学式からしばらく経つと、いくつかのグループに別れて人々は行動するようになった。
その中に一際目立つ、容姿の整った何人かがまとまっているグループがあって、彼女たちは既に大学の中でも有名人だった。
「すごい人?誰?」
興奮気味にまくしたてていた入江華子(いりえはなこ)は、一斉に振り向いた友人たちに得意気に言った。
「真田准。彼、本当にこの大学に来てたのよっ。びっくりだわ!まさか本人だったなんて!てっきり同姓同名の別人だと思ってたわよっ」
「……」
華子は頬を紅潮させて、益々興奮しているようだった。
そしてそれを、このグループのリーダー的な存在でもある有賀麻沙美(ありがまさみ)は興味なさげに聞いていた。他の皆も「ああ…彼ね」という感じで、実際、華子の情報はもうほとんどの者が知っていた。
「ね、ね、麻沙美。あなたなら彼とお似合いなんじゃない?」
「私?」
突然の華子の言葉に驚いたように片眉を上げた麻沙美だったが、内心は違っていた。
彼女は高校までずっと、准と同じところに通っていたのだ。だから、彼が真田家の唯一の後継者であることも知っていたし、未だに婚約者を決めていないことも知っている。
対外的には「婚約者はいる」ということになっているが、今まで彼はどこの集まりにもそれらしき女性を連れて来たことがない。
だからきっと、群がってくる女性や他家の人たちを牽制する為にそんな嘘をついているのだろう…と誰もが思っていた。
私ならお似合いって?当たり前じゃないっ。私以外に彼の婚約者になれる女がいるわけないでしょ!
そう心の中で言いながら、顔には困惑したような表情を乗せていた。
「さぁ、どうかな?わからないわ」
「ええ〜、絶対お似合いよ」
「そう?」
麻沙美は周りにいる他の友人たちを見渡した。
それを受けて皆「そうそう」「お似合い!」「美男美女だしっ」と持ち上げてきた。
彼女はそれに対し曖昧な微笑みを浮かべた。
ふん、わざとらしい。皆彼を狙ってるくせにっ。
彼女は、華子以外の友人は皆ライバルだと思っていた。
華子は少し調子に乗りやすいところがあるけれど素直で人を信じやすい、つまり扱いやすい友人だった。
今もおそらく本気で麻沙美と准がお似合いだと思い、応援するようなことを言っているのだ。
ただ現実はー。
有賀麻沙美は上流階級に属する名門、有賀家の令嬢であり、勉強も趣味のような習い事も何でもそつなくこなすことのできる人物だった。
彼女は幼い頃から噂話として、真田家の現当主である怜士が冷酷で非情な男であるのに対し、彼の一人息子の准は穏やかで優しく、かといって軟弱ではなく、強い信念を持った人物だと聞いていた。
そんな彼に婚約者は未だおらず、年齢も近く将来の真田夫人となれる女性は家柄的にも麻沙美しかいないだろう…という噂がまことしやかに流れていることも、彼女は知っていた。
誰にも渡さないわ。真田夫人になるのは私よっ。
彼女は、普通なら経済や経営を学ぶ為の大学に通うはずの准が音楽大学に進学すると知って以来、自分もここを目指して頑張ってきた。
それはひとえに、彼を捕まえる為だ。彼の妻になることさえできれば将来は安泰。もう勝ったも同然なのだから、努力しない手はない。
ただ、准はかなり潔癖なのか、今までに噂になった女の一人もいないのだ。自分を除いては。
子供の頃からピアノレッスンに通い、彼の側にはいつも誰かしらいた為、容易には近づけなかった。
正直、この大学に通う期間が唯一のチャンスだ。
行き帰りは車での送迎。移動中は少しも一人にならない。いつもボディーガードが付いていて、彼と親しくなりたい人たちを牽制している。
それでもきっと、彼が認めた者はあの中に入れてもらえるはず!
麻沙美はそのチャンスをずっと待っていた。
ぐすっ…ぐすっ…中庭にあるベンチに座って、麻沙美は悔し涙を止めようと必死になっていた。あーもー止まらないっ。悔しい!悔しい!悔しい〜!腹立ち紛れに目元をゴシゴシこすっていると、不意に触れる手があった。「こすっちゃ、めーよ」「……」誰…?迷子?いきなり現れた小さな女の子に驚いて、麻沙美の涙も引っ込んだ。女の子は下から彼女を見上げて首を傾げ、再び口を開いた。「いちゃいの?」「え…?」女の子はその澄んだ瞳で麻沙美をじっと見つめ、もう一度尋ねた。「とんじぇけ〜、しゅゆ?」「……」え…と、これは〝痛いの痛いの飛んでけ〟かしら…?麻沙美が戸惑っていると、女の子は「んしょ!」とかけ声を出して背伸びをし、ベンチによじよじと登って彼女の頭を撫でた。「いちゃーの、いちゃーの…とんじぇけ〜」そう言うと、まるで「どう?」と言うように期待に満ちた瞳を向けられた。「え…と、ありがとう…」麻沙美が応えると、女の子は元気よく「あい!」とニッコリ笑った。ふふっ…麻沙美はなんだか可笑しくて、思わず微笑ってしまった。そこへー「芽衣!?」いきなり後ろの茂みがガササッ…と音を立てて割れ、男が飛び出して来た。「きゃっ!」「……」驚いた麻沙美は咄嗟に女の子を庇い、腕の中に包み込んだ。「じゅんちゃ!」耳元で嬉しそうな声がして顔を上げると、そこには複雑そうな表情をした真田准が立っていた。彼は麻沙美の腕の中でニコニコと笑っている従妹を見て、はぁ…とため息をついた。「芽衣ちゃん、探したよ?」優しくそう言うと、芽衣という女の子はちょっとだけ悲しそうな顔でペコリと頭を下げた。「ごめんねー」それを聞いて准はフッと微笑い、彼女に手を差し出した。「おいで。ママが待ってるよ」「あいっ」芽衣は嬉しそうに頷くと、麻沙美の腕の中から抜け出した。「有賀さん、芽衣を保護してくれて助かったよ。ありがとう」「あ…いえ…」麻沙美は、たった今見たばかりの准の笑顔に呆けていた。あんな顔、できるんだ…。彼女の知る限り、准はいつも感情のない目で周りを見ていた。友人らしきクラスメイトと話をしている時も、穏やかな微笑を浮かべていることはあってもその目は決して笑っていなかった。前はそんなじゃなかったのに…。麻沙美は今のどこか冷めた目で、世の中こんなものだというような、達観
そしてその時はやってきた。毎年、後期授業が始まってすぐ、大学では【発表会】が行われている。これは生徒たちの習熟度を発表する場であり、4年生にとってはこれを通して何らかのスカウトや支援を得たりする、いわゆる自己アピールの場でもある。【発表会】には毎年10人が出場できるのだが、1年生から4年生の成績上位者の内、4年生の1位から5位、1年生から3年生の1位の人たちは確定で、残りの2枠を1・2・3年生の2位3位の6人で争うのだだった。争うといっても別に何かを競ったりする訳ではない。ただ講師陣からの推薦を得た者が出場できるのだ。准は1年生のトップとして既に出場を決めている。麻沙美は2位の成績だったが、だいたいこういう時は上級生が選ばれることが世の常だと思っているので、半ば諦めていた。だがー彼女は出場権を手に入れた。信じられない気持ちもあったが、彼女は自分の実力に自信を持っていたので、推薦してくれた講師の見る目を内心褒め称えていた。「やったね、麻沙美!」「ありがとう」彼女は余裕の笑みを浮かべた。だが次の瞬間、信じられない言葉を聞いた。「やっぱり伯父さんに言って正解だったわ〜」「?……どういうこと?」訝しげに眉を顰めた。そんな彼女に、華子は邪気のない笑顔で言った。「伯父さんがね、ここの理事の一人なの。で、あなたを出してもらえるように言ってみたの」「なんですって…?」そのあまりの罪悪感の無さに、麻沙美は腹が立った。「どうしてそんな事を!?私の実力じゃ出ることができないって思ったの!?」「え…!?」華子は彼女が喜んでくれると思っていたのに、まさかこんな風に怒鳴られるとは思わなかった。「ど、どうしたの?なんでそんなに怒ってるの?」「わからないの!?」「……」わからない。だって、麻沙美は本当にピアノが上手だし、1年ってだけで出場できないなんて、おかしいじゃない?華子は伯父から、残りの2枠は2・3年生の2位の人たちが出るだろうと聞いていた。確定ではないが、おそらくその2人が推薦されるだろうと。だから言ったのだ。「麻沙美の方が上手く弾ける」って。それで伯父さんが残り2枠を決める会議を開いた時にそんな事実があるのか確認して、先生たちも頷いたから、麻沙美の出場が決まったのだ。それのどこがいけないの?何も賄賂とか渡した訳でも、無理なと
大学に通い始めると准は車での送迎になり、格段に快適な登下校をしていた。「いっちぇらっさ〜い」その日も、玄関先まで見送りに来てくれた芽衣に、准は朝から癒されて車に乗り込んだ。聖人の家族は彼らが仕事をそれぞれ持っている為、なかなか芽衣にきちんと向き合ってやれないことがあるかもしれないと、怜士たちと同居していた。同居とはいっても真田邸はとても広く、ほとんど別に住んでいるのと変わらない環境だった。だが邸の中は当然繋がっているのでお互い好きに行き来できるし、准のことが大好きな芽衣は、毎日目が覚めると一目散に彼の下へと行ってしまうのだった。それを見て父親の聖人は苦笑交じりに「嫁に出した覚えはないんだけどなぁ…」と呟き、尚に呆れられていた。「じゅんちゃ、いった」芽衣は、一緒に見送りをしていた執事の井上を見上げて、そう報告した。彼はそれに微笑んで頷き、「上手にお見送りできましたね」と頭を撫でてやった。芽衣は嬉しそうに笑うと朝ごはんの続きに戻っていき、ダイニングテーブルでコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた怜士にも、同じように報告した。「じゅんちゃ、いった」「ああ、ご苦労さん」怜士はその得意気な顔に目元を緩めると、彼女の好きな苺をひと粒取ってやった。「あいあとー」彼女はそれを受け取ってお礼を言うと、美味しそうに口に入れた。尚はその場面をたまたま目撃し、幸せに目を細めたのだった。*「ねぇねぇ、ちょっと聞いたんだけど、この学年にすごい人がいるの、知ってた!?」入学式からしばらく経つと、いくつかのグループに別れて人々は行動するようになった。その中に一際目立つ、容姿の整った何人かがまとまっているグループがあって、彼女たちは既に大学の中でも有名人だった。「すごい人?誰?」興奮気味にまくしたてていた入江華子(いりえはなこ)は、一斉に振り向いた友人たちに得意気に言った。「真田准。彼、本当にこの大学に来てたのよっ。びっくりだわ!まさか本人だったなんて!てっきり同姓同名の別人だと思ってたわよっ」「……」華子は頬を紅潮させて、益々興奮しているようだった。そしてそれを、このグループのリーダー的な存在でもある有賀麻沙美(ありがまさみ)は興味なさげに聞いていた。他の皆も「ああ…彼ね」という感じで、実際、華子の情報はもうほとんどの者が知っていた。「ね、ね、
あれから5年半、芽衣は他の子と比べると成長がゆっくりだったが、順調に育っていった。もちろんその過程で免疫力の低さからくる感染症や、言葉の遅さからくるコミュニケーションの取りづらさなど、いろいろと乗り越えなければならないことは多かった。筋力も弱く、歩行訓練にも通った。言葉の方は、3歳になった頃から医師の勧めで言語訓練に通っている。成長の度合いが何もかも遅いことに、祖父母にあたる聖一や英恵はいい顔をしなかったが、尚や聖人は寝返りもハイハイも、つかまり立ちも、初めての一歩も、全て見逃すことなくビデオに収められる、と前向きに考えていた。そして彼女は、少しずつ成長していくほどにその可愛らしい笑顔で周りの人々を癒し、年齢よりも幼く見える容姿や舌足らずな言葉で愛嬌を振りまいていた。最初のIQテストで軽度の知的障害があることが分かったが、その頃にはもう、誰もそんなことは気にしていなかった。「じーじ!ばーば!」全開の笑顔で、トテトテと小走りで寄って来る芽衣の可愛らしさには、あれほどいい顔をしなかった聖一でさえ僅かに絆されているようだった。英恵に至っては、今や普通のどこにでもいる孫可愛がりの祖母になっていた。尚は、娘が祖母の胸に飛び込んで嬉しそうに笑っているのを見て、安心したように微笑んだ。「芽衣ちゃん」その時、部屋で着替えを済ませてきた准がリビングにやって来た。「じゅんちゃ!」芽衣は英恵の側から、大好きな従兄の下へ行こうと足を踏み出し、気が焦ったのか転びそうになってしまった。「危ないー!」急いで皆が駆け寄ったが床に倒れてしまって、一瞬固まった芽衣は次の瞬間、涙をボロボロと零し始めた。「いちゃい……じゅんちゃ、こえ、いちゃい…」必死に訴える芽衣に、准はしゃがんで抱き起こし、よしよしと頭を撫でてやった。「うんうん、大丈夫だよ。見せてごらん?」「ここ…ここ…」覚束ない言葉で掌を見せる芽衣に、准はそっとそれを手にとってふーふーと息を吹きかけてやった。「痛いの痛いの……飛んでけ〜っ」呪文を唱えると、彼女も嬉しそうに唱えた。「とんじぇけ〜」そして2人で顔を見合わせて、クスクスと笑った。「もう痛くない?」「あい!」准の問いかけに元気よくビシッと手を上げる芽衣。リビングには笑顔が溢れていた。*その日の夕食は、准の念願叶って音楽大学に合格し
「おめでとう!」周りから拍手とおめでとうの声に迎えられて、真田准は驚いて玄関先で目をパチパチとさせていた。目の前には父親である真田怜士と、自分にピアノを教え続けてくれているピアニストの浅野美月、それから叔父の真田聖人と、その妻で美月の親友でもある如月尚。彼女は人気作家でもあった。それから一番下の叔父の英明。そして真田家に仕える執事や使用人たち。皆が自分の大学合格を祝ってくれていた。残念ながら、進学先に不満を持っていた祖父母はここにはいないようだが、構わない。自分は今、目の前にいる人たちの祝福だけで十分だった。「准、よく頑張ったな」「はい。ありがとうございます」父親からの褒め言葉に照れながら、チラリと美月を見ると、彼女も嬉しそうに微笑っていた。「先生」「准くん、合格おめでとう。これからも頑張ってね」「はい。これからもよろしくお願いします」ペコリと頭を下げた。するとその時、トテトテと歩いてきた従妹、聖人と尚の娘の真田芽衣(さなだめい)が、准の足にギュッと抱きついてきた。「じゅんちゃ、おめえとー」その舌足らずな言葉に、一気に場の雰囲気が柔らかく慈愛に満ちたものになった。准は彼女の頭を優しく撫でて「ありがとう」と言うと、ひょいとその身体を抱き上げた。「きゃ〜」楽しそうに笑い声を上げる芽衣はもうすぐ6歳になる女の子で、誰もが目に入れても痛くないほど可愛がっていた。*彼女が生まれた時、医師は言いにくそうに疲労困憊の尚に伝えた。「大きな病院での検査をお勧めします」と。どういうことか尋ねると、医師は「赤ちゃんには障害があるかもしれない」と言った。そこで尚は産後の療養もそこそこに聖人と大学病院に行き、〝芽衣〟と名付けた娘の検査をお願いしたところ、難しい顔をされたのだった。「正直に言いますと、まだよくわかりません。脳波の検査はもう少し大きくなってからでないと、診断が難しいんです。ただ言えるのは、お子さんの反応から見て、発達に何らかの障害がある可能性があります。定期的に診察しますので、予約を入れておきます」そう言われて、尚は重く頷いた。この時点で、彼女は聖人との話し合いが必要だと思った。真田家のような家に障害のある子どもがいることを、彼らが受け入れることは難しいだろうと思ったのだ。大丈夫。一人でも子供は育てられる。尚はそう覚悟して